≫2011年3月11日私たちは、その後に起こる出来事を予期すらしなかった。
それは、あまりにも突然だった。
≫岩手県の沿岸を走っていた三陸鉄道。
緊急停止した2台の車両には17人の乗客。
行き場はすでになくなっていた。
≫あの日、乗客の命を救った運転士たちの決断。
それぞれの判断が2つの奇跡を呼び込んでいた。
更に奇跡は別の場所でも。
あの日、高齢者を含む327人がいた結婚式場。
≫直後、津波が到達。
逃げ場は屋上しかなかった。
≫あの日、結婚式場で何があったのか。
救出までの21時間を追った。
≫津波で水浸しの街はなぜ火の海になったのか。
取材班はそのメカニズムをひも解く貴重な映像を入手。
原因は津波が火を運んでくる津波火災にあった。
あの日の火災を生み出したその要因に迫る。
≫あの日から今日まで福島を見続けてきた安藤。
避難せずにその地で暮らし続ける人たちと3年間にわたり触れ合ってきた。
しかし…。
≫いまだ住民の帰還がままならない状況で町長が明かした驚きの復興計画。
≫あの日、原発によって失われた町を原発によって取り戻す計画が進められていた。
一方、進み始めた計画で怒りの声を上げる人たちもいる。
≫リフォームした自宅を壊さなければならない。
復興計画そのものが住民を苦しめている。
≫あの日の津波。
今もなお、大切なものを奪い去っている。
死者・行方不明者合わせて1万8000人あまりを出した東日本大震災。
私たちは、あの日から何を学ぶべきなのだろうか。
≫甚大な被害を出した東日本大震災から3年の月日が流れました。
この時間は各地と中継を結んで被災地の今を独自の視点でお伝えしてまいります。
≫スタジオには俳優の西田敏行さんと防災専門家の山村武彦さんにお越しいただいております。
よろしくお願いいたします。
西田さんは福島県出身ということでこれまでも多くの復興支援活動に参加されてきましたが3年たって、今何を思われますか?≫復興支援といいましても本当の意味での復興はこれからだということを改めて認識させられたというか。
この3年というのはあの忌まわしい恐ろしい震災、津波そして、原発事故そういったものを冷静に見直すというか冷静に思い返す時間だったのかなというふうに思いますね。
これから本当の意味での復興に向けての一歩が踏み出されるんじゃないかなと思いました。
≫3年たって、被災地の方の置かれている状況も気持ちも、少しずつ変化が見てとれますよね。
≫そうですね、諦観に近い諦めに近いものを持ってらっしゃる方もあるし、希望を持ってらっしゃる方もいっぱいいるしそういった意味では本当に複雑ですよね、今思えば。
≫この番組では震災の記憶を風化させないようまた今後の復興や防災などにも役立てられるよう津波や火災を含む映像を放送いたします。
ご留意ください。
≫被災地の今をお伝えするために各地にキャスターが飛んでいます。
まずは福島第1原発からおよそ9kmに位置する福島県浪江町に安藤キャスターが行っています。
安藤さん。
≫福島県浪江町、浪江駅のすぐそばに来ています。
私は、この3年間この浪江周辺を取材してきたんですが3年たって大きく変わったことがあります。
これです。
重機が入って危険な建物の取り壊しが始まりました。
いまさら取り壊しなんてとおっしゃるかもしれませんが全く、立ち入りが制限、禁止されてきましたこうした浪江のような地域にとっては重機が入って取り壊しが始まるというのはこれ、大きな前進大きな一歩なんです。
大きく変化しています。
しかしですね、その一方でこちらのように全く手付かずのあの3・11のあの2時46分のまま時が止まったような建物ももちろん残されています。
こうした浪江のように日中の立ち入りが許可されている地域がある一方でいまだ帰還困難地域ということで全く出入りが制限されている地域ももちろん残っています。
今回、改めてそうした地域を取材をしました。
そして出会ったさまざまな人たちから3年たってくっきりと違いが出てきた生き様それから暮らしというものを改めて実感いたしました。
そうした踏み出した人踏み出せない人たちについてはまた後ほどお伝えいたします。
≫続いて、町全体が壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町には大島キャスターです。
≫あの日、この町では800人を超す多くの命が失われました。
美しい海が自慢の南三陸町。
その犠牲のほとんどが津波による被害でした。
町の中心部の防災庁舎では43人が犠牲になりました。
しかし私の後ろにあるこの建物、海から200mという距離にもかかわらず津波に耐え、奇跡的に327人の命を守りました。
この高野会館であの日、何が起きていたのか。
そして、327人がどのように生還したのか。
震災発生から救出までの21時間の出来事を後ほど、ご紹介します。
