2014年03月14日 (金) 01:15 | このエントリーを含むはてなブックマーク はてなブックマーク - 愛だ恋だのいってないで | | | Edit |
ここに地雷を埋めておきますね。


とある東証一部上場企業、某大手のゼネコンに入社して10年ちょっと。
この間に関わってきたこの会社のダークサイドを書き連ねました。

全て実際に自らが関わった実話のみ。
第三者の方々に楽しんで読んでもらえる記事となるよう(つまらない犯罪自慢・誹謗中傷・愚痴にはならぬよう)努めて書きました。
うまくいっていると良いのですが。
その方針に従い、ノンフィクションとしての信義を守りつつ、当記事に登場する名前は全て仮名とし、且つ当ブログ内の過去記事であからさまに会社を示していた覚えがあったものは既に取り下げてあります。

自身にとってリスクとデメリットしかない行為だと理解しています。

でも、もう我慢出来ないから。

ここまでで察せられる内容を見たくない方、又、ちょっとした短編小説並みの長文なので長文嫌いな方は以下の閲覧ご注意下さい。



【1.2,000万円の裏金贈賄の件】


やはりまず、つかみとして分かり易い話はこれでしょうか。
もちろん世間には初出の話です。



以下、これほどの長文を文章だけで記事として成り立たせる自信が無かったので、時折マンガや映画の画像を挟み込んで遊んでいます。
読む際には休憩等の節目としてご活用下さい。
一部については、最後に出典などの解説を付けます。
幼稚な印象を強め過ぎているかもしれませんし、不謹慎なブラックジョークもありますが、笑って読んで頂ければと願っております。



とある工事プロジェクトに携わっていた時です。
客先から追加工事費の支払いを得る為に、とある人からの協力を得たい状況になりまして。
そんなある日、事務所にいた私は、当時の上司、官山さん(仮名)からこそっと耳打ちされました。
「ちょっと会議室へ来て」
何をこそこそしているのかと不審に思いながら会議室へと入ると、そこで見たものは机の上に積まれた大量の札束でした。
帯封された新札なんかではなく。
で、その場でその札束を数えろって命じられたんです。
派遣社員や、万が一正義感が強かったりすると厄介なことになる中堅正社員とかに頼むより、若く都合の良い直属部下の私に命じる方が、楽だったのでしょう。

そんなわけで、会議室のブラインドを閉め、鍵をかけ、他の1名が数えた札束を改めて私が数え直すというダブルチェック方式で1枚ずつカウントしたのですが、その間、官山さんがその現金は何なのか細かく説明してくれました。
そのプロジェクトで使用していた重機を中古で業者に売り渡し、代金を現金で受け取り、さらに自社の書類処理上はその中古重機は無価値なガラクタとして引き取り処分をして貰ったことにして、はい、帳簿に載らない2,000万円の現金の出来上がり。
会社の金庫へその2,000万円を入れる為に、金庫管理をしていた私に説明しておく必要があった事、その海外業者との書類のやり取りにも私の関与が必要だった事も、私が数え役に指名されて細かい説明まで受けた理由でした。
業者を見つけてきて基本的な交渉までを行うのは、また別の社員が済ませていましたが、契約書作成とか伝票処理とかにその人が首を突っ込むと畑違いだから目立っちゃうし。

後日、その2,000万円は官山さんの上の上司の手で、協力を仰ぎたかったとある人の手に無事に届けられました。
(実際に協力を仰げたかどうかはまた別の話。)


「とある人」っていうのが、一昔前なら小沢○郎だとか、最近なら某都知事とかだったりしたら面白かったのでしょうが、残念ながらそういう話題性のある人ではなく。
まぁ、でも、それだからこそ、ここにこの程度までは書ける、っていうね。


あぁ、それはとそれとして、


さっき、「中古建機が2,000万円で売れた」と言ったな。あれは嘘だ。


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実際には約2,300万円で売れました。

でも裏金としてとある人に渡されたのは、2,000万円ジャストです。
差額の約300万円はどうなったかは、具体的には知りません。
裏金をとある人に届ける日、金庫から2,300万円が入った封筒を出してきたのは私。
それを官山さんに渡したか、その上の上司に渡したかはよく覚えていないのですが、その場で「渡すのは2,000万円ちょうどで良いから、残額は金庫へ戻しておくよう」言われ、300万円を別の封筒に入れて金庫へしまった事は覚えています。
なので、しばらく金庫の中に入っていたのは確かですが、その後気付いたら消えていました。
その事務所の不特定多数の福利厚生的なもの(飲食費含む)に使われたとかではなく、ただ忽然と消えました。
金庫を開け閉め出来た人間は、自分や官山さんを含め数人しかいませんでした。

これについては、ちょっと後日談があります。
まだその300万円が金庫に入っていたある日のこと、突然、官山さんから「金庫の中身をチェックするから来い」と言われ、一緒に金庫室へ行って金庫を開けようとしたら、今度は「お前は触るな。金庫を開けるのも数えるのも別のスタッフにやらせる。お前はここで黙って立って見ていろ」ってなんだか乱暴な口調で言われまして。・・・どうぞ?(‘A`)
で、結局、一円違わず金庫の中身はそろっており、そこで代官さんから出た言葉は「あれ?おかしいな」。
「何か調べましょうか?」「いや、いい……」
先ほどまでの乱暴な口調はどこへやら、急にしおらしく、でも何か合点がいかない素振りで首をかしげながら金庫室を出ていく官山さんを見て、あぁ、つまり自分が使い込みを疑われたんだなと悟り、正直、少し傷つきました。
その頃、大きな金額の経費の立て替え払いをやったりしていたから、金回りが良過ぎるように見えたのでしょう。
っていうか、その立替払いだって官山さんの指示でやらされた事だし、金庫にあるべきものがちゃんとあって何がおかしいんだよ、むしろ何か謝るべきことがあるんじゃないのか、俺が疑われた事にも気付かない程のマヌケだと思ったのか、このカス!って思いました。

少し余談になりましたが、要するに、官山さんは少なくともこの時点では金庫内の300万円の事を気にかけていたという事です。
その後しばらくして、金庫から300万円が消えていた事に気付きましたが、私は特に誰にもその事について尋ねず、また官山さんから何か話題に出る事もありませんでした。


100万円にも満たないような金額の贈賄での逮捕のニュースがよく見かけられる中、やはり2,000万円は大きな金額であるし・・・、っていうか、これとほぼ同じ手口の事件が数年前に別のゼネコンさんで明るみに出て、逮捕者とか出てけっこう大きく報道されたと記憶しています。
ちなみに、贈収賄の時効は、贈賄で3年、収賄で5年らしいですね。
だからどうというコメントはしません。

2,000万円の裏金の件は以上です。


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【2.とある氷河期世代の入社経緯】


さっき私は自分のことを「都合の良い社員」と書きました。
もう1つの大きな爆弾の話をするで候(そうろう)、といく前に、その事から書いておいた方が良いでしょう。



なぜ都合が良い社員かというと、私はコネ入社なのです。

コネを使って入社・・・ではなくて、勝手にコネを見込まれて内定が出た、のですが。

処す?

そもそも、就職氷河期に、どこでもいいけど出来れば営業職以外、という程度の希望で手当たり次第に会社を回って連敗を重ねた後に、最初に内定をくれたところにもういいやと決めただけです。
たまたまそこがゼネコンだったという事。

最初は、大学の体育館で行われた合同企業説明会に参加して、そこに来ていた会社の説明会応募名簿に名前・住所を記入したところ、後日、今の会社のリクルーターから電話があって。
そこまでは普通です。
しかしその後の、業界自体に興味が無い事が面接でも隠しきれていない阿呆な学生(私)に内定が出るまでの流れは大変不自然でした。

喫茶店でリクルーターと会うこと2回、知能テストみたいなの(SPI試験でしたっけ?)を1回、会社で面接2回、と確かそのくらいでとんとん拍子に内定が出ました。
面接もテストももの凄く少人数で、特に知能テストに至っては、だだっ広い会議室にたった3人だけでの受験という奇妙さでした。
そもそも最初に喫茶店でリクルーターに会った時、リクルーターとは大学OBのやや若手の社員がやるはずなのに、その人はOBでもなければ、どう見てもそれなりに役職ありそうな人だった事に違和感を覚え、その際に持参していた履歴書は記入が間に合ってなくて半分白紙だったうえ、同業他社を全く受けても調べてもいない事も正直に答えるという、我ながらバカな有様でしたが、それなのに嫌な顔ひとつされないどころか、むしろ、「じゃあ履歴書の書き方をアドバイスしてあげよう!一緒に作成しよう!」な感じで、次のステップに進んでしまいました。
不人気業界といえど何かおかしい・・・とは思いつつ、当時、そのリクルーターさんからは、新入社員採用には「大学枠」があり、私が在籍した大学からも毎年1~2人は採用するようにしているのに、前年は希望者ゼロで、その年も希望者が全然来ずに困っていたところだったとか、そんな説明をされていました。
それはそれで嘘ではなかったのでしょう。

しかし、なんてことはない。
入社後2ヶ月位経った頃、そのリクルーターさん(営業課の割と偉い人だった)から「これから君の父親が働いてる会社に挨拶に行くんだけど、良かったら一緒に来ない?」と電話がかかってきたのです。
そして実際に出かけて挨拶をしてきました。

おい、
就職活動時の履歴書には父親の職業欄が無かったし、
面接でも聞かれていないっていうのに、

なんでお前が俺の父親の職業を知ってるんだ?

そもそも父とはやや特殊に疎遠で無関心な間柄なので、私自身ですら、父親の職業を正確には知らないのです。
会社は内定者について興信所で調査でもしてるのか?と驚きと不信を感じました。
きっと、この会社に入って最初の赴任地が自分の父親が住む町であった事も、偶然では無いのでしょう。
私はその街に父親が住んでいる事は知ってはいましたが、住所も連絡先も知らず、会ったのもこのリクルーター同伴の会社訪問の時だけです。
私の家庭環境の話は今回の記事の内容とは関係が無く、また、父に関する話をここで勝手に語る権利は無いと思うので、そこはこれ以上触れません。

兎に角、父は、私が今いる会社は若干関わりがある会社に勤めており、その上の方の役職にいたようです。
彼は営業トーク(おだて)に弱いタイプなので、きっと、当社の営業担当者に対して息子がどこに在学する何年生かとかの情報をほいほいしゃべっていたのでしょう。
そして、大学の説明会応募名簿を見たリクルーターから父親にさぐりの連絡が入った際に「それは私の息子です、よろしく。(笑)」なんて呑気な返答を父親がしたのだろう、と思います。
それについて父に尋ねたりした事は無く(そもそも会話も無いし)、この部分は完全に私の想像ですが、いちいち入社希望者について興信所で調べているなんて想像よりは信憑性があるかと思っています。
その一方で、「私はコネを見込まれて採用された」という点については、疑いようがありません。

入社してから知ったことですが、社内には、取引先や社内重役の身内のコネ入社が多数います。

リクルーター(営業担当者)が何を期待したかは知りませんが、この時の父子の再会で、私のコネ(恩着せ)としての役目は終わったようです。
それ以来、父の会社への挨拶の同伴だのに声を掛けられることも無く、海外プロジェクトで人員が必要になったのを機会に、その街の私の赴任は異例の短期間で終わり、海外へ異動させられました。

その後も異例な異動を重ねて今は福岡にいますが、その先々の新しい上司から「お前の父親って○○で働いてるんだな」と言われる事が多々ありました。
最近でこそ個人情報についてうるさく言われるようになって、人事ファイルの扱いは厳格になってきてはいますが、上司が人事部から新しい部下についての人事ファイルを取り寄せるというのはよくあった事です。
私は人事ファイルを見た事はありませんが、私のファイルに父親の職業が書いてある事は間違いありません。
他に何が書いてあるのやら。
怖いなー。
そうそう、私、このブログのURLも人事ファイルに載っているんじゃないかと思ってるんですけど、話題を戻します。


会社での経歴を振り返るに、自分はこの会社にとって実に都合の良い人材だったと思います。

従順(で当然)なコネ入社で、でもそのコネは社内外に特に力を持たず、基本的におとなしい性格をしており、仕事への熱意があまり無い代わりに面倒な自己主張も無く、出世や社内営業には興味を示さず、でもそこそこの社交性は持ち、一応そこそこの大学は出ていて、そこそこの能力もたまに示し、英語力も当社内ではやや高い方で、心身はいたって健康で、独身。

便利。
「今どきのブラック会社は社員を歯車としてではなく燃料として扱う」と言われていますが、良い燃料です。
こうなっちゃいけないよ、という一つの悪い例です。
いらないタオルを雑巾として使い捨てようとしたら意外と長持ちして便利だった、みたいなものがこの会社における私です。
結果的には、社内でも割と注目度の高い大型のプロジェクトを、異例の異動を重ねて渡り歩いて、どさくさにまぎれてちゃっかり表彰を受けたりもしているので、一見、出世コースを歩んでいるようにも見える経歴となっていますが。

