罪と罰(36) チャタムハウス・ルール
私たちが待ち合わせ場所に指定されたサイゼリヤに着いたとき、その男性は先に到着していた。本名は秘密なのでエヌ氏と呼ぶことにする。エヌ氏の前には、すでに4分の1を残すばかりになったビールのジョッキが置かれていたが、私たちが店の入り口から、窓際の席に移動する短い時間で、その残り半分がなくなってしまった。冬の日が短いと言っても、まだ15:00を過ぎたばかりだ。おまけに年明けから続く寒波の影響で外気温は5度を切っている。私ならビールを注文する気にはなれないが、これから話を聞かせてもらう予定の人は、時間帯も温度も気にしていないようだ。
「お久しぶりです」
アツコさんは、やや堅苦しい声で挨拶するとエヌ氏の正面ではなく、斜め前に座った。自分は紹介しただけで、話をするのは私たちだから、ということだろう。私は一礼して相手の正面の席に腰を下ろし、木下が隣に座った。
エヌ氏はでっぷりと太った50がらみの男だった。残り少なくなってきている髪は白いものの比率が高く、それを整髪料でべっとりと撫でつけているのが何とも見苦しい。着ているスーツやワイシャツはパリッとしていたし、椅子の背にかけてあるベージュのコートも安物ではなかったが、これは求職活動中だからかもしれない。
私たちが簡単に自己紹介をしている間に、エヌ氏はジョッキをぐっとあおり中身を空にした。ジョッキを置くと、間髪を入れずコールボタンを押す。そして私たちの誰とも顔を合わせずに、囁くような声で訊いた。
「あんたらも何か頼んだら?」
早速、木下がメニューに手を伸ばしたが、先に私がつかんだ。
「ドリンクバーでいいよね」
「えー」木下は不満そうに私を見た。「せめてパスタぐらい」
ウェイトレスがにこやかな笑みとともに現れた。エヌ氏は、メニューも見ずに「グラッパ」と注文を告げる。聞き慣れない名前に、メニューを開いてみると、アルコール分40%のお酒だとわかった。呆れた私は、メニューを閉じて注文を告げた。
「あと、ドリンクバー3つお願いします」
「かしこまりました。グラッパがおひとつ、ドリンクバーが3つでございますね。他にご注文はございますか?」
以上で、と言いかけたが、木下の訴えかけるような視線が頬に突き刺さるのを感じたので、仕方なく追加した。
「じゃ、小エビのカクテルサラダも」
ウェイトレスがいなくなると、私は木下に命じた。
「ドリンクバーから飲み物持って来て。私は紅茶。砂糖はスティックに半分」私は横を見た。「アツコさんは何にします?」
「じゃあハーブティーをお願い」
木下が腰を上げたとき、エヌ氏が当然のような顔で「俺は冷たい水を頼む」と言った。木下はムッとしたようだが、私が「早く」と言うと、渋々ドリンクバーの方に歩いていった。
飲み物と食べ物が揃うまでの間、会話が弾んだとは言えなかった。アツコさんがエヌ氏との共通の知人の消息を聞いたりしたが、それもすぐに途絶えてしまった。私は天候の話題を振ってみたが、短い相づち以上の言葉を引き出すことができなかった。木下は、第一印象からエヌ氏に対して好印象を持てなかったらしく、ドリンクを配り終えた後はずっとスマートフォンをいじっていた。
ようやく酒とサラダが届くと、木下はスマートフォンをテーブルの上に置いてフォークを掴むと、ピンク色の小エビを嬉しそうな顔で突き刺した。エヌ氏もグラッパをすすり、満足そうな顔になっている。
「じゃあ、そろそろお話を聞かせてもらっていいですか?」私はエヌ氏を見ながら切り出した。
「その前にひとつ言っておきたいんだが」エヌ氏は私を制した。「あんたらが何の話を訊きたいのかは、星野さんから聞いてる。俺はどんな質問にでも答えると約束する。代わりにあんたらにも約束してもらいたいことがある」
私は小さくうなずいて先を促した。エヌ氏は酒を少しなめてから続けた。
「これから話すことは、どのように使ってもらっても構わない。他人に話そうが、報告書に書こうが、ネットに公開しようが、街宣車で触れ回ろうが、それはあんたらの自由だ。俺は、それを何に使うかは気にしない。ただし、情報源が誰なのかは、絶対に秘密にしてもらいたい。元ネタの素性が特定できるような使い方をしたら許さない。それでいいか?」
「はあ……」やけに秘密めかしてるな、と思いながら、私は同意した。「わかりました」
「あ、それ聞いたことありますよ」木下が口を挟んだ。「何とかハウスルールですよね。えーと、サイダーハウス・ルールでした?」
「それは映画でしょ」アツコさんが突っ込んだ。
ジョン・アーヴィングの小説が大元ですよ、と指摘するのも、木下に正しい名称を教えるのも、面倒なのでやめにしておいた。それよりも、ここに来た目的を果たさなければ。