≫そしてもう1つの中継ポイントがこちらです。
こちらの地図岩手県の三陸地方なんですがこのリアス式海岸が美しい海沿いを走る赤い路線が三陸鉄道です。
≫朝の連続ドラマですっかりおなじみになった鉄道ですよね。
≫この三陸鉄道も大きな被害をこうむりました。
3年たって、この春ようやく全線開通のときを迎えようとしています。
その現場には椿原キャスターです。
≫岩手県田野畑村にあります三陸鉄道、北リアス線田野畑駅に来ています。
この三陸鉄道が通っている岩手県沿岸部というのは地震、そして津波によって甚大な被害を受けました。
3年たった現在も列車の車窓からその被害の爪痕というのを見ることができます。
今日は特別にこの車両の中から中継でお伝えします。
≫椿原さん特別列車ということなんですけど今日はどういう方が乗車するんですか?≫こちらは地震学習列車という特別編成のものでして応募された64人の方が乗られているんです。
実際にちょっとお話を伺ってみます。
こんにちは。
今日、どちらからいらっしゃったんですか?≫埼玉から。
≫埼玉、遠方から。
どういう目的でいらっしゃったんですか?≫以前、震災前にも乗っているので、震災後はまだ乗っていなかったのでどういうふうになってるのかなと思って。
≫ありがとうございます。
遠方から、このような方々また地元の方も多く乗られているということです。
この列車はこのあと1時間かけて久慈駅へと向かっていきます。
そして、途中迎える午後2時46分震災が発生した時刻には一時停止して乗員・乗客で黙祷をささげる予定となっています。
3年前の地震発生時三陸鉄道には南北合わせて2本の列車が走っていました。
あのとき、緊急停止した車両に残された運転士そして乗客の方々はどのような行動をとって危険を回避したのか。
そこには運転士の命を守るためのある決断がありました。
≫人気ドラマですっかりおなじみになった三陸鉄道通称、三鉄。
震災で300か所を超える線路に被害がありながらわずか5日後に被災者のためにと無料で一部区間の運転を再開させた根性のローカル線だ。
三鉄は北と南の2路線北リアス線は久慈から宮古の71km。
南リアス線は釜石から盛までのおよそ37kmを結ぶ。
南北それぞれの列車が緊急停止の指令を受ける。
その後、情報が途絶え孤立した車内で一体何が起きていたのか。
3年を経て、いくつかのことがつまびらかになってきた。
≫あの日、釜石行きの列車は定刻の午後2時8分このホームから北に向かって出発しました。
≫乗客は1人旅を楽しむ観光客2人でした。
現在の終点、吉浜駅。
実はこのすぐ先に乗客・乗員3人の運命を決めた場所がありました。
あの日、無線で運転士に地震の発生を伝えた吉田さんとそのポイントへ向かいます。
そこは美しい海岸線を望む高台でした。
≫絶景をあとにした列車は全長3907mのトンネルに入った。
地震の発生情報を受け列車はトンネルを1kmほど進んだところで緊急停止する。
実は、このトンネルを抜けた先にかかる荒川橋梁は後に津波で崩落した。
つまり、トンネル前に景色を眺めるための1分間の停車がなかったら列車はトンネルを抜け橋の上で緊急停止、結果、津波にのみ込まれていたことになる。
≫だが、トンネルの中も安心はできなかった。
これは、乗客が余震におびえながら撮影した写真。
トンネル内、窓の外は闇。
今もそのときの恐怖を思い出すという。
≫余震といえども、昨日まで経験したことのない大揺れ。
不気味な音が不安を募らせていく。
直後、外部との無線が途絶えた。
山が崩れ、出口がふさがれる不安がよぎる。
このとき運転士は車両を離れる決断をする。
歩いて通ってきた吉浜へ戻る。
運行規定にはない、独自の判断だ。
≫トンネルを抜け、宮古の本社に乗客の無事が報告されたのは地震から5時間が過ぎたころ。
三陸鉄道は、この経験から震災時のマニュアルを強化。
全線で乗客の避難場所や避難経路を明確にした。
また、復旧工事が進む現場でも安全面の見直しを行っている。
例えば、この島越駅。
堤防のように盛り土をしその上に線路を敷いた。
いつでも高台に逃げられるように駅は山に隣接させた。
≫復旧に3年もの時間を要した島越。
この場所は、地震と津波の直後もう三陸鉄道はなくなってしまうかもと心配されるほど壊滅的でした。
その一部始終を記録していた人がいます。
この地区で、1軒だけ津波の被害をまぬかれた早野さんです。
早野さん一家は大の三鉄ファン。
これは、30年前に三鉄の開通を記念して始めたスクラップブックです。
その1ページ目には1984年、元旦の新聞記事。
実はこの写真、開通前の試運転を早野さんの家から撮影したものなのです。
そんな大好きな景色を津波は一瞬にして奪っていきました。
≫今も生まれ変わっていく景色を記録し続けています。
ここで何があったのか。