同時にそれは、この会社のブラックな側面を渡り歩く経歴ともなったのです。


もしこれを学生さんが読んでいるのなら、人生や会社を舐めてかかって痛い目にあったこの話を反面教師の教訓として頂ければと思います。
学生時代の勉強は大事だね。



もうちょっとだけ続くんじゃ




【3.「殺す」とかそんな言葉は使ってはいけません】


父親の住む街から異動した先は、UAE(アラブ首長国連邦)の首都アブダビでした。
ドバイは首都では無く、まぁ例えれば、アメリカでいうワシントンがアブダビにあたり、ニューヨークがドバイにあたる、と言えばイメージとして理解しやすいでしょうか。
3ヶ月間の長期出張、ということで渡航しましたが、結局そのまま9ヶ月滞在しました。
まぁ、それは良いのです。
その9ヶ月間、連日朝早くから深夜遅くまで、月休2日くらいで働かされましたが、まぁそれも特に気にしていません。
この長期出張の感想を聞かれたら、考えてもいなかった海外勤務と考えてもいなかった異文化圏での生活は興味深く、良い経験だった、楽しかった、と答えており、それは嘘ではありません。

しかし、一方では実はひどいパワハラを受けた9カ月間でもありました。

直属上司の元住さん(仮名)のパワハラはちょっと度を超えていました。
30分~1時間くらい直立不動のまま罵詈雑言を浴びせられたり、さらにその途中で1時間、酷い時は2時間も直立不動で立たされたまま放置されて、少しでも動くとまた罵詈雑言が始まるパターンも。「どうせお前の親もクズなんだろ」みたいな親や育ちについての暴言は定番のフレーズでした。
そのうち2,3日に1回は会議室へ連れ込まれ、「眼鏡を取れ」と命じられる。眼鏡を外したら?もちろん顔面を殴られるんです。体重90kgの男の平手だったり拳だったりが一発、飛んでくる。
「殴る方も手が痛いんだぞ!」って言ってましたっけ。知るかボケ。

怒り始める原因は、書類の書き方であるとか、怒鳴る必要も殴る必要も全く無い些細・・・な事柄ばかり。
元住さんにとっては大事だったのかもしれませんが、本当に大事な事態の時にはそんな事をしている暇は無いはずと考えれば、やはり「些細」な理由と言って間違いないでしょう。

下手な作り話みたい?
直立不動の時は、たまにさらに上の上司達が見兼ねて「ほどほどにしておけよ」なんて元住さんに声を掛けたりしてくれたけれど、暴力は物陰で行われていたから知っている人はいなかったかもしれません。
自分も口外したのはこれが初めてな気がします。

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具体的なエピソードを一つ語る前に、


そこまでされる私の方にも問題があるのでは?という事も考えるのがフェアでしょうか。
どうでしたかね。
確かに私は従順とは言えなかったかもしれませんが、特段反抗的だったりしたつもりもありません。
ただ、元住さんについては、もともと日本国内でパワハラで悪名高くて海外に厄介払いされた人だという話も聞きましたし、実際、現地のスタッフ達皆からも「Enemy(敵)」と呼ばれ嫌われていました。
だからこそ会社は使い潰されても構わない私を送り込んだのかもしれません。
しかし、私は根っからの負けず嫌いがゆえに生き延びました。

元住さんとはペアで働いていた他、宿舎のアパートも同室(2ベッドルーム)で、24時間週7日のほとんどを半径5メートル以内で過ごしました。
彼は休みの日などにはうって変わってにこやかに接してきて、なんだか何事も無かったかのように笑って会話する時間もありました。
彼はきっとメリハリが効いた人間、良い先輩のつもりだったのでしょう。
しかしながら私としては、普通に仕事を続けられたのも、休みの日に元住さんと一緒に食事に出掛けたりテレビでコメディードラマを見たりして普通に笑って会話したり出来たのも、負けず嫌いのなせた業でした。
殴られようがだから何という事は無いし、本当に我慢できなくなったら殴り返せばいいだけの話。
殴り返さずにいられるという事はまだ耐えられるという事。
むしろ負けず嫌いに火が付いていきました。
そしてそういったパワハラ等によって笑顔を失ったり人生を楽しめなくなったりする事も、それもまた敗北だと思うので、そうなる事は何より私自身が許せません。もちろん、イラついたり落ち込んだり疲れたりするのも自然で大事な事ですが、それは、あるラインで「それはそれ」と割り切ることが前提にあるように思っています。
上記の例でいうと、面白いもので、あの時の笑顔等は決して100%演技というわけではなく、ほんの少しの演技(というか心掛け)をきっかけにさえすれば、あとは「それはそれ」と割り切って楽しむ心の余裕が出来ていた気がします。
どうせ出張者という、期間限定の付き合いと決まっている身分だった事も割り切りを楽にしてくれていました。
また、当時力が入れられていた海外事業、しかもちょうどスポットの当たり始めたUAEに異例の異動で行ったということで、(本当は違うけれど)栄転として祝い送り出してくれた友人が沢山いて、そんな善意へ感じていた恩も、こんな人1人の言動ごときで逃げ出してたまるかという思いを強くしていました。

ところが他方では、そんな風に、殴られようと動じないどころか気にした様子も見せない私の態度が、元住さんの怒りの火に油を注ぐ悪循環を生みだした一面もあったかもしれません。

そんな元住さんもコネ入社の社員でした。
彼はこの会社の幹部の息子です。


社内には、社長(当時)の血縁者の社員もいますが、苗字が違ったのでそれと知らずに、その人との軽い世間話の中で社長について話題が出た時に「死ねばいいのにと思ったことあるなぁ」と発言してしまったことがありました。
あとでその人が社長の血縁者と聞いて、人としてという意味で、その発言を少し後悔しましたが、その他の意味では全く後悔していません。

日本にいる間は社長とは滅多に接する機会など無いのですが、海外勤務の間はよく顔を合わせます。

社長に対して辛辣な思いを抱いた最初のエピソードが、実は、これから語る、元住さんパワハラとの素敵なコラボレーションエピソードです。
私のアブダビ長期出張の終盤の話で・・・・

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ドバイがちょうど有名になってきた頃で、私が仕事で、出張者用に頻繁にホテルの手配等を行っていて色々なホテルの営業担当者を知っていたり、そもそも日本(やその他外国)から観光客として予約するよりも現地在住の人間が予約した方が格段に安かったりして、そんなメリットを利用できるうちに遊びにおいで!と友人達に声を掛けていました。
そんな友人の2人から、「一緒に遊びに行く」とその1~2ヶ月前に連絡が来ました。
私にとっては、祝日も何も無くただ週休一日(毎週金曜日)で、しかも休日出勤がたまにあったから実質月2回くらいしか休みが無く、しかもコネメガネデブにドツキ回されながらのそんなアブダビ出張生活を、3ヵ月間のはずがだらだら伸びて半年を超えた頃のことですよ。
ようやくの楽しい話題が嬉しかったな~。
気合を入れて選んだ豪華なホテルを激安で手配し、元住さんとさらにその上の上司には「その日だけは休ませてほしい」と1日休みを申請し、忙しくない時期のはずだった為、すんなり承認されて週末(金曜日)と合わせての(自分の)2連休も確保しました。
せっかくなので、友人の旅行に合流してドバイを少し案内したかったし、自分でも豪華なホテルに泊まってみたかったし。

いよいよその当日を迎える一週間前。
ちょうどその日、金曜日午後着で社長(当時)がアブダビへ出張に行くことになった、という連絡が日本の本社から入りました。
それで、たった1日その日だけはと頼んだ休日は取り消し。
金曜日は午前中だけ休んで良い事になったものの・・・。

しかもその社長の出張目的は「海外現地社員の慰労」というだけで、その日になったのも単にその時社長が暇だったから。
そんな風にたまに社長が出張に来ていましたが、この時ばかりは「出発前に社長ころっと急死してくれないかな」と本気で願ったものです。

まぁ、仕方が無いので、木曜夜に仕事が終わってからドバイへ急行して友人たちと合流。
一緒に食事をして、翌朝、ホテルのプライベートビーチで少し日光浴をして、その場で友人とお別れ。
タクシーに飛び乗ってアブダビに向かいました。
向かった先は、その夜に社長と現地社員の懇親会開催が予定されているホテルの宴会場で、昼過ぎには到着。そこで元住さんと合流。
早速、ホテルの営業担当者と会場を確認し、机や椅子の配置を調整したり、手順を確認したり。
そこで元住さんが「社長はチリワインが好き」という事を思い出して(ホントかウソかは知りません)、ホテルの営業担当者に在庫有無を聞きましたが、無いとのこと。
元住さんは私に、「お前、チリワインを探して買ってこい」と言いました。
ここはアブダビ、イスラムの国。
外国人向け高級ホテルの中以外では、酒は原則禁止です。
国内にほんの数件だけある酒屋には、酒購入許可証を持った人間しか入る事も出来ないのですが、観光ビザで滞在している出張者の私はその許可証を持っていませんでした。
買ってくるためには、休日中の現地外国人社員の中から許可証を持った人間を見つけて、捕まえて、一緒にタクシーで1時間ほどかけて酒屋に行って、買ってまた戻ってくる・・・行ってもあるとは限らないし、ホテルには他のワインならあるわけで、と思った私は素直に元住さんに言いました。

「(社長の為に)そこまでするんですか?」

元住さんの答えはこうでした。


「メガネを取れ」


わざわざ社員の慰労の為に社長が来てくれているのにお前のその態度はなんだ、という事でした。
よっ、社畜の鏡。

結局、私は上記のように酒屋に行き、チリワインは在庫が無かったので代わりに適当な高級ワインを買って戻りました。元住さんはとりあえずそれで納得、社長も懇親会で上機嫌で、私も随分酒を注がれたりしました。
しかし、貴重な休みを取り消された挙句にぶん殴られた上で笑顔で「慰労してやる」とか言って(自分が)そんな経緯で買ってきたワインを注がれても、不愉快でしかなかったのです。
まぁ、そんな事情を露知らない社長にイラつきをぶつけても仕方が無いので、笑顔を保って酒を飲み干しましたが。

懇親会終了後、車に社長と上役達を乗せて見送った後は、ホテルの会計等済ませて宿舎に帰ってこの一日も終了・・・しませんでした。
しませんでした。
しませんでした。


社長と上役達は、あるマンションの一室に向かい、そこで徹夜で麻雀をする予定だったのですが、夜中に全自動麻雀卓が壊れて動かなくなったのです。
社長は麻雀好きで、わざわざ主にその社長接待の為に、全自動麻雀卓を日本から輸入して置いていた国はアブダビ(UAE)だけではありません。
この日、当時空き部屋となっていた社員宿舎(マンションの一室)に、事前に全自動麻雀卓や軽食・飲み物を運び込み、用意をしてありました。
さて、その全自動麻雀卓が壊れまして、上役から元住さんにTELが。
「雀卓が壊れたから、(社長の)ホテルに移動してそっちで酒を飲むことにした。でも社長がまた麻雀をやりたいと言い出すかもしれないから、出来れば酒を飲んでいる間に修理しておいてくれ。」
そして元住さんから私にTELが。
「電気屋か、手先の器用そうなやつを捕まえて一緒に麻雀部屋に向かってくれ」
ここは休日の真夜中12時のアブダビ。
チリワイン以上の無茶振りに頭がクラクラしながら、私の部下で顔が広く忠実なインド人に電話をし、家電修理が得意だというインド人の友人と2人で麻雀部屋に来てもらいました。
インド人2人が麻雀というゲームの存在すら知らないのは当然のこと、かくいう私も麻雀を全くやった事が無く、当然、全自動麻雀卓が動くところを見た事もありませんでした。
居間の中央に鎮座する雀卓を囲んで見下ろす、元住さん、私、インド人A、インド人B。
「・・・これは何をするためのどう動く機械なんですか、ボス?」
俺が聞きたいくらいだ。
とりあえず作動スイッチと思わしきものを押してみました。
ん?何かカタカタと、これは何かがどこかで詰まるか何かしてる音・・・?「バシッ」 突然、横から顔面を殴られました。

もちろんパンチの主は元住さん。「なんで壊れてるのにボタンを押したんだ!」

本日2回目かよ。しかも部下の前で。
私はうんざりしながらも、殴られてずれたメガネを戻しつつ冷静に「どう壊れているのか、もともとどう動く物なのか確認する手掛かりになるかと思ってですね・・・」と答えました。
元住さんは、「ふん!俺は寝るから、修理が終わったら起こせ!」と鼻息荒く言い放って、その居間のソファーに横になると、ほどなくいびきを立てて寝始めました。
元住さんもかなりワインを飲まされていましたっけ。

