1-2 サンフランシスコ講和条約と賠償問題

アジア太平洋戦争において日本軍が犯した罪について、日本政府は「賠償問題は全て解決済み」という基本姿勢をとり続けています。そのような日本政府の態度の原型をつくったのがサンフランシスコ講和条約でした。

 

1951年9月にアメリカ合衆国(米国)のサンフランシスコで調印され、翌52年4月に発効したこの条約は、正式名称を「対日平和条約(Treaty of Peace with Japan)」といいます。これは、アジア太平洋戦争を正式に終わらせ、賠償の方針などをとりきめ、連合国との関係を正常化するために結ばれたものですが、参加したほとんどの国が賠償を放棄するという特徴をもっていました。なぜ、このような条約が結ばれることになり、そのことがその後どのような影響をもたらすことになったのでしょうか?

 

以下にその背景を説明しますが、その際にキーワードとなるのが「冷戦」です。第二次世界大戦では同じ連合国だった米国とソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)は、戦後、それぞれが世界の資本主義と社会主義をリードする超大国として緊張関係を強めていきました。この対立は各国へと及び、世界を次第に自由主義陣営(西側諸国)と社会主義陣営(東側諸国)へと分割していきました。米ソ間では全面的な戦争(熱戦=ホット・ウォー)にはいたらなかったものの、世界各地にさまざまな影響を及ぼしたため、これを冷戦(コールド・ウォー)といいます。サンフランシスコ講和条約にも、この冷戦の論理が深く影響していました。

 

写真1署名

写真 サンフランシスコ講和条約調印場面
(所蔵) 外務省外交史料館

 

日本の無賠償方針への転換:優先された冷戦の論理

日本の敗戦直後、対日講和の枠組はもっと厳しいものでした。まず、日本が敗戦にあたって受諾したポツダム宣言の第11項には、次のような文言があります。

 

日本国は、その経済を支え、かつ公正な実物賠償の取り立てを可能にさせるような産業を維持することを許される。ただし、日本国が戦争のために再軍備することを可能にさせるような産業は、その限りではない。(現代語訳)

 

日本の戦争産業はやめさせるが、通常の経済を維持できる程度の産業は残すし、実物によって賠償を取り立てられるような産業も許すという方針が書かれています。

 

この方針に基づいて、日本の敗戦後、米国は賠償を具体化させるために調査団を派遣しました。最初のポーレーによる報告は、再軍備が不可能な程度に厳しく賠償を求めるものでした。ところが、その後、ストライク報告、ジョンストン報告と賠償方針が緩和され、1948年5月のマッコイ声明にいたって賠償撤去を中断すべきことが明言されました(表1)。その変化の背景には冷戦がありました。日本に賠償させすぎると、経済復興が遅れ、米国にとっても経済的負担になるばかりか、冷戦の最前線であるアジアの不安定要因となるという考え方がありました。日本を経済的に立ちなおらせ、早く他国と関係を正常化して自由主義陣営側の国際社会に復帰させることを最重要視するようになったのです。このことは米国の占領政策が、日本の非軍事化と民主化を最優先させる論理から、冷戦の論理へと転換していく、いわゆる「逆コース」の流れと呼応していました。

 

表1

表1 サンフランシスコ講和条約以前の対日賠償指針の変遷

 

その冷戦の論理を一挙に加速させたのが、中華人民共和国の成立(1949年10月)と朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月)でした。中国大陸で内戦の末に社会主義体制をもつ大国が生まれ、東西両陣営に分断されていた朝鮮半島で世界各国の参戦する戦争が起きたことで、東アジアは世界の冷戦問題の中心地となりました。日本をアジアにおける資本主義のモデル国とし、社会主義がそれ以上広まらないようにする「反共の防波堤」にしようという構想が肥大しました。

 

サンフランシスコ講和条約の性格:無賠償と経済協力

そうした流れのなかで、米国やイギリスを中心とする自由主義陣営の諸国は、連合国が全て参加する全面講和を目論むよりは、まずは可能な国だけが参加する単独講和を急ぐことになりました。

 

そして1951年9月、サンフランシスコで52カ国が参加して対日講和会議が開かれました。ソ連・ポーランド・チェコスロバキアは署名を拒否し、インドやビルマは会議への出席を拒否し、中国・台湾・南北朝鮮は招待されませんでした(後述)。そのような場で調印された講和条約の第14条は、賠償について次のように定めました。

 

日本は、戦争で与えた損害と苦痛に対して連合国に賠償すべきだが、いまの日本の経済状態ではそれを完全に果たすのが難しい。連合国が賠償を望むときには、〔金や物ではなく〕日本人の役務〔働くこと〕でかえすような賠償についての交渉をはじめること。そうでなければ、連合国は賠償をすべて放棄すること。(要旨)

 

もともと全ての連合国が賠償を放棄するという話もあったのですが、フィリピンの反対などがあったことで、辛うじて賠償交渉に関する項目が盛り込まれました。この条項にもとづいて連合国のうち46ヵ国が賠償を放棄しました(表2)。参加国のなかでフィリピン、インドネシア、南ベトナムにだけ、この枠組で後日に交渉がおこなわれ賠償協定が結ばれました。ラオスとカンボジアも講和会議で賠償を希望していましたが、結果的に賠償の権利を放棄しました。非参加国中でもビルマとは賠償協定を結んでいます。ただ、どれも実態は「賠償」という名目の経済協力または貿易で、被害者個人への補償はおこなわれませんでした。

 

表2

表2 サンフランシスコ講和条約と賠償

 

東アジア諸国はなぜ参加できなかったか:中国・台湾、南北朝鮮

東アジアの非参加国について見ておきましょう。中国大陸・台湾・朝鮮半島の人々は、大日本帝国の侵略戦争と植民地支配によって長期にわたって多大な苦痛と損害をこうむりました。にもかかわらずその被害国が、なぜサンフランシスコ講和会議に参加できなかったのでしょうか?

