(cache) ララビアータ:大西巨人『神聖喜劇』

革命的主体について――『神聖喜劇』論

戦闘激烈ニシテ死傷続出シ或ハ紛戦ヲ惹起(ジャッキ)シ命令徹底セザルカ又ハ指揮官ヲ失フモ兵ハ戦友相励マシ益々(マスマス)勇奮率先其ノ任務ニ邁進スベシ。若シ敵兵我ガ陣地ニ侵入シ射撃不能ニ陥ルモ自己ノ銃剣ニ信頼シテ格闘シ縦(タト)ヒ最後ノ一人トナルモ尚毅然トシテ奮戦シ火砲ト運命ヲ倶(トモ)ニスベシ。　　　　　　　（戦闘間兵一般ノ心得）　

危機において、例外状況においてこそ、物事の本質が露呈するという主張は、必ずしも常に正しいとは限らないとしても、国家というこのつかみどころのない実体に関して言えば、戦争という例外状況の中に、その本質の一端があらわになるということは、なお真理を含んでいる。それゆえにこそ、ホメロスからトルストイにいたるまで、あまたある戦争文学は、政治哲学的考察において、時として諸学者の肘掛け椅子からつむぎだされた理論よりも、遠くまで光を放つこともあるのだ。

われわれはここに、大西巨人の口を借りて、今次大戦で民族の試練が発した稀有な証言を持っている。『神聖喜劇』という比類なき文学的冒険を論ずるには、もとよりさまざまの切り口が可能ではあろうが、ここでは、戦争という危機においていよいよその野蛮な狂暴性をあらわにする日本帝国、とりわけその軍隊に対して、徒手空拳の諸個人にして、いかなる原理で闘いが可能であったのか、そこに対抗的にいかなる公共性の原理が発現し、いかなる法が対置されるのかを見ることによって、大西巨人がわが民族の遺産として、また預言として残したものを再確認したいと考える。

【「知りません」の禁止】
さて我々も、あの有名な「知りません――忘れました」をめぐるエピソードから始めるべきだろうか？　主人公東堂二等兵が、上官から実際には教えられていない、知らされていないことを、率直に「知りませんでした」というところから騒動になる。上官の叱責にもかかわらず、あくまでも「忘れました」と言い直そうとしないことで、軍隊内部では「知りません」と言うことが禁じられているという暗黙の規則があぶりだされる。これは、上司の部下に対する責任を免責する装置であり、ついには大元帥天皇の究極の無責任を許す壮大な無責任体制のひとつの現れに他ならない。それが、単に超国家主義体制においてのみならず、今日に至るも程度の差はあれ共通するわが国の支配権力の宿痾であり続けていることは、あらためて言うまでもない。

ただ、なお指摘すべきことは、これがあくまでも暗黙の規則であり、公式に認められたものではないという点である。

――だが、こんな具合で、上官上級者による法令無視が、軍規それ自体以上に不当不文法的階級制度として下級者に押し付けられ、それが一般的に慣行化してきた。（Ⅰp－３４１　引用は、光文社文庫版のページ数、ローマ数字はその巻数を示す。以下同様）

「知りません」の禁止とは、一見すると習慣化した規範のように見え、その限りで一定の規範的妥当性をもつかのように思われるかもしれないが、実はそれは見かけだけである。なぜなら、それは実際上、無制限に上級者の無責任を許し、結果的には権力の法的制約（秩序）を攪乱するものであるから、規範の見掛けをとった無規範、秩序の形をしたアナーキーでしかない。軍の統帥権を政府から独立させ天皇の下におき、軍を天皇の私兵とすることを取り決め、また天皇を「神聖にして犯すべから」ざるものとして一切の責任の外に置いた明治憲法の中に、かかる無責任は構造的に組み込まれていたのであり、それゆえ、明治憲法自体の中に、無法、アナーキーが制度的に含まれていたことになる。

