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パスカルを読んで、それが人生の役に立ったという事はおそらく、これまでに一度もなかったし、これからも永久にないであろう。なぜなら、パスカルとはこの世界とは違う座標軸に生きた一つの孤独であるからである。彼がもし「パンセ」を残さなかったら、彼の孤独は無限で完璧だった。だが、言葉は遺された。それによって、私達にはこの孤独の宇宙に入っていく通路が一つだけ残された。
パスカルのパンセは名著だが、普通の人がこれを読んで、何かを得る事はできないだろう。パスカルというのむしろ、普通人を全て拒否しているような人間だからである。「全ての事は気晴らしに過ぎない」「人間というのは惨め以外のなにものでもない」ーーーこんな事を説く人間を、どうすればよいだろうか。・・・もしも、パスカルが現代に生きていて、そしてその絶望的な教義によって、一人のスターとなったら(そんな事はありえないが)、今、古典や名著を読む事を推奨している世の常識的な大人たちは必ずや、このパスカルなどという異人を牢屋につなぎ、鞭で打った事だろう。それは間違いない。歴史というのは常にそのように回転してきたし、それは今でも、少しも変わっていない。偉人が偉人であるのは、いつも彼らが死んでいて、僕達を脅かさないからだ。人が、教養などというものを祭り上げる事ができるのは、常にそれが死物であるからである。それが生きて、影響を振るっていると、我々はそれを殺して死物とするまでは容赦しない。・・・ニーチェが先日、ベストセラー的に売れた事があったが、そのニーチェは狂人であった。しかも彼は純然たる狂人だった。そして彼が狂人になったその理由は、彼があまりに周囲とは違う優れた頭脳を持っていたためだが、そんな事は今のニーチェ読者には関係のない事なのだ。運命が去ると、私達に都合の良い教義だけが残される。「明日も頑張ろう」「家族を大事にしよう」。・・・偉人達はみんな、そんな凡庸な言葉を吐く連中に、私達の手によって書き換えられる。ところで、彼らはそういう言葉を嫌った存在ではなかったのか。凡人と天才とはこのように、常に時間を挟んでも対立している。だが、凡人の『天才的』手腕とは、これを対立しているように見せない所にある。彼らは天才達を巧みに懐柔し、知らぬ間に自分達の凡庸な教義を伝える伝道者としてしまうのだ。その手腕には正に、天才的な所がある。
私達がパスカルを読んで何を得る事ができるだろうか?。答え・・・何も。では、パスカルは読む価値がないだろうか?。答え・・・イエス。・・・先に言っておくと、この答えーーーこの常識人が出した答えは、紛れもなく正しい。それは正答であり、百点満点の答えである。だが、この問いに一つだけ疑問があるとすれば、「人は常に常識人にとどまっていられるだろうか?」という点にある。もし、自分が末期癌患者だとして、彼はそれ以前と同じように、正常な、常識人として生きる事ができるだろうか?。・・・クリスマスにはクリスマスケーキを買い、恋人にはいつものように笑ってプレゼントを送る事ができるだろうか?。・・・人が常識人でいられる、というのは、それほどどっしりした、堅固な事実ではない。今、人はいじめは良くないなどと言っているが、これからもいじめがなくなくる事をおそらく決してないだろう。何故かといえば、自分と戦う事のできない人間は常に、自分達の外側に明瞭な敵、異端者、愚か者等を規定していない限り、不安に陥り、自分のアイデンティティを喪失してしまうからだ。人は、自分達の外側に、自分達より絶対的に愚かな者を想定して、そうしてはじめて安心できるたぐいの生き物である。だから、この先も「いじめ」に類する事がそうそうなくなると思われない。「いじめ」が問題と思っている人々の大半は、自分達の「いじめ」は正義だと信じて疑っていない。だとすると、それを子供達が模倣するのも当然の事実だろう。だから、これからもおそらくはいじめはなくならないであろう。・・・スケープゴートがいた方が楽ではないか?。・・・これを回避する事ができるのは、自分自身のそうした弱い精神と対決するという行為においてのみである。それ以外の方法はない。他人の悪魔を潰すのは、まず自分の中の悪魔を潰してからだが、「正義」に取り付かれた人は、他人の悪魔しか見えない。そうして、彼らの相貌はますます悪魔そのものに似ていく。聖人のお面を被ったまま。
