葛藤する聖職者、笑うラブレー、反逆するガリレオ 『知のミクロコスモス 中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』を読む

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編集部注:本記事は坂本邦暢氏による寄稿。今回坂本氏が寄せてくれたのは、ヒロ・ヒライ、小澤実編『知のミクロコスモス 中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』(中央公論新社、2014年3月)の紹介記事である。坂本氏本人も寄稿している同書への案内として書かれたものだ。

 

 1517年の書簡のなかで、エラスムスはある司祭をめぐる逸話を披露している。当時エラスムスが対峙していたのは、自身の聖書校訂プロジェクトにたいする批判者たちであった。文献学を駆使して聖書本文を修正する彼の試みが、聖なる書物への冒瀆だと非難されたのである。だが、とエラスムスは反論する。伝承されてきた本文にあきらかに間違いがあるにもかかわらず、その修正をいっさい許さない者というのは、次のような司祭と変わらないのではないか。

彼らはとあるカトリックの司祭を真似したいのだろうか。その司祭はミサで “mumpsimus” という言葉を20年のあいだ使いつづけ、 “sumpsimus”(私たちは取る)と読むべきではないかと忠告されても、それを変えようとしなかった。むしろ忠告されると恐怖にかられて叫ぶのだ。「おお天よ、大地よ、この者は福音を修正するのだ」1

誤った聖書本文にしがみつく者たちの滑稽さは、初歩的な言葉使いの誤りに気がつかないばかりか、それを神聖視すらしている司祭と同じ水準にある。この愚かな司祭が実際にいたかどうかはわからない。むしろ敵対者の愚劣さを際立たせるためにエラスムスが生みだした存在である可能性が高そうだ。だがそれでも、いやむしろ架空の存在であるからこそ、この逸話は当時の司祭について多くを教えてくれる。このような司祭はたしかに人々の想像のうちにいなければならなかった。そうでなければエラスムスの嘲笑が効果をもつはずがない。事実エラスムスの狙いははずれなかった。いまでも英語で “mumpsimus” といえば、「間違った考え」や「間違った考えに固執する人」を意味する。人文主義の巨人の想像力は私たちにすらおよんでいるのだ。

 エラスムスの司祭はカトリックの儀式のうちで、“sumpsimus” というべきところを “mumpsimus” といっていた。“sumpsimus” とは「私たちは取る」という意味のラテン語である。それが意味不明な “mumpsimus” となっているというわけだ。ここから私たちは、エラスムスの意図をこえて、言語と儀式をめぐるいくつかの重要な事実をとりだすことができる。まずカトリックの儀式はラテン語によって行なわれていた。だがそのラテン語を理解しないまま、丸暗記した音声を機械的に復唱するだけの司祭が存在した。ということは、宗教儀式のうちでのラテン語使用は単なる伝統の反復ではなく、そこからの逸脱をきびしくとがめる強制力によって実現されていたことになる。生半可な学識しか持たない司祭の存在と、ラテン語使用の強制がきしみを生む地点にエラスムスの嘲笑は狙いをさだめていた。

 このきしみはエラスムスの時代になって響きはじめたものではない。論集『知のミクロコスモス』はそのきしみを中世に聞くことからはじまる。「語的一致と葛藤する説教理論家―中世後期の説教における聖書の引用」で赤江雄一が光をあてるのは、中世における説教の伝統である。キリスト教の核心には聖書を読む行為がある、と私たちは考えがちである。この想定はきわめて正当であるものの、それをそのまま中世へと投影するなら、当時の信仰生活の実態をとらえそこなうことになる。当時の西欧で入手可能な聖書は、そのラテン語訳のみであった。ラテン語を理解できたのは高度な教育を受けた一握りの人間のみである。大半の人々は俗語しか解さない。しかも俗語を聞いて話すことはみなできたとしても、それを読んで書ける人となるとまたもやその数は極度に限定された。そのようななかで教会が認める正統な信仰のあり方を人々に広めるにはどうすればいいか。聖書そのものは有効なメディアとして機能しない。そこで最大限活用されたのが、聖書からとりだされたメッセージを俗語で人々に説く説教であった。それゆえ有能な説教師の育成と有効な説教のテクニックの開発は、教会にとって避けてとおれない課題となった。

