戦後、総合商社は日本の経済成長をリードし、海外と日本とを橋渡しする重要な役目を果たしてきた。では、人、モノ、金が国境を越えて自在に流通し、経済や社会が大きく変化しつつある今日、総合商社にはどのような役割が求められているのだろうか。全8回にわたって住友商事のさまざまな事業活動を掘り下げながら、総合商社の「いま」と「未来」を探っていく。
日本人の2人に1人はがんにかかるといわれる。がんが末期になれば、完治させることは極めて難しいというのが常識だ。そんな常識を覆す画期的な治療法があるという。末期がんすら完治させる力を持つというその治療法には、しかし、大きな難点があった。大阪大学と住友商事は、その難点を克服することで、がん患者を救う治療装置の開発に成功した。その装置とは、果たしてどのようなものなのだろうか。
資源性ケミカル第一部に所属する大代修司。「我慢や忍耐力を持ってビジネスを進めるのが、住友商事の社風」と話す。「BNCT装置開発のプロジェクトは、しばらくの間利益を生み出すことができないでしょう。そのようなプロジェクトを推進することを許してくれている会社に感謝しています」
「BNCT」と呼ばれるがん治療法がある。「Boron Neutron Capture Therapy」、日本語では「ホウ素中性子捕捉療法」と訳される。末期がん治療にも極めて有効であるといわれるこの治療法とは、以下のようなものだ。
まず、がん患者にホウ素を含んだ薬品を投与する。その薬品は、正常な細胞には取り込まれず、がん細胞だけに取り込まれる。結果、がん細胞の中にホウ素が入り込むことになる。次に、患者の体に放射線の一種であり、ホウ素と反応しやすい性質を持つ中性子線を照射する。中性子線と反応したホウ素は、がん細胞の中で分裂し、内部から細胞単位でがんを破壊する──。この方法によって、末期がんの患者が完治したケースがこれまで何例もあるという。
BNCTは放射線治療の一種だが、従来の放射線がん治療には、悪性のがん細胞だけではなく、正常な細胞にもダメージを与えるという問題があった。BNCTが画期的なのは、正常な細胞にはほとんど影響を与えず、がん細胞のみを破壊することが可能な点にある。
しかし、この治療法には一方で大きな制約があった。治療を施せる場所が原子炉だけという制約である。京都大学で原子核工学を学び、住友商事入社後も原子力分野でのビジネスを担当してきた大代修司は、次のように説明する。
「BNCTを行うには、患者さんの体に照射する中性子線を発生させる仕組みが必要です。それが可能なのは、従来、大学などにある研究用原子炉だけでした。つまり、原子炉で治療をしなければならなかったわけです。治療法として極めて画期的であるにもかかわらず、BNCTが広く実用化されてこなかったのは、そのような理由からでした」
大代らが構想しているBNCT装置のイメージ図。右に見えるオレンジの装置が加速器で、ここで発生させた陽子線が、水色のパイプの中を流れる液体リチウムと反応し、中性子線を発生させる。その中性子線が治療室の中にいる患者に照射されるという仕組みだ
医療用に特化した中性子照射装置をつくる──。そのきっかけを大代がつかんだのは、2011年の半ばのことだった。
「取引のあったメーカーからの情報で、大阪大学の工学部が、20年にわたる研究の中で、液体リチウムを安定的に流動させる技術を確立していることを知りました。その基礎技術があれば、医療専用の低被ばくのBNCT装置をつくれるかもしれない。そう考えました」
パイプの中を循環する液体リチウムに、加速器で発生させた陽子をぶつけることで中性子を発生させる。それを、治療室にいる患者の体に照射する。それがその装置の仕組みである(図参照)。
「しかし、原子炉以外の設備でγ(ガンマ)線などの放射線を極力抑えて、中性子線を安定的に発生させるというのは、過去に例のないことでした。しかも、がん治療に必要なのはスピードの遅い中性子です。中性子が高速になればなるほど、ホウ素と反応しにくくなるからです」
大代は、メーカーの担当者や医師との議論を幾度となく繰り返した。装置をつくるのは理論的には可能である。もしそれが実現すれば、極めて画期的な装置ということになる。しかし、「理論」を「実用」に結びつけるには、実証実験を重ねなければならない。それができる場所があるだろうか。