話がずれた。・・・例えそうだとしても、パスカルにはたった一つ、効用がある。それは、絶望の深度の問題である。深い絶望に落とされた人間を救うのは何か。(絶望に落とされた事のない人間には、絶望以上の地獄が待っている事だろう。)・・・それは、自分よりも深い絶望を抱いている人間の存在である。絶望している人間に「元気になれよ」と励ますのはもちろん、逆効果でしかないが、それに対する唯一のクスリは、彼以上に絶望している存在を知る事である。・・・ところで、パスカルの絶望は深い。その絶望は余りに深すぎて、この地球全てを食い破り、そしてこの宇宙の闇と同化する所にまで行き着く。・・・僕が詩的に修飾しているのではない。パスカル自身が書いているのだ。「宇宙は空間によって私を包み込むが、考える事によって私は宇宙を包み込む。」ーーーこんな事は、くだらない事だろうか。パスカルという一人の男が、この宇宙よりも巨大な自意識を持って、世界を自身の絶望で包むという事は、くだらない事だろうか。・・・多分、そうなのだろう。くだらないのだろう。人は必ず、次のように言うに違いない。「そんな事より、外出て、ちょっと金使って遊んできたら」。あるいは、「さっさと、働け」と。だが、人はいつもそう常識人でいられるとは限らない。パスカルの絶望が世界を包むのは正にその時だ。彼の絶望と孤独は余りに深い。その為に、彼の自意識はこの宇宙を満たし、そしてこの宇宙すらも越えてしまう。・・・だが、これはあらゆる行動に何の意味も見出さなかった人間のみが成しうる技だ。・・・哲学者というのは「哲学」などというものをもてあそぶ存在ではなく、それは自身のあらゆる行動を犠牲にする事によってのみ、考えるという特権を得た存在である。それはいわば、猿からの脱却。ロダンの考える人ーーーーーだが、この時、行動とは何か。行動の意味する事とは何か。彼はあらゆる欲望や、行動を全て捨てさるので、丁度、悟りを得た仏のような存在となっていく。東洋の国においては、そうした「無行動的な行動」が唯一、西洋における思索、哲学の代用となっていたのだろう。そこでは、自身を一つの場所にとどめておく事こそが彼らの思惟であり、また行動であった。だが、生きるという事=思考ではない。ここには微妙な矛盾が得られる。だからこそ、彼らは揃いもそろって狂人への道を歩んだのだった。
生きるという事は何か。考えるという事は何か。
だが、考えるという事に何の意味も価値も認められていない現代において、こうしてパスカルのように考えるという事は何の意味があるのだろうか。あるいは、バスカルというのは偉大な存在なのだろうか。・・・おそらく、そうだろう。「考える事が偉大さをつくる」。だが、偉大であろうと、無用物には誰も何の興味はない。だが、この無用物は時の作用により、有用となるだろうか。だが、時はーーーーー。
しかし、もうこれぐらいで止めておこう。かつてシオランが、「自分が本を読むのは、自分以上の孤独を発見する為だ」と言っていた。その存在こそは正にパスカルであり、またニーチェであった。彼らの狂気は、私達に正気を取り戻させるのだろうか?。それとも、私達の狂気は・・・・・・・・。
・・・いや、もうやめておこう。パスカルは最後にはキリスト教に服従する事を選んだが、彼の思惟が本当にそれに服従したかどうかは極めて怪しい。ニーチェは最初に、キリスト教を排撃していたために、彼自身、現代のキリストとなる他なかった。そうして、彼は自分が心の底から望んでいたであろう本物の狂人に、晴れてなる事ができた。・・・我々は馬鹿だろうか?。我々は賢いだろうか?。・・・しかし、賢者故の狂気は我々に何を教えるのだろうか。
・・・そして、今、書店の店頭に目を通すと、そこには「読んでおきたい世界の名著」が置いてある。そして、それは人々に大切な生きる「智慧」とやらを教えるのだろう。そしてその中にはきっと、あのパスカルもニーチェもいるに違いない。・・・だが、僕はその本に手を取らずに、ライトノベルのコーナーへと移動する。僕は、馬鹿かもしれないが、生きていたいのだ。あと少しの間は。
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ヒーローは最後死んで英雄になる。と昔習いました。そうだと思います。
思考の意義ですが、たしかにあります。
しかし、それを深めるということは自分と他人の溝を掘ることに似ています。
深い溝をほった自分掘らなかった他人を見て蔑むでしょう。それもまたサガでしょう。
しかし、思考をやめることはできません。
何かしら考えていないと闇に食われて自分もまた狂人になるからです。
闇はどこにでも存在し光の影に必ずあります。
それを認識する事こそが狂人への歯止めといえると思います。もしくは、認識した瞬間狂います。
