| 日本人と「日本病」について (文春文庫) (1996/05) 岸田 秀山本 七平 商品詳細を見る |
今回から、その中でも興味深く思った処を感想等まじえつつ紹介していこうと思いますが、まず最初に岸田秀が「人間とは本能が壊れた動物」と説明している箇所を引用して行きます。これがわからないとその先に進めないと思いますので。
(~前略)
岸田 結局、それではなぜ日本人はこうなったのかという問題ですね。
山本 そうなんです。どうしてそうなっちゃうのか。これは岸田さんのおっしゃる本能の壊れた人間、その壊れ方の問題ですか。
岸田 いえ、それぞれの民族の文化の違いは、本能の壊れ方の違いなのではなくて、壊れたあとの対処の仕方だと思うんです。
人間は本能が壊れた動物だとぼくは言ってるわけなんですけれども、本能とは何かというと、行動形式を指図するものですよね。
本能が壊れていなければ、本能に指図された行動形式によって、この自然の中で生きていけるわけです。
その本能が壊れてしまったとなると、それに代る人工的な行動指針を人間は不可欠に必要とする。
ところが、行動基準の根拠はどこに置くかとなると、根拠は実際どこにもない。
そこでヨーロッパと日本を考えますとね、きわめて単純化して言えば、ヨーロッパでは絶対的な唯一の神というものを創り上げて、そこから壊れた本能の代用品としての行動指針をぜんぶ引き出してきた。
一方、日本は、人の和というか、自分が属している集団、自分の接している人々の間で、みんなの意見が一致すればそれに従うという行動指針ですね。
これも一つのすごい指針だと思うんですが、日本文化というのはこういう形なんじゃないか。
だから彼らのように、一つの絶対的な原理に立った行動指針をもつ人々から見れば、日本人はまったく節操がなくて、その場に流され、あっちで言ってることとこっちで言ってることが違う、ということになるんですが、日本人からすれば、そうした「和」こそが原理である。
山本 ユスフザイという人が、イスラム教徒には元来、人と人との間に契約がないということを紹介していますが(『文藝春秋』昭和五十四年五月号)、まったくその通りなんですね。
なぜそんなことになるかというと、アラーがいるわけです。
個人個人がアラーと対峙して、アラーとの間に契約を結んでいる。
これが学者のいう上下契約で、その契約内容が同じならば、結果において個人と個人との間に同じ関係が生ずる。これはユダヤ教徒も同じ形ですし、ヨーロッパも根本に戻るとこの形なんです。
宗教法というのが、神と個人との契約内容となっているわけです。
彼はこれをおかねの貸し借りにたとえて説明していますが、つまり貸借をどうすべきかは、各人の神との契約できまっている。
この契約の内容がつまり宗教法ですから、改めて個人と個人が話し合って契約をする必要がない。
彼らの社会では、この神との契約に基づく自己規定のない人間というのは信用されないんです。神との契約がないんじゃ、何をするかわからない、これが彼らの精神構造の基本でしょう。
岸田 なるほど。
山本 日本人の社会には神がいないんですね。人間と人間とがいて、お互いの間で相手の立場に立って話し合うわけです。
ただ、おもしろいことに、この話し合いの結果を認証するというときに、「天地神明」という証人を引っぱり出すことがある。だがこの際も、天地神明と人間の間に契約があるわけではない。
(後略~)
【引用元:日本人と「日本病」について/P27~】
【関連記事:神、主人、奴隷の三角形とは~西欧の「契約」の背景にある神~】
本能が壊れた人間というのは、動物なら本能で持っている(つまり自然に働くはずの)ブレーキが利かないことを意味しているわけですが、上記の説明だけではちょっと抽象的で難しいかもしれません。このあと紹介する箇所で具体的に説明されているので、わかりにくければそちらを参照してください。
日本は「和」の国だとか、話し合い絶対主義だとか言われますが、私自身、今までおぼろげに感じてはいたものの、その意味をはっきりと把握していなかったような気がします。
しかし、上記のように日本以外のヨーロッパやイスラムの例と対比してみると、日本の特異性というものを嫌でも認識せざるを得なくなりました。
神がいない世界に住む我らと、神を戴く彼らとが理解しあうのは非常に難しい……そう考えざるを得なくなります。
日本人が対外的に摩擦を起こす根本には、このことに対する意識が決定的に欠落しているのが原因ではないでしょうか?
そもそも、お互いを理解する為には、自分と相手がどこが自分と異なっているのか認識する必要があるはずです。
そうした違いを認識できなければ、相手も自分と同じ人間であるということになり、思考様式・行動様式も同じであるはずという「幻想」を抱いてしまうのではないでしょうか。
まず、神を戴く彼らとの違いというものを認識することが、”相互誤解”を解く鍵になると思うのですが。
しかしながら、そういう認識を持っている日本人は一体どれほどいるのですかねぇ。
話はちょっと逸れましたが、今日の本題に入りましょう。
なぜ日本人は個人主義を嫌うのか?
