しばらく前の出来事ですが、ソチ・オリンピックの開催地でロシアの反体制パンク・バンド、プッシーライオットがパフォーマンスをしているところにコサック兵が登場して、彼女たちにムチを打ちこみました。
ビデオにとらえられた、そのレトロで野蛮な光景が、あまりに現代人の感覚とズレているので、ある種のコミカルさすらもただよわせていました。
さて、ウクライナ情勢が緊迫しているわけですが、この地域紛争を考える上で、コサックの伝統というものがビミョーな通低音を構成しているのは見逃せません。そこで今日はちょっとコサックについて書いてみたいと思います。
普通、我々がコサックと聞いた場合、円筒形のふさふさの帽子をかぶった屈強なオッサンが、両手を前に組み、かがんで、片方の足を真っ直ぐ前に出す、例のコサック・ダンスを思い浮かべるわけです。
しかし軍事歴史家、アルバート・シートンによれば、コサック・ダンスに代表される等質的、共同体的なコミュニティ文化は、数あるコサックのバラエティーのうちのひとつ(この場合はウクライナ地方)の例に過ぎず、実際にはコサックと言った場合、モンゴル系、トルコ・タタール系、コーカサス系、ペルシャ系、リトアニア・タタール系など、色々なグループが存在するのだそうです。もちろん、ロシア、ウクライナ、ポーランドなどのコサックも正統なコサックです。
つまり我々は「コサック」という名称で、それらをひとまとめに括っているけれど、実際にはそれらのグループは人種的にもバラバラだし、言語も多様だし、回教徒も居ればクリスチャンも居る、さらにラマ教や密教を信じるコサックも居て、そのような切り口からコサックを定義することは出来ないのだそうです。
シートンの考えでは、多様で、それぞれ別個に存在するコサックに唯一共通する点は、彼らのすべてがステップ(Steppe)とよばれる草原地帯を生活のベースとし、そのライフスタイルはノマド的(Nomad)であり、馬術に長けているか、そうでない場合は駱駝(らくだ)に乗っているということです。
但し例外として山岳地帯のコーカサス系のコサックは徒歩でトレッキングし、初期のスラヴ系コサックは河川を徘徊する海賊だったそうです。
つまり、基本、コサックは騎馬民族であり、その戦闘スキルはアジアから欧州までを席巻したモンゴルの伝統を受け継いでいるわけです。
こんにちのクリミア半島に近い、アゾフ地方を中心に活動していたタタール人はとても手強かったので、ロシアは彼らに手を焼きました。しかしロシア皇帝は次第に「タタールをやっつけるのには、タタールを使う」という経営スタイルを確立し、ロシアの軍役にタタール人を起用するようになります。これがロシア・コサック兵の誕生です。
こうしてコサック兵はその後、何百年もロシア皇帝の軍隊として兵役に就くわけですが、その形態は傭兵的であり、比較的解散が容易で、国庫の負担が軽い、為政者にとってはまことに便利な存在になっていったわけです。そしてコサックの成敗に、コサックを指し向けるということが行われたわけです。
最終的には1917年の革命の際、ペトログラードのコサック兵はロシア皇帝を見限ります。その後、ロシアの革命政府はコサックに独立の空約束を繰り返すとともに徹底的な弾圧と殺戮を繰り返した結果、コサックは根絶され、今日のコサックはノスタルジアの世界だけに主に存在し、軍事的な重要性はありません。
ただ、「コサックをやっつけるのにコサックを使う」式の、グループ間での対立を煽る「戦争マネージメント」のスタイルは、こんにちのウクライナを巡る紛争にもハッキリと見て取れる、常套手段的なやり方なのです。
ビデオにとらえられた、そのレトロで野蛮な光景が、あまりに現代人の感覚とズレているので、ある種のコミカルさすらもただよわせていました。
さて、ウクライナ情勢が緊迫しているわけですが、この地域紛争を考える上で、コサックの伝統というものがビミョーな通低音を構成しているのは見逃せません。そこで今日はちょっとコサックについて書いてみたいと思います。
普通、我々がコサックと聞いた場合、円筒形のふさふさの帽子をかぶった屈強なオッサンが、両手を前に組み、かがんで、片方の足を真っ直ぐ前に出す、例のコサック・ダンスを思い浮かべるわけです。
しかし軍事歴史家、アルバート・シートンによれば、コサック・ダンスに代表される等質的、共同体的なコミュニティ文化は、数あるコサックのバラエティーのうちのひとつ(この場合はウクライナ地方)の例に過ぎず、実際にはコサックと言った場合、モンゴル系、トルコ・タタール系、コーカサス系、ペルシャ系、リトアニア・タタール系など、色々なグループが存在するのだそうです。もちろん、ロシア、ウクライナ、ポーランドなどのコサックも正統なコサックです。
つまり我々は「コサック」という名称で、それらをひとまとめに括っているけれど、実際にはそれらのグループは人種的にもバラバラだし、言語も多様だし、回教徒も居ればクリスチャンも居る、さらにラマ教や密教を信じるコサックも居て、そのような切り口からコサックを定義することは出来ないのだそうです。
シートンの考えでは、多様で、それぞれ別個に存在するコサックに唯一共通する点は、彼らのすべてがステップ(Steppe)とよばれる草原地帯を生活のベースとし、そのライフスタイルはノマド的(Nomad)であり、馬術に長けているか、そうでない場合は駱駝(らくだ)に乗っているということです。
但し例外として山岳地帯のコーカサス系のコサックは徒歩でトレッキングし、初期のスラヴ系コサックは河川を徘徊する海賊だったそうです。
つまり、基本、コサックは騎馬民族であり、その戦闘スキルはアジアから欧州までを席巻したモンゴルの伝統を受け継いでいるわけです。
こんにちのクリミア半島に近い、アゾフ地方を中心に活動していたタタール人はとても手強かったので、ロシアは彼らに手を焼きました。しかしロシア皇帝は次第に「タタールをやっつけるのには、タタールを使う」という経営スタイルを確立し、ロシアの軍役にタタール人を起用するようになります。これがロシア・コサック兵の誕生です。
こうしてコサック兵はその後、何百年もロシア皇帝の軍隊として兵役に就くわけですが、その形態は傭兵的であり、比較的解散が容易で、国庫の負担が軽い、為政者にとってはまことに便利な存在になっていったわけです。そしてコサックの成敗に、コサックを指し向けるということが行われたわけです。
最終的には1917年の革命の際、ペトログラードのコサック兵はロシア皇帝を見限ります。その後、ロシアの革命政府はコサックに独立の空約束を繰り返すとともに徹底的な弾圧と殺戮を繰り返した結果、コサックは根絶され、今日のコサックはノスタルジアの世界だけに主に存在し、軍事的な重要性はありません。
ただ、「コサックをやっつけるのにコサックを使う」式の、グループ間での対立を煽る「戦争マネージメント」のスタイルは、こんにちのウクライナを巡る紛争にもハッキリと見て取れる、常套手段的なやり方なのです。