それと、イジメの明示的な退治法は、人間全体の思考水準をある程度高い位置で平均化することです。が、可能でしょうか。
それに伴う問題もありますが、それをすることで個性の消失による群衆化が身を守ってくれるんじゃないかと思います。
敵を設定してはいけません。その車輪の奥の闇が自分を滅ぼすまで続きますから。
思考の意義ですが、たしかにあります。
しかし、それを深めるということは自分と他人の溝を掘ることに似ています。
深い溝をほった自分掘らなかった他人を見て蔑むでしょう。それもまたサガでしょう。
しかし、思考をやめることはできません。
何かしら考えていないと闇に食われて自分もまた狂人になるからです。
闇はどこにでも存在し光の影に必ずあります。
それを認識する事こそが狂人への歯止めといえると思います。もしくは、認識した瞬間狂います。
それと、イジメの明示的な退治法は、人間全体の思考水準をある程度高い位置で平均化することです。が、可能でしょうか。
それに伴う問題もありますが、それをすることで個性の消失による群衆化が身を守ってくれるんじゃないかと思います。
敵を設定してはいけません。その車輪の奥の闇が自分を滅ぼすまで続きますから。
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人は本質的に自由です。
どんなに法で縛られていようと、手でナイフをもって人に向かって突き出せば人を殺す事は出来ます。
結婚式の式典で「お前らさっさと離婚しろや」と言うのも、ちょっと声帯を震わせれば誰にでも出来ます。
彼女に買ったクリスマスケーキを彼女の顔に投げつけるのも大した運動ではありません。
更に自分の思考が宇宙を包み込むというのは紛れもなく真理です。世界そのものが「自己の意識」であるという考え方は誰にも否定できません。だからこそ孤独でもある訳です。世界には私の意識しかないわけですから・・・
しかしだからこそ自由でもある訳です。つまり私が「神がいる」と思えば、神は「居る」。「私が目を閉じたのではない、世界が暗くなったのだ」と思えばそれは真実であります。人は宇宙も真理も全て自分で決められるように産まれてきたのです。
ではこの孤独の絶望から全てを救い出す希望はあるのか?あります。自由を持ってしてこの世界を肯定すればいい。「私の愛する人には私と同じ様に魂が存在し、私は物質的な存在であり肉体は滅びるが、人の歴史は私の死後も受け継がれる、この雄大な宇宙は確かに存在して悠久の時を刻む」つまり「私はこの世界が好きだ」と自分で決定する権利も自分自身になるのだから。
つまりそもそも人は人を殺すことが簡単にできるのに、なぜ殺さないか。考えない人間はそのまま「やっちゃいけない」という知識を疑わず適用するだけです。しかし考えた末の絶望から自らの意思で世界を肯定した人間は自信満々にこう言えるのです「私はこの世界が好きだから、人を殺さないという選択を、自分の意思でしている」と
まぁ結果は同じだし明らかに前者が楽なんだけどなwwwwww
どんなに法で縛られていようと、手でナイフをもって人に向かって突き出せば人を殺す事は出来ます。
結婚式の式典で「お前らさっさと離婚しろや」と言うのも、ちょっと声帯を震わせれば誰にでも出来ます。
彼女に買ったクリスマスケーキを彼女の顔に投げつけるのも大した運動ではありません。
更に自分の思考が宇宙を包み込むというのは紛れもなく真理です。世界そのものが「自己の意識」であるという考え方は誰にも否定できません。だからこそ孤独でもある訳です。世界には私の意識しかないわけですから・・・
しかしだからこそ自由でもある訳です。つまり私が「神がいる」と思えば、神は「居る」。「私が目を閉じたのではない、世界が暗くなったのだ」と思えばそれは真実であります。人は宇宙も真理も全て自分で決められるように産まれてきたのです。
ではこの孤独の絶望から全てを救い出す希望はあるのか?あります。自由を持ってしてこの世界を肯定すればいい。「私の愛する人には私と同じ様に魂が存在し、私は物質的な存在であり肉体は滅びるが、人の歴史は私の死後も受け継がれる、この雄大な宇宙は確かに存在して悠久の時を刻む」つまり「私はこの世界が好きだ」と自分で決定する権利も自分自身になるのだから。
つまりそもそも人は人を殺すことが簡単にできるのに、なぜ殺さないか。考えない人間はそのまま「やっちゃいけない」という知識を疑わず適用するだけです。しかし考えた末の絶望から自らの意思で世界を肯定した人間は自信満々にこう言えるのです「私はこの世界が好きだから、人を殺さないという選択を、自分の意思でしている」と
まぁ結果は同じだし明らかに前者が楽なんだけどなwwwwww