校條浩(めんじょう ひろし)氏(NetService Ventures Group)





校條氏略歴
2002年に、NetService Ventures Group (NSVG)を シリコンバレーに設立。現在、日本の大手ハイテク企業への経営戦略コンサルティングと米国でのベンチャー・インキュベーション及びシード投資を組み合わ せ、「スピンイン」モデルを推進している。東京大学理学部修士課程修了後、エンジニアとしてコニカにて写真感光材料、電子材料の開発に携わる。その後、マ サチューセッツ工科大学(MIT)で電子材料技術を研究、工学修士取得。1980年代後半に、ボストン・コンサルティング・グループにて日本企業、欧米企 業への戦略コンサルティングに携わった後、1991年にシリコンバレーに移住し、米国のベンチャー企業の日本市場参入を支援。1995年からは、マッケン ナ・グループの日本企業グループを立ち上げ、日本の大手企業の新事業戦略をアドバイス。その間、講演・投稿・出版を通して、日本企業再生のためのシリコン バレーモデルの有効性を啓蒙してきた。これまでに、スタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校、慶応大学などでの講演多数。数多くの日米ベン チャー企業のアドバイザーを務める。大前アソシエーツ(インキュベータ)、カーライル・グループ(PEファンド)、JETRO BIC(インキュベータ)などのアドバイザーを歴任。日本MIT会シリコンバレー支部代表。主な共著書に『日本的経営を忘れた日本企業へ』『成長を創造する経営』、訳書に『リアルタイム』『スマート・カンパニー』『eブランド』(いずれもダイヤモンド社)などがある。
 


Q: 第2回起業家の輪インタビューにご登場いただいた梅田さんと知り合ったきっかけは?
梅田さんと私はシリコンバレーの同志みたいなもの、と言ったら梅田さんに怒られてしまうかな(笑)。彼と私はシリコンバレーに来たのが1991年頃でほぼ 同時期だったのですが、その頃はSVJENのような日本人ネットワークがなかったですから、時々会って情報交換したり、励まし合ったりしていました。梅田 さんも私も同じ業界(コンサルティング)出身で、世の中を変えてやろうという志を同じくする「志士」みたいなものでした。最近では、梅田さんはブログや著 書を通じて自分自身の考えを世に問う、という日本に向けたシリコンバレーの伝道師として大活躍されていますよね。一方、志が同じでも、最近の私はアプロー チが異なってきました。

Q: そのアプローチとして、現在どのような取り組みを行っているのですか?
日本企業がイノベーションを起こすにはどうすれば良いのか?そのためには新しいパラダイムの事業を作らないとダメだと思っています。そうしなければ、産業 は陳腐化していくものです。でも言葉でいくら言ってもなかなかイノベーションは起こらない。今まで大企業に対してコンサルタントとして数々の提案をしてき ましたが、実行された例は極めて稀なんです。実行していたら今頃業界のリーダーになっていただろう、という例は山ほどあります。やはり、大企業は事業ビ ジョンだけでは最初の一歩が踏みだせないのですね。そこで、事業ビジョンに加えて、具体的な事業の核を自ら作って示そうと思ったのです。このような具体的 な例を見せると、殻に閉じ籠っていた大企業でも第一歩を踏み出すことができます。シリコンバレーには自らの技術でとにかく世界を変えていくんだ、という意 思がみなぎっていて、それによって多くのイノベーションが生まれているのを見てきました。日本企業がイノベーションを生み出し、新たな産業を育んでいくた めのヒントが、このシリコンバレーに豊富にあると思っています。今はその経験を活かして、日本がイノベーションを生み出す「変化の波」を起こすお手伝いを していることになります。

