競輪学特殊 『法競輪の哲学』

 「法競輪」というこの語が解説を要する。この語の不自然さはお詫び申し上げたい。「法競輪」などという不自然な語を造語した理由は、競輪の総体を解釈したい欲望からである。ただこの語には「人が走る」という語感に乏しい。この点は是非補いをつけながら、この語を解釈していただきたい。


HP開設4周年記念企画

「今考えたら夢のよう・・・ある女子競輪選手へのインタビュー」

(『法競輪の哲学』第4章を兼ねる)

 登録番号121。会津競輪場をホームバンクにし、ゼブラというフレームを駆使して二年間の選手生活を送った(旧姓星)清子さんにお話を伺った。

 高校を卒業後、兄が先に選手をやっていたこともあり選手を志した星さん。会津競輪所属選手の組織「白虎クラブ」に所属するも、デビューに向けの練習中に、いきなりの試練。「まだデビュー前に、バンク練習で、タレてフラフラしている選手とぶつかって歯を折るの抜けるの、体中血だらけで自転車はぶっ壊れるの・・・」。その一週間後にデビューを控えていた。

 そのデビューの地は松本競輪場。会津若松駅で白虎クラブの面々に見送られ、やはり松本に斡旋された高橋さんという女子選手と二人で「二人とも長野に行ったことも無いのに女二人で」新潟、直江津経由で一路松本。着いたのは夜中にも関わらず、旅館の人が駅まで迎えに出てくれたそうである。

 初レース当日、出走の時間になりバンク内に並ぶも「みんな初めてばっか。初出走。自転車が発走する前からふらふらしていた。自転車の後ろを掴んでくれてたけど」と。当時は自転車の後輪を固定する発走機などはなく、人の手で自転車を押さえて発走させたそうだ。

 スタート後、一周もしない段階で9人位落車。星さんも巻き込まれ落車。それでも「ハンドル曲がっちゃったんだけど、しょうがねえから脚で蹴っ飛ばして直して、3着でした」と。よくよく話を聞くと、クリップが脚に食い込んで抜けない状態で「今なら担架だろう」と。それでも翌日は「何でもなく走った」

 ある時「星さん、うちの娘が出走するけどなじょすっべ(どうしよう)。初出走の娘が怖くてレースに出られない状態だったそうだ。仕方なく「私の後ろにくっついてろ。着などとっごとねえ。考えんな。怪我さえしなっきゃいい」。その言葉に、そのデビューを控えた女子選手はたいそう喜んだという。実際「なじょして(どうやって)クリップをはめて走るか。それすら出来ないんだからな。そういう娘がいっぱいいんだよ」と。この頃、多くの競輪選手が素人同然でデビューしていた事を裏付ける話ではある。

 時代を感じさせる話が沢山あった。「うちの近くで練習をするときはもんぺを穿いてやった。スネ出してなんの練習なんぞ出来ないんだよ。こっちは山の中だから、それこそジロジロ見られる」

「宣誓やった事があるよ」よくよく話を聞くと「各レース毎に選手宣誓をやっていた」そうだ。

また、会津競輪場の表彰式では「荒城の月」の音楽を流して、優勝選手を称えたという。

選手を辞める一つのきっかけは体を壊した事が原因という星さん。落車渦に加え、ある難病にかかったこともあり、2年という短い選手生活にピリオドを打った。選手生活を振り返って「今考えたら夢のようだ。レースに出る気持ちを持ってたら何でも出来る」と。「辞めてからは競輪に興味がなくなった」というものの、競輪選手であった誇りを感じたインタビューであった。

後記

 予め駿堪大BBSで質問を募集し、私自らも質問を考えて臨んだインタビューであったが、私の勉強不足で思ったような質問も出来ずに対談は終了した。質問というより、星選手が体験された当時の競輪を伺うという形に、質問から会話にシフトチェンジしていった感じだろうか。兄が札幌競輪場のレースに参加した後に「寒いから行かねえ方がいいぞ。行くとカボチャばっかり食わされるぞ」と。そんな話を聞くと、本当に札幌にも競輪場があったのだな、と思うと同時に、終戦直後の厳しい食糧事情なども考えてしまう。「私は高校出て選手になったけども、新制中学出た子めらが家の為に、自転車も買えない状況の中、自転車を会社(フレームメーカー)から借りて走っていた」と。この話も、正直今現在の感覚では本当かな〜と思わせるような、厳しい時代ならではの話として伺った。

