「復興が遅すぎる」。東日本大震災から3年を迎え、そんな指摘が絶えない。
役所の縦割り、土地確保の難しさ、人手や建設資材の不足……。解決すべき課題は、なお山積みである。
一方で、当面の遅れを覚悟しつつ、事業を急ぐ国や自治体に待ったをかけた住民がいる。
どんな思いから立ち止まったのか。
■危機感から勉強会
宮城県気仙沼市で今月初め、住民参加の小さな会合が開かれた。発言はおのずと防潮堤の建設問題に集まった。
約1400人の死者・行方不明者を出した悔いと、水産業や観光業という市の強みが防潮堤で損なわれかねないという懸念が交錯する。
「防潮堤は高い方がいいという人もいる。しかし、市が掲げるのは『海と生きる』。高すぎる防潮堤はいかがなものか」(医師の森田潔さん)
「家族を失った人に『防潮堤はいらない』とは言いにくい。でも、造れば維持管理や建て替えの費用が子孫に回る。波も守れない、ボロボロのコンクリートが残ったら……」(和装品会社社長の高橋和江さん)
発言した人の多くは「防潮堤を勉強する会」の参加者だ。大震災から1年余の12年夏に発足した。
当時、県が地区ごとに防潮堤建設の説明会を開いていた。住民は足元の生活再建に追われ、専門用語が飛び交う説明に沈黙するばかり。県側は「特に異論は出なかった」として手続きを進めようとする。
危機感を抱いた気仙沼商工会議所の菅原昭彦さんらが水産・商工業者やNPO関係者に声をかけ、30人近くを発起人として自由参加の会を設けた。
■二者択一ではなく
いきなり是非を議論すれば対立を招く。そもそも、防潮堤について何も知らなかった。賛否は脇に置き、行政の担当者やさまざまな分野の専門家を次々と招いて話を聞いた。
いろいろなことがわかった。
どの程度の津波を、どれくらいの高さの防潮堤で防ぐか。それを決める手順を国がまとめたのは、震災からわずか4カ月後だった。過去のデータや計算をもとに宮城県が高さを決め、気仙沼市内では数メートル~十数メートルの堤防が必要とされていた。
堤を高くすれば安全性は高まる。だが、防潮堤のために産業がすたれたら、子や孫は気仙沼で暮らしていけない。
勉強会の参加者は「守るべきものは何か」と同時に「住民の合意とは何か」も問い続けた。
住民全員の考えが一致する「合意」作りは難しい。多数決で決めるわけにもいかない。「防潮堤は必要か、不要か」という二者択一ではないはずだ。多くの人が「納得」できる方法はないか。
県に示す代替案づくりでは、広くアイデアを募った。選択肢を増やし、それを絞り込んでいく過程が、一人ひとりの納得につながると考えたからだ。
昨年8月と9月には、計画通りの建設を主張する村井嘉浩知事を招いて直接、対話した。溝は埋まらなかったものの、知恵を絞ることでは一致した。
今年1月、市の顔である気仙沼湾の最奥部、内湾地区について「最終案」が示される。
最初は高さ5メートル余の堤で湾をぐるりと囲む案だったが、一部で堤をなくし、別の区間では堤の上に海が見える広場を造る。津波時に立ち上がる金属製の可動式扉を組み合わせ、ふだんの高さを抑える区間も設けた。
内湾から船で20分の大島でも、地元の反発を受けて県が二つの浜で計画を改めた。
■将来世代への責任
ただ、住民が県に異議を申し立てて変更を勝ち取った例は、ごく一部にすぎない。
「国や県に刃向かって予算を削られたら大変」「防潮堤でもたつけば、漁業施設の整備も遅れてしまう」。こんな声が少なくないのも事実だ。気仙沼市によると、90近くある市内の防潮堤事業のうち、すでに7割近くで作業が進んでいる。
復興は簡単ではない。津波で市の内陸部に打ち上げられた大型漁船を昨年秋に撤去したら、訪れる観光バスが激減したという厳しい現実もある。
それでも、会議所会頭に就いた菅原さんは「防潮堤を議論した過程自体が、今後の街づくりの土台になる」と前を向く。
被災地の復興は、息の長い取り組みになる。行政主導の対策が住民の考えとずれたり、住民同士の利害が対立したりして、うまく進んでいない例があちこちで見られる。
気仙沼の模索から学ぶべきは「将来世代への責任」と「今を生きる住民の納得」だろう。そのために、行政任せにせず一人ひとりが自ら考え、一致点を見いだす努力を重ねていく。
少子高齢化と財政難のなかで苦闘する、被災地以外の地域にも問われている課題である。
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