「活路は海外にありました。英国のバーミンガム大学に実証実験が可能な設備がある。そう聞いて、すぐに英国に渡りました」
バーミンガム大学が保有していた加速器を使った実験によって、大阪大学の長年の基礎研究が実用に耐えるものであることが明確に証明された。実証実験は成功したのである。
こうして、世界初となる病院に併設可能なBNCT専用装置の開発に道筋がついた。構想中の装置全体は、一辺が20メートル、高さが6メートルになるが、すでに実用化されている陽子線治療装置などと比較すれば、必ずしも大きなものではなく、病院設置が可能なサイズだ。
「今年から開発を始め、16年までには1号機を完成させたいと考えています。まずは、大阪大学で実用1号機を製作・運用し、確かな実績を上げたうえで、国内外への事業を展開していく予定です」
大学などの研究機関は一般に、基礎研究を積み上げる役割を担っており、実用途に結びつけ、商業化を自ら行う事例は少ない。価値ある研究の成果や知見を産業や医療の分野に生かし、広く社会に還元していく。総合商社にはその役割を担う力があると大代は言う。そこにこそ、アカデミズムと商社が手を取り合う大きな意味があるのだと。
「研究機関はさまざまな技術の種を持っています。しかし、種はそのままで育つことはできません。研究機関をメーカーなどとつなげ、技術の種を育て、花を実らせること。さらにはビジネスとして存続可能なスキームを構築し、社会に広く届けていくこと。それが私たち総合商社にできることです」
研究機関と商社のコラボレーションにはもう一つ、研究の領域にビジネスの「時間軸」をもたらすという重要な意義がある。
「基礎研究や医療の分野には、今後ますます実用化へのスピードが求められるようになるでしょう。ビジネスの持つスピード感を研究や医療分野に提供することで、可能な限り迅速に実用化することもまた、私たちの役割であると考えています」
今この瞬間にも、がんで命を落としている患者がいる。一刻も早く有効ながん治療の仕組みをつくり、一人でも多くの患者を救いたいというのが現場の医師たちの強い願いだ。それを可能にするのが、ビジネスが持つスピードなのだと大代は言う。
大代が住友商事に入社して30余年が経つ。仕事人生の集大成として、BNCT装置を実用化し、事業を成功させたい。残りの人生をこの事業に捧げたい──。大代はそう語る。
「BNCT装置の実現は、人生を賭けるに値する仕事であると私は信じています。BNCTによって、命を長らえることができる人が確実に増えます。そればかりではありません。BNCTは、がん治療の後の患者さんの人生にも大きな影響を与えるのです」
手術でがんを取り除く場合、がんのある身体の部位ごと切除しなければならないケースが少なくない。結果、患者は手術後に不便な生活を強いられることとなる。BNCTならば、そのようなリスクなしに、また正常な細胞を破壊することなしに、極めて高い確率でがんを撃退することが可能になる。そうなればBNCTは事実上、世界のがん医療を変えるのである。
「装置の開発からマーケット開拓まで含めれば、おそらく10年以上の仕事になるでしょう。その10年間に私は心血を注ぎたい。そして、世界の医療界に貢献していきたい。そう考えています」
BNCT装置が広く活用されるようになり、多くのがん患者の命が救われるようになったときが、この事業の本当の意味での成功となる。その日を遠く見つめながら、大代は静かに闘志を燃やし続けている。
(敬称略)
- 【関連情報】
- ▶次世代がん治療装置(BNCT装置)開発について
八塩 圭子さんの“視点”
がん患者の命が救われ、しかも、その後のQOLも向上するなんて、BNCTは夢のがん治療法なんですね。住友商事と大阪大学が進めている事業によってこの治療法が確立されれば、がんは「治る」病として、今ほど恐れられなくなるかもしれません。
大学にある「シーズ」を市場の「ニーズ」と結びつけるという、総合商社の役割が大きく機能してこそ、こんなに画期的なプロジェクトが実現する。そして、その陰には、「この事業に残りの仕事人生を捧げて、医療界を変えたい」という大代さんのような存在がある。その壮大さと熱意に感動しました。
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