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2014-03-12

ブラック奴隷制度『それでも夜は明けるブラック奴隷制度『それでも夜は明ける』を含むブックマーク

それでも夜は明ける』鑑賞。

2014年度のアカデミー賞作品賞脚色賞助演女優賞を受賞した作品*1です。監督は『SHAME シェイム』でマイケル・ファスベンダーのおちんちんをスクリーンいっぱいに映したスティーブ・マックィーン*2

以下、エンディングも含めた解釈を書きますネタばれになってます

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今となっては人間であれば肌の色や出身地に関わらず基本的には平等に扱いましょうという法律がたいがいの国で施行されていて、表だって胸張って差別は出来ないようになっている。その上で、他国民他民族への差別意識を抱えるネトウヨ、在特会、浦和レッズサポーター、自民党や維新議員、そーりだいじんなどは、脳みそが耳かきで2杯分しか無いことが科学的に証明されており、早々にしかるべき施設へ収監すべきである。という問題は置いといて。

今どきは人間種どころかフォアグラ製作工程がカモに対して残酷だと弁当屋にクレームが入ったり、イルカやクジラのために海賊じみた暴力行為で調査船や漁業船を脅したりと、本末転倒としか言い様の無い事件が起きている。ただ、今の世界ではカモを慮ったり、イルカやクジラを過保護にすることは、少々行き過ぎた動物愛護精神のように思われているが、100年後、200年後どうなっているかは解らない。

1800年代のアメリカ南部では黒人奴隷は家畜よりも低く扱われており、そもそも人間では無かった。

それでも夜は明ける』はニューヨークで自由黒人として生活していたソロモン・ノーサップが奴隷商人に誘拐され奴隷制のあるニューオリンズへ売られ、12年もの間、奴隷として働かされた史実を元にした映画だ。

奴隷制度が施行されている理不尽世界の中で、特に奇妙に映るのはソロモンが「転売」されていく先々の農場主たちが皆、クリスチャンであるところだ。奴隷家族を集めて聖書を読み神に祈りを捧げ、ことあるごとに神の御心を讃える。その一方で、人間奴隷として購入し、気に入らなければ鞭で打ち、気に入った女性奴隷レイプする。

姦淫や暴力キリスト教の罪になるハズだが、奴隷黒人椅子や皿などと同じ「所有物」だ。殴ろうが蹴飛ばそうが殺そうが所有者の勝手神様がどうこうという話にはならない。というのが、敬虔クリスチャンでありながら奴隷を使う農場主の言い訳だ。

家畜なら喰うために殺されても「天国に行く」が奴隷は死んだら、ただそれだけ。命の尊厳は家畜よりも低い*3

しかし、肌の色や顔だちが違うとはいえ、同じ種類の生き物であることに言い訳は利かない。話す言葉も同じなら、同じ信仰を持った、同じ人間だ。所有物だと自分に言い聞かせてみても、好意を寄せてしまう心持ちは説明できない。虐げられる側にとってはなおさらだ。殴られ蹴られ、無理やり鎖につないでおいて「野蛮人」とはどっちのことか? と。

本作は奴隷制度に代表される過ぎた主従関係が、主人となる人間と従者となる人間それぞれの精神を容易く崩壊させるという人間種が持つ生物的な特性を描き暴く。

マイケル・ファスベンダー演じる暴力的な農場主エップスは、奴隷たちを家畜以下に扱い、働きの悪い奴隷に鞭を打ち、女性奴隷パッツィーを毎晩のように犯す。奴隷であるパッツィーに情愛の念を抱いていることを自覚し、また妻にそれを指摘されると反論するように彼女に鞭をかまえる。しかし、自分では打つことができない。神様の前において、人間では無いということにしておかないといけない奴隷に対し、人間に抱くのと同じ情愛を持つ矛盾や軋轢に真っ当な精神はいられなくなる。結果、酒におぼれ、狂騒的に騒ぎ、暴力性を増長させていく。

奴隷の側は、気の狂った主人の前で生き延びるためにウソをつき、他の奴隷を貶め、主人に成り替わって暴力までふるう。劇中序盤、2人の子供と生き別れた母親人間らしく別れに涙を流して泣き続けていると、辛気臭いと女主人に嫌われて転売されていく。奴隷人間らしくあればあるほど、死に近づいていく。死から逃れて生き続けようとすればするほど人間から遠ざかる。