事実を伝え、残していくことも震災を生き抜いた者の役割と信じているのです。
≫震災の1年後私たちは三陸鉄道の北リアス線普代駅で1人の高校生と出会いました。
柳澤夢華さん。
彼女は通学途中三鉄の車内で震災に遭いました。
≫不安な時間を過ごしたはずなのに三鉄に乗りたいという夢華さん。
実は彼女列車に命を守られたのです。
≫三陸鉄道北リアス線を1両の列車が宮古に向かい南に走っていた。
15人の乗客のうち半数は通学途中の高校生。
残りは地元の人と観光客だった。
地震発生の無線を受け列車が緊急停止したのは午後2時48分。
山の中。
運転士の下本さん。
事態の深刻さが伝わっていなかったこともあってか冷静だった。
≫怪我人はいない。
まずは、沿線の被害が知りたかった。
だが3時15分運行本部そのものに避難命令が出され無線が途切れる。
時間がたつにつれ乗客に不安が広がるのがわかる。
情報が入らない下本さんも焦っていた。
その車両に乗り合わせていた観光客の1人。
≫このとき、運転士が下した決断は…。
列車を離れず列車を動かすこともせずその場にとどまることだった。
外は氷点下だが車内は暖房がきいている。
飲み物の自動販売機もあればトイレもある。
≫電車だったら停電のもとでどうにもならない。
三鉄がディーゼル車であったことが結果、乗客の命をつないだ。
このときには知る由もなかったが通過してきた野田村の線路は津波で流されこの先の島越では線路が駅舎もろとも流されていた。
進んでも戻っても無事ではいられなかった。
あの日、列車が緊急停止した場所に向かう。
とどまる気にはなれないような山の中。
≫乗客たちもわかっていた。
≫午後8時ごろ。
列車を消防団の懐中電灯が照らし出す。
かくして乗客・乗員ともに無事、救助された。
≫高校2年生のときあの列車に乗っていた夢華さん。
≫三陸鉄道の列車内で震災を経験した柳澤夢華さん。
≫彼女が震災の怖さを実感したのは止まった列車を降りてからでした。
≫人が亡くなり町がなくなる。
笑顔が失われていく時間の中で空腹を満たすときだけはひと時の安らぎに見えました。
≫16歳だった彼女の心にともったあの日の決意。
今はその夢を追いかける毎日です。
≫あの日が教えてくれたこと。
地域と寄り添う鉄道は心強い。
≫南北のリアス線で運転士の対応が全く正反対に割れたんですけれどもそれぞれの機転が生死を分けたという感じですね。
≫本当ですね。
1分間、トンネルにとどまろうという1分間の判断というのは本当になかなかできることじゃないですよ。
そのときには思ってもね。
≫それで助かったわけですからね。
≫3年前の今日三陸鉄道も含めて津波の被害を受けた鉄道路線なんですがこのオレンジ色の八戸線からこちら、ピンク色の常磐線まで合わせて10路線です。
地震発生時全部で18本の電車が運行していました。
≫西田さん、よく利用された路線というのはあります?≫僕は、三鉄はドラマのロケで1回、随分昔に乗ったことあって。
≫乗ってみていかがでした?≫いいところだなと思いながらずっと見てましたね。
スピード感がいいんですよ。
ちょうど、なんていうんですかね。
ローカル線独特のゆったりと進んでいく…。
≫けたたましいベルも鳴りませんしね。
≫新幹線を含めて列車に乗っている人に犠牲者が出ていないんですよね。
ここがすごいところですよね。
≫これだけの揺れの中で乗っている人には被害が出ていないということはすごいことですよね。
≫揺れだけじゃなくて津波でみんな襲われて列車が流されている地域がたくさんあるのに死傷者ゼロというのは奇跡的ですね。
例えばスマトラ沖地震・津波のときにはスリランカで1000人の方が列車で流されて死んでいますから、ここであれだけの被害を受けながら死傷者ゼロってすごい。
これは乗務員そしてお客さんも含めて対応がすばらしかったなと思いますね。
≫そして我々が日ごろから心がけなくてはいけないことっていうのはどんなところなんでしょうか。
≫原則は乗務員の指示に従うということとそれから災害の場合にはマニュアルにもとらわれないでその場でのリアリティー現実的な最善を尽くすということが大事だと思いますね。
≫なかなかパニック状態の中で精神状態も普通じゃなくなってきますのでなかなか冷静な行動というのは難しいんでしょうけど。
そういうときにやっぱり導き手である運転士さんがきちっとした判断をするというのがすごく重要ですね。
≫今、画面に映ってますのが三陸鉄道なんですが椿原さんを乗せました三陸鉄道見えてきましたね。
≫列車が見えてきましたね。
≫ちょうど見えてきました。
≫かわいいな、なんか。
表情がありますね、この電車には。
≫椿原さん、お願いします。
≫今、列車の右側には野田村の海岸が見えてきました。
この辺りは震災前松林が広がっていたということなんですが津波によってすべて流されてしまいました。
