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> No.15170[元記事へ]
阿部日ケ~ン(院政)さんへのお返事です。
> アク禁された方などは、今回の話題についていけないのでしょう。
> 日蓮大聖人が富木常忍に仏菩薩の木像を造ることを薦めるのは「随法毘尼」
> ではないかと述べています。
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> 「随法毘尼」が間違った「本・尊」を立て、それを拝すること容認する教え
> だというのなら、身延や興門流となにも変わらなくなってしまいます。
>
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
そのようなニュアンスで書いたつもりはありません
因みに その御書が顕されたのは 弘安2年ですが
まだ「一閻浮大総与の大御本尊(つまり完成形)顕す直前」だった・・と言う点を忘れていますよね
また 鎌倉時代の文献だと言う点も考慮した上でも その事を述べております。
当時は 今みたいに組織も編成されていなければ、形も整っておらず
また 通信手段だって、電話もなければインターネットもありません。
ラジオだってテレビだってなく 従って口コミと手紙しかないわけで
従って 暫定的な要素も当時はあった・・と言う意味合いも兼ねていたわけで
その点は 接受と立て分けた上で随法毘尼と述べています。
但し 富木常忍さんも その空気を読む事が出来なかった上
接受と随法毘尼の区別が出来ていなかった・・と点がある事と
同時に、結果的には拡大解釈を引き起こしてしまった。日蓮自身の指導責任もあるわけで、
その後の法難や御自身の入滅など考慮すれば、御自身が責任を取る形で
弘安2年10月12日に一閻浮大総与の大御本尊を顕された・・と言う別の見方も出来ます。
因みに 例の講義書も確認しましたが 該当する解説部分に関しては
やはり、そのようなニュアンスで述べられていますね
但し、この講義の発行者を確認すると松岡資の名前が掲げており
この点は非常に注意です。
個人的には かっての石田次男や原島嵩や福島源次郎
今だと 河合一や松岡幹夫等と同列にしか映りません。
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