そのことをわかりやすく説明した箇所を以下引用していきます。
■個人主義的な自我
岸田 ここでもう少し、日本的自我について考えてみたいんですが、いわゆる行動形式の「歯止め」の問題ですね。
元来、動物には本能の歯止めがあるわけです。K・ローレンツの有名な話でいえば、狼の例がある。
狼は二頭が闘って、一方が負けたと思えばひっくり返ってのど元をさらすわけですね。すると勝ったほうはそれ以上噛みつかない。闘いは終わりです。
以後、負けた方はエサでも何でも譲って、そこに序列が成立するんですね。つまり、のど元をさらしたときにブレーキがかかるわけで、ブレーキも本能なんですね。人間の本能が壊れているということは、ブレーキも壊れているということになる。
山本 ああ、なるほど。
岸田 人間だけが無用の人殺しをする。
狼と追って、降伏してきた敵を殺す。自分の生存のために必要でなくても、単なる恨みから殺したりするわけです。
人間が壊れた本能のかわりに行動規範をつくり出したのならば、ここにも「歯止め」が必要ですよね。
そして、いわゆる近代的自我には、神という歯止めがあるわけです。
ところが、神のいないところで近代的自我をつくろうとしますとね、神という歯止めがないものだから、いわゆる近代的・個人主義的な自我と、単なる利己主義との区別がつかないんですよ。
山本 うん、区別がありませんね。
岸田 戦争中、「個人主義はいけない」としきりに言いましたが、神を持たない日本人に個人主義がどう映るかというと、利己主義に映る。
実際、神という歯止めがないんだから、近代的自我はそのままエゴイズムになってしまうんですね。
とにかく自分ひとりのため、ほかの人がどんなに傷つこうが損しようが、自分の快楽や利益さえ確保できればいいという主義になってしまう。
個人主義を日本人が嫌うというのは、そこです。
必然的にエゴイズムに移行する個人主義を無制限に認めていたら、秩序が成り立たない。集団にとって危険なんですね。
山本 個人主義は、ある意味でヨーロッパの理想型みたいなんだけれども、これは「何々をしない」ということが一つの誇りになっているんです。
団体規約でもなんでもなくて、自分対神の約束で、これはしない、あれはしないという原則がはっきりしている。そして、これがはっきりしていればいるほど、社会が尊敬し、信用してくれるわけです。
前にアメリカ国務省日本課長のシェアマンと話したとき、アメリカ人の理想型とはこの意味の個人主義だと言ってましたな。
だいたい、人間の信頼関係というのは、マイナス的なものでして、「彼はこれだけは絶対しない」というところから始まるわけです。
汝、殺すなかれ、盗むなかれと同じで、あの人はここへ来ても私を殺さない、私から物を盗まない、私に対して偽証しない、というそこから始まるわけでしょう。
だから個人が神との契約の形でそういう規範をきちんと持っていることによって、信頼関係が成り立つわけで、これが彼らがいう個人主義の理想型なんですね。
岸田 そして日本人にはその形がない。
山本 でね、私は人々がなぜ自民党を支持するのだろうかと考えたんです。
すると、やっぱり信頼関係というのは、日本人の場合も、最終的に何かをしないということなんですね。
あいつは飲む・打つ・買うのとんでもない奴だけど、こういうことはしないという信頼の仕方がありますね。(笑)
自民党への支持というのはこれなんだな。
とんでもない奴だけど何かをしないと信じてる。
つまり、自分たちが自覚していない伝統的な文化的規範に触れるようなことはしない、という信頼があるんですよ。
自民党は伝統的な政治文化の上に乗っかってるだけでしょう。ところが野党はそうじゃないですね。
前に話に出た栃木県の市会議員の一家心中の場合の新聞記事みたいな日本の伝統的行動規範に根ざさない論理ばかり言ってるから、最終的に何かを托するかとなると、そういう気にならないということでしょう。
岸田 日本共産党が私有財産を認める用意があると言ってみたり、公明党が日米安保の意味を見直すと言ったりするのも、「何かをしない」という信頼性をかもし出したいわけですね。
(~次回に続く)
【引用元:日本人と「日本病」について/個人的な自我/P70~】
以下、私の雑感を述べていきます。
二人による上記の指摘は、非常に的を突いていると思います。
実際、日本において個人主義が嫌われているのも、利己主義との違いがわからないということでしょう。
日本人は、欧米の神の存在のような、個人主義を規制する共通の行動規範をもっていない。
あるとすれば、話し合いの「和」という原理だけ。
この原理は「和」であるから成り立つのに、個人主義はその「和」を平気で乱してしまうから歯止めが利かない。
多くの日本人は、はっきりそのことを認識していなくても、肌では感じているのではないでしょうか。
そしてこのことは実際の政治においても、大きなウエイトを占めているのではないかと。
自民党があれだけだらしなくても、政権政党でいられるのは、そうした面における信頼感が大きいのでしょうね。
そこら辺は野党もなんとなくわかっていて、民主党のように看板を架け替えて政権をとろうとしているのではないでしょうか。
ただ、民主党の政策の中身とか見てみると、日本の伝統的規範に触れる政策が多いような気がしてしようがないんですよね(旧社会党の人たちも大勢混じっているようですし)。
自分が未だに民主党のことを信頼できないのは、このせいだと改めて自覚した次第です(浅はかな解釈かもしれませんが)。
今日はこの辺でやめておきます。続きはまた次回紹介して行く予定。ではまた。
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