 「レースから帰ってきて、田島の駅で自転車かついで降りて、駅の下手で自転車を組み立てていると、黒山の人だかり」だったという。レーサーが珍しかったこともあるだろう。しかも女子がレーサーに乗るのだから、周りは興味津々であったと思われる。

私が知らない時代の競輪。ましてや女子競輪について、語られたり書かれたりする機会はまずないと思われる。稚拙な私の文章ではあるが、競輪発祥当時の競輪について、この文を読まれた方が、少しでもその当時の空気を感じていただけたら幸いである。
 最後に、この企画実現の為に奔走して下さった枡野さんに感謝の意を捧げつつ、ペンを置くことにする。

以上


HP開設2周年記念企画

『会津競輪場の基本スケッチ』

(『法競輪の哲学』第3章を兼ねる)

序論

 この文を書く直接の動機は、「会津競輪」の存在を、競輪ファンに知っていただく必要を憶えた事にある。私は、この文章を書くために会津図書館に行ったが、「会津競輪」に関する図書は皆無であった。以下の文は、当時の新聞(福島民報新聞、福島民友新聞)に書かれていたものを、私なりに咀嚼したものにすぎない。
 けれども、この文が世に出るとなると、当然広範な読者の目に触れる事になるので、必要上、大量の新聞コピーを集める事になった。つまり、「会津競輪」に関するものがあるなら、それを読み、それ相応の解釈をし、簡単な言及の形にとどめるつもりでいたが、新聞という媒体を通じて、詳細しなければならない。このために本文中、幾分抽象的な内容が随所に見られる事について、お許しいただきたい。
 さて、「会津競輪」のクライマックスをどこに置くか、つまり、当時の人々が【最も】「会津競輪」を認識していた、いや、認識するというより、感じていた時期を察することは難しい。私がそれを感じたとしても、それは偶然に思いついた直感やら勝手な御託を並べているにすぎない。しかし、この廃止された競輪場を知る事によって、現存する競輪場の成熟すべき方向を、「会津競輪」の廃止を【教訓】として、認識される事を希望する。

1,会津競輪の誕生

 昭和20年に戦争が終了。その後全国的にインフレによる混乱が発生。財政に窮する自治体が続出した。若松市(現、会津若松市)も例外なく財政難であった。そんな時期、昭和23年8月に「自転車競技法」が公布されると、市議会は同年9月「これだ!」と「競輪誘致建議」を可決した。しかし競輪事業は被災都市でなければ通産大臣の許可を得られないものであった為(若松市は被災を受けていない幸運な都市であった)、例外的に、県と権利折半の県営会津競輪として認可された(昭和24年8月)。
 昭和24年9月、鶴ヶ城本丸が競輪場として指定され、早速工事が始まった(予算は900万円)。11月3日からの初レースに向けて、連日数百人の人夫を動員。急ピッチで工事を進めたものの、実際の開幕は翌年という事になる。
 昭和25年4月8日、いよいよ会津競輪が開幕。待ちかねたファンは33バンクを何重にも取り巻き、あふれた客は天守閣の石垣にまで登る熱狂ぶり。その数約2万!翌日には何と4万!!の客が競輪場に押し寄せ、会津競輪はこれ以上ない最高の船出でスタートした。