そんな彼を横目に、インド人2人と協力して外装を外して色々いじってみた結果、どう動く物なのかが分かってきて、原因を突き止め、修理に成功しました。
内部のゴムベルトがずれて外れていただけでした。
無事に外装まで元通りにし終わったのは、夜の2時頃。
元住さんはいびきをかいて爆睡中。声を掛けて体をゆすっても全く目覚めません。
「じゃあ、置いて帰るか」
「いいんですかボス?w」
「いいんだよ、起きないんだからしょうがないだろ(笑)」
インド人2人には礼を言って少し多めに金を渡し、先にタクシーで帰宅させました。
そして1人でもう一度麻雀部屋に戻り、

さて・・・・


この時、熟睡する元住さんを見下ろしながら私の胸に湧きあがったのは、かなり純粋な殺意だったと言ったら、誰か驚きますか?
ふと、「町をはずれた砂漠に埋めたら、死体なんかほぼ永久に見つからないよな・・・」と思ったのをきっかけに、殺害からその後の処理までを、数分間、具体的に熟考してしまったのです。

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それからもう一度強く元住さんの体をゆすって、「終わりましたよ、帰りますよ」と声を掛けて、それでも反応が無い事を確認してから、結局、元住さんをそのまま置いて、一人で宿舎に帰りました。
翌日、置いて帰った事で殴られるかと思ったけれど、そんな事はありませんでした。
社長たちも麻雀部屋には戻らなかったようです。


以上、これは極端で分かり易いエピソードと思い挙げてみましたが、内容には誇張など無く、この章はむしろ控えめな表現にしています。
別に、元住さんにこの記事を読まれたらまた殴られるんじゃないかと恐れた、とかいうわけではありません。
私が心配すべきなのはそんな事では無く、自分の人間性かもしれません。



元住さんとの別れについて。


アブダビでの勤務では、宿舎と事務所が徒歩30分、街中でタクシーもたくさん走っている上に値段も格安だったため、日本人管理職最下っ端の私の場合、出勤は徒歩かタクシー、帰りは社用車、が基本になっていました。
特に帰りについては、元住さんと一緒に社用車で運転手に社宅まで送ってもらうのが常でした。
たいてい、最後に退社する社員が私と元住さんの2人だったからです。
元住さんは一番遅くまで残業するタイプで、彼は、直属部下である私も最後まで一緒にいるのが当然という考えの持ち主でした。
人に喚き散らす時間を削れば、もっと早く帰れたんじゃないかと思うけれど。

海外勤務では、この会社では、自ら車を運転することはなるべく避ける事とされていました。
万が一事故が起きた時に面倒だから。
それで、他の会社でも大体そうですが、運転手つきの社用車が用意されていました。
重役には専属の車と運転手がいて、それ以外の管理職(日本人)用には数台の共用車がありました。
出退勤の他、日中には、離れた場所に点在する工事現場や役所などへの移動にも使われており、それら社用車(と運転手)の日々のスケジュール管理をするスタッフがいて、ほぼフル回転していました。
帰宅しようとすると車が出払っていて、どれかが戻ってくるまで社内で待つ・・・なんて事もたまにはありましたが、社員同士の声掛けとかで上手く回っていました。
遅くまで残業する社員の為に残る運転手は、ローテーションで決まっていました。

運転手はインド人が多かったですが、国籍に関わらずいずれも運転手も他国に家族を置いたまま出稼ぎに来ている人たちで、残業代が稼げることは素直に喜んでいたし、望んでもいました。
しかし運転手は、朝5時か6時頃から起きて仕事をしており、待ち時間などに十分な休憩も取っているはずだけれど、やはりその即交通事故につながるという仕事柄、無茶なハードスケジュールは嫌がりました。
夜中の2時や3時まで残業していると、当番の運転手が様子を伺いに来て、何時位までかかるか?とかもう先に帰ってもいいか?と尋ねてくる事がありました。
そんな時も元住さんは、「仕事の邪魔をするな!」とすごい剣幕で一喝して追い返すばかりでした。
彼は現地のスタッフ達から「Enemy(敵)」と呼ばれて嫌われていましたが、その反動で(?)私はとても慕われていました。

ここで、元住さんと私の、運転手に対する態度を比較してみます。

●元住さんの場合

深夜までであろうと最後まで待たせる。その間、運転手は車の運転席で仮眠。仕事が終わると、荷物をまとめて駐車場に出ていって車の窓を大きくノックし、運転手を叩き起こす。(運転手が驚いて飛び起きる様を見て喜んでいました。)そのまま車の後部座席に盛り込み、即発進させる。少し早目に退社しても、その場合は夕食に寄り道するので、結局帰りは深夜。運転手の対応が遅れると大激怒。後部座席では即いびきをかいて熟睡。

●私の場合(≒元住さんと私が一緒にいた場合)

あらかじめ運転手に予定時間を伝え、食事がまだなら食事に行かせる。深夜になりそうな時は先に帰らせてタクシーで帰宅。でも大体運転手は私の為なら自ら希望して残ってくれる。いざ帰る時も少し早めに電話をして「15分後に出る」とか伝えて、トイレに行ったりコーヒーを飲んだりする時間を与え、またそうするよう促す。車に乗る時に運転手の様子を見て、場合によっては助手席に乗り、寝ないで、必要に応じて運転手に話しかけ、且つ自分はさりげなく事故が起きても生き延びる確率の高い体勢を取る。


「先に帰っていいって言ったのに」「とんでもねぇ、待ってたんだ」


少し自分の身に置き換えて想像してみて下さい。
何時まで待てばいいのかも分からないまま、しかも車内で取る仮眠では、気休め程度の疲れしか取れません。
ましてや叩き起こされてすぐは寝ぼけていたりして、運転なんて危ないからしたくない。
少なくとも私はそう思います。

実際、運転手が居眠りしそうになる危ない場面が何度もありました。


なので、特に運転手への対応は、元住さんと一緒にいる時も、私は極力、私のやり方を通しました。
朝早い運転手について先に帰らせようと説得したり、場合によっては独断で先に帰らせて深夜に大叱責を受ける事もありました。
「運転手はお前の甘さにつけこんでサボってるだけだ!分かってるのか?バカ」と言っていました。

元住さんは、現地スタッフ達の事を、無能でさぼり癖がある上に言い訳ばかりする連中ばかり、としか思っておらず、だから自分(達)が厳しく躾けていかなければならないのだ、といった言葉を度々口にしていました。
彼自身は、勤勉な日本人を体現して外国人もあるべき方向へ導く自分、に誇りさえ持って胸を張っていましたが、私としては、彼を見た外国人たちに「これが日本人だ」と思われるのは嫌でした。
私の思う「日本人」に大切な、思いやりや気遣いが彼には欠けていると思ったからです。

私が体を張って守ったのは、スタッフの安全やモチベーションのみならず、出過ぎたようだけれど私なりの日本人としての誇りと、なにより私自身の命でした。

情けは人の為ならず。
あまり好きな言葉(言い方)ではありませんが、真実ではあります。


数ヵ月が過ぎ、

元住さんは隣国のカタールに異動になりました。
その後ほどなく私も長期出張が解け、日本に帰国。

9ヵ月間のアブダビ出張は、こんな、生きて帰るだけのレベルにまで努力を要するものでしたが、一方で客観的に言えば、仕事も生活も、特別な努力や工夫を必要とした大冒険だったわけではありません。
アブダビから帰国して会社で感想を聞かれた時、私は「異文化は楽しかったし、英語も意外とどうにかなったし、仕事は日本と特に変わらなかったけど、いい経験になって良かったです」と普通の笑顔で答えました。
本心でそう思っています。
但し、同じ条件に他の人が置かれた場合、心身にダメージを受けて帰ってくる確率は低くは無いとも思っている事は一言も言わなかったにも関わらず、私の笑顔は必要以上に何の苦労も無く帰ってきたように見えたらしく、一時期私は社内でターミネーターと呼ばれました。

さらにそれから1年後。

元住さんはカタールで交通事故により亡くなりました。
街中で飲食した後の深夜、遠い郊外の宿舎への帰路の途中、運転手が居眠りをして追突事故を起こし、後部座席に乗っていた2名(元住さんと当時の彼の直属部下)が即死したのです。
2人はシートベルトもせずに後部座席を目一杯倒して熟睡していたそうです。

・・・・。


そして、


その事故のすぐ後、亡くなった元住さん達の代わりの後任として、私が、急遽カタールの首都ドーハに赴任する事になったのでした。
このブログの初期のメインコンテンツ、ドーハ生活はこうして始まりました。



死人について悪く言う事は良くありません。
反論のすべが無いし、ましてや元住さんには残った妻子がいます。
それでも、私としては、この章については特に念入りに、言葉の棘を削り謙虚な表現を心掛けたつもりです。
奥さんと子供の事を思うと、この「地雷」が爆発しないでくれる事を願うばかりですが、この章の内容は私の中に積もったものを吐き出すにあたり避けて通れないエピソードでしたので、それはそれと割り切らせて頂きます。

「それはそれ」・・・この殺伐とした記事の中では度々出てくる言葉。
昔、私の妹(故人)がその言葉を「This is this. That is that.」と英語に直訳したものが地味に気に入っていて今でもたまに思い出します。


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【4.不正経理の件】


当記事中、公に出た場合に一番会社にダメージが大きいのがこの不正経理の件と思っています。
しかしあまり面白く書く自信が無いので、さくっといきましょう。

明るみに出た不正経理事件を組織ぐるみの更なる不正経理で小さく見せかけて片付けた話。


ちょっと前、とある都道府県の東側のある町で施工されていたAプロジェクト(仮名)で数年間に亘り不正経理が行われていたことが社内で明るみに出まして。
どういう不正経理かというと・・・、

前提として、長期間の工事は決算期で区切って、収支や出来高(要するに支払い)を精査して確定して計上していくんです。
そうする事で、規模(金額とか年数とか)が大きい工事の損益状況とかであっても割とリアルタイムに会社の業績に反映されるようになり、外部の第三者(投資家とか)の目から見てわかりやすくなる。

この問題のAプロジェクトでは、見込原価が予算を超過し、予定通りの収益を上げられない可能性が高まっていたにもかかわらず、下請業者への支払いを先延ばしにする事で収益悪化を隠していたのです。
社内では収益悪化に対して大変厳しいことから、プロジェクト発注者から追加の費用を貰えて最終的に予定通りの収益をあげられる、という可能性に賭けたようです。
結果的に上手くいきませんでした。
Aプロジェクトが終わりに近づいた頃、長きにわたり支払いを止められていた下請業者から会社に対して抗議の声が上がったのです。
社内調査が始まり、数年にも亘った『多額』の不正経理が明らかになりました。
私もその調査と処理の応援に駆り出されました。
まず関わった全下請業者へ未払いが無いか確認を行い、本来のAプロジェクト収益を確定させます。
そうした後、続いて、過去の会社の決算報告の修正といった手続きが発生してくるのですが、会社の決算報告というのは公認会計士の監査を受けて出されていますので、当然修正にあたってこの不正経理の問題は公認会計士の知るところとなります。
監査をした公認会計士は顔を潰されて、それは頭に来たようです。
しかも当時当社はこんな不正経理問題を数件立て続けに起こしていたので、そりゃもう公認会計士は激おこぷんぷん丸になったそうです。

で、公認会計士が作る監査報告書というものがあってですね。

我が社は、その年の監査報告書に「この会社の経理処理体制には問題がある」みたいな事を書かれそうになったわけです。

そう書かれると何が大変かというと、会社の税金申告の「青色申告」の承認が国税庁から取り消される可能性が高いということ。
青色申告とは、正しく帳簿の管理や税額を計算するという約束のもと、法人税額の特別控除や、損金算入方法等の特例を受ける事が出来る、という制度です。
今回の場合、そういう約束が守られていないという事になりますから、青色申告の承認取り消しになる(可能性が高い)という事です。
取り消される場合、過去にさかのぼって取り消されます。
そうすると、会社はかなりの額の追加の税金を支払う事になります。
会社がヤバい。

しかもそうなると、株主総会でも揉めるでしょうね。
さらにそんな諸々によって、会社の格付けも落ちるかも。
そうなったら、会社が運転資金を銀行から借りる時の利息率も悪くなります。
会社がヤバい。

以上は、私のようなあまり詳しくない人間が大雑把に説明しているので、厳密には正しくない記述があるかもしれませんが、大体合ってるはずです。

さて、この時は、今回で膿を出し切り再発防止を徹底するからと、公認会計士に必死で頭を下げて、監査報告書に「一言」を書かない形で許してもらえました。
大勢の社員が訓告などの処分を受けました。
ここまでは、確か社外秘だったとは思うけれど、社員なら全員知っていてもおかしくはない話。