Q: シリコンバレーに来たきっかけを教えてください。
「そこにシリコンバレーがあったから」としか言いようがありませんが(笑)、私は随分と回り道をしましたから、ちゃんと説明するには私の経歴を初めから話 した方がよさそうですね。ちょっと長くなりますが、お付き合いください(笑)。私は理学系大学院を出て、小西六(現コニカミノルタ)に技術者として入りま した。入社当時、銀塩フィルムの写真が全盛で、カラーネガティブフィルムが小西六の主力製品でした。私は当時「製品は技術さえ良ければ売れるもの」と考え ている極端な技術至上論者でした。営業とかマーケティングなんて関係ない、と思っている「技術国粋主義」みたいなものですね(笑)。ライバル企業とも技術 を競いあって開発に励み、小西六のカラーネガ技術は非常に高いレベルの製品を生み出していました。ところが、売上げを見てみると、市場シェアは全然変わら なかったんです(笑)。

Q: 世界を変えるのは技術だけではないと?
そう、初めて気がつきました。いくら良い製品ができても、それだけでビジネスはうまくいかない、と。そこで独学でマーケティングなどの勉強を始めました。

Q: その後、ビジネスサイドにご関心を移してキャリアを積むことになったのですか?
いいえ、まだです(笑)。しばらくは技術者としてやっていくことになります。それは、その後デジタル技術の興隆があったからです。写真フィルムの技術開発 は「改良」が主でしたから、「技術国粋主義者」がいくら頑張っても市場ポジションは動きませんでしたが、デジタル技術のような「飛躍技術」は破壊的な変化 をもたらす、と直感したのです。ちょうどその頃、ソニーが世界で初めて「マビカ」という電子カメラを発売したんです。これがいずれは今日のデジタルカメラ となる予感がしました。1980年頃ですので、自社の先輩も含め既存のカメラ業界はもちろん電子技術による写真なんて、写真とは認めませんでしたよね。画 像も精細度が低いし、小西六の社内でも電子カメラは一笑に付されました。こんなひどい画質のものにカラーネガの素晴らしい画質が負ける訳はない、と。何と なく腑に落ちない私に目を開かせてくれたのが、NHK技研のある著名研究者の講演会で聞いたデジタルの話でした。「デジタル技術の性能向上はlog(対 数)上に乗る」という話に衝撃を受けたのです。今で言う、半導体の性能向上経験則「ムーアの法則」のはしりですよね。それから仲間とデジタル技術について の勉強会を始めました。最終的には仲間もいなくなって、自分1人で調べることになりましたけどね(笑)。稚拙ながら色々な技術的視点を考慮して悪戦苦闘し ました。その計算の結果、30年後、すなわち2010年頃にデジタルカメラ技術はネガ技術の性能に追いつく、という予測結果が出たんです。

Q: 現在から見れば、校條さんの予測は当たっていますね。
いいえ、それが実は正確に言うと予測は外れているのです(笑)。2010年どころか、2006年にコニカ(前の小西六)はカラー写真事業から完全撤退する 事態となりましたから。現実には、私の予測を上回る速さで技術開発は進んだということですね。銀塩カラー写真の技術は精緻華麗で素晴らしいものでしたの で、技術者としては忸怩たる思いでしたが、飛躍技術による既存業界の破壊を目の当たりにした貴重な事件となりました。

Q: デジタル技術が向上するとの予測をして、その後ご自身はどのように活動されたのですか?
カラー写真の開発部門を辞めて、液晶ディスプレーの技術開発を行う社内ベンチャーに移りました。とにかく大変な波風が立ちましたよ。これまで会社が一丸と なってやってきた主力技術を否定するとは何事か、と。カラー写真の開発研究所は社内で一番日の当たる花形部門でしたから、そこから自ら去ることは非常識 だったのです。それまでお世話になったたくさんの人にも迷惑をかけることにもなりました。精神的なストレスは相当なものでしたね。転機は、日本の半導体の 草分けとして有名な方が小西六の副社長として招聘された時に来ました。「デジタル化の波に乗るには、最先端の技術を外で学ばなければダメだ。」と私の背中 を押してくださったのです。こうして、マサチューセッツ工科大学(MIT)に留学し、固体物性、電子材料プロセスを学ぶ機会が訪れたというわけです。