 数ある説教テクニックのうちでもひときわ奇怪な印象をあたえるものがあった。「語的一致」である。説教で語られる内容は、かならずその典拠を聖書にもとめなければならない。たとえば説教のなかに「結婚」という言葉があらわれるとしよう。そのとき説教者は聖書のうちから「結婚」という言葉がはいったパッセージを引用せねばならない。こうして「語的一致」は守られる。「結婚」と「結婚」が言葉のうえで一致するのだ。このテクニックはただちに困惑をひきおこすだろう。「結婚」という言葉があらわれる聖書のパッセージが、「結婚」という言葉があらわれる説教の典拠となる?そんな保証はどこにもない。たとえば結婚の価値をたたえる説教の根拠になるのは、おなじく結婚の価値をたたえる聖書の文言であるはずだ。たとえ結婚という言葉がでてきたとしても、その価値をおとしめたり、何らの価値判断も与えていない聖書箇所は、説教の典拠となりえない。いやそもそも聖書のうちに「結婚」という言葉がでてこずともよいではないか。夫婦の関係をなんらかのかたちでたたえる文言があればそれで典拠として十分だ。以上を中世の言葉づかいで言いかえると次のようになる。すなわち、たとえ「語的一致」があっても「意味的一致」がなければ典拠となりえず、また「意味的一致」さえあれば「語的一致」はなくとも説教の典拠となりうる。語的一致にたいするこのような困惑とそこからくる怒りは、このテクニックがあらわれた当初から表明されていた。たとえばロジャー・ベイコンによれば、語的一致には「崇高な言葉も深い智慧もなく、あるのはかぎりなく子供じみた愚かさと神の御言葉の堕落である」(18ページ)。

 多くの人はベイコンの言葉に同意するだろう。だが赤江がしめすのは、この「子供じみた愚かさ」が1200年代にあらわれるやいなや、説教教育のうちに組みこまれ、すくなくとも1400年代のなかばまで教えられつづけたということだ。この奇妙な持続はなぜ生じたのか。その一因は説教師にもとめられた高度な能力にあるという。ベイコンも認めるような理想的説教師を考えよう。その人物は説教のメッセージの一つ一つを、聖書からの引用によって裏づけるだろう。そのときの引用はメッセージと意味のうえで対応しているはずだ。そうであるなら、その説教者は聖書の細部にいたるまでその意味するところを把握していなければならない。それには高度な理解力だけでなく、自在にラテン語を読みこなす語学力が必要である。そうやって構築した説教はしかしそのままでは機能しない。民衆が理解できる俗語に置きかえられねばならない。聖書からの引用もラテン語で引用したのちに、自力で俗語訳せねばならない。ラテン語の側でなされた営みを、自由に俗語に変換する力が要請されているのだ。

 だが世界は理想的な説教師で満たされてはいなかった。いつの時代にあってもロジャー・ベイコンやエラスムスは例外であり、大半の学識者は “mumpsimus” ととなえつづけるようなレベルにとどまっていた。実際に福音を広める任務にたずさわる人々が向きあわねばならなかったのはベイコンの理想ではなく、生半可な学識しかもたぬ同胞であった。そこでいわば苦肉の策として残りつづけたのが語的一致である。なるほど多くの聖職者は聖書の意味を理解できないかもしれない。そもそも聖書を読むだけのラテン語力すら満足に備えていない。だがそんな彼らでも、自分が伝えたいメッセージのうちにある単語とおなじ単語が聖書のうちにあることは確認できるだろう。当時あらわれた知的ツールがこの考えを後押ししていた。聖書にあらわれる語句をアルファベット順に並べた索引が1200年代に実用にたえうるレベルで整備されたのだ。この索引をくれば、たとえ意味はわからずとも「結婚」という言葉があらわれる聖書の箇所を発見できたはずだ。