この章の本題はここからです。


この時、会社にとってどれだけきわどい局面かという事を必死に社員に周知し、膿を出し切るよう社員に説いた管理部門の部長がいた一方で・・・・
発覚する膿を小さくしようとした工事施工部門の部長、新丸部長(仮名・役職は当時)がいたのです。
さきほど『多額』の不正経理が~とわざわざカッコ書きで書きましたが、実は明らかになった額よりももっと多額だったのです。
この項、書いていて飽きてきたので、続くこの事実と自分が知る事になった経緯を巻きでいきます。


Aプロジェクト事件の後片付けの後、私はとある転勤者の後任として別のこれまた大規模なBプロジェクトに着任しました。
というか、Bプロジェクトはそれはそれで色々と問題があったプロジェクトで、私以外の各担当者もほぼ全員入れ替わったという経緯があり、で、入れ替わった後で、収益状況の確認等の為に帳簿を数人で見返してみたら、Bプロジェクトには全く関わりのない下請業者への支払いの記録が複数件見つかりました。
支払いの名目も明らかに不自然。
そこで前任者に問い合わせてみたところ、実はそれらの支払いは、Aプロジェクトで下請業者に未払いとなっていた費用を、新丸部長(仮名)の指示によって、Bプロジェクトを含むその他複数のプロジェクトに振り分けられて代わりに支払いを行ったものであり、明るみに出たら非常にヤバいものであるからそっとしておいて欲しいと、その前任者から頼まれました。
なにそれマジヤバい。
私もそっとしておきたいのはやまやまだったのですが、なにぶんその支払いときたらいかにも不自然で、伝票も請求書も(その分だけが)ファイルされていない上に、当の業者からコピーを取り寄せてみれば「Aプロジェクト分」と明記されているしで、もう最低。
プロジェクト終了後に会計士とか税調とかの監査に当たれば、対応するのはこっち(私)なので、こういうことをするときはもっと上手くやって欲しいものです。
上司数人にこそっと相談したりしてー・・・全員追及に乗り気では無く、結局、そのまま放っておくことにしました。
証拠隠滅に手を貸して明るみになった時に一緒に処分されるのは嫌だし、明るみに出して多くの(社内の)人の恨みを買う必要もない。

私は、Bプロジェクト以外で支払いを分担した「その他のプロジェクト」を具体的には知りません。
ただ、Aプロジェクトの下請業者は、A4縦のExcelのリストで1枚びっしりになるくらいの数があり、Bプロジェクトの費用に紛れていたAプロジェクト分費用はそのうちの4社分の支払いのみ。
内訳は、東京に本社がある会社が1社、埼玉本社が2社、千葉本社が1社。
金額はこの4社分合わせてたったの200万円弱。
仮にこれだけだとすると、私個人としては、リスクに対して金額(リターン)が少な過ぎるように感じるので、「その他のプロジェクト」が存在するという前任者の話はほぼ間違・・・、いえ、私の想像や推察に過ぎない話はこの記事中には書かないようにしているので、それ以上は言いません。


そもそもAプロジェクトでそれだけの数の下請業者が支払いを止められていてなぜもっと早く問題にならなかったかというと、まぁ、この業界(というか少なくともこの会社)では「飛ばし」・「預け」というものが割と稀によくある話で。
「このプロジェクト、採算悪くて予算もこれしかないからこれだけしか払えないけど、俺の次の担当プロジェクトでその分上乗せして必ず支払うからさ!頼むよ!」これが飛ばし。
「このプロジェクト、予算余ってるから100万円多く支払っておくからさ、次に採算が苦しいプロジェクトが出た時に100万円分タダで仕事請けてよ!な!」これが預け。
基本的にどちらも長い付き合いのある下請会社との間で行われる不正行為です。
これが、上の人によって「勝手に」「適度に」「うまいこと」行われている分には、皆がWIN-WINな状態で私としても仕事がしやすくなるので、個人的には問題視していません。
その為、実例を挙げる気もありません。
しかしこの不況のご時世、そんな信頼関係(?)が破綻して問題が表面化する事があります。
このAプロジェクトのように。


更にこの地雷記事によってか、脇が甘いから普通の会計士とか国税庁の監査とかでどこかから普通に発覚するかもしれないけど、この不正経理事件の処理に不正経理を重ねた件が表面化するとどうなるでしょう?
前は際どいところで大事になることを防げたようですが、さて。


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ちょっと殺伐とした話が続きました。
コーヒーでも一杯いかが?
これで、この文章全体の2分の1が過ぎて、残り半分といったところです。
素人がこんな長文を書いて申し訳ありません。
次の章では、何の告発でもない内容で、軽~く、短く、一息つきたいと思います。





【5.仮面なんて飾りです、偉い人にはそれがわからんのですよ】


この記事に出てくる各出来事の合間にも、色々な事がありました。
転勤を繰り返し今は福岡にいます。
10年超の会社勤めの間には、ひどいパワハラは何度も受けたし、不正もたくさん目にしてきた、最近は通勤費も満足に支給されない姑息な経費削減も行われる、残業もひどい時には本当にひどくて200時間以上の残業が連続した月もあったし、そのままだと36協定とか何かの法律だとかに違反するからサービス残業も勿論ありました。
月に200時間以上の残業なんて物理的に可能なのか?と思う人がいるかもしれませんが、例えば、本来週休2日だけど、毎日朝8時から夜24時まで週6日(月25日)働けば、残業時間は月に200時間を超えるんです。
そういった事のせいで割に合わないという印象はあるにしても、月給で世間相場と比べてみれば収入は割と多くて勝ち組の部類に入るし、全ての部署が(常に)こうというわけではありません。
無能な私がこの収入を安定して得るのは、いまどき他会社ではなかなか難しい事です。
大手の会社ということによる世間への信用力もプライスレスな価値があります。
そんな事は分かっています。
だから私はこの会社を厳密にはブラック会社だとは思っていません。
真っ当に働いている社員たちのことを思い、今この福岡で自分に信頼や期待をしてくれている同僚の事を思い、その上でもしこの地雷が爆発したらと考えると、大変に申し訳ない気持ちにもなります。

しかし昨年(2013年)の春、とんでもないパワハラ地獄の果てに遠い福岡へと追い払われた時の怒りときたら、もうスーパーサイヤ人に変身できそうなくらいでした。
もっと一般的に例えれば、ガンジーでも助走付けて殴るレベル。

この記事は、もともと1年ちょっと前、2012年12月クリスマスにアップされる予定で誕生しました。
ガンジーがまだ助走を始める前です。

この後の章は、この記事の誕生から今日の公開に至るまでの話です。

パワハラ地獄の中で会社に見切りをつけこの記事の初稿が生まれた話(1年前)が、次の【6】章。
公開を決意し、更に1年かけて記事の改稿を重ねるに至った経緯が、続く【7】章。
【8】章で締め。


昨年(2013年)は、ブラック企業という言葉にだいぶ光が当たった年でした。
また「倍返し」なんて言葉も流行りました。
自分もそんな流行に乗って、地雷(記事)というおもてなしでここに仮名で登場する人達に倍返ししてじぇじぇじぇと言わせたい、ってわけじゃないのですが、そんな時流と、自分が持つネタの鮮度や公私のタイミングを考えると、当記事をアップするのはまさに今でしょ!と感じています。

ところで、そんな経緯とは無関係に、福岡自体は良い街です。
けっこう楽しんでいる記事を当ブログに載せさせて頂いている通りです。


おや、いけない。
軽い話でコーヒーでも一杯いかが?と言ってこの章を始めたのでしたね。

白黒つけないカフェオーレ♪という歌が流れる、去年(2013年)のカフェオレのTVCMが何となく好きでした。

)


白黒で言えば、社内で明るみに出た不正経理については社外秘だったはずだし、会社や社員に対して批判的な記事を、こんな公開されたブログに晒すのは「黒」です。
普通に会社の懲戒対象になる行為ですね。

で?っていう。



このブログは、今、日々60位のアクセスを頂いています。
「ドバイ 風俗」とか、「海外赴任 給料」とか、「スキューバダイビング 事故」とかの検索キーワードで辿り着かれる方が多いようです。
最近では、「映画サプライズ ネタバレ」も人気です。
ふと気付くと、その記事のfacebookいいね!クリック数が500を超えていて驚きました。
また、つい先日にはトータルアクセスが10万を超えました。皆様、有難うございました。
小さく辺鄙なブログですが、今後とも何かの時にちょっと役立てるような情報を、なるべく楽しく地道に提供していけたらと思っています。

ブログと言えば、

私は【2】章に、「このブログのURLも人事ファイルに載ってるんじゃないか」と書きました。

そう思っている根拠は、数年前、転勤してきた私の歓迎会の席で、トップの部長が酔って笑いながら私について漏らした一言です。

「コイツ変な奴なんだよ、仮面被ったりするんだよw」

居酒屋の少し大きめなテーブルを囲んで8人くらいで飲んでいましたっけ。
各自だいぶ酒が進んできて場も盛り上がっているところでしたが、その言葉の直後に皆の間に「ん?」というような空気が流れ、すかさず部長は笑いながら話題を変え、皆(私含む)もそのほんの一瞬の空気を見事に読んで、奇妙な一言などスルーして大笑いしながら次の話題に飛びついて行きました。
周りの社員達は空気を読んだだけで「部長が何か言い間違いをしたみたいだけど、突っ込まない方が良いっぽい」という程度の理解だったのだと思いますが、私にはこの部長が何を言ったのかが分かりました。
彼は私のブログを読んだという事です。

そうそう、ダースベイダーのマスクを被って遊んでいた時期がありましたっけ。(笑)
楽しんでいただけた方の方が多いと信じたいところですが、その節に御不快に思われた方、申し訳ありませんでした。

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って、そうじゃない。

そうじゃなくて、誰だろうとブログを読んで頂くのは一向に構わないのだけれど、なぜ新しく来たばかりの部署の部長が私のブログについて知っていて、しかも過去記事まで遡って読み込み済みなのか?という疑問が大事なところです。

もともとこのブログは、前身として海外勤務の近況報告をSNSに載せた所から始まっており、その頃は、後から赴任してくる社員数人に現地の様子を知る参考の一つとしてURLを教えたり、友達登録をし合ったりしていましたが、その後、帰国してSNSを辞めてブログに移転してからは、会社関係者にブログについて教えた事はありません。
SNSの記事を読んでくれていた社員の方数名が、検索で簡単にこのブログを見つけたようでしたが、めったに更新されず大した内容も無いような時期が長く続いたので、もうここをチェックしてる会社関係者はいないだろう・・・なんて思っていたのですけれども。
この部長とブログの存在を知る社員達との間に、このレベルの気軽な情報交換が行われるほどの繋がりがあるようには見えません。
ということで、私は、部長の情報源となったのは人事ファイルだと推察しています。
父親についてとかの個人情報等が書かれているファイルです。
部長は、転入者についての人事ファイルを持っているはず。
会社は社用各パソコンの外部サイトへのアクセス状況もチェックしていますし、twitterでのバイトテロだのが起きるこのご時世に、会社のリスク管理の一環として、個人のSNS等利用の有無も人事ファイルに記録されていてもおかしくありません。

まぁ、つまり何が言いたいかというと、
私は今、この記事を当社社員が(誰かは知らないけれど、誰かが)必ず見ると想定して書いています、という事です。



コーヒーは飲み終わりましたか?