2,会津競輪のエピソード

 「犬」事件。これは、昭和25年5月27日、第6レースB級選抜戦での事。周回2周目(レースは2000メートル戦)にかかったところで、第2コーナーに犬が出現。疾走する選手を追いかけようとした為、慌てたコーナー審判員が犬を殴ったところ、犬は激高。バンクに飛び出した犬は不運にも選手に激突、その選手はレースを棄権した。当然、場内は騒然となったが、レースは全額払い戻し、12レース終了後に再レースを行うという事で、客は納得した?のであった。
 競輪が始まって50有余年になるが、このような珍事は会津競輪だけではないだろうか(確信はもてないが)?
 ちなみにこの年(昭和25年)は、川崎や鳴尾など、全国各地で凶悪な暴動が起きている。そんな世相の中で暴動を起こさなかった会津競輪のファン、そして会津競輪関係者の対応は立派であったといえよう。

3,会津競輪、事務方の内幕

 会津競輪は県営であったが、その権利・収益は、県と若松市の折半という形を取った。それは被災都市でなかった若松市が、(たとえ競輪開催が県と共催という形であろうと、収益が二分されても)それでも「競輪事業で財源確保を出来れば」と考えた上の【妥協の産物】であった。
 若松市としては「賭け」で始めた競輪事業であったが、思った以上の収益配当を得て、市の財政は一気に立ち直りを見せた。一方県も、競輪の収益金は予算面において不可欠なものとなった。すると市と県の関係はどうなるか?今も昔も変わらず、金(利益)をめぐっての見苦しい争いが始まる・・・。
 昭和26年の県人事異動で、県から出向していた競輪場長、及び開催委員長付が県に復帰する事が内定。このことが若松市に伝わると、市側は激怒。このままでは県営競輪の事業金を若松市に委託してもらわなければならないと決定、県首脳部に申し入れを行った。さらに市の言い分は、市の委託経営が実施となれば、利益は折半どころか3分の2は欲しい、と主張した。
 結局、会津競輪はその後も県と市の共催という形を取り、利益配当も折半という仕組みが続いた。このことは(変な話ではあるが)、会津競輪がいかに県や市に利潤をもたらしていたか?の証明ともいえよう。

4,隆盛を極めた会津競輪

 会津競輪が発足して以来、毎回毎回が予想以上の売上であった。
・昭和25年の売上は2億5401万7千円、一開催(年8開催)あたりの平均売上が3175万円、入場者数が22万9900人。
・昭和26年の売上は2億6402万円、一開催(年10開催)あたりの平均売上が2640万円、入場者数が17万1253人。
・昭和27年(但し9月まで、10月以降資料無し)の売上は1億9965万円、一開催(年7開催)あたりの平均売上が2852万円、入場者数は8万7200人。
 次第に売上、入場者数も漸減の傾向にはあるが、半面、一人当たりの車券購入金額は上昇の一途であった。昭和25年が1131円、26年が1553円、27年は2290円と増えている(この数値を上記の売上等と照らし合わせると若干、数字の歪みが生じてるが、これはあくまで当時の資料を参照したという事でご容赦願いたい)。これは一見のファンではない、本当の競輪ファンが定着した成果と見るのが妥当であろう。
 ちなみに会津競輪の売上は若松市を囲む一市五郡の人たちで94%を占めたという(県の世論調査による)。
 昭和27年8月の競輪売上実績を各地と比べると、青森が2354万円、弥彦が1883万円。会津競輪は、その2場よりはるかに売上が高かったという(但し、肝心の「会津競輪27年8月」売上資料無し・・・。)。
 その後の会津競輪には、本場以外にも、会津若松・平・郡山・福島に場外車券売場が設けられた。昭和30年には年間売上が4億5509万6千円、翌31年の年間売上が5億1330万4千円と、順調という言葉以上の売上の伸びだった。勿論、後楽園や川崎クラスの競輪場の売上、一開催あたり4〜5億円と比べれば、会津競輪など足元にも及ばないが、都市の規模を考えると、会津競輪の人気は年々伸びていったという結論を下しても構わないのではないだろうか。

