格差をあらわす指標「ジニ係数」の変動に関して
近年の中国におけるさまざまな経済格差の拡大は、中国社会を語る際の「定番ネタ」の一つとなっている。
かつては世界でももっとも格差の少なかった社会から、アジアで最大クラスの不平等な社会へと急速な変化をとげた「格差大国」の現状に関心が集まるのは、ある意味で当然の成り行きであろう。ただし、最近になって格差の代表的な指標であるジニ係数について異なる数値がいくつか発表され、その信憑性をめぐって議論が交わされるなど、その実態についてはまだまだ分りにくい点が多いのではないだろうか。
農村-都市間の経済格差を始め、さまざまな経済・所得格差の問題は改革開放期を通じて、いや、毛沢東時代の中国にも常に存在していた。しかし、それまでには考えられなかったような目に見える所得格差が、都市住民内部の間でも生じてきたのは、1990年代後半以降の、比較的新しい現象だと言える。そのことを端的に示すのが個人所得の不平等を示すジニ係数の動向であろう。
ジニ係数は0から1までの値をとり、1に近づくほどその社会の不平等が拡大することを示す指標である。俗に、その値が0.4以上になると警戒状態、0.5以上では社会が不安定化する、といった表現をマスメディアの報道などでよく見かけるが、具体的な根拠があるわけではない。
このように格差の指標として広く知られるようになったジニ係数であるが、中国政府はこれまでその全国における値を公表してこなかった。統計・申告制度の問題があったため、全国住民を対象とする家計調査が行われてこなかったこと、そのため農村と都市の所得を統一基準で測定することが困難だったことがその理由である。そこで、これまで世界銀行などの国際機関や中国国内の調査機関が、国家統計局の実施した家計調査などに基づいて独自にジニ係数を推計してきたのが実情だ。
それが2013年1月18日になって、中国国家統計局は、2003年にまでさかのぼる全国のジニ係数の値を公表した。この時期の公表となったことについて、国家統計局の馬建堂氏は、都市と農村で定義が異なっていた所得統計を遡及して統一させる作業が完了したからだ、と説明している。
表1は、その国家統計局による公表値を中心に、中国社会のジニ係数の推移を示したものである。特に国家統計局の公表した2003年以降の数値に注目すると、2008年をピークにして緩やかに減少していることがわかるが、「これはますます格差が拡大し、深刻化している」という日本で一般的に流布しているイメージとはかなり異なっているだろう。
開発経済学者のクズネッツは、横軸に一人あたりGDPの水準、縦軸に社会の不平等度をとると、「クズネッツ曲線」とよばれる逆U字型の曲線を描く傾向があることを唱えた。経済発展がはじまり、工業が成長すると、産業間の生産性の違いを反映して社会の不平等度は次第に拡大していく。しかしある時期を過ぎると農村の余剰労働力がなくなって非熟練労働者の賃金が上昇したり、政府が再分配政策に取り組んだりするため、格差は縮小に向かうと考えられるからである。
上記のような中国のジニ係数の動きについても、2008年あたりをピークとして中国がジニ係数の下降局面にさしかかったとする解釈ができるかも知れない。また、省ごとの一人あたりGDPではかった格差に関しては、もう少し早く2005年から縮小傾向にあることが知られている。「西部大開発」に代表される内陸部への大型投資プロジェクトの実施や、資源価格の上昇によって、内陸地域の成長率が沿海地域を上回るようになったためである。それでは、中国国内の格差は次第に縮小に向かっているのだろうか?
2013年には西南財経大学の研究チームが独自の家計調査に基づいて2011年の全国のジニ係数を0.61と推計し、中国国内だけでなく海外のメディアでも大きく取り上げられた。先ほど紹介した国家統計局による公式の数値とは非常に隔たりが大きく、政府が発表したジニ係数の値が「信用できない」ことの根拠としてしばしば言及された。
ただし、国家統計局の推計の元になったデータと、西南財経大学が独自の調査で得たデータでは、対象となったサンプルの抽出方法も、そのサイズも大きく異なる。全国から40万戸のサンプルを偏りのない方法で調査した統計局のデータに比べ、西南財経大の調査ではわずか8500世帯を県-村―世帯という三つの階層別に抽出するという方法が採られた。このような厳密にランダムではないやり方で抽出された標本集団は、母集団(中国全体の家計)における所得分布を正確に反映していないと考えられる。
実際に、西南財経大の調査結果に関しては、サンプルが低所得層に偏っており、所得に占める賃金の比率が低すぎる、などの問題が指摘されている。このため中国経済の専門家によるこの調査の評価は決して高いものではない。
もっとも、国家統計局の数値に関しても、後述するように家計収入の捕捉という面では問題があり、過少に推計されているのではないかという批判の声は強い。ただ、その数値自体がどれだけ現実を反映しているかはともかくとして、2008年にピークを迎えその後縮小に向かうというジニ係数の動きは、格差の現状に関するトレンドを比較的正確に表わしている、と考えられる。
その背景には、政府の農業・農村政策の転換による農家所得の上昇と、それに伴う都市における低廉な非熟練労働者の減少、といった近年の中国における経済状況の大きな変化がある。その結果、それまでずっと売り手市場だった労働市場をめぐる状況に変化が生じ、特に劣悪な労働条件で有名だった、珠江の河口にある三角地帯「珠江デルタ」にある委託加工工場などでの「民工荒(労働力不足)」現象が顕著になっていった。このような変化を背景として、2010年以降、農村における一人当たり実質所得の伸びが都市のそれを上回るという現象がおきており、それが中国全体の所得格差縮小の原因となっている、というのが代表的な見方である(星野、2013)。