しかし、かかる法の中の無法を、法が不可避に持たざるを得ない穴（欠缺）と同一視してはならない。前者は、いわば悪性のヴィールスのように、その無法性を押し拡げ、他の領域へと感染してゆくものである点で、単なる欠如として我々の主体的判断を要請するに過ぎない後者とは区別される。後者は前者の単なる存立前提である。つまり、法の穴は、政治闘争の対象（２０３高地）であり、時宜を得た法創造的決断が達成され損なって、その空白を無法者が占めることによって、はじめて悪性の無秩序が増殖するわけである。ただし、一般の法秩序が、かかる無法者を裏社会として構造的に組み込んでいることも多い。

東堂の闘いは、一見したところでは、軍務規則の細目をくまなく記憶し、それに基づいて法的カズイスティークを駆使して推し進められているという点に、独自性があるとされるかもしれない。しかしそれは、軍務規定の最高法源が天皇の無責任な恣意にある以上、根本的に失敗を運命付けられているのではないのか？　公共的理念の欠けたこれらの諸規範の体系が、グロテスクで滑稽な形式主義に流れるのは当然なのだ。それは法ではなく、法のパロディである。東堂は、それとは違う闘い方、法実証主義とは違う政治哲学を模索せざるを得ないのである。

とりあえず彼は、軍隊の特殊性をそのままは受け入れず、「地方」（市民生活）でも通用する普遍的原理を軍隊にも適用することで、「天皇の私兵」性を何とかブロックしようとする。たとえば、瑣末とも見える漢語の読みにあくまで拘泥し、上官（堀江隊長）が、軍隊では「地方」とは別の読み方がある、一般には「弛張」を「シチョウ」と読むかもしれないが、軍隊では「チチョウ」と読む、などと主張するのに対して、東堂は心中「バカも休み休み言え。それなら『軍隊の字引』というような奇妙奇天烈な代物がどこの世界にありでもするのか」と激しく反発するのである。（Ⅰp－３４９）

しかし、この普遍性への固執は、はからずもそれ自身非合理的なものであることが明らかになる。東堂のこの感情の激烈な反応は、これが必ずしも合理的な理由に基づくものではないことを示しているのだ。「軍隊と地方に共通する文法規則がなければならない」という要請は、東堂にとって規範一般の、それゆえ合理性一般の基礎であり、それ自身合理的に基礎づけ得ないものなのである。法に対する帰依は法に基づくものではなく、合理性を追求するのは合理的理由に基づいてではない。

【非合理性】
東堂は、一個の虚無主義者として「この戦争に死すべし」という確信をいだきながら軍隊生活に入ってくる。戦争に何の意義も見出しえぬまま、しかしそれを阻止するために何の有効な行動もなし得なかった以上「一匹の犬として」無意味な死を引き受けるしかない、むしろそれをすすんで引き受けるべき人間として彼は歩み始める。その意味では、『神聖喜劇』は、人生のあい半ばで軍隊という地獄に踏み迷った主人公が、やがてその業火の中で一条の希望を見つけてよみがえってゆく『神曲』であると同時に、主人公の成長を描くビルドゥングス・ロマンであると言える。ただし、通常のビルドゥングス・ロマンでは、夢と希望を持った青年が、社会の壁に打ち当たって挫折しながら成長するのだが、この小説では逆に、希望を断念した虚無主義者が、生きるに値する生を見出してゆくという形で展開する。

虚無主義者としての最初の試練が、あの「知りません」である。己れの虚無主意義からすれば、すべてに対して無関心でもよさそうなのに、「知りません」を禁じるというあまりにも不条理な現実に対して、彼の内なる何ものかが声を上げずにはいない。それは彼の理性の声ではない。

――かかる不条理、かくのごとき仮構前提に屈従することを私は私自身に許し得ない、と言う圧倒的な衝動が、私の中の私に現れ出ていた。（Ⅰp－６９）

私は、強大な何物かに挑むような情念で「東堂は、質問があります」と切り出さずにはいられなかった。それまで短時間の私を無言無為の方向に引き留めようとした何物かの正体が、案外にも主として私の虚無主義ではなくて、いっそ主として私の損得の打算、暴力への恐怖、それほどでもない物事にも怖じ恐れてくよくよしがちな生まれつきの小心の類であった。（Ⅰp－７０）

