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【明日、ママがいない最終回を迎えて】誰も傷つけない表現はなく、誰も救わない表現もまたない

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作品の厚みよりも分厚い周囲の喧噪

『明日、ママがいない』、予定していた全9話の放送が終了しました。第一話放送終了時点で多くの言及がなされ、その後も毎週のようにこのドラマについて書かれた文章を見ない週はないというほどに大きな騒ぎの中で放送が続きました。

もはや作品そのものが持つ厚みよりも周辺情報の方が分厚いような状況だったと言えるかもしれません。

そういう状況化で作品評を書くというのは、大変に難しいです。できるだけ作品の本質に近づくことが評論の目的だとすれば、この作品は周囲の喧噪があまりにも大きかったので、どんな情報に触れ、どの入り口から入るかで、見え方が全く異なってくるでしょう。

さりとて、児童養護施設や里親制度の実態の専門家でもない僕は、周辺情報まで引っくるめてまとめて論評するだけの知識を持ち合わせていません。せいぜい僕にできるのは僕なりの作品解釈を提示するぐらいですが、理解の一助になれば幸いです。


描かれたのは子供達の主体性

『明日、ママがいない』は全編を通じて端的なメッセージをわかりやすく発していました。重要なメッセージであればあるほど、台詞によって届きやすくするよう配慮していたように思います。

「可哀想だと思う方が可哀想(1話)」、「心にクッションを持ちなさい(6話)」、「子どもを壊すくらいなら大人が壊れろ(9話)」、「みんなで考えるんだ(9話)」などなど。。。

それは作劇としてはあまり「巧み」なやり方ではありません。わかりやすく作る使命を追ったテレビドラマだからこそ、こういう端的な表現方法を用いたのでしょう。しかし、ともすればクサくなりがちな台詞も役者陣の技量によってカバーしていました。

ただ、台詞に頼らない印象的なシーンも見受けられました。鈴木梨央さん演じるドンキの絡むシーン。2話で里親候補と遊園地に遊びに行った時に、ガラスに映るドンキと2人の里親の「理想的な幸せそうな家族」が写り泣き崩れるシーン。それから8話でドンキが実の母と里親に腕を引っ張られるシーン。両方から腕を引っ張られるかたちになり、痛がるドンキを見て手を離したのは里親の方で、実の母は引っ張り続けるシチュエーションでは、家族の愛とエゴの違いを台詞に頼らず表現していました。


この作品全体に通底している問題意識は、親と子の関係に唯一の正しい姿はないということです。小ガモの家の4人の女の子の迎えた結末がそれぞれに違うものになっているのが象徴的です。
ピア美は、貧しくなっても実の父親と一緒に暮らすことを選び、ボンビはかつて自分の理想と思っていたが失望と葛藤の果てに双方の歩み寄りと理解で引き取られ、ドンキは実の母が迎えにくるが、里親を選ぶ。そしてポストは魔王こと佐々木施設長という「育ての親」と暮らすことを選択します。

そしてこの選択は全て、大人の都合ではなく子供達の主体的な選択として描かれます。
「子供達が主体的に人生を選択する」、というのはこの物語の主要テーマとなっています。

親は子を選べるが、子は親を選べないという非対称のある現実に対して、この作品はフィクションの形でカウンターを提示した作品と言えると思います。

主要な舞台となった「コガモの家」は、はっきりと言及されていませんが、おそらく無認可の養護施設でしょう。(それを匂わせるようなやり取りは魔王とアイスドールの間にあった)非正規なので、特定のエージェントとだけ独自のシステム「お試し」を実施できているのでしょう。

この「お試し」という制度は、子供が家族を選択する手段として描かれます。ここでの選択の主体性は完全に子供側にあるシステムとなっていました。このようなシステムを実施している理由は、施設長がかつて妻を救うために中絶をさせる、という「大人の都合」で生まれてくる命の芽を摘み取った苦悩からきていることが明かされます。(中絶の是非については踏み込んでいませんでした)

またこのコガモの家という名前にはこういう意味があるとする解釈もあるようです。



子供達の主体性という点では、名前も重要なモチーフとなっていました。本名ではなく、ニックネームで呼びある彼女/彼らはそのニックネームを主体的に選択していました。そして自分の居場所を見つけた時、初めて本名が明かされ、それを持ちいるという運びにしています。最終話で芦田愛菜さん演じるポストは、事故で子供を失い、心の病となった女性の娘を演じて家族になろうとするのですが、その偽りの名前「あい」では本当の自分ではなく、幸せに繋がらないと諭され、最後に施設長とのプリクラの2ショットで本名が明かされます。
まさにこのニックネームが多くの物議をかもしていたのですが、子供達が自立して居場所を見つけるこの物語で名前がとりわけ重要だったためか、最後まで変更されることはありませんでした。


この作品は養護施設の実態を告発する意図などがあったわけでもなく、子供達の選びとる力強さに最初から焦点をあてて作られていたように思います。ただそういう意味では宣伝にミスリードがあった可能性は否定できません。
「明日、ママがいない」で学ぶ児童養護施設 | 明日、ママがいない:児童福祉 | 児童福祉 考察…児童養護施設で働く

ドラマ自体は、表現の自由であり、フィクションであることは明らかです。ドラマの中では「児童養護施設」と言う表現はなく「グループホーム」と言う架空の場所を設定しています。
テレビ局の宣伝戦略が間違っているのです。

とこちらの記事は指摘していますが、それは間違いではないと思います。実際にドラマ内ではっきりと児童養護施設だと言及したシーンは記憶にありません。

杉本穂高 / Hotaka Sugimoto
映像ビジネスの未来を模索する

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