そしてこの海岸線に広がる防潮堤なんですけれどもところどころ津波によって壊されて流されてしまっていてその合間から、野田村の海岸が見えるようになっています。
そして今、ゆっくりと走っている列車なんですが震災前は、この線路も低い場所に敷かれていてそして、津波によって流されてしまった場所なんです。
現在は全線開通に向けて新しく線路が高い場所に敷かれました。
そして現在地は田野畑駅を出て野田村に入り野田玉川と陸中野田の間になっています。
今ゆっくりと電車が到着しました。
この場所でもう間もなく≫追悼式が行われる東京・千代田区の国立劇場です。
両陛下はまだ到着されていないようです。
震災直後、陛下はビデオを通じていち早く国民に向けてメッセージを寄せられました。
3年たった今日どのようなお言葉を発せられるのでしょうか。
≫たった今陛下が到着されました。
今日の追悼式には天皇・皇后両陛下安倍総理大臣、衆参両院の議長最高裁の長官震災で犠牲となった遺族代表らが出席して2時46分に黙祷をささげます。
天皇・皇后両陛下は震災直後にいち早くビデオメッセージを寄せられたびたび避難所を訪れるなど常に被災者に寄り添う姿勢を示してこられました。
また、おととしの2012年の追悼式には心臓のバイパス手術を受け退院されてわずか1週間でこの追悼式に出席されています。
この追悼式にも強い思いを持っていらっしゃる両陛下。
このあと、お言葉を述べられることになっています。
両陛下が会場に到着されご着席されました。
≫開式の辞。
菅義偉内閣官房長官。
≫ただいまから東日本大震災3周年追悼式を挙行いたします。
国歌斉唱を行います。
皆様、ご起立願います。
♪〜
(国歌斉唱中)≫続きまして14時46分の時報を合図に東日本大震災によって犠牲となられた方々に黙祷をささげます。
この14時46分に黙祷をささげるためこの式典会場と多くの県市町村の式典会場とが画像中継により結ばれております。
ここに東日本大震災により犠牲となられた方々に対し追悼の意を表するため1分間の黙祷をささげます。
黙祷。
黙祷、終わります。
ご着席願います。
式辞、安倍晋三内閣総理大臣。
≫続いて安倍総理の式辞です。
≫本日、ここに天皇・皇后両陛下のご臨席をあおり東日本大震災3周年追悼式を挙行するにあたり政府を代表して謹んで追悼の言葉を申し上げます。
かけがえのない多くの命が失われ、東北地方を中心に未曽有の被害をもたらした東日本大震災の発生から3年の歳月がたちました。
この震災により最愛のご親族を失われたご遺族の方々の深い悲しみに思いをいたすとき今なお悲痛の思いが胸に迫ってまいります。
ここに改めて衷心より哀悼の意をささげます。
また今なお行方のわからない方々のご家族をはじめ被災されたすべての方々に心からお見舞いを申し上げます。
被災地に、足を運ぶたび営農の再開や水揚げに沸く漁港。
災害公営住宅に入居されたご家族のお姿など復興が、一歩一歩前に進んでいることを実感いたします。
しかしながら、今なお多くの方々が不自由な生活を送られています。
原発事故のためにいまだ故郷に戻れない方々も数多くおられます。
復興を更に加速し被災者の方々が一日も早く普通の生活に戻られるようにすることが天国で私たちを見守っている犠牲者の御霊に報いる道です。
同時に大地震の試練から我々が得た貴重な教訓をしっかりと胸に刻み将来のさまざまな災害から国民の生命、身体、財産を守り抜くためたゆまず災害に強い強靭な国造りを進めていくことをここに固くお誓いいたします。
復旧・復興の前進も地元の方々のご努力関係機関の尽力はもちろんのこと全国各地から多くの支援に支えられてのものです。
この震災では、本日ここにご列席の世界各国各地域の皆様からも多くの温かく心強いご支援をいただきました。
改めて感謝の意を申し上げたいと存じます。
我が国の先人たちは幾多の困難を克服し、そのたびによりたくましく立ち上がってきました。
今日を生きる私たちもそれに習い、手を携えて前を向いて歩んでいくことを改めて、お誓いいたします。
御霊の永久にやすからならんことを改めてお祈り申し上げるとともにご遺族の皆様のご平安を心から祈念し私の式辞といたします平成26年3月11日内閣総理大臣、安倍晋三。
≫天皇陛下からお言葉を賜ります。
≫本日、東日本大震災から三周年を迎えここに一同とともに震災によって失われた人々とその遺族に対し改めて、深く哀悼の意を表します。
3年前の今日東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波は2万人を超す死者・行方不明者を生じました。
今なお、多くの被災者が被災地で、また避難先で困難な暮らしを続けています。