目前の不条理に対して抗議の声を上げさせるべく激しく迫るもの――その衝迫の方が、理性的判断よりいっそう己れ自身であり、あるいは己れの存在を支えるものである。

――もしここで私が、…自己嫌悪の情緒[自らの虚無主義者としての判断とは矛盾すると感じる自己嫌悪]に私自身を任せて、後者[上官への質問を発する行動への衝動]を一時の小児病的な血気の類として葬り去るならば、何かが、ある重大な何かが、私において最終的に崩れ落ち、潰れ滅ぶであろう。(Ⅰp－７３)

もっとも、虚無主義と行動への衝迫との関係、合理性と非合理性の関係は単純ではない。なぜなら、確かに虚無主義は理性的吟味の結果であろうが、それを選び取ることもひとつの決断である限り、それは理性だけから出てくるものではないからである。しかし他方、直面する不条理を不条理と認定するのは理性であり、己れの虚無主義との不整合を反省するのは合理的であろうとするからである。しかし、不条理に直面して激しく抗弁の声を上げるのは単なる理性ではなく、合理的であろうとする激しい非合理的情念なのである。かといって、その根本的に非合理的な情念も、単純な生物的な衝動といった事実ではない。

福沢諭吉は、合理性と主体性の両立の必要を「数理と独立」という形で強調した。（『福翁自伝』）主体性や独立は、別のところでは「痩せ我慢の精神」とも言われている。「されば痩せ我慢の一主義は、もとより人の私情に出ることにて、冷淡なる数理より論ずるときはほとんど児戯に等し…」（『痩せ我慢の説』）つまり、福沢の合理主義は、その中に主体性を呑み込んで解消してしまいはしない。もっとも、数理と独立の関係は、福沢においても十分には解明されていない。『神聖喜劇』では、この点に対するヒントがある。それは「私情」が決して還元不可能な出発点とは見なされていないからである。

東堂は、己れが他の同胞とは別に生き残る価値も資格もないと判断するところから「一匹の犬として死すべきである」と考えるけれども、他方では「もし私が…人生において何事か卓越して意義ある仕事をなすべき人間であるならば、いかに戦火の洗礼を浴びようとも死なないであろう。もし私が、そのような人間でないならば、…いずれにせよ戦場を、「死」を恐れる必要は私にない。」とも考える。（Ⅱp－１８９）ここには、東堂の一種「宗教的」とも言える見方が現れている。それは、私がなすべき仕事の価値をあらかじめ予期し判断し、数え上げている者（全知）の想定である。「私」はその全知者の道具、表現、その計画の展開の契機とのみ意識される。そして、私の存在意義は、そうである限りでのみ存在し、他は無に等しい。

このような宗教性は、特定の宗教への加担とは無関係であるし、また単に主人公のみの特殊性と考えることもできない。一般に我々が主体となる過程には、言語との出会い、それゆえ規範的なもの一般との出会いが不可欠である。我々を言語的主体とするこの出会いは、トラウマ的なものであらざるを得ない。というのは、言語抜きに我々の経験も記憶も不可能であるがゆえに、言語への参入の起源は、経験として理解されることも記憶されることもできないからである。我々は常に既に、言語的主体として出発してしまっていたのである。主体の内と外を貫いて存在するこの言語的規範秩序の総体（精神分析が象徴界と呼ぶもの）は、我々が既にそれに臣従することによって初めて自己主張の主体で有り得るものの、世界の全てを既に記述し終わったかのような、その全てを全知の中に包含してしまっているかのような幻想を生み出す。それは、一方では、言語習得においては、幼児はその発話の適・不適の判断を全面的に他者の権威にゆだねざるを得ないので、言語を権威（ならびにそれへの臣従）とともに学ばざるを得ないから、言語体系の背後にひとつの絶対的権威を想定してしまうからである。それが、父であろうと社会であろうと、主体にとって権威なるものの原型となる。「父」や「権威」に反抗したり、批判したりする場合も、「真の権威」を暗黙に参照せざるを得ないから、この構造に依拠しつつ、それを強化するわけである。また他方で、主体の主体性が無視される場合、想定された全秩序の中に、その一齣としてたやすく組み込まれてしまうであろう。