「以前、お勤めだった会社がイニシアティブのコンサルを受けたそうですが」私は訊いた。「あなたが退職なさったのは、そのことと関係があるんですか?」
アツコさんが派遣されてきて、数日経過したある日。私は、アツコさんから、以前にイニシアティブと関わった会社の人に会うつもりがあるなら紹介するけど、と訊かれた。イニシアティブについて、別の側面からの意見が聞けるから、とのことだった。最初は、今月いっぱいで五十嵐さんのコンサルタント契約も切れることだし、今さら、とは思ったものの、少し興味があったのも事実だった。私は今日の外出の後に時間を作ることにして、アツコさんに仲介をお願いしたのだ。
木下が同席しているのは、たまたま一緒に外出していたからだった。先に帰社するように言ったのだが、私が寄り道をする目的を聞くと、是非とも同席すると言い張って譲らなかった。アツコさんの口調に、イニシアティブを非難するような響きがあったのが、気になった、というより、気に入らなかったらしい。
その木下は、エヌ氏を一目見るなり嫌悪感に顔をしかめ、エヌ氏の言葉の信用度を、数レベル下げることに決めたようだった。たぶんサラダを食べているのも、エヌ氏に対して、あんたの話は真剣に耳を傾ける価値なんかないんだよ、と遠回しに伝えるためなのだろう。
エヌ氏の方は、木下の反応などまるっきり無視して、私の方に顔を向けていた。
「直接はないな。俺が会社を辞めたのは、去年の2月。イニシアティブのコンサルは、その前の年の春までだったからな。だが原因となったのは確かだ」
「というと?」
「イニシアティブのせいで、うちの会社……いや、勤めていた会社の内部はボロボロになっちまったからだよ。詳しく聞きたいだろうね?」
「もちろんです」
「じゃ話すか。でもその前に」エヌ氏はグラスを空にした。「お代わりを頼んでいいか?」
「……どうぞ」
エヌ氏が勤務していたのは、大阪市内にある従業員数400人弱のパッケージ開発を主業務とするシステム開発会社、J社だった。教育関係や販売管理のパッケージで、ロングセラー商品をいくつか持っている。私も名前を聞いたことがあるパッケージだ。さらに企業向けの資産管理ソフト、就業管理ソフトも販売していて、エヌ氏はこの開発部門に所属していた。
J社の基本的なキャリアパスは、プログラマ職→システムエンジニア職→マネージャ職と、勤続年数に応じて上がっていくものだった。エヌ氏は、社内の開発のメインストリームが、VB6から.Net に移行しつつあったときにマネージャとなり、開発の第一線からは退いた。ただ、昔から継続して付き合い続けている顧客のために、VB6での保守は続けていた。
「普通、マネージャになれば、よほどドジをしない限りは、毎年定期的に昇給していくから、まあ定年までそのまま行くのが普通なんだな」エヌ氏は当時を懐かしむように言った。「そりゃあ最新技術に精通して、若い奴らに混じってバリバリコーディングする、ってわけにはいかんが。それは特に問題視されていたわけじゃない。上にいる部長や役員連中だって、そうやって上がってきたわけだしな。とにかく、実績を残して、マネージャに上がるのを目標にしてがんばるわけだ」
「うちの会社と似てますね」私は思わずつぶやいた。
「当然だろうな。特殊なところを除けば、それぐらいの規模の会社だと、だいたいキャリアパスは、そんなところのはずだ。それがベストだとは言わんが、そういう仕組みができてしまっているんだし、それで回ってるんだから」
うちのように、圧倒的な危機感があったわけではなかったが、J社では開発部門の意欲的な部長が、イニシアティブにコンサルを依頼した。開発効率が少しでも上がれば、という軽い気持ちだったのだろうが、それは激烈な麻薬物質のような作用をもたらした。
「あんたの会社じゃ、イニシアティブのコンサルさんは、どんな手を使ったんだ?」
「うちですか……」
私は、この一年で五十嵐さんが成し遂げたことを思い浮かべた。新商品の開発を成功させ、第2開発課を作り、旧態依然としたスキルにあぐらをかく年長組の影響力を弱め、メインフレームと心中しようとしていた会社をWebアプリケーション開発へ舵を切らせることに成功した。それを簡単に説明すると、エヌ氏は薄笑いとともにうなずいた。
「なるほどね。俺のところは少し違ったな。まず、人事システムの担当部門を2つのチームに分けた。そして、片方にSQLの勉強を徹底的に叩き込んだんだ」
「SQL?」