話を最後まで進めましょう。


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【6.直ちに影響のあるパワハラ。そして嵐】


最悪だったパワハラ地獄の中で会社に見切りをつけこの記事の初稿が誕生した話。


Cプロジェクト(仮名)という、特殊づくめの大きなプロジェクトがありました。

そこはそれ故に苦労が多く、発注者も付き合いの大変難しい方だったし、作る建物も大変特殊、工事の反対運動も起きて有象無象の議員やら何やらが外野からちょっかいを出してきました。
しかし会社としては、これを無事完遂しなければなりません。
そこで、会社は、プロジェクト責任者として倉山所長(仮名)を送り込みました。
強引なまでにパワフルにプロジェクトを推し進められる人として。
最凶のパワハラを振るう人を。
そして地獄が幕を開けました。

この時のものと比べれば【3】章に出てきた元住さんのパワハラなんか児戯レベル。
Cプロジェクト(仮称)で出くわしたパワハラは本物でした。
今後どこをどう歩んでも、あれを超えるパワハラにはお目にかかれないはず、と信じています。
(超えなくても、並ぶものなら意外と良くあるのかもしれない、と今はそんな気がしないでもない)


倉山所長のパワハラは、簡単に言えばこんな感じでした。

強引な指示に部下を無理やり従わせてやらせるけれど、その指示内容は途中から最後までコロコロ変わり(180度変わる事も)、指示通りにやっても指示通りでは無くてもその結果は全て「部下が勝手にやった失敗」と見做されて、部下は人格を全否定されるような物凄い罵声を浴びる。
外部に対して客観的な結果が、良ければ自分の手柄、悪ければ部下の責任。

なぜか倉山所長の言葉はいちいち、かなり心に来ます。悪い意味で。
あれは一つの才能だと思います・・・

倉山所長は、以前に自分が出した指示と今言っている事が違うなんて事は絶対に認めません。
間違えも認めず、常に自分が正しいと信じています。
例え書面に残っていても。
例えICレコーダーに録音が残っていても。
記憶改竄能力どころではない・・・何かその点も一つの才能だと思います・・・

強引な方針に振り回された挙句、どうせ何をしても罵声を浴びて怒られるので、部下は間もなく、倉山所長のその時々の方針に従いつつ自分の職務としてやるべきと思った事をするだけのマシーンになります。
このプロジェクト作業所には常時10名強の社員がいましたが、どの社員も普通でいられるのはせいぜい3ヵ月。
赴任してから3ヵ月経てば、その顔からは表情が無くなりました。
次席(副責任者)の場合は、どの人も、赴任から半年を過ぎると、なりふり構わずに会社に他のプロジェクトへの異動を直訴しました。
異動出来た人もいるし、会社に来なくなった人もいたし、プロジェクト内で次席ポジションからは外れられた人もいました。
若手社員の場合も、会社に対して、事あるごとに他のプロジェクトへの異動を訴えましたがその願いは聞き入れられないので、会社を辞めようとする若手社員が続出しました。
実際に辞めた人もいるし、会社に来なくなった人もいたし、他支店(地元)への異動で会社に残った人もいました。

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倉山所長の下でのそんな有様はこのCプロジェクトに始まった事ではないし、何でもかんでも部下の責任で済むわけも無く、大勢の部下たちからの訴えもあって(受けたパワハラリストを作って会社に提出した者も)、会社は倉山所長が問題のある人物である事は知っていました。
しかし、所長を他部署へ異動させようという意見も出てはいたものの、結論としては、会社は、発注者の意向と印象を考慮して、所長はもちろん、担当社員の交代にもまず応じようとしなかったのです。
複数のいい大人が涙まで流して窮状を訴えても、「本当に無理になったらまた言ってくれ」が会社側の決まり文句でした。
「本当に無理」って、「診断書を持ってこい」という意味でしょうか?

Cプロジェクト終盤で激務がより一層ひどくなってきた頃には、社員は、せめて応援社員を派遣して欲しいと会社に訴え続けました。
応援社員が来なければCプロジェクトの完遂も危うく、そうなれば発注者への印象も悪いどころでは無くなるはずだ、という切羽詰った訴えでしたが、それに対しても会社は「応援に出せる社員はいないから、なんとか頑張ってくれ」というだけでした。
実際には、会社は他プロジェクトに応援社員派遣の打診はしてくれてはいましたが、全社的にどのプロジェクトも人手が足りていない状態でしたし(今もそう)、その上、他プロジェクトの所長が、倉山所長の下に自分の部下を出すとその部下を潰されるのではないかと恐れて応援に出したがらなかったのです。

あげくに会社は、まぁこれはどの会社もそうだと思いますが、特殊な社内手続きには及び腰で、そんな事にも非協力的だった為、Cプロジェクト所員達にとって会社は味方ではありませんでした。
敵の数は一桁多いのに、自分達以外どこにも味方がいない、見捨てられたような状況でした。



3.11の震災と、その後の福島の原発事故は、そのCプロジェクトの最中の出来事でした。

原発のニュースがまだ世間の注目を集めていた頃、倉山所長が出張で不在なのを見計らって、会社から部長がCプロジェクト所員の面接をしにやって来ました。
実際に助けてくれるわけじゃないけれど、心配してくれてはいたのです。
その面接時、当時の次席が言った忘れられない一言があります。

次席 「残る人にしわ寄せがいくのは申し訳ないけれど、私はもう駄目です。全く仕事にも手が付きません。社内での私の人事評価がどうなろうと構わないから、兎に角、ここにだけはもういられません。異動させて下さい。」

部長 「でもなぁ、異動といっても、今急に異動出来る先は、福島原発のがれき処理くらいしか無いぞ?」

次席 「放射能の方がマシです!」

彼は大真面目に力強く断言しました。
当時世間で失笑を買っていた、放射能についての“直ちに健康に影響は無い”という言葉を踏まえての言葉でした。
ここのパワハラは誰であろうと直ちに心身に重大な影響を与える、という意味です。
我々から見ても、彼はもう、病むギリギリの限界に見えました。
席に座ったまま、無表情で机上を眺めたまま長時間ピクリとも動かない姿が、度々見受けられました。

彼はその少し後、実際に、福島にこそ行きませんでしたが茨城の除染作業へ異動していきました。

その名言、というか出来事は、Cプロジェクト所員の中で伝説となりました。
それ以降、所員の中で、倉山所長の机は「爆心地」と呼ばれ、所長に怒られる事は「被曝」と呼ばれました。
受けたダメージは、積もるばかりで癒えて無くなったりするようなものではありませんでしたし。
不謹慎、という非難はしないで頂きたい。


さて、他の人の話ばかりしましたが、私自身はどうだったかというと、

私はだいぶ長持ちしました。
初任者の後をついでの途中登板で、ほぼ未経験の業務のデビュー戦でしたが、そこから2年半、Cプロジェクトの最後まで完走しました。
倉山所長の下で働いた期間では、社内最長記録なのではないでしょうか。
そしてその間、私は一度も異動を希望しませんでした。
他のCプロジェクト所員からは、「俺が独身だったらこの状況に置かれたら絶対に会社を辞めてるのに、なんでお前は辞めないでいられるんだ?」と不思議がられました。
生来の負けず嫌いが私を支えていましたし、他の社員の心身健康の維持に努めるのも自分の職務の一つであり自分自身が率先して弱音を吐いて良い立場では無かったからです。
しかし無事だったわけではありません。
辛かったです。
「爆心地」から一番近い(目の前の)席だった為、誰が怒られていても、自分も一緒に怒られているような気分でした。
着任して2年たって、激務がより激務になっていった頃からは、体調に異変が出ていました。
お腹のあたりの筋肉がこわばった感じが続いたり。
食事がのどを通らず、よく喉に詰まってはトイレに駆け込んで吐き出していました。
朝出社しようとしてお腹が痛くなった事も一度あったし、疲れすぎて全く頭が働かなくなった時もありました。
表情も乏しくなっていったそうです。
私としては全て初体験でしたが、あぁ、これが皆が味わってきた症状か、と思いましたね。
白髪が何本か出てきたのは、まぁ、ただ歳のせいかも。

最後の数ヵ月を支えたのは、「このCプロジェクトだけはやり遂げる、そして終わったら会社を辞める」という決意でした。
それをモチベーションとして、もう少し先にまで来ていたゴールに向かって、やけくそになりながら働き続けただけです。

ゴール(竣工&決算)に至った時、Cプロジェクト所員は3~4人しか残っていませんでした。
その前の段階で、所員は随時他のプロジェクトへ異動していきました。
先ほども書いた通り、全社的に人手不足なのです。
生き延びて栄転していく彼らを戦友のように感じていましたが、忙し過ぎたので、そのほとんどに送別会を開く事も出来ませんでした。
どうにか開催しても、肝心の主賓が出席できない事が多い異常事態でした。
それでも、去っていく彼らは、去れるという事実だけでとても幸せそうでした。
「むしろ残る人の為に壮行会を開いてやるよ」なんて言って笑っていましたっけ。


この記事の初稿を書いたのは、体調に異変が生じ、終わったら会社を辞めると決意した頃です。
すっかり会社に失望していました。

2012年クリスマス公開を目指して、休みの数日をかけて書き上げました。

立つ鳥跡を吹っ飛ばす。
ああいう状況で誰でも考えそうなことを考えただけだと思います。

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会社への失望は、単に自分たちが見捨てられ使い捨てられようとした事に対するものではありませんでした。

Cプロジェクトにいた社員同士でよく話していた事ですが、そうされた立場から会社全体の状況を見ると、会社が大変危機的な状況にあるようにしか見えなかったのです。
簡単に言えば、いくら倉山所長のパワハラがあるとは言え、あそこまで危機に瀕している場所に応援社員を回せない会社の状況って?という事です。
全社的に社員不足が続いている事は社員全員が知っている事ですが、我々の目には、それがもう会社として危機的なレベルであるように映りました。

この会社は、効率化や利益率のアップを求めて、社員の削減を進めてきました。
私が入社した時と比べて、社員数は2割も減っています。
別な事実として、全国的に品質の深刻なクレームや作業員の怪我や死亡事故が頻発しており、にも関わらずその再発を止めることも出来ていません。
皆が日々を乗り切るだけで忙殺されて、各社員の技術力等もあきらかに落ちてきています。
負のスパイラルといったところ。
「この状況では、いい品質も、いい教育も、いい利益もあり得ない」というボヤきは少し前の上司の言葉ですが、よく的を射ていると思います。
同じ趣旨の言葉は、色々な社員の口から、色々な場所で(福岡支店に来てからも)聞かれます。
会社全体がこんな流れにいて、場当たり的に火を噴いた場所の火消をして右往左往しているだけで、将来へのビジョンが何かあるようには見えません。

これでは、仮にこれから景気が良くなってきたとしても、会社にはその波に乗る体力は残っていないのではないでしょうか?
東日本大震災からの復旧・復興事業、国土強靭化、2020年東京オリンピック開催、etc・・・。
それに向けて今からいくら新卒や中途採用で社員数の拡充を図ろうと頑張ったところで、焼け石に水ではないかという気がします。

っていうか、この会社、数年後にまだ存続していられるの?


会社に未来が無いとしたら、自分たちが忙しさに振り回されながら踏ん張る意味は何だろう?


上層部が自分の任期だけやり過ごしてツケは全部後に回して勝ち逃げをする、その手伝いをしているだけでは?
少し高めの給料というエサにしがみついて、この会社は潰れる事は無いだろうと慢心して、もうすぐ完全に行き詰るまでただ心身を削るという愚行を犯しているだけ?

そう思った時、私は、会社への愛想と仕事へのモチベーションの一切を失いました。

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もともとの初稿に、こんな記述がありました。
『しかしながら、それで自分はいったい何をしようとしているのかと言うと、えーと、よく映画とかで、悪いグループでそのボスの力や威光が薄れてくると裏切ってグループを抜けるヤツが出たりするじゃないですか。
まぁ、そんな感じです。
特に深い思慮や策略など無く、ただ、気に食わないやつをぶん殴っちゃおう、と。それだけ!』

つまるところ、ここまで挙げてきた裏金とか不正経理とか着服とかちょっとばかりの暴言やパンチなんかは、私個人としては特段気にしてなどいなかったのです、―あぁ、着服の話はまだしていませんでしたか。それはそれとして、しかし、自分たちを食い物にしての上層部の勝ち逃げなんて許せない。
「家族がいるから仕事をやめるわけにもいかない」と泣き寝入りする人を大勢見た中で、私が独身で、しかも会社をぶん殴る材料を持っている唯一(?)の社員とあらば、これはもう、やるのが自分の義務ではないかとすら思う気持ちがありました。
別に誰に頼まれたわけでもなく、むしろそんな事をされても皆にとって迷惑でしかなかっただろうと思いますが・・・。

この時(今も)、会社を潰してやろうと思っていたわけではありません。
どのみち、私が持っている材料程度では、全て爆発したとしても会社は揺らぎもしないでしょう。
ただ、部下を食い物にするような連中の顔を張り飛ばしてやりたい、そう思っていただけです。

「このCプロジェクトだけはやり遂げる、そして終わったら会社を辞める」という一念が私の支えだったと書きましたが、今思えば、それに加えて、「これが終わったらあいつらをぶん殴ることが出来る」と思う事にも希望を見出していたのでした。
実際、これの初稿を書いていた時、最終的に本当に公開するつもりだったかどうかは、自分でもよく分かりません。

Cプロジェクトは2012年末に終了予定でしたが、クリスマスが近付いた頃、工期が延長されて、年をまたぐ事になりました。
2012年クリスマスの朝にこの記事(初稿)を公開する予定でしたが、長期にわたり地獄に耐えて来たのに、残りわずかというところまで来て今更仕事を放り投げるなんて勿体無くてとても出来ないと思いましたし、どうせその時点の文章は粗削り過ぎて自爆するのがせいぜいの恥ずかしい代物でした。
そこで、記事の公開は見送り、何はともあれCプロジェクトだけはやり遂げるという些細な意地に殉じてやろう、と改めて自分を奮い立たせたのでした。


現在公開中の記事のURLは、2012年のクリスマスを挟んで番号が一つ飛んでいます。
ブログの記事のURLは作成順に連番で付いていくものです。
その欠番の直前、2012年12月22日の記事、、『ダークナイト・ライジング The Dark Knight Rises のお節介な解説』の冒頭が「嵐が来るわよ、ミスター・ウェイン」というセリフを引用した件(くだり)であるのは当記事が次に控えていた名残です。



理由はどうあれ一度は公開を見送ったこの記事を、1年かけて更新して2013年クリスマスに公開すると決意したのは、それから間もなくの事でした。


1219776705944.jpg クリリンのことか





【7.ガンジー2 怒りのパプアニューギニア】


この会社では、勤続満10年を迎えるとリフレッシュ休暇という休暇を取得する権利が得られます。
最長2週間(土日祝日込み)まで休めて、分割取得は不可です。
その休暇の権利期間は2年間(入社11年目と12年目の間)で、その期間中に取得しなければ権利がただ消滅してしまいます。

私のこの権利期間の2年間は、ちょうど上の【6】章の厳しい2年間と重なってしまいました。

その間も、正月とゴールデンウィークとお盆の長期休暇は半ば強引に確保しては、海外の南の島へ脱出してスキューバダイビング一人旅を繰り返していましたが、毎度直前まで旅行がキャンセルになるか否かギリギリの戦いでした。
1日くらいの休みを取れる時期や機会はありましたが、普通の有給ならともかく、せっかくの勤続10年祝いで最長2週間休めるリフレッシュ休暇については、その権利をたった1日のどうでもいい平日休みの為に使ってパーになんかしたくないじゃないですか。
ましてやあのパワハラ地獄の最中。
12月にCプロジェクトが終われば、権利消滅までの3ヵ月間に、そう、特に休めそうな2月位にリフレッシュ休暇を目一杯取ろう!