かくて、全知者の高みから全てを鳥瞰するという客観主義的態度が帰結するが、それは、言語秩序との出会い・参入のトラウマ性を隠蔽・忘却することによるひとつの幻想に他ならない。人生や歴史をあたかも既に完結した全体であるかのように鳥瞰し、結果先取り的に全ての出来事の存在と意味を通覧している者がいるかのように見なすから、それらを目的論的摂理の展開、もしくは全知の中に予定されたものの実現と見ることになる。あたかも自分の人生が、かかる全知の立場からは、卓越した仕事を既に成し遂げるべく決定付けられているか、それともそうではなく決定されているか、いずれかに予定されてしまっているかのように見なされる。その意味では、包括的な唯物論の立場から歴史の必然を説くスターリニズムとも酷似している。歴史に対する高みの見物的客観主義―主体性の否認。つまり東堂の宗教性には、人間が言語的主体である以上持たざるを得ない一般的構造を、とりわけ先鋭に表現するものであると同時に、スターリニスト的歴史観と酷似した側面を持つものでもあるのだ。問題は、象徴界―主体の共通構造を基盤にしつつも、スターリン主義的「宗教性」が唯一不可避の表現なのかどうかである。

東堂は「安芸の彼女」との対話の中で、「本筋の人生」は「余計な人生」とは別のどこかに存在するわけではなく、ひょっとしたら「余計な人生」を生き抜くことの中にこそ有るのかもしれないという可能性に思い至る。

――ではあなたは、一つにはそれがそうであるかないかを見極めるために戦争に？（Ⅱp－１１６）

当初の東堂の自己理解では、「死ぬか死なぬか突き止めるためにこそ戦争に行く」（Ⅱp－１８９）ことと、「余計な人生を耐えて生きることが本筋の人生」（Ⅱp－１１５）なのかどうかを確かめるために戦争に行くこととが、同じこと、類似のことであるが、実際には大きな違いがある。象徴界の絶対性（全知）を想定し、歴史を先取りしつつ、その全体を完結したものとして捉えること、つまり、宿命的人生観（the fatalistic acceptance of warⅡp－１８０）に立てば、行動（参戦）は、既に決まった宿命（神の予定）を知るために賭けをするという意味しか持たない。行動の意義は、既に全知の中に、その一齣として書き込まれ組み込まれたものでしかない。想定され、予定された全体に比すれば、全ての細部は、ただちに最早どうでもいいもの、無関心なものになってしまうであろう。しかし、そのような予定説的決め付けを断念し、「余計な人生」を耐え忍び闘い抜くことは、そのいかなる細部をも似非全体、似非理念、似非絶対に譲り渡すことなく生きることを意味するはずである。つまり、虚無主義・シニシズムの逆を意味するはずである。

ここに「余計な人生」と「本筋の人生」の弁証法的絡み合いが示唆されよう。東堂は、いったん人生を高みから鳥瞰して、己れの人生を「余計な人生」と決め付ける（このとき彼はスターリニスト的人生観に接近する）。あたかも「本筋」を捉える高みから、実際に人生を見たり、この両者を見比べたりして「余計」と判断することができるかのようであるが、そんな理念や高みや比較の見地自体が、仮初のもの、まやかしのものである。むしろ、この両者の間に何らかのつながりを見出し、あるいは少なくともそれを予感し、余計な人生から本筋へと至る隠された路を模索することが課題となろう。これが、踏み迷った地獄からよみがえる路である。

東堂が共感を込めて思い出す戦争詩人アラン・シーガーにおいては、「危機に瀕しつつ生きることへの願望」が「愛するフランスおよびパリへの実直な忠実感情」（Ⅱp－１９０）という仮初の理念に依拠することができたため、東堂のように果てしなく自問自答する必要がない。そのため、戦争は、「個我主義的な冒険的人生経験の舞台」（Ⅱp－１８８）として機会主義的に利用されてしまうのである。このような偽装された理想主義が、政治的ローマン主義に転落するのは、こうしてである。「理念」や「大義」や「戦争」は、人生の細部を捨象するための口実になってしまうのだ。しかし東堂は、「余計な人生」を、その無視し得ない細部とともに耐え抜くこと以外に、「本筋の人生」を問う路がないことに、やがて気づいてゆくのである。