Q: MITへの留学は、校條さんにどんな影響を与えましたか?
今こうしてシリコンバレーで曲がりなりにも仕事ができているのは、すべてMITがきっかけだったと言っても過言ではありません。MITに行って最初の1週 間で私の意識が決定的に変わりました。ひとつは、自分の考えている常識は正しいと思っていいんだ、と気付いたこと。日本では、自分の言動をいつも周りから 注意されていたので、「自分は変なのか?」などと自問して悩むことが多かったんです(笑)。でもMITでは、自分の考える常識はそれほど「変」ではありま せんでした。この経験で私はすごく変わりました。いや、そうではなく、本来の自分を取り戻した、という方が正しいかもしれません。もうひとつは、「起業」 「ベンチャースピリット」ということに直接触れたことです。ある時電子工学のクラスで、隣に座っている学生が休み時間に何か一生懸命やっている。「何して るの?」と聞くと、大学を出たら自分でこんな技術を使ってこんな会社を興すんだ、とビジネスプランを大真面目で作っているんです。びっくりしました。それ がきっかけで、ビジネススクールに聴講に行ったりしましたが、一番刺激を受けたのは”MIT Venture Forum”です。MITでは学生の起業コンテストのような事を1980年代当時から既にやっていました。(注:スタンフォード大学で現在も行われている MIT/Stanford Venture Laboratoryは、このベンチャーフォーラムの支部活動。)その会場に行くと、一番前に座っている人たちが、学生のプレゼンに対して偉そうに批評し ているんです。最初、「何だあの人たちは?」と思っていたのですが、彼らがベンチャーキャピタリストだったんですね。ベンチャーキャピタリストが学生にア ドバイスを与えて、興味深いビジネスがあれば、学生でも出資してチャンスを与える。1983年頃ですから日本が好景気に浮かれている時でしたけれども、米 国の大学のキャンパスではこんな起業の動きが活発に起きている。私は「これだ!」と思いました。これが、破壊的な変化をもたらすイノベーションの源泉だと 思ったのです。自分も同じようにベンチャーに関わりたい!と強烈に思いました。

Q: そのころからシリコンバレーとも関わるようになったのでしょうか?
いいえ、まだまだ回り道があるんですよ(笑)。MITにいる時にシリコンバレーと関わったことはありませんでした。MITを修了するころ、有名なベル研究 所からオファーがあったり、ベンチャー・起業という文化にも触れて悩みました。けれども、日本ではコニカの社内ベンチャーで同僚ががんばっていましたし、 自分もMITで学んだ新しいデジタル技術で、お世話になっている会社に恩返しをしたいと思い帰国しました。しかし意気揚々と帰国してみると、「浦島太郎な んだから、早くリハビリして社会復帰しろ」ときつい洗礼を受けました。さらに、唯一留学に賛成してくれた副社長に帰国の挨拶に伺うと、「なんだ帰ってきた のか!君ならアメリカに留まると思っていたよ。」と言われてしまったんです(笑)。私は、「しまった!」と思いましたが、もう手遅れです。気を取り直し て、社内ベンチャーのグループで活動を開始しました。社内で何とかデジタル事業を認めてもらおうと努力しました。外部から資金調達しようという破天荒なこ とも試みました。アメリカへの出張の帰りに寄り道して、シリコンバレーにやってきたんです。

Q: その時のシリコンバレーの印象はいかがでしたか?
ベンチャーキャピタルに会いたいと思い、ベンチャーキャピタルのメッカであるこの近く(Sand Hill Road)のオフィスをアポイントなしに電撃訪問しました。すると、どこの馬の骨ともわからない日本人に、彼らは会ってくれたんです。突然訪問しておきな がら、自分でもびっくりしましたね(笑)。自分の社内で立ち上げているビジネスプランを説明すると、彼らはちゃんと話を興味を持って聞いてくれました。し かし、私の調達希望金額(1000万ドル)を聞くと、「その話なら他の誰々を紹介するよ」とやんわり断られましたが(笑)。それでも、シリコンバレーの オープンさと懐の深さをこの時強烈に感じましたね。

