まだ発明されていなかったはずのボールペンで書かれたアンネの日記
アンネの日記の偽作説を潰そうと、あまり程度のよろしくない「嘘」をついている人もいるようです。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』アンネの日記
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98
「問題のボールペン・インクによる記述は、最初の文書鑑定(1960年)の折りに紛れ込んだ小さな二枚の紙片に見られるに過ぎず、日記の内容に影響を与えるものでもなければ、当然アンネ・フランクが書いたものでも、ましてやメイヤー・レヴィンが書いたものでもない。この紙片の筆跡は、ドロテア・オッケルマンのものであったことが明らかになっている。」..........と書いていますが、ドイツの裁判では、そんな小さな紙切れ二枚の鑑定などしていません。「第四章」全部が、ボールペンで書かれているとなっているのです。さらに、アンネの日記の初版は、1947年に出版されたものだから、ボールペンで書かれているわけがないと主張されていますが、アンネの日記は最初から第4章までの全篇が出版されたわけではありません。
そもそもこのウィキペディアの記述は出展が明らかではありません。ネット上で類似の情報を探しても何も引っ掛かってきません。「81年にオランダ国立法科学研究所において、紙質、インク、糊などに関する文書調査と筆跡鑑定が行われ、結果、42年から44年の間に、本人が書いたものと結論付けられた。」というのも、出展不明です。つまり、便所の落書きと同じです。根拠がありません。
全く似ても似つかないアンネの自筆とアンネの日記の筆跡
この方、「1988年、アンネがアメリカの友人に送った手紙が新たに発見された。その筆跡が明らかに日記の大人びたそれと異なっていたことから、真贋論争が再燃している。筆跡の調査は、1960年と1981年の鑑定と同様に所定の手続きに基づき、政治的に中立な専門家によってなされるべき性質のものである。縮小写真を見比べて直感的に判断するのは鑑定とはいえない。」と語られていますが、筆跡が違うなら書いた人物が違うということです。単純なことです。なぜ、このように苦し紛れの偽作説否定をするのか、ユダヤとの関係を疑ってしまいます。
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左:アンネの自筆の手紙の拡大写真、右:アンネの日記の筆跡。これが同じ筆跡に見えますか?ユダヤ勢力と懇意にされている創価学会さんか統一教会さんなら、そう見えるのでしょうけれど。 |
葉書の文字は、筆記体ではないので、アンネの日記とすぐさま対比できるものではないかもしれません。しかし、手紙のほうは、筆記体です。明らかに左に傾斜した丸っこい独特の文字です。アンネの日記の右に傾斜した達筆とは、似ても似つかない別物です。同じ人物が書いた文字であるわけがありません。アメリカの友人に送った手紙の子供っぽい筆跡がアンネのものであり、アンネの日記の大人びた筆跡、格調高い文章が他人のものだということです。ただ、それだけのことです。(本ページ冒頭の左の写真が、その手紙です。)この明らかな筆跡の違いを認めない人たちには、特別なユダヤとの提携関係を疑うべきでしょう。創価学会さん、統一教会さん、いかがですか?
(参考:極東のユダヤの手先は朝鮮人宗教 http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/yudatesaki.htm)
ちなみに、アンネの日記の日本における宣伝担当は、創価学会さんです。偽書説に猛然と抗議をしている創価学会員のサイトもあります。池田さんとユダヤ裏社会の提携関係の現われです。ホロコーストの嘘の上塗りも担当されています。アンネの日記が、戦後のユダヤ・イスラエルの特権獲得の道具にされてきたことを、われわれ人類は認識する必要があると思います。
アンネの日記が偽作であることを世に知らしめたフランスのロベール・フォーリソン教授は、不当にもホロコーストの嘘を追及する行為を禁じられ、罰金まで科せられたそうです。(参考RF)馬鹿な話です。ヨーロッパでは、真実を追究すると罪に問われるそうです。法律はユダヤ人の嘘を擁護するためにあるのでしょうか?ヨーロッパがユダヤに組み伏せられ、口にぼろきれを詰め込まれて沈黙させられている光景が浮かんできます。ヨーロッパはもう、ユダヤに支配から逃れられそうにありません。
参考SP
アンネの日記は小説(フィクション), 2004/08/07
レビュアー: おぐりきゃっぷ 兵庫県 Japan
このエルンスト・ロエマーの申出に対する独逸連邦犯罪調査事務局(BKA)の調査結果を西独逸の週刊誌「シュピゲール」が暴露した事があった。
それによると、『アンネの日記』の原本恥、長期に亙って全巻が発表されていなかった。しかし裁判の結果遂に第4冊目が調査される事になったのである。その4冊目はボールペンで書かれていたと云う。よく考えれば、ボールペンが世に出て一般に使われている様になったのは1951年以降である。アンネはそれよりも遥か以前に死んでいた。第4冊目に書かれているボールペンの筆跡は第一冊目、第二冊目、第三冊目に書かれている筆跡と全く同じ物である。と云う事は、この日記はアンネ自身の手に依って書かれた物ではないと云う事の動かし難い証拠となったのである。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167651335/249-8985458-6293940
参考RF
アンネの手紙 1940年4月29日
http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/179.html
ロベール・フォーリソン教授の"Anne Frank's Handwriting"から引用
http://www.vho.org/GB/Journals/JHR/9/1/Faurisson97-101.html
The discovery in the USA of some more samples of Anne's
handwriting was announced in July 1988. This includes two letters
dated 27 and 29 April 1940 and a postcard that was sent with one of
the letters, all written to an ll-year-old penpal in Danville, Iowa.
These letters create a new problem for the State Institute for
War Documentation because the handwriting on them is quite different
than the "adult" handwriting of her letter of 30 July 1941 as well
as most of the purported diary manuscript. [http://www.vho.org]
アンネがアメリカの少女に送った1940年4月29日付の手紙です。
参考HU
ホロコーストは戦後のユダヤ特権を享受するための捏造神話
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/horouso.htm
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