「そうだ。ストアドとかな。それまで、ほとんどストアドなんか誰も作ったことがなかったから、まあ反発もあったな。まあ、それでも上からの命令だから、嫌々ながらやってたがな。それから、5人日ぐらいかな、それぐらいの工数の改修が発生したとき、2チームを同時に対応にあたらせたんだ」
「へえ」私は少し興味を引かれた。「どうなったんですか?」
「SQLを勉強したチームの圧勝だったな。テスト部門に回すまでの日数も、改修自体のクオリティも」
「効果があったってことですか」
「ああ。だが、後から考えると、元々その改修はパフォーマンスの問題が指摘されていたことに対するものだったし、ろくにJOINも使わないSQL文がいくつも発行されていたりした。そこをストアドに置き換えれば、パフォーマンスが上がるのは当然だった。事実、そこを担当していた主任によると、そろそろストアドを使ってみるか、という話も上がっていたぐらいだ。例のコンサルは、それをさぞ自分が発見したかのように取り上げただけだ、という意見もあった」
「なるほど」
「その後の展開は急激だったな」エヌ氏はグラスを干して続けた。「ビジネスロジックはストアドで書くべし、という意見を提唱して、賛同者を増やしていき、多くのプログラマにSQLの勉強をさせた。それに従って、各システムのパフォーマンスは上がっていったな」
そう言えば、飛田さんも、RDBを使うなら、その性能を使い切るべきだ、という主張をしていた。
「だが一方で、どうしてもPL/SQLやPL/pgSQLになじめない人間もいた。まあ、俺もその1人だったんだが」エヌ氏は自嘲じみた笑いを浮かべた。「コンサルさんは、そういう人間を排除するように経営陣に働きかけて、それを実行した。詳しいやり方は長い話になるから省略するが、簡単に言うと、ストアド使えないようなエンジニアは、この会社に不要な人間だ、みたいな世論を形成したんだな。大規模な組織改革が行われて、社員のおよそ3割近くが早期退職するか、技術職から離れるかした。俺も含めてな」
「あの、ちょっといいですかね」サラダを食べ尽くした木下がフォークを置きながら言った。「その話の何が問題なのかわからないんですけどね。その会社は結果的に倒産でもしたんですか?」
「いや。むしろ業績は上がった。営業利益は前年比12%アップになったしな」
木下は、やっぱりな、とでも言うようにうなずいた。
「じゃあ、要するに使えない人がいなくなったおかげで、会社がよくなったってことじゃないんですか?」木下は残酷なことを言い放った。「あなたがその1人だったのは、あなたにとっては残念なことだったのかもしれないですけど、むしろ会社のためには良かったわけでしょう。コンサルなんだから、対象の会社の利益を上げるために、そういう手段を取ったというだけのことですよね」
怒りを爆発させるか、と思いきや、エヌ氏は得たりとばかりに、ニヤリとした。
「ああ、まさに今、君が言ったようなことを、この改革を進めた奴らも言ってたよ。俺だって、最初はそう思っていたぐらいだ。だけど、それは表向きの理由だったんだな」
「え、どういうことですか?」私は訊いた。
「イニシアティブの目的は、IT業界を変えることだ、ってのは公言している通りだ。そこにウソはない。ただ、奴らが実際にやってることは、個々のIT企業の開発効率を上げることで、業界全体のスキルの底上げを図る、なんて悠長なことじゃないんだよ」
「じゃあ、何なんですか?」木下が反抗的な顔で訊いた。
「実際はもっと単純だ。IT企業の中で、高い給料を取ってる人間を排除して、若い技術者に置き換えていくのが、その方法だ。自然に任せていれば、何十年かを要するだろう世代交代を、意図的に早めることが最大の目的なんだ。それも急速にな」
「それの何が悪いんですかね。IT業界にとってはいいことじゃないですか。使えないくせに高い給料取ってる人たちには、さっさと退場するべきなんですよ。あなたは、自分が勝ち組になれなかったからって、ひがんでるだけじゃないんですか?」
「あのな」エヌさんはうんざりしたように言った。「君には想像力ってものが、これっぽっちもないのか?定年までずっと最新技術を勉強し続けることができるのか?20代の頃の集中力をずっと維持できるとでも?体力は落ちてくるし、目も悪くなる。いつか君が持ってる知識やスキルが時代遅れになる日が来るんだぞ、確実に。そのとき、おとなしく、自分はもう役立たずだから、後進に道を譲って、自分は会社を辞めることにします、なんて言えるのか?養わなけりゃならない家族がいて、住宅ローンを抱えた状態で?君が結婚してるかどうか知らんが、家族に、自分はもう会社にとって役立たずになってしまった、だから、昨日までのいい暮らしはできなくなった、生活レベルを大幅に落とさざるを得なくなったんだ、と言えるのか?」