Q: それで、そのプロジェクトはどうなったのですか?
会社に内緒で試みた外部からの資金調達は結局うまく行きませんでした。その後も会社の態度ははっきりせず中途半端な状態が続き、革新的な事業創造は大企業 内では難しい、 外で事業を興すしかない、と考えるようになりました。ちょうどその頃、ヘッドハンターから連絡があり、ボストン・コンサルティング・グループ(以下、 BCG)から誘いを受けたのです。「ビジネススクール以上のことを1年で学べ、しかも給料が貰えるんだから!」と変な説得を受け、入社してしまった (笑)。ゴリゴリの「技術国粋主義者」があっさりと宗主替えしてしまったわけですね(笑)。でも、事業を興すには技術だけではなく、総合的な経営能力が必 要だと考え始めていたので、修行の場だと割り切るという計算もありました。

Q: それまで築いてこられた技術者としてのキャリアは?
技術のことは一時的にせよ全部忘れて、ビジネスの中で経営やマーケティングという技術とは全く違う方向に自分を向けてみよう、と思いゼロから始めました。 ただ、技術分野に比べて経営分野は勉強するようなこと自体は易しいと思いました。それよりも、経営で大事なのは判断なんですね。経験や全人格的な価値観な どが要求されることなので、戸惑うことも多かったですが、本当にいろいろと学ばせていただきました。

Q: 主にどんなコンサルティング業務を担当されていたのですか?
日本のクライアントばかりだと常識が偏ると思い、自分から手を上げて積極的に欧米のクライアントを担当しました。東京事務所の日本人のコンサルタントは日 本のクライアントを担当したいと考えるのが普通です。欧米の企業とのやり取りは英語も必要だし、欧米の案件は苦労が多いばかりで昇進の遅れるリスクが高い ので、敬遠されがちでした。私は逆に欧米の企業に関心がありましたから、結果的にいろんな案件に携わることが出来ました。その時、欧米の企業が日本市場の ことを全く理解せずに自分本位の考えで日本に参入し、失敗している例をたくさん見たんです。それで、欧米企業の日本参入をサポートすることはビジネスにな るのではないか、と思い立ちました。そこに元々関心があった「起業」「ベンチャー」というものに取り組みたいという思いが重なって、それならシリコンバ レーに行って、米国のベンチャー企業の日本進出をサポートしよう、と考えるようになったんです。最初のご質問から遠回りの回答になりましたが、それがシリ コンバレーに来るきっかけでしたね。やっとシリコンバレーにつながりました!(笑)。

Q: 最初、シリコンバレーにはBCGの駐在員として来られたのですか?
いいえ、スパッと辞めて退路を絶ってからシリコンバレーに来ました。最初は自分で会社を興そうと思ったのですが、シリコンバレーの黎明期から活躍されてき た伝説の日本人の一人Tak Yamamotoさんから、同じようなアイデアで成功している小さなコンサルティング会社がある、と聞いて興味を持ちました。そこでTakさんからその会 社を紹介してもらい、東京に出張中だった社長の石井正純さんとお会いして即決しました。こうして1991年に、大企業の後ろ盾もなく「裸一巻」でいよいよ シリコンバレーに上陸することになったのです。

Q: 最初はどのような活動をされていたのですか?
アメリカのベンチャー企業やVCと一緒に仕事する一方、日本に出張して大企業にそれらのベンチャー企業の技術やアイデアを売り歩く活動はなかなか刺激的で した。本当に色んな事を学びました。この時期には人脈作り、いわゆるネットワーキングをかなりやりましたよ。毎日のようにセミナーに通い、そこで知り合っ た現地のビジネスマンとランチしていました。

その後、自分で事業を立ち上げたいと思い始めていた時にレジス・マッケンナと知り合い、”Japan Practice”という日本企業への新事業戦略のアドバイスを行う社内部門の立ち上げを任されました。何もないところからの立ち上げなので、社内ベン チャーみたいなものでした。日本企業のコンサルティングでは、情報通信、電気メーカ、IT、家電、精密機器といったハイテク分野のほとんどの大手企業を開 拓しました。その時に培った日米企業とのネットワーク、レジス・マッケンナから学んだハイテク経営戦略ノウハウ、生き馬の目を抜くシリコンバレーのベン チャーキャピタルの世界、技術も経営戦略もわかる超一流の若いコンサルタントとの仕事の経験など、今も貴重な財産です。

