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- 2014年03月15日 23:59
明らかにならなかったSTAP細胞の「科学的疑惑」と、新たに浮かび上がった「非科学的疑惑」
「笹井氏は小保方氏を大舞台に押し上げようと奮闘。会見に備え、理研広報チームと笹井氏、小保方氏が一カ月前からピンクや黄色の実験室を準備し、かっぽう着のアイディアも思い付いた。文科省幹部は『笹井先生はうれしかったんだと思う。ipsが見つかるまでは、笹井先生は(山中伸弥京都大教授より)上にいた』。会見ではSTAP細胞の優位性が強調された」(15日付東京新聞 「大物ぞろい 残る謎 STAP細胞論文白紙」)
そうであってほしくないと思っていたことが、やはりあったのかもしれません。ムーミンのシールが貼られたピンクの実験室も、かっぽう着も、STAP細胞発見という業績を誇張し、ストーリー性を持たせるための「演出」であった可能性が報じられています。この記事が事実だとすると、今回のSTAP細胞に関する論文騒動の根底には、佐村河内氏のゴーストライター騒動と同質のものが流れていたことになります。
佐村河内氏の騒動との違いは、佐村河内氏は自分自身で自分自身を「演出」して来たのに対して、小保方氏が「未熟」ではない大人の研究者たちによって、彼女自身が「演出」の重要なピースとして利用された可能性があるという点です。
「1人の未熟な研究者が膨大なデータを集積し、極めてずさんな取り扱いをして、責任感に乏しかった」
ノーベル賞受賞者でもある理研の野依理事長は、今回のSTAP細胞に関する論文騒動に関して、極めて厳しい言葉で小保方氏の行為を非難しました。
確かに、論文にデータの改竄があったのは確かなようですから、科学者として非難を受けるのは仕方のないことだとは思います。しかし、今回の小保方氏のSTAP細胞に関する論文の公表を認めた小保方氏の上司である竹市発生・再生科学総合研究センター長が「論文の体をなしていない」と非難し、調査委員長が「抵抗がなかったのか倫理観を学ぶ機会がなかったのか」というように「倫理」という言葉を繰り返し、問題の根源が小保方氏の個人的素養にあったかのような印象を与えようとしていたことには違和感を覚えます。
小保方氏がデータを改竄し、論文の体をなさない論文を書いたことと、そうした論文が内部チェックを簡単に通り抜け、科学雑誌に掲載することが許可されてしまったこととは別の問題ですから、理研という組織が今回の騒動の原因を全て小保方氏の科学者としての素養や倫理観に押付けようという姿勢には疑問を感じずにはいられません。
今回の騒動は、小保方氏本人が公式の場で説明しない限りおさまりそうにありません。一方、東京新聞が指摘しているような「演出」があったのだとしたら、科学的な問題以外の騒動が持ち上がるかもしれません。理研が小保方氏をなかなか公の場に登場させないのも、「演出」に関して都合の悪い発言を恐れているからかもしれません。彼女の口から「演出」が事実であることが伝えられたら、今後は理研という組織の倫理問題に発展しかねないのですから。小保方氏が公の場に出て来る際には、是非こうした「非科学的な疑惑」にも答えて欲しいと思います。
STAP細胞に関する論文騒動の背景に関しては、政府から多額の予算が付けられる「特定国立研究開発法人」の指定問題や、研究者が毎年研究成果を求められる「毎年契約を行う任期制研究員で、所定の評価を経て3年間を限度として更新が可能」(理研HP「採用情報」)という研究員制度などがあるという指摘もなされています。
筆者の金融業界での経験から言っても、「利権」や「成果主義」と、「倫理」は反比例しやすいというのが現実です。
今回の小保方氏の論文騒動が、小保方氏個人の「倫理」の問題と矮小化されるのではなく、「何でも民間の競争原理に委ねる」、「行き過ぎた成果主義」という、盲目的かつ安易な新自由主義信仰に対する警鐘となり、日本人が日本らしさを再考する機会になることを期待せずにはいられません。