更に、この震災により原子力発電所の事故が発生し放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため多くの人々が住み慣れた地域から離れることを余儀なくされています。
いまだに、自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと心が痛みます。
この3年間被災地においては人々が厳しい状況の中お互いの絆を大切にしつつ幾多の困難を乗り越え復興に向けて懸命に努力を続けてきました。
また、国内外の人々がこうした努力を支援するため引き続きさまざまな形で尽力していることを心強く思っています。
被災した人々のうえには今もさまざまな苦労があることと察しています。
この人々の健康が守られどうか、希望を失うことなくこれからを過ごしていかれるよう長きにわたって国民みなが心をひとつにして寄り添っていくことが大切と思います。
そして、この大震災の記憶を決して忘れることなく子孫に伝え防災に対する心がけを育み安全な国道を築くことを目指して進んでいくことを期待しています。
被災地に、一日も早く安らかな日々の戻ることを一同とともに願い御霊への追悼の言葉といたします。
≫追悼式の会場となります東京・千代田区の国立劇場から両陛下のお言葉でした。
西田さん、本当に両陛下はこれまでも被災地にずっと寄り添ってこられましたからね。
今、そんなお気持ちのこもったお言葉でしたね。
≫本当にお心のこもったお優しい言葉をいただきましたね。
やっぱり被災者たちにとって陛下がひざを折られて優しく声をかけられたときにどれだけの希望とか勇気をもらったか本当に思うと本当にお優しい陛下なんだなってことをつくづく思います。
≫ひと言によって励まされた方が大勢いらっしゃいますよね。
本当に各地に精力的に足を何度も何度も運ばれた両陛下ですからね。
≫続いて福島にいる安藤さん。
≫福島県の再び浪江です。
今の天皇陛下のお言葉にもありました。
いまだに自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと心が痛みますとこういうお言葉がありました。
まさに3年たった、この福島ではその自らの家に戻るのか戻らないのかそれとも、戻れないのかという大きな決断を迫られている方たちがたくさんいます。
私たちは取材の中で自らの力で除染をしてまだ許されていない場所で生活を始めた男性にも出会いました。
≫10日前。
安藤優子は福島第1原発周辺の町を訪れた。
≫去年来たときはここまで壁が落ちてなかったんですね。
やっぱり、雨風それから雪にさらされて更に朽ちてきたなという感じがします。
≫安藤は震災の1年後にもこの町を訪れている。
≫もう、ずっと見渡す限り本当、人っ子一人見当たらず本当にあのときから止まったままになっています。
≫更に、その1年後の去年。
町も家も、生活が消えると朽ちていく。
だが今年はだいぶ様子が違う。
黄色い規制線が張られ各所で取り壊しの準備が始まっていた。
≫周囲の放射線量は…。
≫大体1.5ぐらいですね。
≫ちょっと高いですね。
≫町はいまだ人が住める状態ではない。
≫もう全然入ってないですから。
倉庫。
≫こっちは倉庫。
≫町長の自宅もあの日のまま。
ほぼ手付かずの状態だ。
どの家も同じようなものだという。
≫この町の思い出は3年前から止まったままだ。
が、思い出を作ることすらできなかった人もいる。
この新築分譲住宅。
購入者はローンだけを抱え一度も住んでいない。
≫もう本当に新築して3日目に震災に遭われて以来奥様は、もう、本当にショックで、この家には一度も戻ってきていないということなんですね。
≫入居できる見通しは立っていない。
≫若い家族が、すごくいっぱい夢、詰めて作ったお家なんですよね。
それだけで悲しい。
すごいや。
燃えてて。
≫この家は去年、火事で燃えた。
原因不明。
調査さえ満足に進んでいない。
人が消えた町でいくつもの問題が起きていた。
原発から程近い富岡町。
原発と共存共栄してきた町だけに回転寿司の店の名も独特だった。
安藤は、なぜか毎年この場所を訪れている。
≫あれ、こんなになってなかった。
≫震災から1年。
≫食べてた跡、そのままですよ。
≫震災から2年。
≫全く変わらないですね。
≫食器の位置は1年目と全く変わらなかった。
3年目となる今年はどうなっているのか。
≫同じです。
全く変わってません。
≫時が止まった回転寿司アトム。
だが、安藤は気づいた。
≫ちょっと不思議なのはメニューの置かれてる順番と1つ、布巾が増えていますよね。
この1年に何があったのか定かではない。
この富岡町に震災のあとも1人とどまり暮らし続けてきた男がいる。
≫お元気でした?≫俺は元気だ。
≫住民が避難したあと置き去りにされた家畜やペットの面倒を見てきた松村直登さん。
譲れない思いがあった。