 

まず、中華人民共和国と台湾(中華民国)の参加については、米国と英国で意見が分かれ、結局どちらも招待しないことになりました。当時、中華人民共和国の外務大臣だった周恩来は、「米国が勝手に講和会議を進め、中国のように日本と交戦した国を除くのは、真の平和条約を結ぶことを破壊するものだ」と非難していました(対日講和問題に関する周恩来中国外相の声明:1951年8月15日)。その後、台湾は1952年の日華基本条約(日台条約)で賠償を放棄し、中華人民共和国も国際情勢の力学のなかで1972年の日中共同宣言で賠償を放棄することになりました。

 

南北朝鮮の両政府は、いずれもそれぞれの立場から対日講和会議への参加を求めていたのに実現しませんでした。

 

まず大韓民国(南朝鮮)の場合から見てみましょう。南朝鮮過渡政府およびその後の大韓民国政府の主張は、賠償を「戦勝国が敗戦国に対して要求する、すなわち勝者の損害を敗者に負担させる戦費賠償の概念とは異なる特殊な性質をもっている」(<対日通貨補償要求の貫徹>、《朝鮮経済年報》朝鮮銀行調査部、1948年、I-334頁)と位置づけ、「日本を懲罰するための報復の賦課ではなく犠牲の回復のための公正な権利の理性的要求」である(『対日賠償要求調書』1949年9月)とした点に特徴がありました。戦勝国が要求する賠償とは異なる植民地支配に対する賠償の理念を提示している点が注目されます。

 

こうした観点もあって、時の李承晩(イ スンマン)政府は対日講和会議への参加を強く要求しました。この要求に対し、日本とイギリスがそれぞれ反対しました。日本は、韓国が参加したら、在日朝鮮人に賠償権を認めることにもなってしまうなどといった論理で反対しました(吉田茂首相が1951年4月にダレス米国特使に提出した文書による)。イギリスは、対日講和での旧植民地の地位は旧宗主国の地位に準ずるという植民地主義の論理を提起しました。そうしたこともあり、韓国は講和会議に招待されませんでした。李承晩大統領は、これに「日本帝国主義と最も長くたたかった韓国人が、対日講和条約の署名国から除かれたのは全く理解できない」と強く批判しました(《朝鮮日報》1951年9月5日)。

 

次に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の方を見てみましょう。共和国政府は、単独講和の動きに反対し、ソ連等に対し「対日単独講和条約案に対する朝鮮人民の態度」という公式書簡を送りました(1951年6月23日付;『新時代』II-9、1951年9月所収)。そのなかで共和国政府は、日本の侵略に対してパルチザン闘争などを通じて戦い、朝鮮人民が大きな犠牲を払ったことからしても、対日講和会議に招請されるべきだと主張していました。結局、南北朝鮮のいずれにも招待状は送られず、そのことに対し共和国政府は何度か抗議声明を出しました(《朝鮮民主主義人民共和国対外関係史1》社会科学出版社、1985年、91-98頁)。

 

こうして冷戦秩序のなかで分断された東アジア諸国は講和会議に参加できなかったのです。講和条約では、日本が中国での権利や利益を放棄し(第10条)、朝鮮の独立を認め(第2条a)、台湾の領土権を放棄すること(第2条b)などを明記していました。植民地だった朝鮮や台湾の賠償については論及がなく、財産をどうするかといった問題に関わる「請求権」について、日本と直接話し合って決めるように定められた程度でした(第4条a)。そのため旧植民地における日本による被害への賠償問題は不明瞭になり、講和条約で設定された「請求権」という土俵のうえで、その後の2国間の交渉に委ねられることになりました。

 

写真2条約書

サンフランシスコ講和条約の認証謄本
(所蔵) 外務省外交史料館

 

日本の東南アジア諸国への「賠償」や経済協力は1950年代後半以降に実施されました。時期的には高度経済成長期に入った段階で実施されたため、結果的に日本の「賠償」や経済協力は東南アジアへの経済的な再進出の足がかりとなったのです。1965年に結ばれた日韓条約では請求権を相互放棄し、日本人の役務や現物による経済協力をおこなうことになりましたが(解決編1-3を参照)、この方向性は既にサンフランシスコ講和条約体制に規定されていました。その意味で、サンフランシスコ講和条約は、戦後日本の「賠償」のあり方を大きく左右するものになったのです。

 

<文献>

大蔵省財政史室編『昭和財政史:終戦から講和まで』第1巻 (東洋経済新報社、1984年)
竹前栄治他監修『GHQ日本占領史第25巻 賠償』(日本図書センター、1996年)
太田修『日韓交渉:請求権問題の研究』(クレイン、2003年)

 GHQ 昭和財政史 日韓交渉