5,会津競輪が市にもたらしたもの

 若松市にとっての会津競輪は、財源確保という役目が主であったが、それに加えて「6・3制教育」実施に伴う校舎建設費の捻出、という目標があった。昭和26年4月には市立若松三中、四中の校舎が完成。他にも火災で焼失した謹教小学校の復旧にも競輪財源が使われた。競輪によって、若松市における教育施設は初めて充実を見るのであった。
 競輪収益金を使った他の事業としては、市民会館の建設、市営住宅の建設、鶴ヶ城の石垣修復工事などがある。特に、鶴ヶ城は、今も昔も市民にとっての憩いの場である。春になれば、石垣を囲むように立つ沢山の桜のもとで花見を楽しむ、それが若松市民の数少ない楽しみの一つであった。そこで、昭和29年3月、危険の個所が多くなった石垣を「お花見前に修復」すべく補修工事を行った。
 これらの建設や修復が「競輪収益金で行われていた」という事実(今となっては「史実」か)を知るものが殆どいないというのは悲しいものである。
 主催者側の市だけでなく、選手の行動も一つだけ挙げることにする。昭和31年11月21日に福島県立福島盲ろう学校が全焼するという出来事があった。この被災した学校に対し、第11回会津競輪に参加していた80名の選手達は24日の開催最終日に、北会津福祉事務所を通じ現金4000円を寄付した。この行為に対し、同日第6レース後に、同事務所所長から感謝状を選手代表に贈呈された。この選手達の行為は、競輪選手の美挙として、忘れずに語られていいものと思う。
 余談であるが、私は、競輪収益金で建てられたという若松四中で一年間を過ごした(一年間というのは、学校の老朽化により翌年移転し、その校舎は取り壊しとなったのである)。この学校には思い出が多い。最後には「この学校ともおさらばだ〜」とか言って、ふざけて床などを壊したものである。しかし今、旧四中が競輪で建てられたと知り、なんともいえない感がこみ上げてくる。また、ほんの少しではあるが、私自身が会津競輪の恩恵を直接受けていた事も知り、今更ながら会津競輪に感謝したいと深く思う。

 また昭和38年12月3日に、管理人の母校である福島県立会津高等学校の校舎が火災で焼失するということがありました。その後、昭和40年に現校舎が完成するんですが、それまでの期間「会津高校の授業は非開催時の会津競輪場選手控え室でも行われていた」という事実を、ここに記しておきたいと思います。(この一文、2004年4月14日追記)

6,会津競輪存廃問題

 会津競輪が初めて存廃の岐路に立たされたのは昭和31年のことである。実は、鶴ヶ城跡は昭和9年、国の史跡に指定されていた。競輪を鶴ヶ城本丸跡で行うという事も、昭和24年に「5年間の期限」をもって、文化財保護委員会から許可され運営してきた。この間、昭和29年に「鶴ヶ城本丸使用の2年間延長」を市が申し入れ了承されたが、その2年間、主催する市として、今後の競輪場のあり方について何も考えてこなかった。そのつけが「会津競輪存廃問題」として浮上したのである。
 市としては、競輪が廃止されれば一気に赤字自治体となってしまう、と「競輪廃止反対」の態度を取った。しかし、これは予想された事態であり、この2年間に何の対応も取ってこなかった市の失政である。文化財保護委員会側は、一度解決を二年間延長したいきさつもあるから「会津競輪中止の強制命令」も辞さない態度であった。
 このような存廃問題に揺れる中、昭和31年11月22日から6日間、今年最後のレースが行われた。ちなみに昭和31年11月23日の福島民報(夕刊)には「サヨナラ会津競輪開く」と大きく見出しが出ている。
 最後(になるかもしれない)レース初日と同日、県は「会津競輪場を移転して続行する」と表明した。但し県としては、その年の春に「競輪場を移転してまで競輪を続行する事はなく、会津競輪は昭和34年度をもって廃止する」という考えを表明していた。県としては春の発言を撤回した形となったわけだが、要は、県側は移転してまでの競輪開催には消極的。一方の市は、競輪開催の意思はあるものの、何事にも後手後手の対応しか取れない。結局は「移転して続行する」結論になるのだが、この時点で、会津競輪の将来(=廃止)は見えていたのかもしれない。
 ちなみに市発行の『会津若松史7』『会津若松の歴史』には、それぞれ「32年9月には、当初計画により城外小田垣地内に移設され、・・・」「この競輪場は、昭和32年9月、予定に従って新たな地に移設され・・・」とあるが、両者ともに嘘っぱちである。このような嘘を平気で書く市の態度は絶対許せない。何事にも後手後手、移設問題でも事実上何も出来なかった市が「当初計画」や「予定に従って」と、事実と違う事を書く。こんな地、会津若松市に競輪が存続出来る筈もなかったのである。