 生半可な学識者が聖書に典拠を求めることを可能にするテクニックとして、語的一致は生きのこった。聖書の内容を十分に理解できない人々に説教をまかせねばならない現実のなかで、教会はせめて語的一致によって自らが管理するラテン語聖書のうちで説教者たちをたばねようとしたのである。この努力のうちには、教会の最上層に位置していた知識人たちの恐怖感が反映されているように私には思われる。もしかりに生半可な学識しか備えていない大量の説教者が、彼ら自身の恣意的な理解にもとづいて、自由に聖書を典拠として用いはじめたらどうなるだろう。さらにもしラテン語を十分に読みこなせない彼らに俗語の聖書があたえられ、ラテン語と無関係に福音を広めはじめたらなにがおこるだろう。その先に待つのは中世の知識人がなによりも恐れたキリスト教世界の分裂しかないのではないか。分裂への恐怖は後期中世の教会人からたびたび発せられていた。1100年代を生きた聖職者は次のような言葉を残している。

またおのおのの修道院・在俗教会に伝わる詠唱、詩篇復唱、読書の流儀が、多種多様な伝統を持つことは、 ある種のシスマや分裂の要因となります。なぜなら万事につけ、われわれは、可能なかぎり統一を守るべきだからであり、この統一こそが教会の平和という絆だからです2

ラテン語を理解しない聖職者にすら、ラテン語での儀式が義務づけられていた理由の一端はここにある。ラテン語の使用は「教会の平和という絆」の一部をなしていた。学識者がもちいる言語が母語以外に統制されるとき、そこにはたらく強固な意志に私たちは敏感であらねばならない。

 だがさらに想像してみよう。教会の知識人が語的一致のような方策によってくいとめようとしていたのは、はたして生半可な学識者の暴走だけだったのだろうか。彼らの真の恐れは別のところにあったのではないだろうか。いつの日かロジャー・ベイコンの知力と、エラスムスの機知をかね備えた者が新たな信仰のあり方をとなえはじめるのではないだろうか。そのような者の声が、砕け散った教会のうえに響くのではないか。赤江の論考につづき『知のミクロコスモス』が描きだすのはそのような世界の出現にほかならない。

***

 語的一致があらわれてから200年ほどたったとき、時代は大きく動いていた。『知のミクロコスモス』は様々な角度からこの変動を描写する。古代世界への関心のさらなる高まりと、ビザンツ帝国の崩壊とがあいまって、ラテン語・ギリシア語の著作が大量に再発見され、西ヨーロッパの知的世界に流入した。膨大な情報に圧倒された知識人たちは、かつての記憶の技法を、外部記憶ツールを活用した環境構築へと組みかえようとしていた(桑木野論文)。アリストテレス形而上学を支柱とした中世スコラ学は、イタリアに端を発する自然主義的で物質主義的なアリストテレス解釈によって次第に置きかえられ、やがて当のアリストテレス主義自体を崩壊させるにいたった(坂本、ヒライ、柴田論文)。台頭した職人は芸術家へと変貌し、自らの造形物を古代と結びつけることで、そこに真正性と神聖性をまとわせようとしていた(水野論文)。新たな伝統の創造(捏造)はスカンディナヴィアでも生じた。ルーン文字の起源の探求は、スカンディナヴィア諸国の民族的アイデンティティのたちあげを担い、ルーン学なる学問領域を成立させることとなる(小澤論文)。知の地平は欧州外にも拡張する。戦国の日本を訪れたイエズス会士をはじめとする宣教師たちは、異文化との接触をつうじて、自らの学識体系を変化させていった(折井、平岡論文)。