一般に、東堂の思考は、次々と自分の分身のような人物や思考様式と、鏡像のように直面することを通じて、そこからの類似と差異を反省するという形をとって進行する。小説の中に引用されるおびただしいテクストは、そのような役割を担っている。たとえば、作品の中で重要な役割を果たす村上少尉という人物がいる。日本ローマン派保田与重郎に近い「聖戦賛美」主義者にして、人望厚き模範的な青年将校である。東堂にとっては、イデオロギー的には水と油のような立場であるが、東堂自身は村上の中に自己の鏡像を見る。

――ある意味においては鏡に映った私自身に瞳を凝らすような心持で、私は、村上少尉に瞳を凝らしていた。（Ⅱp－４９）

村上の中に自己の鏡像を見ることによって、東堂は自分が当初考えていたような「進取的自由人」などではなく、封建的諸観念に依拠して自己形成してきたこと、ことに父から理念的武士道を叩き込まれた人間であることに思い至る。つまり、彼は己れ自身の中で、明らかに村上＝保田的なもの（一種の理想主義的純粋性）に、理性的判断を超えて惹かれるものを感じるのである。

このような非合理的共感は、主人公に理性的反省を促すが、同時に、保田の言説自体の中にあるわずかな偏差に気づかせる。それは、日華事変直前の言説に見られるような、古の王朝の伝統への共感を強調する「理想主義的純粋性」（Ⅱp－３７）から、日華事変第二年次における「超国家主義的・聖戦賛美的政治色」への、時流におもねった推移であり転落である。保田自身はおそらくは自身がこのような順応主義的横滑りをしているのに気づかないのだが、東堂は村上への共鳴を通して、またそれゆえ保田への共感を通して、保田の言説の中に、共鳴し得るものと、し得ないものとの間の乖離を、意識せざるを得ないのである。さらにこれは、一見相違・対立するものが、その実、深く通底しているという洞察と反省へと彼を駆り立てる。

――もしくは、あとの「緒言」[超国家主義的・聖戦賛美]が、前の一種の理想主義的純粋性の必然的展開であったのか。(Ⅱp－３７)

そうであれば、戦争は「殺して分捕るが目的」と言う大前田軍曹の本音は、「むしろなかなか『日本古来の武士道』に叶っている」（Ⅱp－４０）のではなかろうか？日中戦争における略奪盗賊的帝国主義が、武士道に反するものであるどころか、本来の「日本古来の武士道」への先祖返り的反復に過ぎないかもしれないという苦い認識を立証する証拠が、東堂の記憶在庫から次々とかり集められる。

以上のような心的過程の克明な分析は、伝統的な小説技法（たとえば、フランス心理小説）における内面分析とは違って、反省主体や意識の支配や同一性や透明性、知的誠実性を前提としたものではなく、無意識へ深く踏み込んだものとなる。それが可能であるのは、意識の舞台で全てが進行するのではなく、テクストであれ、現実の人物であれ、主体の外に出現する他者との間で、主体が相互主観的舞台で劇を演じるような形で、自己の気づかなかった側面があぶりだされるからである。試練としての、実験的吟味としての他者との直面。それによって、主体は自己を支えている言語的規範的秩序を絶えず参照するのであるが、同時に、その秩序を固定した全体と見ることから距離を取ることができるのである。つまり、ここで参照される象徴界は、完結した全体でも、絶対者でも、全知ですらもなく、いたるところで亀裂や不整合を含んだ複雑な地層のごときものであることになる。主人公の自由は、象徴界の歯車として、あるいは歴史の必然の一齣として、絶対者の言いなり、傀儡として生きることにあるのではなく、この亀裂をあばき出し、その狭間に自己主張の可能性を模索することにあるだろう。それは、普遍化可能な理性の定言命令でも功利的理性の計算結果でもない。なぜならそれらいずれの合理性も、規範的象徴体系（法）の適応または一事例に過ぎないからである。ここで問題となる主体の自己主張とは、かかる法の単なる適用ではなく、法の創造となるはずである。