7,会津競輪場移設再開・廃止へ

 昭和31年11月27日を最後に、会津競輪は休止状態に入った。その後、正式に移転再開が決定。1年6ヵ月後の昭和33年3月20日、市内小田垣地内(現・城東町、鶴ヶ城体育館付近)において、知事、市長、地元代議士を始めとする県内の名士や競輪関係者など約150人が出席の中、盛大に移設記念式を行った。
 新しいバンクも33バンク、その中を男女各8名の競輪選手が、色とりどりの勝負服に身を包み試走、場内に駆けつけた多数の見物人からはドッと歓声が上がり、競輪再開を喜び祝った。尚、正式な競輪競走は翌21日から行われたのであった。(ちなみに日本自転車振興会発行『競輪五十年史』42ページにある会津競輪場は、移設された新競輪場の写真である。)
 翌年、昭和34年になると、県知事と市長の間で「会津競輪廃止問題」が持ち上がった。結局、市が市民会館建設費の返済が終わる昭和39年度まで競輪を開き、その年をもって廃止と決定された。
 昭和25年の開設以来、様々な話題を呼んだ県営会津競輪は、昭和39年11月11日のレースをもって廃止され、14年にわたる歴史に幕を閉じる事となった。この間、4億5000万円の収益金を上げ、約半分の配当金を受けた市が、競輪により大きな恩恵を受けた事は言うまでもない。会津競輪は、地元競輪ファンに大きく惜しまれつつ廃止されたのであった。
【補足。会津競輪廃止について、「7」のコラムは「廃止についての核心の部分」の内容が薄いように思われる。実は、市長選挙において「会津競輪存廃問題」が、いわば「政争の具」として争点となり、その勝敗が競輪廃止の運命を決めたのである。だが、これ以上の追求は未だ現存されている方がいらっしゃる以上、触れない事にする。】

8,そしてサテライト会津へ

 その後、会津地方は長らく競輪と無縁の地であったが、平成5年11月、旧会津競輪場から約25キロほど離れた喜多方市内にサテライト会津の設置許可が下りた。これは「会津」という冠名はつくものの「会津競輪」とは何の関係もなく、弥彦競輪の場外車券場である。翌年、平成6年10月にサテライト会津は開設され、そして今日へと至るのである。

あとがき

 私は、このあとがき(の下書き)を、会津競輪場があったという鶴ヶ城体育館駐車場で書いている。周りの桜はほぼ満開で、とても綺麗な風景だ。ここに競輪場があったとは思えない風景である。今や、ここに競輪場があったと知る市民も少ないのではないだろうか?
 でもここには確かに競輪場が存在した。そして、ここでは様々な人間模様が繰り返されてきたのだ。その事を忘れずにいたい。(2002年4月8日午前11時43分、競輪場跡地にて)

参考文献

『福島民報新聞』、『福島民友新聞』、『会津若松史7』、『会津若松の歴史』、『競輪五十年史』

【HP開設2周年記念企画はここまで】


第2章 選手の活躍分布(これ、近日更新します。H12年までしか書いてないし。^^;)

図・1(26期〜86期まで)

 まず上記(図・1)を見ると、少なくとも卒業時点において「有望」と呼ばれる選手達は各地方に分布しているのが見て取れる。 
ところが下記(図・2)を見ると、その有望な選手たちが必ずしも天下を取っていないことが分かる。この事が意味するところは?

