コウモリの世界の図解

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フランスと日本、コミュニケーションの違い/ニートのフランス滞在記②

前回:出発とミッション/ニートのフランス滞在記①
今回:フランス行きの飛行機で爆笑したこと/フランス滞在記②

機内食で爆笑

「もうすぐフランスだよ」
家族に会えるのを心待ちにして浮かれる彼女をよそに、僕は気もそぞろだった。自分の書いた記事に、初めてたくさんコメントをもらえたし、たくさん修正しないといけないところがある。呑気に飛行機に乗ってる場合じゃないのに。そう思っていたからだ。

けれど、機内食についての彼女のジョークで、ふいに爆笑してしまった。
「ねえ、見て。エールフランスだけど、日本の食品もあるんだね」

モノマネ上手な彼女が、電車の車掌さんを真似たような口調で読んでみせる。
「開封時、中身が飛び出すおそれがありますのでご注意ください」
「ふはぁ(笑)」
「これが、ニッポン!(笑)」
「本当だね!」
「意味ないよ、こんなの(笑) これ読むくらい注意するヒトは、中身こぼさないよ」
「まあね。でも、文句言うヒトがいるから仕方ないんじゃない? 企業も大変だよ」
日本を誉めているのか貶しているのか分からないけれど、これは僕らの間で通じるお国柄ジョークだ。そして、丁寧すぎる日本の商品説明もひとまずお別れか、と思うと、フランスに行くのだという実感がようやく湧いてきた。

「こっちも! 見てよ」

「ふふ(笑)」
また彼女が、例の口調で読もうとする。
「ときおり見られる液体は、…ん、これ何て読むの?」
「ニューセイ?ごめん、僕も分からない。とにかく、安心して食べてってことでしょ」
「これがニッポンだよ(笑) フランス人は、こんなの書かないよ」
「日本の商品は、本当に説明過剰だよね」

送信者責任の国

僕は、こう考える。

「日本は、送信者に責任を求める国なのだ」と。

商品の送り手である企業に過剰な説明責任を求める、というのはその一例だ。

「企業ー消費者」という「送信ー受信」関係に留まらず、他のコミュニケーション場面の全般について、「送信者に責任を求める」のが日本文化なんじゃないか。

例えば学校の教室で、日本人はあまり質問しない。質問する(送信する)からには、先生の発言の意図や、教室の他の生徒の心情を踏まえなければならない、と考えるからだ。つまり、コミュニケーションにおけるデフォルトの送信者責任が重すぎる(コストが高すぎる)ため、コミュニケーション自体に消極的になる。それが日本文化なのではないか。

例えば『空気を読め』というコトバもそうだろう。一見すると「受信責任を求める」コトバのようにも見えるが、そのコトバは常に、「何か行動を起こすヒト、何か言葉を発するヒト」に向けて放たれる。つまり、「言動を発信するからには、周りの受信者の気持ちを考えてからにしてよね」という意味で使われる。

「送信側に、受信側の気持ちや状況を汲み取る責任がある」
日本では、こう考えるのがデフォルト。

たしか、日本の民法もそうなっている。民法で「債務者主義」と呼ばれているものは、僕なりに言えば「送信者(≒債務者)が責任を持つことにしましょう」ということだ。
そして面白いことに、これは西洋の伝統的な感覚とは違うらしい。
危険負担 - Wikipedia

ローマ法以来、“casum sentit dominus”(所有者が危険を負担する)などの法格言により認められてきた原則により、債権者主義が適用される。

つまり、ローマ法では債権者主義≒受信者が責任を持つ、それがデフォルト。
しかし日本の民法では、債務者主義≒発信者が責任を持つ、それがデフォルト。

これを図にした面白い解説もあるのだけれど、それは別の機会にしよう。今は飛行機の中だし。

飛行機でのケンカ、再び

そう考えて、彼女に説明しようとする。
「ねえ、日本って送信者が…」
「その話つまんないでしょ?」
「お願い、聞いて。いま新しい説明を思いついたから」
「いいよ、もう。前も聞いたし、図も見てあげたでしょ」
「法律と結び付けた説明を思いついたから、フランスの法律がどうなってるか聞きたいんだよ」
「知らないし、どうでもいいよ。それより、ワイン飲む?ちょっと残っちゃった」
「…うん、もらおうかな。(この話、絶対にあとで記事に書こう)」

実際、フランスと日本のコミュニケーションの違いは、このあと色んな場面で目の当たりにした。「送信者に責任を求めるかどうか=最初の送信コストが高いかどうか=コミュニケーションに積極的かどうか」という違いだ。

しかし、フランス滞在記と題した記事を2つも書いておきながら、まだフランスにすら到着しないって、どうなんだろこれ?