2013年05月24日

第26回 アーティファクト

 生物の反応は、多くの分子による化学反応が複雑に絡み合っています。その仕組みを解明するためには、出来るだけ少ない数の分子を使って、より単純な反応系を構築する必要があります。しかし、そのような人工的な環境では、生体内とは異なった反応が表れることがあります。これをアーティファクト(人為的影響)と言います。その影響を正しく評価できる能力が研究者としての重要な素質と言えるでしょう。
 どんなに精密に実験を行ってもアーティファクトは必ず表れます。しかし、実験の結果が期待通りのものであったりすると、歪められた環境によって生じた虚像であることに気付かず、真実を見落としてしまうことが良くあります。特に研究が未熟な段階では判断が難しく、研究が進んで理解が深まってからアーティファクトであったことに気付くこともあります。

 生物学史における重要な発見の中には、アーティファクトによってブレイクスルーが達成された例がいくつかあります。例えば、このブログでも以前に話題にしたニーレンバーグの実験があります。
 マーシャル・ウォーレン・ニーレンバーグ(Marshall Warren Nirenberg)はポリUのmRNAを作り、翻訳に関わる分子群と一緒に反応させることによって、フェニルアラニンの連なったペプチドを得ました。この結果からmRNAのUUUという暗号はフェニルアラニンをコードしているということが分かりました。しかし、現在の細胞生物学の知識に照らしてみると、このニーレンバーグの実験結果には不思議な点があります。それは、開始コドン(AUG)が無いのに、どうして翻訳が始まったのか、ということです。
 おそらく、試験管内という人工的環境で、非特異的反応により偶然に翻訳が開始したのでしょう。まさにアーティファクトという名の幸運の女神が舞い降りたのです。ニーレンバーグはこの実験がきっかけで、後にノーベル生理学・医学賞を受賞します。
 この実験がなされた当時は、翻訳開始機構が分かっておらず、この実験結果がアーティファクトであることにはニーレンバーグも気付いていませんでした。後に、開始コドンというものが明らかとなって、翻訳開始の仕組みが解明されていきます。きっと、自身の実験結果に大いに悩んだことでしょう。
 しかし、この実験系で翻訳できてしまったことがアーティファクトであったからと言って、ニーレンバーグの業績に傷がつくことは有りませんでした。なぜなら、これは翻訳開始機構に生じた虚像であって、ニーレンバーグが知りたかった遺伝子暗号の解読については事実を映し出しているのです。それは、後世の多くの研究者が確認していることです。実験系にアーティファクトが介在しても「UUUがフェニルアラニンをコードしている」という事実は揺らぎませんでした。

 他にも、アーティファクトからノーベル賞を獲得した研究者としてオットー・レーウィ(Otto Loewi)がいます。
 レーウィは、カエルの生きた心臓を2つ用意し、1つは迷走神経(副交感神経)を付けたまま(心臓1)、もう1つは迷走神経を除去しました(心臓2)。この2つの心臓を管でつないでリンゲル液を流して連絡できる装置を作って実験を行いました。心臓1の迷走神経を刺激すると、まず心臓1の拍動が緩やかになり、少し時間をおいて心臓2の拍動が緩やかになったのです。
 この実験の前までは、シナプスでの信号の伝達が電気的刺激なのか化学物質によるものなのか不明でした。レーウィが1921年に発表した、この有名な実験によって「シナプスにおける情報伝達が化学的なものである」ということを明らかになったのです。後に、心臓の拍動を抑制する神経伝達物質はアセチルコリンであることが分かり、アセチルコリンの発見者であるヘンリー・ハレット・デール(Henry Hallett Dale)とともに「神経刺激の化学的伝達に関する発見」という理由で1936年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