それでは、法創造としての主体の自己主張（自由）はどのようにして実現されるのであろうか？　自らの内なる共鳴ということを介して、他者の見かけ上一貫した言説の中に走る亀裂を見出し、それを丹念に際立てる思考が、一見したところ隙間のない、のっぺらぼうの絶対者の一枚岩に、楔を打ち込むことになることは理解できる。しかし、その亀裂の中に主体はどのような声を差し挟むのか？　またそれが、どのような形で他者の耳に届くのか？もし主体が、普遍的理性としても、功利的理性としても、自己を自己として立ち上げることができないとすれば、主体の声はどのような形で公共的に受け取られ得るのであろうか？無視される発言は、行為としては空転するものである以上、十全な意味で自由な行動とは言えない。言葉が公共的な何事かを打ち立てるのは、いかにしてであろうか？必ずしも理性に基づくものでない発言が、いかにして公共性の次元を獲得するのであろうか？

【革命的主体】
ここで我々は、軍隊内での陰湿ないじめの極みと言うべき「模擬死刑」のエピソードに言及せねばならない。正真正銘の愚者であるために揶揄的に「ガンスイ」（元帥＝愚者）と呼ばれている二等兵末永が、些細な罪を犯したことをとがめ立てて、上官たちは死刑を模して、彼を脅しにかかる。末永は本来の「ガンスイ」であるため、それが見せかけの脅しであることがわからない。それをいいことに、上官たちは模擬死刑の残酷な戯れによって、末永を痛めつけるのだ。ついに東堂は、見境もなく叫ぶ「止めて下さい。誰にも許されていません、そんな事をするのは」。それと同時に冬木二等兵も「さながら山彦のように」同じように声を上げていた。（Ⅴp－３０４）

瑣末なまでに軍務規定に拘泥して、それを盾にして法的闘争を闘う東堂流の闘いは、いまや無力である。東堂と冬木の二人は、「人の命をもてあそぶことは許されない」という内面の人倫に直接訴えて、無防備なまま立ち上がるしか、もはや打つ手がない。ここでは裸の人倫的原理とむき出しの暴力が、法を超えて対峙せざるを得なくなるのである。そのとき、この暴力を前に、冬木と東堂は、まったく政治的に無力なまま曝されようとするのだ。

まさにこの瞬間、村崎古兵の言葉が突然介入する。

――第三班の兵隊。そのまま聞け。かわいそうな末永二等兵のために、東堂たち戦友が、身代わりに立って罰を受きょうちゅうとに、同じ第三班のお前たちみんなが、ただボサーッとして見とるつもりか。自分も身代わりを請け合おうちゅう兵隊は、おらんとか。おったら、名告って出て、ここに、身代わり戦友たちの左翼に、ならべ。（Ⅴp－３２６）

村崎の介入は思いがけぬ政治を呼び込む。彼とても、直接上官の暴力に抗弁することはできない。ただ、他の兵に向かって「ともに犠牲に立つものはいないのか」と呼びかけるだけである。この呼びかけに、次々と戦友が呼応して東堂たちの横に並び始める。

ここに突然開かれる公共性は、もはや東堂がよりどころとしていた実定的規範のそれではない。その意味で、村崎古兵の言葉こそ革命的なものである。明治憲法ならびにその下でのあらゆる実定的法秩序に依存した「公共性」に対して、村崎古兵の呼びかけは、新しい公共性を断固として対置するのである。それは、平気で「人の命をもてあそぶ」軍の無法に対して、一個の「ガンスイ」の命をもおろそかにしない人倫の要求に沿う法の対置であり、それを実質的に担保する政治権力を打ち立てる革命的・政治的連帯の対置である。

ちなみに、村崎が決して反軍的イデオロギーの持ち主でないことは、注目に値する。この事件に関して、村崎に対する最も過酷な処分を言い張った村上少尉に対して、彼は信頼と崇拝を最後まで失わない。むしろ、村崎の革命的呼びかけは、戦場の経験と親和的なのだ。戦闘激烈にして、指揮官を失うとも、戦友あい励まして戦列を守り、たとえ最後の一人となるも、譲りえぬ一線を心に刻んで持ち場を守ることが、「戦闘間兵一般の心得」であるからであり、そこには単なる盲目の忠誠心ではなく、個々人の自立した意志に支えられた公共性の次元が、すでに現れているからである。

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ララビアータ

2014年03月12日

大西巨人『神聖喜劇』

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