2011年10月16日スタート日曜よる9時放送
第一次越冬隊を 「 南極大陸 」 へ残し、東京へ旅立った 「 宗谷 」。
ドラマ 『 南極大陸 』 は、“第一次越冬隊” を中心に描かれますが、白崎第一次観測隊長を乗せた 「 宗谷 」 が帰国するまでには、往路同様に困難に見舞われました。
「 宗谷を知ろう!」 第5回では、そんな 「 宗谷 」 が 『 奇跡の船 』 と呼ばれるに至った経緯を紹介します。
「 宗谷 」 を建造したのは、“川南工業” という造船所です。
川南工業の創業者・川南豊作は、明治35年 (1902年) に富山県で生まれました。県立富山水産講習所で学び、製缶工場に実習生として勤務後、独立を目指して退職。工場設立に成功し、ソーダとガラスの製造事業を始め、コスト削減には船による大量輸送が必要と知り、造船に目を向けます。
そして、昭和11年3月。川南豊作は、長崎県の香焼島に12年間閉鎖されたままなっている “松尾造船所” の存在を知り、視察に行きます。
視察に行った川南は、吉田三茂という松尾造船所の守衛長をしていた男と出会います。吉田は、造船所が閉鎖されてからも、恩のある松尾孫八社長のために、毎日警備に来ていたのでした。この話に感動した川南は、直ちに松尾造船所を買い取ることを決めました。そして、松尾孫八 (松尾造船所社長) に顧問への就任を要請、吉田には守衛長を任せることにしました。このような人々で再建すれば、必ずよい会社ができると確信したからです。吉田守衛長は、不幸にして間もなく病に倒れて亡くなりましたが、川南は社葬をもって弔い、住まいのあとに碑を建てて、その人徳を称えました。松尾造船所には、昔の工員が呼び集められて再建されました。そして、わずか3か月後には、復興初の第101番船 「 下松丸 」 の起工を行いました。
その頃、ソビエト連邦 (現、ロシア) は、音響測深機 (水深を図る装置) を装備した耐氷型貨物船3隻を建造可能な造船所を探しており、“松尾造船所” が、この3隻を受注することとなりました。この2番船が、のちに 「 宗谷 」 となる船です。
昭和11年 (1936年) 9月、松尾造船所は、ソ連より3隻の建造を受注、竣工予定を第1船は昭和12年6月末、第2、3船を9月末として契約しました。自信を深めた川南は、松尾造船所を含めて事業を統合し、川南工業を設立しました。
昭和11年10月31日、のちに 「 宗谷 」 となる船は、第107番船として資材置き場に急遽造成された船台であわただしく起工されました。しかし、工事は大幅に遅れ、昭和13年2月になって、ようやく進水式を迎えるこことなります。船は 「 ボロチャエベツ 」 と名付けられました。
進水式を終え、艤装工事を始めたのも束の間、さまざまな事情により工事はさらに遅れをきたし、海軍からの要請もあって、川南は3隻の耐氷型貨物船をソ連に引き渡さないことを決断します。
そして、のちに 「 宗谷 」 となる第107番船は、「 地領丸 (ちりょうまる)」 と名前を変え、昭和13年6月に竣工しました。
(photo)
昭和13年7月、船体を若草色に再塗装した 「 地領丸 」 は、香焼島を離れ、長崎に向けて再航海に旅立ちました (写真1)。「 地領丸 」 は、中国を中心に雑貨を運び、その後、栗林汽船のチャーターとなって函館を基地にカニ工場を結ぶ航路に就くこととなります (写真2)。
進水直後から耐氷型の 「 地領丸 」 に注目していた海軍は、買い上げを具体化してきました。というのも、海図の作成には測量が必要となるのですが、水量測量用に旧式艦を用いていました。海軍は、これらの旧式艦が除籍となるため、測量艦として (表向きは運送艦として) 「 地領丸 」 を購入することに決めました。
海軍籍となった 「 地領丸 」 は、測量業務に従事する特務艦となるため、改造工事が行われた。そして、昭和15年2月、「 地領丸 」 は名前を 「 宗谷 」 と変更。海軍所属の艦艇の名前に“丸”は付けない事、特務艦の名称には “海峡名を用いる習わし” となっていた事から、北海道最北端の宗谷岬の宗谷海峡にちなんでこの名前が選ばれました。
昭和15年6月、全体を灰色に塗装し、艦尾に軍艦旗を掲揚して、特務艦 「 宗谷 」 が東京で完成しました。耐氷構造を生かし、千島列島、樺太など北方での測量業務に従事しました。北方の測量業務が終了すると、「 宗谷 」 は横須賀鎮守府所属となります。そして、10n11日には 「 紀元2600年記念特別観艦式 」 にて見学者を乗せる拝観艦の一隻として参加、10月下旬には、南洋諸島の測量業務を行うこととなり、昭和16年1月〜4月まで第2回の南方測量、5月〜11月まで第3回南方測量を行いました。
昭和16年12月8日。太平洋戦争が始まると、「 宗谷 」 は燃料や食料などの物資を満載、戦地へと出港しました。昭和17年1月、前線基地のトラック島に入港し荷揚げ中、大型爆弾機が飛来し、爆弾を落としていきましたが、幸いにも爆弾は外れました。横須賀に戻った宗谷は、連合艦隊の第四艦隊に編入され、第四測量隊として測量業務を行います。戦下、最前線の島々の測量業務を行い、時には作戦のために陸戦部隊を輸送することもありました。
ここから、「 宗谷 」 が 『 奇跡の船 』 と呼ばれる奇跡の数々が続きます。
「 宗谷 」 がどのような運命を辿ってきたのか… 「 『 奇跡の船 』 と呼ばれた 「 宗谷 」 の奇跡・その2 」 をお楽しみに!