≫全国から支援を受けながら動物たちの面倒を見続けている。
≫ちっちゃい。
この子はいつ生まれたんですか?≫昨日、おととい。
≫増えましたね。
≫だんだん増えるんだ、ここから。
これも妊娠してんの。
パンパンだべ、腹。
いつごろ生まれそうですか?≫今月中は今月中。
≫今も、8頭の牛が妊娠しているという。
≫原発事故のあと多くの牛が殺処分されたが≫ここの牛は生き残り新しい命まで育んでいた。
≫どこを歩いたらいいんだ?≫松村さんが見せてくれたのは葉わさび。
震災直後はこのような山菜を食べてしのいだという。
≫これがタラの芽だからここから出てきた。
≫詳しい数値は教えてくれなかったがかなりの内部被ばくだったに違いない。
その後は、レトルト食品などを中心に食べるようになった。
≫失礼します。
≫どうぞ、気にしないで。
≫猫ちゃんがいる!≫この1年で大きな変化があった。
それは、電気が通ったこと。
震災から2年去年の松村さんはまだロウソク生活だった。
≫やっぱり電気よかったですよね、ついて。
≫電気の便利さを身にしみて感じた。
しかし、原発への思いは別だ。
≫明日は我が身っていうのは本当に痛いところですよね。
≫明日は我が身。
そんなことはあり得ないと誰が言い切れるのだろう。
今回、安藤にはどうしても会いたい人がいた。
≫失礼します。
どうも、大変ご無沙汰しております。
≫楢葉町に住む伊藤巨子さん。
安藤が初めて巨子さんに会ったのは、2年前。
楢葉町は、まだ警戒区域とされ住民の立ち入りも厳しく制限されていた。
しかし、巨子さんは誰もいなくなった町に住み続ける。
93歳になる認知症の母親の環境を変えたくなかったからだ。
≫そういうご事情がおありだったんですね。
≫でもよく決断されましたね。
≫去年も安藤は巨子さんとおばあちゃんのもとを訪れている。
≫よかった、よかった本当に。
暖かそうにしてて。
ここが一番ですね。
おばあちゃまにとってはね。
≫そのおばあちゃんが亡くなった。
≫ここにいらしたんですもんね。
≫頑張られましたね、本当にね。
≫よく94まで生きたなと思ってます。
私も、悔いはありません。
こうやってお墓あるから皆さんねやっぱりここに暮らしてる方はこういうお墓も含めてやっぱり、できればここで暮らしたいって思うのが普通ですよね。
≫楢葉町を走ると除染で出たごみの山に驚かされる。
このような仮置き場が町内に22か所ある。
仮置き場の最終形がこの緑色のシートだ。
≫去年も同じ場所に私、来たんですけれどもここには除染後の汚染された土壌などを詰めた黒いパックが、むき出しに多分この規模の3分の1ぐらいの感じで置かれていたんですが今その上にご覧のようにグリーンのシートがかけられています。
ただ、このシートどうなんでしょうか。
本当にビニールシートをかけただけという感じの非常に簡便なものに見えます。
≫楢葉町は現在昼間の立ち入りは許可されているが夜間の滞在は認められていない。
しかし、住民の中には自らの判断で自宅に戻り生活を始めた人もいる。
≫夜間の滞在が禁止されている楢葉町に戻り生活を始めた人が今回取材に応じてくれた。
大和田正幸さん、80歳。
≫いつから、こちらに戻られてるんですか?≫0.1618ぐらいですね。
生活するのにこういう放射線とかは気にならないですか?≫お若い人たちもやっぱり、こっちの町にもともとの町に戻ってくるべきだと思われますか?≫だが町の再生は前途多難だ。
≫ここは随分早くから再開したんですか?倒れてる、ひどい。
自動販売機も倒れたままで。
≫浪江町で最初に営業を再開したのがこのガソリンスタンドだった。
主に復興関係の車両が給油にやってくる。
実は、そこに、町再生の足がかりがあった。
≫変わったこと、変わらないことそれから特段思われること。
≫復興作業による町の再建に町長は期待を寄せている。
≫原発に壊された町を原発の廃炉のための拠点とする。
いささか皮肉な話だが今は苦渋の選択をせざるを得ない。
≫再び福島県浪江です。
私の横には、こちらのしのぶやさんという酒店を経営されていました佐藤榮佑さんに来ていただいております。
よろしくお願いいたします。
これ、震災前のしのぶやさんの写真なんですけれどもお祭りのときに撮られたものだと思われます。
今思うと本当に変わり果てた姿になってしまったわけなんですけれども改めて3年たってこの前に立たれてどんなふうに思われますか?≫あれから3年なんでもうちょっと進んでると思ったんですけど片付けとかね。
このまま、なんか3年ただ過ぎちゃったような感じで非常に残念なんですけど、本当に。
≫やはりこの状況をご覧になると、おつらい?≫ええ。
本当にあまり来たくないんですけども。
≫日中の立ち入りが一応許可されたわけですけども戻ってきて片付けるとかそういう今、気力は?≫片付けはしても捨てるところがないんですよね。