でも結局、


休暇を取れなかった挙句、上司によって、休んでもいない平日の一日についてリフレッシュ休暇として休んだ事にさせられて(会社に取得完了の報告をさせられて)、私のリフレッシュ休暇はそれでお終い。
更にそれに続いたオチで、私は本格的にダークサイドに堕ちたのでした。

たったそれだけ、個人的な怒りが大きいだけのパートなので文字数を費やして書いていきますが、流し読みで差し支えありません。

ここからは時系列順に書いていきます。



●2013年3月


先述の通り、Cプロジェクトが終わった後(2012年12月末の後)で休暇を取ろうと思っていたけれど、結局、プロジェクトの工期はずるずると引き伸ばされて年を越え、応援社員増員も相変わらず無く、繁忙度がうなぎ上りに極まっていきながらもどうにかCプロジェクトを完成して、更に月末(期末)の決算報告に向けてボロボロな状態の自身達に鞭を打ってラストスパートをしていた3月。

そんな頃、私は上司の白楽室長(仮名)に呼び出されました。

白楽室長は、2012年末頃に新しい室長として転勤で交代で赴任してきました。
「気に入らない部下は追い詰めた挙句潰す男」との評判が多方面から聞こえてきていましたが、あまり気にしていませんでした。
そんな余裕は無かったし、会社も間もなく辞めるつもりでいたからです。
白楽室長が細かな書類の書き方やルール厳守に強くこだわる融通の利かないタイプである事は、彼の赴任後すぐから察していましたが(そういう人も会社には必要)、私は、異例づくめで既に修羅場になっているCプロジェクトについては、白楽室長のそんな嗜好に配慮したやり方で仕事をする余裕が無く、プロジェクト完遂を最優先と割り切った(強引な)仕事の進め方をしました。
もちろん、白楽室長から不評を買うのは百も承知で、来年の人事評価点が悪くなる事は覚悟の上でした。

白楽室長とは短い付き合いでしたが、お互い馬が合いませんでしたね。
彼は、ちゃんと細かく表や書類を作って管理していけば問題は起きない、と主張していましたが、私に言わせればそれは平時の時の事であり、そうしていれば「問題は起きない」のではなく「問題が起きた時に自分に責任が及ばない」だけの事であるという考えでした。
私が失敗すると彼も困る、というか会社が困るはずなのですが、正直、足を引っ張られていたというのが私の感想です。
しかし上司は上司ですし。
白楽室長は説明書類の作成等を次々と命じてくるようになり、私はますます余裕を失っていく悪循環が起きましたが、言い分は兎も角、それを引き起こした責任の一端が私自身にある事は理解しています。

結果的には、Cプロジェクトは会社から表彰を受けるほどの成功を収めました。
が、その結果に至るまでの経緯は・・・詳しくは書けませんが、異例を異常にねじ伏せる、サラリーマンとしてはあり得ないようなストーリーがあります。
私は仕事を辞めるつもりでいたのをいいことに、捨て身の綱渡りをしたのです。
成功に辿り着くためのたった一つのやり方だったと、今でも信じています。

最後に私が東京で出席した会議で、白楽室長からCプロジェクトを総括しての感想を尋ねられた時、私は「結果オーライです。」と答えました。
半分冗談だったし、会議の場がドッと明るく湧いたのですが、白楽室長が最も嫌いそうなその言葉に、彼は怒りに震えたのではないでしょうか。


さて、3月中頃に白楽室長に呼び出された時に、話を戻します。


「お前、リフレッシュ休暇はどう取るつもりだ?」

忙し過ぎて業務に支障が出てるからと増員を頼んだのに、それを断ってそのまま放っておきながら、いったいこの人は何を言うのかと思いましたが、まぁ、上司として部下の適正な休暇取得を促すのも彼の仕事のひとつですしね、特に気にせず、ただ実際問題、Cプロジェクトはクライマックスに突入していましたので、「休暇は取れそうもありません。仕方ないのであきらめます」と答えました。
「仕方ないじゃ済まないんだよ!」といきなり不機嫌になる白楽室長。
「でも取れませんよ・・・」
結局、その場で、普通に働いていた平日の1日を、リフレッシュ休暇で休んだ事にさせられました。
休むどころか、一週間職場に泊まり込み、床に段ボールを敷いて寝るわずかな仮眠のみでボロボロに働きづめていた頃です。
会社は各休暇の取得率を結構気にしており、休暇未取得で終わった部下を出す事は、白楽室長の人事評価に良くない影響があるんですね。
どうせ休暇取得をあきらめていたし、「だから申し訳ないけど頼む」みたいな態度だったらまだ理解したはずですが、横柄に命じたその態度が私の癇に障りました。
その怒りはなかなか治まりませんでした。


その後日、「4月12日に決算慰労会をやります」という通知が会社から届きました。
私は欠席の旨をメールでさっさと返信しました。
ずっと業務多忙の為に、歓送迎会や忘年会、新年会などにことごとく全く出席できていなかったのですが、さらにリフレッシュ休暇まで悲しい潰れ方をしたこの流れで、決算慰労会なんて全く出る気になれなかったのです。
不貞腐れていただけという事は否定しませんが、どう考えても、そんなものに出て白楽室長と「お疲れ様でした~」と作り笑顔で乾杯する暇があるなら早く帰る方がマシ、としか思えませんでした。

しかし、この時の飲み会については、先輩社員を通じて「どうしても出れないのか?」と何度も問い合わせが入りました。
これまで欠席してきた飲み会では無かった事です。
なぜ白楽室長が私の出席にこだわるのか?と疑問に思ったものですが、頑なに断り続けました。


●2013年3月28日(木)

Cプロジェクトのゴールが見えてきつつ、襲いくる大どんでん返しと更に格闘を続けていた3月末。
白楽室長から電話が入りました。

「お前、リフレッシュ休暇休めなかったし、4月15日(月)~19日(金)の5日間で節目休暇を取りなさい」

節目休暇とは、異動で引っ越しが必要な時や担当プロジェクトの節目などに、最大5日間(各年度に1回まで)の休暇を取得できるという制度です。
4月に新年度になって早々、その年度の節目休暇の権利を、希望無視の一方的な日付指定で使わされるって何なの・・・・とは思ったけど、それで不機嫌になっても得は無いし、休みは欲しかったので有難くその休暇を取る事にしました。
それはそれ。
わーい、前後の土日も付けると、4月13日~21日の9連休だ!
休暇までわずか2週間弱。
せっかくだから海外旅行、しかもどこか珍しいところへ、と思って探して決めたのがパプアニューギニアだったわけですが、4,5日で行先決定から旅行代金振り込みまでしなきゃならなかったのが、ちょっと大変でした。


●4月初め

Cプロジェクトがめでたく一段落した4月初め。
倉山所長(パワハラの人)は、Cプロジェクト完了と共に実質的に所長を解任され、他部署へ異動していきました。

報告書の提出などの為に支店に出向いた私に、白楽室長が声を掛けてきました。


白楽室長 「そういえば休暇はどっか旅行とか行くのか?」
私 「えぇ、パプアニューギニアに行こうと思ってます」
白楽室長 「何しに行くんだ(笑)。1人か?で、やっぱり、4月12日の決算慰労会には参加できないのか?」
私 「残念ながら、4月12日の夜の便で旅行に発とうと思っていますので、すいません。」
白楽室長 「今回苦労したお前には何とか参加して欲しいんだけどなぁ」


やっぱり妙にしつこいな、と思ったわずかな違和感が、まさかの展開として襲いくるのはまだ後日の話。


インドネシア(ラヤンラヤン環礁)の空きも問い合わせたりしたけど満室だったので、旅行先はパプアニューギニアに決定。
さらに、この旅行を機に一眼デジカメも導入する事にして、出発までにその一式も購入して。
水中撮影用の機材も合わせた金額は、安い軽自動車なら新車で買える位の値段になり、かなり思い切った買い物でした。
器材一式の納品がパプアニューギニア旅行出発直前に間に合うことを確認して、支払いまで済ませた翌日。
●4月5日、金曜日。

この日の昼、旅行費用も旅行代理店にネットバンキングで振込みました。
これで手配と支払いは全て完了です。

そして夕方。
もうすぐ縮小するCプロジェクトの小さな事務所の片付けをしていた私のもとに、また白楽室長からTELが。
「ちょっと今から支店に来れる?」

こういう呼び出され方をする時というのは、大体異動の話とかをされるものなんですけど、まぁ、この時の私の場合は、ちょうどCプロジェクトの次の担当プロジェクトがまだ決まっていない状況だったので、その話かと思ってあまり心構えずに会社に向かいました。
そこで
いきなり
「もう決まっている事なんだけど、」と前置きされてから告げられたのが、5/1からの九州転勤でした。

白楽室長 「急だろうけど、どう思う?」

私 「どう・・・というか・・・、正直驚きましたが、まぁ、もう決まっている事なら仕方が無いですね。転勤出来ない理由もありませんし。」

白楽室長 「福岡支店で心を病んで働けなくなった社員が出てな、社員が多い東京支店に福岡支店からその補充要員を出して欲しいって依頼が来てたから、俺がお前の名前を挙げたら、お前が行くことに決まったんだよ。」

( ゚д゚)

え?そういう事をそんな風に正直に本人に向かって言う??
俺(白楽室長)がお前(私)の名前を挙げた、って・・・。
他に転勤待ちの社員が大勢いる中、それを差し置いてまだまだ転勤のタイミングでは無かった私を指名という事は、つまり、嫌いな部下(私)を厄介払いしたという以外に解釈出来ないんですが?

っていうか、5月1日(水)に九州に出勤するとなると、休暇を除けばあと2週間しか無いんですけど!
Cプロジェクトの残り仕事の片付けや引継ぎと引っ越しをたった2週間でやれと?
休暇を取ってる場合じゃないってこと?
むしろ、白楽室長は「休暇を取るな」って暗に言ってるの!?「旅行に行けるもんなら行ってみろ」って言ってるの!?

白楽室長 「ところで12日の飲み会は、お前の送別会って事になるんだが、それなら来てくれるよな?

私の心の声↓
12日の夜の便で旅行に発つってお前には言ったよな?(嘘だけど)
それなら、だと?
面白いやつだな、気に入った、お前を殺すのは最後にしてやる。
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実際の発言↓
「それなら・・・出ないわけにはいきませんね。」
OK!
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貴様、この休暇を節目休暇(転勤や異動の節目に取得する為の休暇)として取得するように命じた時点で、この転勤を決めてただろ?いや、質問じゃない。決まってたんだ。
この会社では、転勤の社内手続きには、本人に内々で通知されるまでと、社内に正式に公表されるまでに、それぞれ長い日数がかかるのです。
人事評価点どころか、まさかこんな仕打ちを受けるとは。
怒る余裕も無く呆然としましたね。

クビも覚悟で仕事をしていたという割には、転勤ごときで動揺し過ぎだと思いますか?