Q: シリコンバレーから日本企業を見て、どのような感想を持たれましたか?
たくさんの日本の優良企業をクライアントとしてコンサルティングしましたが、我々のアドバイスに従って実際に事業を立ち上げた例は残念ながらありません。 我々のプレゼンテーションを聞き、レポートを読み、将来の大きな波については最後は感動してくれるのですが、それを自分のこととして捕えられない。行動を 起こす前に現在の制約条件やできない理由が山ほど浮かんでくるんですね。これは、経営トップから現場の担当者までほとんど変わりません。放っておくと大変 な事になるとは思っていても、「直ぐにそうなる訳ではないよね」となって、結局それで終わってしまう。新しい事を進めると、社内に軋轢ができたり、場合に よっては他の部門に迷惑をかけてしまうことになりますから、それを敬遠するんですよね。そうこうしているうちに、シリコンバレーでは次々とベンチャーが立 ち上がり、今では大企業として大きな勢力となっています。Sun, Oracle, Yahoo, Ciscoなど枚挙にいとまがありません。後に大成功するベンチャー企業を日本企業にはたくさん紹介していたのですが…。あの時手掛けていれば今頃…なん ていう話はゴロゴロあります。そんな状況を見て思ったのは、日本企業では「現場・現物主義」がドグマ化しており、ビジョンを現実から離れた絵空事だと考え ている、ということです。市場の「現場」から発想しなければビジョンはそれこそただの絵空事になってしまいます。さらに、ビジョンからアクションに移して 初めて将来の「現物」が創造されるのです。他人が「現物」を作った頃にはもう競争に負けています。そこで、大企業にビジョンの実現のための最初の実行を期 待するのをやめました。最初の「現物」は、自分自身がリスクを負ってコミットメントしなくては絶対に創造できない、と確信しました。自分で事業を実際に立 ち上げてビジョンの「現場・現物」を示すしかないと考えるようになりました。こうして2002年にマッケンナ・グループの同僚と今のNetService Ventures Group(ネットサービス・ベンチャーズ・グループ; NSVG)を立ち上げたのです。

Q: NSVG社はどのようなビジネスを展開しているのですか?
我々は、ビジョンづくりとそのビジョンに沿ったベンチャーのインキュベーションをしています。ビジョンを実現できるコア人材に投資しています。大きなイノ ベーションの「てこ」の中心になるようなソフトウェアや事業アーキテクチャーを自分たちで作れるように支援しているのです。技術開発ばかりでなく、人づく りから積極的に活動します。同じビジョンを共有できる人を育てなければなりません。もし技術が良くても、本人がやりたい情熱を示すまで開発を進めさせない こともあります。現在、ポートフォリオ企業は10社あります。

Q: ポートフォリオと言ってもベンチャーキャピタルではないんですね?
我々は純粋な意味でのVCではありません。資金は全て自己資金ですし、シード段階での出資ですのでいわゆるエンジェルに近いでしょう。ただ、先述の通りお 金を出すだけではなくて、その企業のチーム作りから場合によってはコア技術の開発まで関わることもあります。ベンチャー企業を子供に例えると分かり易いと 思いますが、10社は幼稚園児から大学生くらいまでいろいろで、大学生はクライナー・パーキンスに代表されるような有力VCからの投資を受けて、一人前の 収益企業になるべく急成長している企業ですし、中学生、高校生はまだ売り上げがないけれどもしっかりとした計画を持って着々と学習(開発)している企業。 幼稚園児、小学生は、まだまだ親の手がかかるころですね。このくらいの子供は、私たちのインキュベーションオフィスで活動することも多く、彼らはそこで 24時間365日技術開発と事業化に取り組んでいます。我々がコントロールできるのは高校生くらい、すなわち資金調達でAからBラウンドくらいまでです ね。