 さて、教科書にも載っているこの実験、どこがおかしいかと言うと神経伝達物質が液体に乗って運ばれている点にあります。
 神経伝達物質は神経末端(シナプス前細胞)から分泌され、シナプス後細胞へと情報を伝える物質です。シナプス後細胞に受容された後は酵素によって速やかに分解されます。これは、レーウィの実験とは別の章になりますが、教科書の「神経系の興奮の伝導・伝達」のところにはっきりと書かれています。
 レーウィの実験では、迷走神経への刺激によって神経末端からアセチルコリンが放出され、心臓1の拍動が抑制されています。これは理に適っています。しかし、心臓1で放出されたアセチルコリンが分解されず、リンゲル液を伝って心臓2に作用しているのはちょっとおかしなことなのです。
 我々がこの実験を再現しようとしても、なかなかうまくいかないはずです。なぜなら、レーウィの実験には幸運があったからです(1)。彼は、2月から3月の寒い季節に、暖房設備の整っていない実験室でこの実験を行っています。迷走神経には抑制性の作用と促進性の作用がありますが、冬季では抑制性の作用の方が優勢になります。そのため心臓の拍動低下が観察しやすかったのでしょう。また、低温下では酵素の作用が弱くアセチルコリンが完全に分解されなかったため、2番目の心臓にも作用することができたのだと考えられます。まさに、アーティファクトの賜物です。

 レーウィがこの実験で明らかにしたことは「シナプス部での情報伝達に水溶性の化学物質が関与している」ということです。後に分かったように、アセチルコリンと言う神経伝達物質が作用しているということは揺るぎない事実で、ノーベル賞の授賞理由でもあります。ですが、彼の実験では、神経伝達物質が役目を終えた後どうなるか、ということまでは教えてくれません。
 高校生物では、「自律神経系による恒常性の調節」のところで、「交感神経からノルアドレナリンが、副交感神経からアセチルコリンが分泌され組織や器官に作用する」と教えられます。そして、心臓拍動の調節の仕組みの説明で、神経伝達物質の発見の経緯をまじえてレーウィの実験が紹介されています(新課程の生物基礎では、レーウィの実験は発展的内容となっています)。
 レーウィの実験は神経伝達物質の発見につながった重要な実験なのですが、情報の伝達の仕組みについて体内での現象を正しく反映していません。この実験を「心臓拍動の調節の仕組み」として高校生物で教える必要があるのでしょうか。

 神経伝達物質による情報の伝達は局所的で、極めて短時間に遂行されるものです。一方、ホルモンは血液の循環によって広範囲に運ばれ、すぐに分解されないために作用がある程度の時間継続します。
 この神経伝達物質とホルモンの作用の仕方の違いを鑑みると、レーウィの実験によって心臓2に作用を及ぼした化学物質はホルモンということになります。しかし、アセチルコリンは神経伝達物質であり、ホルモン様の作用の仕方をしません。少なくとも高校生物ではそう教えられます。
 現状では、レーウィの実験を教えることによって神経伝達物質について大きな誤解を生じさせるのではないかと危惧しています。

 さて、以下は千葉科学大学2008年度の入試問題です。
リード文は「レーウィは、図1(省略します。教科書によくある図です)のように取り出した2つのカエルの心臓にチューブとビーカーを取り付けて、心臓Tから心臓Uへとリンガー液を送る装置を作った。心臓Tにつながる副交感神経に電気刺激を与えると、心臓Tの拍動数が減少した。また,少し遅れて副交感神経のつながっていない心臓Uの拍動数が減少した」

設問は、心臓Uの拍動数が減少した理由を簡潔に記せ、というもの

 う〜ん、簡潔に書くのは難しいですね。「心臓Tの副交感神経からアセチルコリンが分泌され、本来なら受容した細胞上で分解されるはずだが、何らかの理由で完全に分解されなかったため、リンガー液によって心臓Uに運ばれ、そのペースメーカーに作用したため」とでも書けば良いでしょうか。または、「副交感神経の刺激を受けた心臓Tからホルモン様の物質が分泌され、リンガー液によって心臓Uに運ばれて、ペースメーカーに作用した。ただし、そのホルモン様物質は現在の科学技術を以てしても未だ単離、同定されていない」という答えはふざけ過ぎでしょうか。

 この問題のように、実験結果のアーティファクトの部分を答えさせて、受験生の何を計ろうしているのでしょうか、理解に苦しみますね。内容を深く考えていない安易な問題だと思います。たぶん問題集や他校の過去問からの引用だと思うけど、この入試問題を作成した先生はレーウィの実験結果に不思議な点があることに気付いていなかったんでしょうね。
 これと同じような問題は受験対策用の問題集にもよく登場します。こういった問題を出す大学があるから、問題集を作る側も対応しておく必要があるんでしょうね。それとも、逆かな。教科書や問題集に載っているから、入試問題に使用しても良いと思っているのかな


(1) http://en.wikipedia.org/wiki/Vagusstoff
posted by Mayor Of Simpleton at 00:14| Comment(0) | 高校生物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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