 これらの変動のあるものとは並行し、あるものにとってはその原因となっていたひときわ巨大な運動があった。宗教改革である。この運動がカトリック教会にとっていかに恐るべきものであったかはいまやあきらかだろう。マルティン・ルターは、教皇の文書を火にくべるとともに、聖書の俗語訳を生みだした。神と人間を媒介する教会の役割の多くが否定され、ただ聖書のみに依拠して信仰を立ちあげる必要性が説かれた。伝統的な聖遺物崇拝は攻撃され、日々の信仰生活を彩っていた多くの儀礼が廃棄された。廃棄こそされなかったものの、その解釈が変更され、それゆえ大きな論争を呼んだ儀式に、聖餐式(せいさんしき)がある。これこそエラスムスの司祭がとりおこなっていた儀式にほかならない。平野隆文「キリストの血と肉をめぐる表象の位相―ラブレーからド・ベーズまでの文学と神学の交錯点」は、この論争に焦点をさだめた論考である。

 新約聖書には、イエス・キリストがパンをとり「取って食べなさい。これは私の体である」と述べる箇所がある。つづけてキリストはワインがはいった杯を手に取り、「皆、この杯から飲みなさい。これは…私の血、契約の血である」という(「マタイ福音書」第26章26–27節、新共同訳)。ごくごく単純にいうなら、聖餐式とはこのシーンを再現する儀式である。そこで食べるパンはキリストの体であり、ワインは血である。だがワインとパンがキリストの血肉であるとは一体どういうことなのか。カトリックの教えによれば、儀式において飲食されるパンとワインは神秘によって実際の救世主の体と血に変化している。実体変化と呼ばれる教義である。聖餐式そのものの意義は否定しなかったプロテスタント諸派であるが、この教義には異をとなえた。だがここで解釈をめぐる詳細に立ちいるのはさしひかえよう。カトリックの学説への批判がいかに強烈な言葉でもって表現されたかを確認すれば十分である。次の二つの文言がその役目を果たすはずだ。

日曜日にお前さんが、神様をいただきましたら、当然でござるが、お前さん、自分の月曜日のウンチも有り難がらんといかんぜよ。

さらに酷いことに、嗚呼、神食らいの輩どもよ、お前らは最後の拠り所とばかりに、まるで肉詰め牛肉の如く神を食らっておるのだ。(212–213ページ)

パンとワインがほんとうにキリストの肉と血に変化しているならば、聖餐式とは神を食らって、翌日に排泄物として体外に放出する儀式である。

 自らの聖餐解釈にこのようなグロテスクな帰結をまとわされたカトリック側が憤激し反論したのは当然である。彼らによれば、伝統的な教義から逸脱するプロテスタントがもたらす最大の害悪は教会の分裂であり、そこからくる混沌である。しかも聖餐をめぐるグロテスクな解釈にとらわれたカルヴァン派は想像を絶する残虐行為をはたらくにいたっている。

ル・マンの町でやつらはかなり老齢の司祭を捕らえ、その恥部を切りとり、グリルのうえでその恥部を焼き、それを司祭自身に無理やり食わせ、さらには、それがどのように消化されるかを見るために生きたまま腹を切開して胃を切り開き、こうして最後には司祭を死にいたらしめたのであった。(210ページ、冒頭の図像参照)

カルヴァン派はカトリック教徒の身体に異常な執着をみせている。食らった神を消化する胃袋がいかに特殊なはたらきをなすにいたっているか(あるいはいたっていないか)をその目で確認せずにはいられないというのだ。「これは、カトリック側の兵士たちが『ただ聖書あるのみ』と叫び続けたプロテスタントを虐殺した際、その口に聖書の数頁を押し込んだ行為と奇妙な対をなしているように思われる」(211ページ)。