転勤は確かに全くの予想外でしたが、同じくらい予想外だったのがそのやり方です。
いくらなんでも、仮にも管理職の人間が、部下を転勤(左遷)させるにしてもここまでゲスいやり方をするとは・・・他にいくらでも社交辞令的なやり方があるだろうに、と。
一応私もこの時、肩書きだけは管理職でしたし、その前の海外勤務ではManager(管理職)の肩書きとそれなりの数の部下を持って仕事をした事のある身です。
この時の私の気持ちは、うーん、「枕元を這うゴキブリを見つけた時の気分」に例えれば簡潔で分かりやすいかもしれません。

ともあれ、この展開により、自分の身の振り方について仕切りなおす必要が生じました。
節目休暇を何としても予定通り取ると決めるのには時間を要しませんでしたが、「4月中旬の休暇後に会社に辞意を伝え、仕事の後片付けと有給休暇消化の間に転職活動をし、6月にボーナスまで受け取ってから退職出来ればベスト」と思い描いていた流れは白紙に戻りました。
そろそろ嫁も見つけたい年頃という私的な面や、この記事の初稿の扱いとかも含めて、短い時間で色々と考えました。


●4月12日の飲み会 当日の話

パプアニューギニア旅行に発つ前夜。
会社近くのレストランの宴会部屋で、立食スタイルの飲み会『決算慰労会兼私の送別会』が行われました。
白楽室長以下の社員に加えて、上の部長達まで呼んでいて、40人はいたでしょうか、なかなか大々的な会でした。
年に1回か2回しか行われない規模です。
昔は中規模な飲み会も頻繁にありましたが、最近ではそれはほとんど無くなっており、集まった顔ぶれには懐かしささえ感じるというか、正直、顔と名前が一致しない人が結構いました。

一応、私がやるべき事はやりました。
立食で散らばったグループを回り歩いて、それぞれに挨拶と乾杯をし、その間、笑顔を保ち空気を壊す事も無く、終盤には皆の前で「短い間でしたがここで皆さんに御指導頂いた経験を活かして次の部署で早く即戦力になれるように~」といった普通な挨拶をし、餞別のネクタイを受け取り、周りからのリクエストのままそのネクタイを頭に結んで若手社員と記念撮影に応じ。
一見普通で、且つ、これ以上ないほど屈辱的な2時間でした。
上司に嫌われて追い出される男の、大々的な送別会。

会が終わった後、他の参加者たちと一緒に店を出ましたが、皆がいくつかのグループに分かれて2次会に向かっていく中、私は誰からも2次会に誘われなかったので、1人で静かに帰路につきました。
下の若手達は私が上の人達と2次会に行ったものと思っていたでしょうし、上の人たちは私に気を使ってわだかまりの無い若手達と2次会に行かせてやろうと思ったのかもしれません。
ただ私が好かれていなかっただけかも。
会でそつなく明るく振舞っていたつもりでしたけど、どこか隠し切れないものが見えていて、声を掛けづらかったのかも。
そういえば、会の途中で中座(トイレと電話)して戻ってきた時、白楽室長が私の顔を覗き込みながら「大丈夫か?帰ったんじゃないかと心配したぞ」と声を掛けてきましたっけ。
大丈夫です。(何が?)

白楽室長 「そうだ、福岡支店の室長さんに、週明けの月曜日(4/15)にお前から挨拶の電話を入れさせるって言っておいたから、電話するように」

・・・えっ?パプアニューギニアから国際電話で転勤の挨拶しなきゃいけないわけ?
新任所への第一印象がおかしな事になりそうだけれど、そんな些事はこの際気にしている場合では無く。

そりゃ笑顔を保つのにも苦労するというものですよ。


●4月13日~20日 パプアニューギニア旅行

異動先の室長さんへはパプアニューギニアから国際電話で挨拶し、九州での住居の件などもその電話中で即決して出来る手配は依頼しました。

昼間は、パプアニューギニアの大自然の中でスキューバダイビング等を他の多国籍な旅行者達と一緒にくつろいで楽しみました。
しかし、夕食後にジャングルに囲まれたバンガローの個室に帰り、一人で静かに読書やダイビング器材のメンテをしていると、急に大きな怒りがこみ上げてきて、治まる様子も無く湧き上がり続ける怒りがやがて熱のように体中から立ち上るような感覚で思考も感情も一杯になり、眠気も感じないので、小屋内の椅子に腰掛け、黙ってビールを飲みながら、草葉や鳥や虫や海のざわめきにただ耳を傾けて過ごした夜もあったのでした。

たぶんあれが怒髪天というもの。
ドラゴンボールでいえば、孫悟空が初めてスーパーサイヤ人になるところ。

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それはそれとして楽しんだ記事がこちら → →『パプアニューギニア(キンベ湾) スキューバダイビング 2013 【前篇】』


●帰国後、4月末

白楽室長から転勤までに自分で済ませておくべき仕事をあれこれと命じられ、最後の5営業日は相変わらず忙しく過ぎていきました。
書類の作り直しを何度も指示されて長時間拘束された挙句に結局元の書類に戻るような、そんな穴を掘っては埋めるような作業を連日やらされたおかげで、私は、企画されていた私の送別会のほとんどに出席することが出来ませんでした。
東京支店最後の夜までそんな感じで、その夜、共に苦労したCプロジェクトの社員・関係者達が開いてくれた送別会にも行けず。
行きたかった・・・。
怒りは増すばかり。
企画してくれた人達には申し訳なく思っています。
御免なさい、私がふがいないばかりに。


●福岡支店には、5月1日から出勤しました。
ゴールデンウィーク中で社員のほとんどが休暇を取っていて着任の挨拶もろくに出来ないような日から出社させられた事はちょっとばかり不愉快でしたが、もう十分に心が荒んでいたので特に気にしませんでした。
ただ、引っ越して新生活を始めるに伴う諸費用、特に、九州での勤務には車が必需品だからと自家用車も買わされ、その前の一眼カメラ一式と旅行費用に続く出費で貯金が大きく減りました。
車は、業務で使用した分、距離に応じてガソリン代が支給されますが、本体購入や維持費には何の補助も出ません。
減った貯金分を取り返し、この記事を完成させることが、私の新たな目標になりました。


福岡に来てすぐの頃、白楽室長の下で別プロジェクトで同様に大変な思いをしていた後輩から電話がかかってきました。
彼も急遽、別の場所への転勤が決まったという報告でした。
お互い多く話をしたことは無いものの、大変だった者同士で共感するところがあり、仕事が落ち着いたら飲もうと前々から約束していましたが、それが果たせる機会はなかなか無さそうです。
4月12日の飲み会も、彼は業務の為欠席していました。
彼は転勤の報告の後、「いつか飲めたら、室長(の職責)とは何かを語り合いましょう」と言って、疲れた笑い声をあげていました。
彼も私同様に、白楽室長に嫌われて追い払われたようでした。
彼はまめで真面目で能力もある良い男だと思うのですが、なぜこういう若者を無下に使い潰すのか・・・。
この会社はいったい・・・・
氷河期就職世代でもともと数少ない全国の同期社員の中にも、心を病む人が複数人出ている事実も書き加えておきます。


さて、この長文も次がいよいよ最後の章になります。



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【8.愛だ恋だのいってないで】


全部で4万文字超(改行除く)。
これほどの長文を書いたのは初めてで、パズルピースを断片的に組み上げてはバラすような作業の繰り返しに、膨大な時間を費やしました。
数ヵ月放置した期間もありましたが―――と、

この記事の初稿が誕生して以降、この完成稿が公開されるまでの1年超の期間に、私の身に万が一の事が起きていたら、この記事はアップされなかったのでしょうか?
いいえ、その期間にも保険をかけていました。
ブログの記事には予約投稿という機能があります。
あらかじめアップしておいて、指定した日時が来ると公開されるという機能です。
私は、改稿中の最新の下書きを、随時、2013年12月25日に公開されるよう予約投稿でアップしていました。
この度、無事に完成品を公開する事が出来て嬉しいです。
分割して随時公開していく事も考えたのですが、大事な注意事項にあたるこの最後の章までセットで同時に公開する必要がありました。


この章では、この記事についての注意事項を書きながら、何をしたいのか、これからどうしたいのかという考えを整理していきたいと思います。



この記事には昔話をたくさん書いてきました。
この程度の理不尽に耐えて働いている人は想像以上に多いのだろうと思います。
そして、こんな程度で怒って、こんな記事の公開という暴挙に出る自分はきっと相当にバカなのだろうと思います。
この記事がこれからどんなリアクションを生むにせよ、公開した時点で私自身には基本的にリスクとデメリットしかもたらさないものと認識しているのにも関わらず、やらずにはいられないのです。

公開する理由については、義憤めいた理由を書いたりもしました。
それはその時点の気持ちとして嘘ではないし、その積み上げた結果が今の気持ちだと思うのですが、今の私が自覚できる理由は、ただ、公開せずにはいられない、もう我慢できない、というだけです。

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この苦労の結晶の長文を公開せずに仕舞い込むなんて出来ない、というシンプルな気持ちもあるかもしれません。


また、正直言って、東京から福岡に転勤してきてからの一年間は、全く仕事へのモチベーションが上がらず、自分がCプロジェクトで会社への誠意というか愛社精神のようなものを感じる為の何かを、全て燃やし尽くしてしまったのだと実感するばかりでした。
福岡では、数少ない中堅どころの働き盛りとして期待をしてもらっているのを感じていますが、以前はそれへの感謝だけでもモチベーションの源泉にし得たのです。
それが全く出来ず、しかし、給料を貰っている限り仕事はちゃんとやらなくてはいけない(し、ろくに仕事もしない人がこんな記事を公開しても説得力が無くなってしまう)ということで、どうにか仕事をしてきました。

やりたい事しかやらないB型としては(笑)、なかなかしんどかったです。
面倒くさい仕事が出てきた時に、投げ出さずに取り組む為にかなりの自制心を必要としました。

もう、この記事を公開する事で、そんな日々とおさらばしたい、もうこの会社を辞めざるを得ないようにしてしまいたい。
そういう弱気な本音がある事も認めざるを得ません。


こんな記事を公開する私が、愛社精神という言葉を持ち出す事に違和感を覚える方が多いかもしれませんね。
愛社精神って何でしょう?
私はその入社の経緯からも、その後の経歴からも、愛社精神を持つ理由がありません。
確かに無い。


Cプロジェクトに関する私の直属の上司(課長)から、「お前には愛社精神が無いのか!?」と真顔で怒られた事があります。
とある居酒屋にて、プロジェクトを協同で進めていた他会社の人たちとの和気藹々とした懇親会をしていた時、他会社の社長から「君、うちの会社来ないかい?あまり高い給料は出せないけど」と冗談めかした社交辞令というか営業トークな感じで話しかけられ、それに対して「それは魅力的ですね(笑)」と笑って答えたところ、それを横で聞いていた課長が突然マジギレ。

課長 「何だと!お前には愛社精神が無いのか!」

びっくりして課長の顔を観たら真顔で、真剣に怒っていたのです。
なんで驚いたかって、それは、この課長さんがプロジェクトの交際費を個人的な飲食費(女絡み?)に派手に使い込んだ上、それが倉山所長(仮名)にバレて、こっぴどく叱られて、出す顔も発言権も無くなって、死にそうなほど忙しくなっている時に何もしないどころか事務所にも来なくなっていた人だからです。
この課長の使い込みのせいでプロジェクトの交際費が予算を超え、会社から反省文を書くよう求められた(けど頭に来たから無視した)のは担当者の私でした。
ついでに言っちゃえば、あの激務のCプロジェクトで、会社に対して、「毎日夜10時きっかりに帰り、しかも毎晩2時間くらいの食事休憩を取って、土日祝日は完全に休んだ」という勤務報告をするよう私に命じたのもこの課長です。
この人の口から愛社精神という言葉が、しかも私に向かって、出てくるとは思っていませんでした。

確かに、私は自分には愛社精神は無いと思っていましたけれども、この課長に比べれば愛社精神はあるんじゃないかな?
声を掛けてきた社長があわてて場をとりなしてくれたので、丸く、飲み会は続きましたけれども、いらっとしました。


私は私的な飲食費を経費で落としたりしません。
それが良いのか悪いのかというと微妙なところがありますが。
なにしろ、この業界、少なくともこの会社では、そんなことはかなり大っぴらに行われてきました。
きつい仕事を乗り越える為に公然に認められた給料の一部だと思っている人も少なくないのです。
バブルだの昔の時代と比べれば、その金額規模は圧倒的に小さくなりましたが、他の業界と比べればまだまだです。
だから、上記の課長のように度を越さない限り、私としては問題無いと思っています。
むしろ、そういった憂さ晴らしをしない事で私は会社に対する不満をここまで膨らませてしまったのかもと考えると、使わなかった事に胸を張って良いとは思えません。