図・2(昭和40年〜平成12年末迄)

※(競輪国宝の定義=「1着率1位、賞金王、MVP」のいずれかを取った選手。)
(あくまで「HP作者が勝手に」考えた定義です・・・。)

 中部・近畿・中国・四国地区では、唯一の競輪国宝・児玉広志(香川)を除いて、時代を作るスターは出てこなかった事を意味する。
もちろん上に挙げた4地区でタイトルを取ってる人は数多くいる。
しかしながら、その選手は残念ながら脇役で、主役にはなれなかったのである。

 中部地区などはS級在籍選手も多く最近盛り上がってるが、例えタイトルを取っても、その後が続かない現状である。
「神山吉岡2強時代」が終焉を迎えつつある今、これから時代を作っていく「スター」が、一体どの地区から出現するのか?
上記の4地区は今後も辛酸をなめつづけるのか?興味あるところである。

(ちなみに平成13年の1着率1位は神山雄一郎。賞金王とMVPは伏見俊昭。)

↑の表には平成12年までしか書かれていないが、平成14年は選手の勢力地図が大きく変わった年だった。
1着率1位が京都の村上義弘。賞金王とMVPが岐阜の山田裕仁
近畿と中部が輪界を支配する形の勢力地図は、昭和40年以降の競輪界ではなかったことである。(←この3行だけRENEW^^;


第1章 欲望に正直あれ

 競輪の客は「人間の欲望」に関して、(好意的にとらえて)正直な反応をする。

 私は2000年1月8日、電車に乗った。まず(大雪でダイヤが乱れていたのであるが)郡山(北)駅で。客はいつもの6両編成の電車を想定してホームに並んでいた。ところがホームに入った電車は3両。「今日は大雪の為、ダイヤが乱れておりまして3両編成となります」と意味不明なマイク説明があったが、客はぶつぶつ言いながらも場所を移動してました。これが競輪客なら「何言ってやがる、バカヤロ〜」と罵声が飛ぶところだが、誰も何も言わない。

 二つ目も郡山。電車が大変混んでいるのに、座席に荷物を占領している無神経な女子高生。これが競輪なら「若いのに何やってやがる、ドアホ!」と一喝されるだろう。だけど誰も文句言わない。

 三つ目も郡山始発の電車。途中の駅で「列車交換の為10分ほど停車します」の案内。それはいいのだが、猛吹雪なのに電車のドア開けっ放し!デッキは恐らく氷点下。ある女性など「寒い〜」と泣きそうなのに、機転が利かない車掌。競輪客なら「寒いぞ、何やってんだ。頭使えよ!」と怒号が飛ぶはずだが、やっぱりみんな何も言わない。

 私は「競輪概論」で競輪客のマナーの悪さを叱ってきたけれど、一般ピープルの「文句言うべきところに何も言わない姿勢」、この方がはるかに問題があると考える。人間は基本的に、欲望に正直であるべきだ。多少大げさな言い方かもしれないが、「欲望の充足」を可能にする為に人間はあるのではないのかな?


序論

 私が何故「法競輪の哲学」という表題で論文を書こうと思ったか。それは、現代に生きる我々の何気なく使っている「ルール」という概念が、ちょっとゆがんだ形で使われているのではないか、という疑念から出発している。ルールを逆手に取った、強弱を問わずの傍若無人な振る舞いが際立って目立ってきている。ルール上で合法であれば何をやってもいいのか?私はそうは思わない。利己的な行為はある一定のところで制限されるべきだと思う。そうでなければ競輪は、あらゆる場面において破綻をきたすものと思われる。とは言え、ルールが大切であることは分かっているつもりである。以上のような理由から、一度ルールについて真剣に考えてみようと思ったのである。

 結論としては、一番目に、選手を人格として尊重するなかでルールを考えよう、ということである。また、二番目に「競輪」の歴史を踏まえて、施行者及び選手が、献身の意識を絶えずもつことでルールを考えよう、ということである。

 競輪はルール改正の度に、摩擦や軋轢が起こるけれど、それは人為の所産として出現したものである。私は、摩擦や軋轢といったものを、まずそれを事実として受け入れ、それを変化させることも重要であろうが、まず自分がどのように変わっていくべきか、そのような態度が大切であると思う。「どのような競走をしたらいいのか」等、いろいろの問題も、そのような態度で解決していけば、新しい戦法も考え出されるだろう。

つづく

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