 解釈の次元のみならず、現実の世界においてもじつにグロテスクな帰結を招いた聖餐をめぐる論争の源流はどこにあるのか。ここで平野が着目するのがフランソワ・ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』である。そこでラブレーがカトリックの聖餐式を嘲笑してみせているというのだ。だがとうぜんながらラブレーは一筋縄ではいかない。聖餐式に直接言及するようなことはしない。直接の言及をいっさいせずに対象を笑うにはどうすればいいか。ここでラブレーはエラスムスと同じ手段に訴える。ちょうどエラスムスが存在しない司祭を生みだしたように、ラブレーもまた架空の舞台設定を立ちあげるのだ。だがその想像力は一人の人物の創造をはるかに超え、一つの奇怪な宗教団体を構想するにいたった。

 『第四の書・パンタグリュエル』のなかに「ガステル宗匠」をめぐる逸話がある。ガステルとはギリシア語の「腹」に由来する。この言葉を冠する宗匠は食欲を象徴する存在であるとともに、食にかんするあらゆる技芸の発明者でもある。ガステル宗匠のまわりには、「腹話術族」と「腹崇拝族」が給仕役としてひかえており、彼の口にたえまなく食料を放りこんでいる。これらの族にとってガステル宗匠は全能の神、いやむしろ腹全能の神(Dieu Ventripotent)なのである。だがそんなガステルが自分は神でないと吐露するときがある。そこに決定的な手がかりをラブレーは残していると平野は主張する。引用しよう。

ガステルは、自分が神ではなく、哀れで、卑しくて、みじめな人間にすぎないことを告白しました。…これと同じく、ガステルもですね、こうした狂信的なサルまね坊主たちを穴あき椅子のところに追いやって、自分の糞便のうちに、はたしていかなる神性を見いだせるものなのか、実見させ、考察させ、哲学させ、瞑想させておりましたのです。(221ページ)

ガステル宗匠を崇拝するとりまきの者どもは、彼が放出した排泄物すら崇拝しかねない。「彼らの物神にたいする巡礼の旅は、結局『オマル』へと通じているのだ」(221ページ)。ここに平野はラブレーの聖餐式にたいする隠された笑いをみる。聖餐式におけるパンとワインを神の血肉として崇拝する者たちは、全能の神ならぬ腹全能の神のとりまきと同型なのではないか。この秘めた笑いがのちにプロテスタントの論争家たちの手で表面化させられることになるわけだ。

 私たちは語的一致の世界からスカトロジックな笑いがこだまする世界へといたってしまった。中世の聖職者たちが葛藤のなかで懸命に維持しようとしていた「教会の平和という絆」は断ち切られた。スコラ哲学が解体され、情報量が指数関数的に増大し、新たな伝統が捏造され、地理的地平が拡大し、宗教宗派の分裂が進むなかで、聖書の言葉を中心に聖職者たちがたばねようとした世界は砕け散った。そうしてあらわれたのがスピノザである。スピノザは超越神の観念を否定し、神を世界そのものと同一視した。それにより世界から人間理性が理解できない領域は消去される。神秘はもはやない。もちろん聖書を解釈する権利をもつ集団が、真理にたいして特権的な地位をもつこともなくなる。そもそも聖書自体から特権的地位が剥奪される。その他すべての文書と同じく、聖書もまた特定の時代に特定の人物たちによって著された歴史的文書である。そのような時代の拘束を受けた文書に真理をもとめるのは馬鹿げている。聖書はただ私たちが善く生きるための導きとなるにすぎない。神にかんしても聖書にかんしてもこれほどまでにラディカルな解釈が支配的となるには、多くのときを経ねばならないだろう。その極度の合理主義に危険を察知した神学者たちがいたことも忘れるべきではない(加藤論文)。それでもなおスピノザの思想のうちに、葛藤する聖職者から笑うラブレーをへて、知の歴史がいたった一つの到達点をみるのは間違っていないように思われる。