この情景は現在の日本、ブラック中のブラック企業であるワタミのキチガイ渡邉美樹と、キチガイに心酔する社員の間柄にも見られるだろう。

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終盤、ブラピ演じる流れ者の労働者バスの手引きにより、ソロモンは晴れて自由黒人であることが証明され、家路につく。

この『それでも夜は明ける』の物語は「ある男が外に出て、地獄めぐりをさせられて、家に帰る」という骨子を持っていることからも解る通り「オデュッセイア」に代表される「行きて帰りし物語」だ。「行きて帰りし物語」というと、現在公開中の『ホビットシリーズ原作タイトルである。また、その続きの『ロード・オブ・ザリング』も旅の仲間と滅びの山へ「行きて帰りし」物語だ。また、インド神話叙事詩ラーマーヤナ」もラーマが国を追放され、妻を誘拐され、彼女を助けるためにスリランカへ渡り、戦争をして戻る「行きて帰りし」物語だ。それらの物語に共通するのは、あまりハッピーエンディングでは無いというところだ。

オデュッセイア」はやっとのことで家に戻ると妻に言い寄る男どもで家が荒らされている。「ホビットビルボ・バギンズは金銀財宝と共に帰るが「ひとつ指輪」も持って帰ってきてしまう。「指輪物語」は、指輪破壊したために中つ国から魔法」の力が消えていき、フロドはビルボや指輪に関わった「異形」の仲間と「あちらの世界」へ旅立ってしまう。「ラーマーヤナ」の主人公ラーマ王子悪魔軍団との戦争の中で、敵対するサル軍団の頭領をとっさに後ろから襲い殺してしまう。その卑怯な手段を頭領の妻にとがめられ「戦争が終わって家に帰っても幸せな帰還にはならない」呪いをかけられてしまう。

それでも夜は明ける』のソロモンも粗末な奴隷作業着から、飾りのついた服に着替え、家族の待つ家に入り、12年分育った子供と妻、娘の旦那と新たに生まれた孫を前にしてもまだ、素直に喜べない。

他の奴隷を置き去りにし、やらされたとはいえパッツィーに鞭を打ち、チクられた窮地から逃れる自己保身の方便はいウソをつき、そうまでして生き延びて、あまつさえ人間として家族の元に帰るソロモンの心情は察するに余りある。ソロモンは生きて帰還したことまで含めて、試練として背負っているからだ。

そこには、中つ国の命運を自らの命と引き換えたフロドや、悪魔に支配された世界と戦友ハヌマーンを救うために不意打ちをしたラーマ王子同様、鑑賞者(読者)の罪悪感まで背負う姿がある。そこには、全ての人々の罪を背負い磔けられたキリスト殉教の姿が重なる。

上記したように奴隷制(やそれに似た制度)は関わった人すべてを狂わせる、人間種の生理と反した制度だ。その地獄のような制度に投じられ、辛酸を舐め、帰還したソロモンを「行きて帰りし物語」として神話的に描くことで、本作は反論不可能な「正しさ」を孕んでしまっている。

たかが鑑賞しただけのボク自身の罪まで背負って勝手贖罪してしまうような「正しさ」が持つ息苦しさに困惑させられる。どこかに瑕疵が無いものかと探しまわるが見当たらない。結局、ひれふさせられるほどの力強い「正しさ」の前に屈伏してしまう。その可愛げの無さが愛せない。

そして、ついサミュエル・L・ジャクソン悪態をつきながら白人農場主を殺してまわる『それでも陽は暮れる』を夢想してしまうのだ。

*1アカデミー賞運営監督賞を取るだろうと予想して、監督賞プレゼンテイターにシドニー・ポワチエをひっぱり出し、エスコートブラピの嫁、アンジーを配したが、見事にはずして変な空気になってた

*2:産まれたときに『ブリット』がヒットしていたので、「スティーブ」名を付けられたそう

*3:実際に、当時のアメリカでは人の家畜を殺すよりも奴隷を殺す罪の方が罰金が安いし、もちろん殺人罪にはならない

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