ですから、その辺がまず…。
持っていくところがないと外に出してもね。
そのまま置いておくようになっちゃうんで。
≫まさにそこですよね。
ここで出た、がれきそれから廃材というのは普通に捨てることができないですね。
放射線物質で汚染されている可能性があるので普通には捨てられないということで佐藤さんもおっしゃるように今は取り壊すこともなかなか、ままならない。
≫そういうことなんですね。
≫今、いわきのほうでお店を再開されてるんですがこれはどういうふうなお気持ちから始めたんですか?≫やっぱり、前からいわきのほうからのお客さんがお出でになってたのでその方に声をかけられて早く向こうでやってくれなんてことだったもんですからそんなこんなで震災の年の6月ぐらいからはもうやってたんです。
≫浪江に戻る戻らないという選択があると思うんですがそこはどういうふうにお考えですか?≫やっぱり、戻りたくとも結局、根本的に線量が減らない限りはちょっとね。
どうしても無理なんで。
≫スタジオにはこの福島県同郷の西田さんがいらしゃるんですが西田さん、何か佐藤さんに聞きたいこと、おありでしょうか。
≫佐藤さん、今、どうですか。
自分の気持ちとしては浪江に戻れるぞという希望ともう戻れないぞという諦めと、どっちがパーセンテージ強いですか?≫私らの年代ではもう、復興にはかなりの時間がかかると思いますのでもう無理かなとは思ってるんですが。
戻ってはきたいんですけども何しろ根本的にやっぱり、放射線の問題がありますのでねなかなか、その辺が戻りたいとは思っても無理だとは思っちゃうんですよね。
≫今、原発の事故に対してはどういう思いでいますか?理不尽な事故だったなと思っていますか?≫そうですね。
あれは、あくまでもヒューマンエラーというかそういうあれが非常に強いと思うんですよね。
地震はともかくそのあとの、いろいろなことを考えてみますと今までやっておけばよかったというような話を聞きますので、その辺なぜやってくれてなかったのかと思いますとちょっと理不尽ですね。
≫お子さんもいらっしゃるでしょ佐藤さん。
お子さんたちはなんておっしゃってますか?≫子育て世代なのでちょっと戻れないと思ってますね。
≫まさに今の佐藤さんのお話にもありましたが戻りたくても戻れない。
戻れないというのが本音なのではないでしょうか。
浪江からでした。
≫今のお話でもがれきを片付けたくても片付ける場所がないというのは非常に悩ましいし重い言葉ですよね。
≫本当に、この原発事故による被災者の皆さんは本当に今きついところにいますね。
≫屋上で身を寄せあい名前を書いている人々。
3年前の東日本大震災翌日の宮城県南三陸町の結婚式場の様子です。
この広い会場に震災当時地元のお年寄りなど327人が集まっていました。
そして津波がやってきます。
しかし、1人の犠牲者も出すことはありませんでした。
そこには極限状態の中での判断と行動がありました。
≫3年間、公開されていなかった映像がある。
≫こちら南三陸町の市街地の状況を撮影しております。
建物の屋上に多数の人が取り残されているようであります。
現在、画面中央建物に多くの人が取り残されているのが確認できます。
≫このビルこそ327人全員の命を守った奇跡の結婚式場だった。
そこは私たちにあの日の何を教えてくれるのだろうか。
193枚の写真や映像から救出までの21時間が今、明らかになる。
あの日…。
高野会館では地域のお年寄りが集っての年に一度のお楽しみ高齢者芸能発表会が開かれていた。
日本舞踊の師範、山内さんは…。
≫24年前南三陸町志津川に誕生した結婚式場、高野会館。
結婚式をはじめさまざまなイベントを通して地元の人に親しまれていた。
しかし今は無残な姿をさらしている。
≫あの日も、3階の宴会場には地元の高齢者が大勢集まっていた。
高齢者芸能発表会には300人近くが参加。
そのさなか、午後2時46分はやってくる。
出し物が終わり司会者が締めようとしたそのとき…。
≫満員の客席の頭上でシャンデリアが大きく揺れた。
広間の高齢者たちも外に出ようと動き始める。
そこに、1つの声が響いた。
≫身を挺した部長。
この佐藤由成さん。
≫更に、司会をしていた猪又さんも声を張り上げる。
≫ここまで強く言うのには確固たる根拠があった。
過去、チリ地震など幾度も津波被害を経験した南三陸町。
その経験をもとに建てられた高野会館は民間の建物の中で唯一津波避難ビルに指定されていた。
4階建ての鉄筋コンクリート。
建物内にとどまることを決めた、お年寄りたち。
しかし津波がこの高野会館にも迫ってきていた。
今回初めて公開された映像。
海からわずか5m地点で映したものだ。
津波が町をのみ込んでいく。
≫当時、来場者の世話をしていた佐々木さん。
≫高野会館に津波が到達したころ3階から4階へ続く階段では人が立ち往生していた。