Q: 日本の企業もありますか?
日本を特に除外している訳ではないですが、ポートフォリオには日本企業はたまたま1社だけで、他は全て米国企業、シリコンバレーの企業です。その日本企業 の場合も、シリコンバレーを舞台に新たな将来事業を開発しようとしているので、中心人物は日本人ですが、活動舞台からするとシリコンバレー企業と考えたほ うがいいかもしれません。日本企業との関わりということで言えば、日本市場を最初の対象市場として、日本の大企業と提携し、我々のベンチャー企業が開発し た製品やサービスを日本で最初に実地トライアルするケースがあります。我々は日本の先進企業の経営トップと直ぐに話が出来ますし、日本企業の戦略課題をよ く理解していますので、両者にとってシナジーのある事業が構築できると考えています。

Q: NSVG社が行うようなインキュベーション事業は、日本では成立しませんか?
100%無理とは言えませんが、かなり難しいですね。日本にもビジネスインフラとしての人・技術・金はあるにはありますよ。でも数の集中度合いが圧倒的に 違います。東京が1ならシリコンバレーは1000くらいじゃないですか?ですから、シリコンバレーでは我々の事業にとって必要な資源が揃いやすいことは歴 然です。

Q: シリコンバレーと日本の具体的な違いは?
まず、「人」です。日本にも優秀なビジネスマンや技術者は沢山いると思いますが、CEO、CTOの候補を探すとなると、とたんに高い壁に阻まれます。人材 が大企業に集中しているばかりでなく、大企業内では仕事が細分化されており、何でもこなさなくてはならないベンチャー企業の経営者としての訓練ができませ ん。シリコンバレーなら、ネットワークを通じて直ぐにずば抜けて優秀なCEO、CTOや参謀を連れてくることができる。その次に採用するエンジニアでも、 ものすごく優秀な人が来ますからね。若くしてすでに成功体験があり、採用する側よりも余裕がある人も多く、高級車に乗って採用インタビューに来ることも珍 しくないですよ(笑)。さらに全く売り上げのないベンチャーでも、Aラウンド、Bラウンドとなってきて、大手のVCが出資しているとなれば信用がつくとい うか、その安心感からさらに優秀な人材が集まってくる。大企業のような安心感とは違いますけれど、ダメならまた違う会社にいけばいいことだし、こちらの人 にとって転職は、日本企業で言えば部門が変わるくらいのものですよね。反対に投資家側をみると、まずエンジェル投資家の存在からしてシリコンバレーは日本 と比較して層の厚みが違います。VCに関しても、経験豊かなプロ集団が投資、指導を行うシリコンバレー流のVCは日本に少ないと思います。このように、起 業家とエンジェルとVCの差を掛け算しただけでも圧倒的な差が出来ますよね。それからベンチャー企業の開発した製品やサービスを使ってくれる大企業が、米 国の方が断然多い。日本では、信用がないベンチャー企業は大手企業との取引すらままなりません。大企業とやっと取引させてもらっても、下請け業者として最 低限の利益が出る程度であれば納得しますが、ベンチャー企業として儲けを拡大する機会は与えません。官公庁も同様で、ベンチャー育成を標榜する部署がベン チャー企業のシステムを買ってくれない、という笑えない話もあります。あと、「知恵」。シリコンバレーは至近距離に技術者やVCといった反応分子が集まる 環境にあります。当然密集した地域に反応分子が集まっていれば、活性化されます。大学、プロフェッショナルファーム(注:VC、弁護士事務所、会計事務 所、コンサルティング会社など)、それにボランティア団体などが触媒になり、活性化エネルギーの壁が低くなるわけです。そして、起業家同士が反応した結果 イノベーションが生まれた事例が身近にあることで、更に密度が高まる。この密度の濃い「反応機」は世界的にも稀なもので、日本でもどこでも再現するのは困 難ではないでしょうか?最後にもう一つ、「オープンネス」を挙げたいですね。いくら反応分子がいても、同じ人だけではイノベーションは生まれません。外か らの刺激が必要です。シリコンバレーには世界中から知の流入を受け入れるオープンさがあります。米国の他の地域、東海岸やテキサスなどもがんばっています が、シリコンバレーに全く追いつけないのはこの「オープンネス」の差だと思います。日本に決定的に欠けているのはこれです。

