感謝のプログラミング 10000時間

ネテロ会長を尊敬する浅井章一郎のブログです。

大学受験にも偏差値にも意味がある。ただし、偏差値で人間を判断する意味はない。


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茂木健一郎さんのツイートが物議を醸し出している。

知らない人はいないと思うが、茂木健一郎さんは、東京大学を卒業している。
彼が入学した東大理学部の偏差値は70以上。当然、日本最高のレベルだ。

そんな最高学府を卒業した脳科学者、茂木さんが昨夜、雄叫びをあげた。
それが冒頭のツイートだ。

それに対して、自分は以下のように考えた。

受験とは、記憶力を駆使して、決められた範囲の知識を、決められた時間で詰め込むゲームみたいなものだ。
ただの暗記ではなく、ものごとを理解する力も問われる。
大学受験は、そのゲームに本気で取り組みための仕組みだ。

大学受験がないと、本気で勉強したことがないまま成人になる人が、今の数倍に増えてしまうだろう。

そして、偏差値は、ただの基準だ。
その基準がないと、自分の努力の成果がわからない。
目標も定められない。

人は目標がないと努力できないし、基準がないと努力の成果を評価できない。

だから、偏差値自体が悪なんてことは、ありえない。

受験の方法を変えたり、諸外国に習って、色んなやり方を模索するという議論はもちろんある。
しかし、自分はそれについては詳しく調査できていないので、今回の記事では触れない。


それでも、自分の経験から言えることは、偏差値を基準にした受験勉強には意味があったいうことだ。

本気で勉強したことがあるかないか、というのは人生において大きな意味がある。

大学受験に限らず、その後に資格試験を受けることもあるだろう。
会社に入ってから勉強しなければいけないこともあるかもしれない。

人生は、勉強しなければいけないことで溢れているのだ。

そういうときに、大学受験でおもいっきり勉強した経験はものすごく役に立つ。
勉強の進め方のノウハウ、受験のコツ、ものごとを覚えるための脳の使い方。

そういうのは、ビジネス本を読んだだけでは絶対に身につかない。
自分で本気で汗をかいて、危機感を持って努力することで、身体が覚えるものだ。

自転車の乗り方を忘れたりないように、身体で覚えた経験はなかなか失われない。
大学受験で学んだ歴史の知識とか、古文の文法は大人になって使わなくなるかもしれないけれど、そこから得た経験こそが財産になるのだ。

だから俺は、大学受験は意味があるものだと思っている。
その考え方はきっと変わらない。

一方で、社会人になってから変わった考えもある。
それは、

偏差値が高いからといって、仕事の能力が高いわけではない

とわかったことだ。

就活していたときまでは、大学の名前がすごく大事なものだと思っていたけれど、社会に出てみると、全然そんなことはなかった。

自分がものすごく尊敬する、恐ろしく仕事ができる人は、自分より全然偏差値の低い大学を出た人だった、なんてことはたくさんある。
偏差値と仕事の能力はあまり比例しないことが多い。

社会に出てからは、大学受験のときの数十倍の期間の継続的な努力が要求されるのだ。

余談だが、こないだ居酒屋で変なオッサンに話しかけられた(絡まれた)んだけど、

「お前、どこの大学出身よ?」

みたいなことを聞かれた。

社会に出て20年は経つであろうオッサンが、18歳時点の偏差値を聞いているのだ。

45歳を過ぎているだろうオッサンが聞くということは、そいつは社会に出てからロクな努力をしてこなかったに違いない。
自分自身が社会に出てから成長していれば、18歳時点の偏差値よりも、その後の成長に関心を持つはずだからだ。

俺も、会社に入ってから多くのことを学んだ。
18歳の時点の自分とは、ずいぶん変わったと思っている。

まとめよう。
継続的に努力を続けている人間を判断するのに、大学の偏差値はそれほど重要な要素ではない。
しかし、大学受験のときに、偏差値という目標を持って努力することには大きな大きな意味がある。

俺達は、社会に出てからも、一生競争ばかりだ。
仲間と切磋琢磨して、数字を持って序列をつけることは、その入口に立つことにもなるだろう。

受験生は、受験を通して、社会の仕組みを1つの体験として、学んでいるんだ。