≫お年寄りはもとより早く動けない。
だが、行列が進めない理由は別にあった。
≫ここまで、なんとかたどり着いて外に出たらこれが閉まってたんですよ。
≫上へ続く階段のゲートが施錠されていた。
≫少しでも高いところへ。
男たちの懸命な介助が続いていた。
高野会館の周辺では津波が次々と家をのみ込んでいく。
次の瞬間…。
ついに、津波が高野会館を襲う。
≫津波は防火扉を破って館内に流れ込み…。
海水は高齢者の最後尾わずか150cmまで迫っていた。
館内に人々をとどまらせたあと佐藤さんは屋上に上がり津波の様子を克明に記録する。
≫死を覚悟して書きとめた記録。
このとき、多くの高齢者は4階階段上の踊り場付近で行き場を失っていた。
広い屋上部分は波しぶきによって水浸しだった。
小雪が舞い散る中足元が水に浸かりみんな必死に津波が逃れようとしていた。
かくして、282人の高齢者と近隣からの避難者福祉協議会の職員と会館の従業員総勢327人と2匹の犬が高野会館に命を預けた。
目の前でスーパーがのみ込まれていく。
その様子を屋上から見守る人。
何度も襲いくる津波を前に佐藤さんは…。
≫しかし容赦なく津波は押し寄せた。
あの日、志津川を襲った津波の高さは15.9m。
高野会館は4階建てだが天井が高い結婚式場ならではの構造のため、その高さは20.3mあった。
結果、上まで津波にのみ込まれずに済んだ。
とどまることで生き残った327人。
しかし過酷な状況には変わりがなかった。
≫彼女は、当時高野会館でマネジャーをしていた。
≫震災の1か月前従業員用として購入した非常持ち出し袋これを2つ持ち出すことができた。
中には、ラジオや懐中電灯ペットボトル10本の水があった。
≫結婚式場にとどまり一命を取り留めた327人。
しかし、非常用の水はわずかしかなかった。
≫薬を飲む人に優先的にキャップ1杯の水が配られる。
屋上の上にある機械室。
≫20畳ほどのスペースにおよそ100人が身を寄せ合い夜を過ごした。
≫あれから3年。
≫命をつないだペットボトルだった。
4階では200人以上が40畳ほどのスペースで夜を明かすことになる。
すし詰め状態の中励まし合ったという。
≫みんなの不安を紛らわすため真夜中も30分おきに、懐中電灯で暗闇を照らした。
隣のスーパーから1人の妊婦が避難していた。
彼女は10年前ここ、高野会館で結婚式を挙げている。
えにしを感じずにはいられない。
≫極限状態の夜の果てに朝日が昇ろうとしていた。
屋上には津波で打ち揚げられた魚がいた。
≫朝になり全員の名前を書く作業が始まった。
やることを作るのも避難者の心を保つことに役立った。
名簿は今も保管されている。
その場にあったさまざまな紙に書かれた名前と年齢。
ともに闘った記録だ。
午前6時58分。
ヘリが避難する人々の姿を確認する。
≫多くの避難民の方が確認できております。
≫高野会館に避難していた2匹の犬も無事、救出された。
身重だった熊谷さんは5か月後かわいい女の子を無事出産。
百夏ちゃんはもうすぐ3歳になる。
今年3年ぶりにあの高齢者芸能発表会が開かれた。
あのとき、みんなを会館にとどめた佐藤さん。
≫3年ぶりのお楽しみ。
大勢の高齢者が集まった。
柵を越えて上に上がった高橋さんはあの翌日徒歩で高野会館から避難所へ移動。
今年はコーラスにチャレンジした。
あの日、夜通し仲間を励まし続けた山内さん。
2014/03/11(火) 14:00〜15:50
関西テレビ1
あの日が教えてくれること〜東日本大震災から3年〜[字]
200人の証言を総力取材▽もし列車で被災したら…三陸鉄道から独占中継▽西田敏行・安藤優子・加藤綾子
詳細情報
番組内容
被災地や東京での追悼式の様子や進まぬ復興の現状など『今起きていること』を中継で伝えるとともに、発災直後の知られざる秘話や未公開映像から『3年前のあの時』を徹底検証。
「もし今巨大地震に遭遇したら…」自分自身や周りの人たちの身を守るための“教訓”を導き出す。
地震の発生は止められないが、悲劇を減らすことはできる。「命を守る」ために何をすべきかを、あの大震災から学びとることが真の追悼につながると
番組内容2
信じて。
◆もし私が鉄道に乗っていたら…三陸鉄道の真実
◆もし私に避難指示が出されたら…原発事故との闘い
出演者
◆西田敏行〈スペシャルゲスト〉
◆加藤綾子(フジテレビアナウンサー)・境鶴丸(フジテレビアナウンサー)〈進行〉
◆安藤優子・大島由香里(フジテレビアナウンサー)・椿原慶子(フジテレビアナウンサー)が被災地の今を生中継
◆榎並大二郎(フジテレビアナウンサー)も取材報告
◆山村武彦(防災・危機管理アドバイザー)
ジャンル :
ニュース/報道 – 報道特番
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