Q: 日本でもイノベーションを興そうという動きがありますが、お話を伺っていますとシリコンバレーと日本の違いが大き過ぎて、非常に困難に思えます。どうすれば良いのか、お考えはありますか?
そうですね、日本でどうすればイノベーションが起こるか、どうすればシリコンバレーのようになれるか、私も長い間考えてきました。もちろんこれまで述べた ような大きな相違点についても、事あるごとに発表してきましたが、解決策についてはあまり決定打がありませんでした。結論を言えば、日本はシリコンバレー と全く同じ事は決して出来ないという前提からまずスタートすべきであると思います。けれども、シリコンバレーにはイノベーションの本質があって、その本質 を理解することで既存の仕組みに揺らぎを起こすことはできると思います。ただし、それを実行するということは、既存社会に「迷惑」をかけるという事になる んです。私が経験した写真フィルムのケースも同じでしたよね。日本では誰か他の人に迷惑をかけるという行為をとても敬遠しますね。親や学校から徹底的に教 育される「人さまに迷惑をかけてはいけない」といった思想が根底にあるように思います。他人を思いやる美徳という一面もありますが、反面、既存システムに 依存しているマジョリティが、イノベーティブな技術の普及によって自らの既得権益を妨げられることを過度に嫌うためにイノベーションが妨げられやすいとい う弊害があります。この「誰かに迷惑をかける」ことを許容して、新しいイノベーションを社会全体で吸収していくことが、日本にとって必要であると思いま す。

Q: そのように日本の社会が変化すること自体、とても困難だと思いますが。
そうです、日本の中から変えていくというのはとても難しいでしょうね。日本は一億総中流のユートピアで、現状でも皆そこそこの生活が出来ますよね。そんな 日本にいる人が、今の快適さを犠牲にして、既存の社会に迷惑をかけてまでイノベーションを起こすのは難しい。これはクレイトン・クリステンセン著の 「The Innovator's Dilemma」(邦訳:イノベーションのジレンマ)にも書かれていますが、日本のような成功者すなわちイノベーターはその成功体験の呪縛から抜けられな いのです。誰でも自分自身に迷惑をかけるのは嫌なもので、だから自分で自分を壊せない。イノベーションを起こすには、他の人から攻撃されるしかないのでは ないか。だからと言って、日本国内で「人に迷惑をかける」ような攻撃者になりたい人は少ない。ですから、私は日本社会の外側で何かを始めて、それを日本に 持ち込むような活動が有効ではないか、と考えているんです。私の会社でのインキュベーション事業も実はそのような考え方で進めているのです。日本の政治家 や官僚の方と話す機会があるときにも、同じような意見を述べるようにしています。もし国内で新しい事業を立ち上げられるような環境を作りたいのなら、昔の 「出島」、今で言う「経済特区」を作ってその役割を担わせるべきだ、と提案しています。シンガポールやドバイのイノベーション版ですね。「イノベーション 特区」と言ってもいいかもしれません。