木下は沈黙した。
「イニシアティブの活動には、そういったことに対する救済措置が全くない。察するに君は、今のところは勝ち組なんだろうな。だけどな、いつか君が40代、50代になったとき、20代の若手に技術力をバカにされる日が来るんだぞ。そのとき、それを素直に受け入れられるのかよ」
「いえ……あの……」
「確かに俺には、君ら世代の技術者と対等に渡り合うだけの技術力はないさ」エヌ氏はやや穏やかな声で続けた。「勉強する時間を作る努力を怠った、と言われば、その通りだと認めざるを得ないわな。だけど、会社に命じられた仕事を一生懸命にこなし、サービス残業までして貢献してきた。マンションを購入し、住宅ローンに四苦八苦し、忙しい中でも少しでも家族との時間を作ろうと努力してきた。管理職になることがゴールだ、と会社から提示されてきたから、それを信じてがんばってきたんだ。そのキャリアパスでは、マネージャには技術力よりも、マネジメント力が重視されるとなっていたから、そのレールの上に乗ってきた。新しい言語を勉強するより、部下とのコミュニケーションの時間を重視してきたんだ」
「……」
いたたまれなくなったのか、木下は顔を伏せて、空になった皿に視線を落とした。その後頭部に向かって、エヌ氏は悲しみのこもった言葉を投げた。
「それが罪だったと言うのか?会社の方針に従ってきて、自分の勉強を怠ったことが、俺の罪だったのか?そのために、俺は会社を辞めることになった。老後のために貯めておいた貯金を切り崩して、住宅ローンや、娘の大学の学費を払っている。転職しようにも、この年じゃあ、それも容易なことじゃない。国民保険の保険料だって、じきに収められない日が来るかもしれない。こんな罰を受けるような罪を、俺は犯したのか?教えてくれないか、勝ち組の君」
(続く)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術・製品の優位性などを主張するものではありません。
lav 2014年3月10日 (月) 08:17
ふむ、ようやっと、まとめに近づいてきたね。
リーベルGさんの傾向として、
小説名につながるキーワードが
小説中にパラパラっと出るようになると、
そろそろ終わりも近くなる傾向なんですよね、、、
エピローグ含め今月で終わると思いますよ、この小説。
yamada 2014年3月10日 (月) 09:04
おおおお!いい感じで話進んでる!
エヌ氏の思うところがよくわかる。痛いほど。
30代で住宅ローンもあるし、年とって記憶力も体力も落ちてきたから尚更わかる。
年取ると覚えることよりこなすことを増やすからなぁ…
この間も会社でキャリアとかいう言葉で新卒煽ってたけど、
キャリアなんて言葉遊びで実際には会社によって求めているものも違うので、そんなものはないと気づくのが大切なんじゃないかなぁと。
資格偏重のところもあるし、実務偏重のところもあるし。
キャリアアップとか今いわれるとRPGじゃないんだからと思っちゃうよなぁ。
abc 2014年3月10日 (月) 09:05
マネージャにはマネージャの価値があるでしょ。
コーディングだって歳食ってても一線級の人だっているよ。
要するにどっちも中途半端だったわけですな。
だからといってそれだけの理由で、クビにする会社はブラック企業ですが。
しかし、ぱっと見で「若手中心の活発な会社です」とすぐわかるわけだから、応募者的には敬遠余裕の親切な会社ですね。
n 2014年3月10日 (月) 09:11
ドヤァ)
Buzzsaw 2014年3月10日 (月) 09:32
世代交代を早めてそれでどうするのか?
そこの目的が不明な間は、まだN氏の分が悪いかんじ。
無名の技術者 2014年3月10日 (月) 09:42
武田氏やエヌ氏を擁護する気はないけど、
五十嵐氏のやり方に何か不安を感じていた理由が解った気がする。
私自身、会社から技術者から管理者へのシフトを要求されている立場で、
技術者としての価値だけで評価されたら困るレベルになってきてる。
ただ、開発の人間ではないので、そこまでシビアではないが、
技術だけを突き詰めていられなくなったのも事実。
10年、20年後には、今のメンバーに技術的には、及ばなく成る自信もある。
社長だけでも、技術者だけでも、会社は回らない。
経営力や折衝力だけでも、技術力や知識力だけでも、組織は回らない。
かと言って、(技術力に限らず)成長を拒否した人間ほど始末に困る者はない。