「外部刺激によって細胞が初期化する」というSTAP細胞に関する論文騒動が、小泉改革以降の新自由主義に対する過剰な信仰を擦り込まれてきた日本人の脳細胞を初期化するための「外部刺激」となり、「倫理」とのバランスを保つ「新日本的資本主義」を生み出す機会を提供することになれば、「未熟な研究者」というレッテルを貼られた小保方氏の論文は「50年後とか100年後の人類社会の貢献」という本来の目的を達するものになるかもしれません。
そうであってほしくないと思っていたことが、やはりあったのかもしれません。ムーミンのシールが貼られたピンクの実験室も、かっぽう着も、STAP細胞発見という業績を誇張し、ストーリー性を持たせるための「演出」であった可能性が報じられています。この記事が事実だとすると、今回のSTAP細胞に関する論文騒動の根底には、佐村河内氏のゴーストライター騒動と同質のものが流れていたことになります。
佐村河内氏の騒動との違いは、佐村河内氏は自分自身で自分自身を「演出」して来たのに対して、小保方氏が「未熟」ではない大人の研究者たちによって、彼女自身が「演出」の重要なピースとして利用された可能性があるという点です。
「1人の未熟な研究者が膨大なデータを集積し、極めてずさんな取り扱いをして、責任感に乏しかった」
ノーベル賞受賞者でもある理研の野依理事長は、今回のSTAP細胞に関する論文騒動に関して、極めて厳しい言葉で小保方氏の行為を非難しました。
確かに、論文にデータの改竄があったのは確かなようですから、科学者として非難を受けるのは仕方のないことだとは思います。しかし、今回の小保方氏のSTAP細胞に関する論文の公表を認めた小保方氏の上司である竹市発生・再生科学総合研究センター長が「論文の体をなしていない」と非難し、調査委員長が「抵抗がなかったのか倫理観を学ぶ機会がなかったのか」というように「倫理」という言葉を繰り返し、問題の根源が小保方氏の個人的素養にあったかのような印象を与えようとしていたことには違和感を覚えます。
小保方氏がデータを改竄し、論文の体をなさない論文を書いたことと、そうした論文が内部チェックを簡単に通り抜け、科学雑誌に掲載することが許可されてしまったこととは別の問題ですから、理研という組織が今回の騒動の原因を全て小保方氏の科学者としての素養や倫理観に押付けようという姿勢には疑問を感じずにはいられません。
今回の騒動は、小保方氏本人が公式の場で説明しない限りおさまりそうにありません。一方、東京新聞が指摘しているような「演出」があったのだとしたら、科学的な問題以外の騒動が持ち上がるかもしれません。理研が小保方氏をなかなか公の場に登場させないのも、「演出」に関して都合の悪い発言を恐れているからかもしれません。彼女の口から「演出」が事実であることが伝えられたら、今後は理研という組織の倫理問題に発展しかねないのですから。小保方氏が公の場に出て来る際には、是非こうした「非科学的な疑惑」にも答えて欲しいと思います。
STAP細胞に関する論文騒動の背景に関しては、政府から多額の予算が付けられる「特定国立研究開発法人」の指定問題や、研究者が毎年研究成果を求められる「毎年契約を行う任期制研究員で、所定の評価を経て3年間を限度として更新が可能」(理研HP「採用情報」)という研究員制度などがあるという指摘もなされています。
筆者の金融業界での経験から言っても、「利権」や「成果主義」と、「倫理」は反比例しやすいというのが現実です。
今回の小保方氏の論文騒動が、小保方氏個人の「倫理」の問題と矮小化されるのではなく、「何でも民間の競争原理に委ねる」、「行き過ぎた成果主義」という、盲目的かつ安易な新自由主義信仰に対する警鐘となり、日本人が日本らしさを再考する機会になることを期待せずにはいられません。
「外部刺激によって細胞が初期化する」というSTAP細胞に関する論文騒動が、小泉改革以降の新自由主義に対する過剰な信仰を擦り込まれてきた日本人の脳細胞を初期化するための「外部刺激」となり、「倫理」とのバランスを保つ「新日本的資本主義」を生み出す機会を提供することになれば、「未熟な研究者」というレッテルを貼られた小保方氏の論文は「50年後とか100年後の人類社会の貢献」という本来の目的を達するものになるかもしれません。
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