Q: 「特区」政策は既に日本でも行われています。
確かに特区は既に色々と展開されていますが、私が思っているものとは随分違います。緩和項目を小出しにして、既存社会への「迷惑」をなくそうとする発想 は、私の思い描いている目的と相反するものです。ビジネスの世界でイノベーションを興すのは常に攻める側です。シリコンバレーのヤフーは、創業してから ネットの世界で攻める側にいた時は勢いがあったけれども、既存のシステムになってしまうと、今や防戦一方で苦労していますよね。でもそれがシリコンバレー の新しいダイナミズムを生み出している訳で、日本でも「イノベーション特区」で色んな新しい器に新しい人材を入れて新しい事業を立ち上げるようにすれば、 彼らは既存システムに対して外から攻める側になって、素晴らしいことができるんじゃないでしょうか。エドワード・ファイゲンバウム著の「起業特区で日本経 済の復活を!」という本がありましたが、私も同じような考えですね。さらに言えば、衆議院の海外区を作って、国外から議員を国政に参加させ、外からの意見 を日本に反映させることができたら、日本ももっと変わるんじゃないでしょうか。違う視点を持った人を登用すべきです。情報の”Content”(注:内 容)は世界のどこからでも受け取れますが、日本の外でグローバルな環境にいないと”Context”(注:文脈)が分かりません。このような外からの発想 が日本にイノベーションを起こす時には大事ではないかと思います。

Q: 校條さんがシリコンバレーで注目している技術トレンドは何でしょうか?
まずモバイルとメディア技術ですね。”Connectedness”とか”Digital Convergence”とか言っていますが、自分のパソコンも携帯もテレビも何でもがネットワークにつながって、自分自身がネットワークの一部になるよ うな世界になることはまず間違いありません。そうなると次に問題になるのは、そこで流れるコンテンツはどうなっていくか、コンテンツを流通するメディアの 形はどうなるか、ユーザーの生活はどう変化するか、などの全体設計です。アメリカでは携帯市場が遅れているので、日本ではたかをくくっている人も多いよう ですが、全体システムの設計となるとアメリカが強いのでその分野が要注意ですね。アップルのiPhoneのようにその萌芽は見え始めています。 Googleはすばらしい独自の事業モデルを創造しましたが、このような全体システムからするとまだほんの表面をこすったくらいでしかありません。具体的 には申し上げられませんが、全体システムを設計し、ユーザー中心にサービスを提供するために必要な設計思想、要素技術、アーキテクチャーなどはシリコンバ レーの地下水脈では一番ホットな分野になりつつあります。あと、ご存じのようにエネルギー・環境関連やナノテクノロジーなどは現在過熱気味なくらいです が、その分野については次のゲストである神部さんがいろいろと教えてくれることと思います。

Q: 最後に、校條さんが今後やっていきたい活動について教えてください。
新しく何かを始めようとは今は考えていません。今のインキュベーション事業をやり続けていきたいと思っていますね。これまでは自己資金から出資して育てて きた企業を、そろそろ次のステージへと拡大していくために、他からの資金調達を検討している所です。これからは、自分たちがインキュベイトした企業や技術 に関わった人たちが、更に次のベンチャーを生み出し、新たな人を作っていく。思い描いているのは、我々が立ち上げたインキュベーション事業を中心に、内側 からどんどん人の渦が回り、大きくしていく、という姿です。我々はこれを”Wolf Pack”と呼んでいます。「狼の群れ」ですね。狼は、常に獲物を追い求めています。普段は独立しているんですが、狩をする時は何十頭もの群れでやるんで すよ。私たちにも10匹の独立した狼がいて一つの群れ、ファミリーであると考えています。事業を大きくしていくときには、個々の力を集結して迅速に行動す る。彼らが活躍すれば、また新しい人が彼らの周りに集まってくる。そしてその群れが、どんどん大きくなっていけば良いなあ、と考えているんです。私はその Wolf Packの中で、周りの人の渦を作りだし狼の群れを大きくする触媒、つまり狼の猟場のような存在であり続けたいですね。自分の会社を大きくするというより も、仲間を増やしていきたいと思っています。

Q: 毎日が楽しそうですね!
本当に楽しいですよ!ストレスゼロです(笑)。振り返れば、あの時は絶体絶命だったなあ、ということは色々ありますが、何年もシリコンバレーで生きるか死 ぬかを絶えず繰り返していると、その感覚が日常になって慣れてきてしまいます。優秀で人格のある人材が集まってきてくれて、普段は一匹狼だが、こちらから 何も指示しなくても動いてくれる(笑)。そんな若い人たちにエキサイティングな環境を今後も提供していければ、と考えています。

(聞き手:田巻理恵、八木誠吾)


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