この手の話はたくさんあります。

手近な例でいえば、
Cプロジェクトの発注者(発注会社の担当者)も酷いものでした。
会社をだまくらかして、自分の愛人の中国人ホステスが独立して赤坂に店を構える費用をCプロジェクトの工事費に上乗せして、Cプロジェクトの追加工事費として会社に支払わせていました。
普段の莫大な飲み代もしかり。
数百万円どころのレベルではありません。

さて、

この方達は、私が味わった程度かそれを超える理不尽に耐えてきたのかもしれません。
それを乗り越えさえすれば給料は上がっていくし、美味しい役得もある、と思う事でモチベーションを保ってきたのかもしれません。

だけど、私が同じ方法でそれを乗り越える事は出来ないのです。
だって、自分がこの人たちの年代になった頃には、そんな役得は社会的にも景気的にも会社的にもあり得ないものになっているだろうから。
代償の役得として受け入れるか否か以前の問題です。
今、こういった人達が浮かれて遊ぶための代償を、歯を食いしばって払ってやる理由は何もありません。
耐え抜いた時点で会社が存続してるかどうかも分からないのですから。

一方で、福岡に来てからの一年弱の間、色々な人が結婚適齢期終盤の独身者である私に女性の紹介等をしてくれようとしましたが、こんな復讐心を抱えている私は、この地雷の設置完了&作動を見届けるまでは愛だの恋だのを考える気にもなれずに過ごしました。
それを会社のせいだと言う気はありませんが。
この記事公開が済めば、そういうことを考えることが出来る?
さぁ、どうでしょう?(笑)
むしろ遠のくかも。

でも、

愛って何だ?ためらわないことさ。って、子供の頃に宇宙刑事ギャバンが言ってた。

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私はこの記事をアップする事で何をしたいのか。

半沢直樹のように、相手の土下座や自分の栄転を求める気はありません。
自社株はもちろん同業関係他社株も持っておらず、インサイダー取引的な何かで儲けを狙おうという意図もありません。

たぶん、ただこの記事が地雷として機能して存在していく事を望んでいます。

当人たちの預かりしらぬままで構いませんし、まぁ、願わくは、当人が地雷の存在を知ったうえで何のリアクションをとることも出来ずに怯えながら今まで通りの生活を続けてくれれば復讐としてはベストかもしれません。


この後、私がどう行動するかですが、特に何もしません。
普通に生活していくだけです。
今すぐ会社を辞める気もありません。
私は、この地雷の設置をもって、ようやく会社から一方的にやられるだけの立場ではない、フェアな立場になれたように感じています。
そのおかげで、会社を辞めるにしても負けた気がしなくなり、気兼ね無く辞められそうですが、せっかくなので会社がどういうリアクションを取るのか、社内から今後の成り行きを見てみようと思っています。
今後会社からリアクションがあった場合、ブログで報告するかどうかも未定です。
基本的には、あまり趣味の良い事とは思えないので、必要無ければしません。

全般的に、何かあればその時にまた考えます。

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会社は・・・居心地が悪くなるかな。
私生活も・・・

少し想像力を働かせてみると、こんな記事を公開した後しばらくは、私の心が繊細になり、何でもない様な事にプレッシャーを感じるようになるかもしれない、と心配になります。
会社の内外で、周りの人の目つきが気になったり、ぼそりと呟かれた一言が自分に向けられたような一言であったかのような気がしたり、社内で親しくしている先輩や同期からの久しぶりの飲みの誘いにも何か裏があるのではと勘ぐってしまったり、間違い電話もただの間違い電話だとは思えなくなってしまったり、しまいには誰かに見られているような気がしたり、帰宅して家の中に置いてある物の位置が微妙に変わっているような気がしたりするようになってしまうかも。
頼んでもいないピザが届くとか、そんなあからさまな事が起こらなくても、気のせいかもしれないレベルの諸々に神経を削られて心を病んでいくかも。
それも自然な流れですし、自分は絶対にそうならないと断言するほどメンタルの強さを過信してはいません。
そんな心配をせざるを得ない生活が今より良いものとは思えませんが、もはや私自身が地雷という事ですかね。
最初からそうだったかも。


それはそれとして、


では、当社社員がもしこの記事を読んだとしたら、何をしようとするでしょうか?


◎見なかったことにする、

◎記載された事実関係を調べる、

◎私の上司や近しそうな先輩社員あたりから私にこの記事を削除させるように働きかけさせて騒ぎになる前に収めようとする、

◎私について不利な情報を集めておき、万が一の時に「こんなデタラメな社員が言っている事だから真に受けないで下さい」と言えるようにしておく、

◎調査会か何かを作って堂々と調査に取り組み、潔く盛大な切腹大会を開く。


私に思いつくのはそれくらいです。


どんな道にしろ、この記事で、社内の複数方面の複数の社員、複数の客先と複数の下請業者にまでも及ぶ広範囲を矛先にしたのは、その対応にあたる者に求める覚悟のハードルとリスクを上げる為です。
対応するという事はこの「地雷」を全て起爆させるのとほぼ同義ですが、自分が誰を痛めつけることになるのかも分からないまま着手出来るのは、深刻な馬鹿か大変な勇者ではないでしょうか。
事実関係の確認ひとつをとっても、社内には仮名の方本人も含めて色々な社員がいるので、誰に相談・報告をするのかという判断を慎重に行う必要があります。
芋づる式、という言葉も忘れないでおくのが吉です。


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負い目のある方には、このブログ(記事)のアクセス数が重なっていくほど、今の約60アクセス/日が重なっていくだけでも、大きなプレッシャーがかかる事でしょう。
負い目の無さが勝ち目を呼ぶ。
人としてそんな心意気でありたいものですね。(私もまた勝者ではないですが)

対処しきれないほどの多方面から同時に攻撃が放たれるような地雷を設置して、個別の威力は小さくとも、空振り・不発を防ぎ全てを有効打にして、反撃や身動きを封じよう、というのがこのブログ記事の狙いです。


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いざとなれば、私自ら「地雷」を起爆することも可能です。
社員なら誰でもこの記事のURL等を全社員に一斉にメール送信することが出来ますが、その話ではなく、私は、クレーム対応の業務経験から、どのネタをどこの誰に知られるとまずいのかという事を割と詳しく知っている、という話です。
その手段を取らざるを得ない局面は、ちょっと私には想像つきませんが。
なにしろ私自身は、これが(少なくても早々に)爆発する事を望んでいません。

あと3つだけ注意事項を書いておきます。

●この完成稿が公開されるまでの間、予約投稿機能を活かした保険となっていた「下書き」は、今、新たな保険に変わっています。
「元・下書き」がこのブログを含む複数の媒体にて、依然、予約投稿を設定されて公開待機中です。
時間が来れば公開されますが、今のところ私にはそれを公開する意思は無く、随時、それぞれの公開予約日時を延長していくつもりです。
それらは、全てこの記事と同じ題名で、それぞれの内容も同じです。
どれかが消えても、同じものを検索して見つける事は容易だろうと思います。
そんな「元・下書き」の内容について説明はしませんが、下書きから完成稿へと改稿を重ねる中で、人物等の特定に繋がる情報をボカしつつ信憑性も損なわないよう情報量の加減や小細工を行い、話の流れに不要なエピソードは切り捨てる、といったあくまで理性的な配慮の数々を施すのが大変だったなぁ、と唐突に思い出話をしてお茶を濁します。

●私は一応心優しく平和を愛する面倒くさがりなので、私から無駄に争いを仕掛ける事はありえません。
仮名の方およびその近い関係者の方々の中には、私が、各人についてのフルネームと住所と電話番号と顔写真と生年月日とパスポートコピーと家族について等々の情報を持っている事を思い出して、不安に感じていらっしゃる方がいるかもしれませんが、そんな野暮な心配は無用です。

●この記事他に係わる証拠書類等は個人的な関係(私自身・親族・友人その他)の周辺には一切置いていない事もここに明記しておきます。


これで書くべきことは全て書いたと思います。


以上をまとめると、


私を追い込んだ方々には、世の中の平和と私の心身の末永い健康を祈りながら謙虚に余生を歩んでいって頂ければいいなぁ、と。


平和っていいですよね。


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そんなのどかな結論にふさわしいと思った事が、過去2回の公開目標日をそれぞれクリスマスに設定していた理由です。
2012年クリスマスと、2013年クリスマス。
仕事の節目となる予定でもあったし、その直後に会社が約一週間の年末年始休暇に突入する事も好都合でした。

2013年クリスマスに公開出来ていれば、この記事が人目に触れる頃には、私はフィンランドで本物のサンタクロースと握手している予定だったので(しかも会社携帯は圏外)、ちょっと面白いかなぁ、なんて思っていたのですけれどもね。
そんな歪んだ悪意をさらけ出し過ぎた所為か、いつもは善人を自称する事が無い私でも、今は、自分がある意味では善人なのだと主張したくて仕方が無い気持ちが湧いています。(笑)
なんといっても、この記事は、悪意を原動力として書いたものではありますが、純粋に楽しんで読んで頂けるよう努めて書いており、文章自体に悪意(悪い誤解を生む書き方)は無いつもりです。
この文章がどう働くかは読んだその人次第。


さて、稚拙な長文にお付き合い頂き、有難うございました。
ここまで明るい内容は無く、どちらかというとホラー映画を観るのに近い感覚だったかもしれませんが、お楽しみ頂けたなら良いなと思っています。
もう長年、気軽な小説を1年に一冊読む程度の読書しかしておらず、もっと読書をたしなんでいればもっと良い文章が書けたかもしれませんし、もう少し世の見聞は広く、頭の回転は速くなっていたかも知れず、そうであればこんな行動に出る事も無かったかも知れません。
反面教師にでもなれれば幸甚です。

仕事の都合と文章の完成度の都合により、2度のクリスマスを過ぎて今日の公開に至りましたが、題名と最初の一文、そして最後の結びは、初めから決めていました。
遅ればせながら、これは私から皆様へのクリスマスプレゼントです。

心から、

メリークリスマス。
そして、良いお年を。


(おしまい)






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★オマケ:文中に差し挟んだ画像等の元ネタ紹介など★


【1章他より】 みんな大好き『コマンドー』。
「お前は最後に殺すと約束したな。あれは嘘だ。」他、当記事中に何度も名言を使わせて頂きました。
「あいつはどうしたの?」「話してやった。」、も使いたかった。
コマンドー(ディレクターズ・カット) [DVD]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (2012-10-12)
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【2章より】 処す?



【3章より】 親は関係ねぇだろ、親は!おぉ?

蛇足ですけど、去年(2013年)、日本のYahoo!ニュースで、とある太めの男性が、運転手が目的の飲み屋前を通り過ぎてしまった事に腹を立ててその運転手を殴りつけただか頬を触りながらだかしながら「お前終わったわ」と言ったというニュースを読んだ覚えがありますが、その男性の外見や件の言動が、【3章】元住さんを強く思い起こさせるものでした。という無駄話もここに書いておきます。映像的イメージの一助として。


【5章他より】 半沢直樹
TVドラマは面白かったですね!
後半しか見ていませんし、幻のエンディングとやらも気になるので、いつか気が向いたらDVDを見てみます。
一方、クソみたいなバブル世代にトイレットペーパーみたいな扱いを受けている身としては、原作本はその題名だけで手に取る気にならないという。
半沢直樹 -ディレクターズカット版- DVD-BOX
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【6章より】 地雷オッケー
余談ですが、記事を書いている途中で、「従順」という言葉がなかなか思い出せず、じょうじゅ・・・じょうじゅん?・・・じょう・・・じょうじ!しばらく考え込んでしまいました。



【8章より】 エメラルドスプラッシュ
躱しようがない全方位攻撃のイメージとして『JOJOの奇妙な冒険』第3部終盤のこれを採用。
このシーンの後、花京院が何によってどうなったか、も考えると味わい深い(縁起でもない)と思っています。
DIO(ザ・ワールド)のナイフ投げシーンの方が良かったかな?




上記の出典紹介等は、全体の一部ですが、選別方法に特別な意図はありません。
強いて言えば、解説が要らなそうなものと、こんな記事と関連付けられるとご迷惑だろうと思ったものを避けています。




文中の引用に採用しませんでしたが、「もうどうでもいいと思っていても、ぶちのめされると両足がまた踏ん張っちまう」ブックオフでふと手に取ったこの漫画で見かけたそんなセリフがとても好きでした。





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コメント
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172.  ミッドナイト・蘭URL  | 2014/03/14(Fri) 02:14 | #-[ 編集]
ふむ、面白い!
私も昔、同じ考え方で、敵を封じるために、かようなネットの活用をしたのを思い出します。
・・・そう、それは有効です!!!^^


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