 だがスピノザの解体的試みから近代にいたってしまうまえに、その声に耳を傾けるべき人物がいるのではないか。その男の反逆こそ、中世からルネサンスにいたるまで『知のミクロコスモス』がたどってきた歴史をひとまず締めくくるにあたってふさわしいように思えるのだ。その人物は1615年の書簡に次のような言葉を書きつけた。

わたくしは、自然学上の問題を議論するにあたって、聖書の文章の権威から出発するのではなく、感覚でとらえられる実験と必然的な証明から出発すべきであろうと思います。…しかし、こういったからといって、わたくしは、聖書の章句に最高の尊敬を払うべきではないというつもりはありません。むしろ、自然学のなんらかの結論に確実に達したならば、それをわたくしたちは、聖書そのものの真の解釈と聖書に必ず含まれている真の意味(これはまったく真理であって証明された真実と合致するのですから)を探究するための手段として役立てねばなりません3

自然に関する知識は自然から獲得するべきであり、聖書にもとめるべきではないのであって、科学と宗教を混同してはならない、というようなことはここではいっさい主張されていない。それはスピノザの考えだ。ガリレオ・ガリレイがこの何気ない一節のなかでしめしているのは、いっそう不穏な見解である。感覚と実験にもとづいて自然について確かな知が得られたとしよう。またその結論が聖書の表面上の文言と一致しないとしよう。そのとき聖書の解釈は、自然学上の結論にあわせて修正されねばならない。この修正の権利を独占するのは自然を探求する者である。つまるところ、聖書を正しく読めるのは神学者ではなく科学者なのだ。この主張を最も雄弁に裏づけているのが、天動説と地動説をめぐる論争だとガリレオはみなしていた。

 中世における聖職者たちの葛藤によりそってきた私たちには、このガリレオの言葉がいかに挑戦的に響いたか理解できるはずだ。古代のある時点においてキリスト教は正典のうえに築かれた信仰となった。正典たる聖書を読む能力を独占し、その解釈権を専有し、釈義を伝える方策を統制することによって、中世の教会は「万事につけ、われわれは、可能なかぎり統一を守るべき」という目標を達成しようと試みた。たしかにガリレオにいたるまでに、その試みは挫折し、キリスト教世界は分裂していた。だがカトリックが聖書の解釈権を手放そうとしていたわけではなかった。むしろプロテスタントへの対抗のなかで、禁書目録をはじめとする新たな手段をもちいて、教会は勢力圏内での正統性の独占を強化しようとしていた。そのなかでガリレオは聖書解釈の権利を聖職者から奪いとろうとしたのである。しかもそれをローマにまで出向いてとなえたのだった。であればこそ、ガリレオが異端誓絶の判決を受けたのは当然であった。その判決をくだす聖邪検庁で大きな勢力を占めていたのはドミニコ会士、すなわち中世において葛藤の中心にいた聖職者たちの末裔であった。それにより彼らは信仰と科学の分断といういっそう深刻な葛藤の種をまき、後継者たちを苦しめつづけることになる。

 ガリレオの反逆のうちには、恐るべき知性の冴えと愚劣なほどの傲慢さが混じりあっていた。たいする教会権力は懸命に秩序を維持しようとしながら、しかし決定的に硬直し、抑圧的なものとなっていた。これら二つが衝突するのを目のあたりにして、私たちがいかなる判断をくだすべきかは単純には決められない。だがすくなくともガリレオをめぐる一連の出来事は、聖なる言葉をめぐる駆け引きに埋めつくされた知の歴史がたどりついた帰結であった。したがってその真の意味を理解しようと望むなら、私たちは時計の針を中世聖職者の葛藤にまで戻し、ラブレーの笑いを通過させねばならない。『知のミクロコスモス』がさしだすのは、その針が回転する舞台である。そのコスモスはもう失われたかもしれない。だが失われたものを見つめることによってだけ、私たちはいま手にしているものを知ることができるのである。

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ヒロ・ヒライ、小澤実編『知のミクロコスモス 中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』中央公論新社、2014年3月、398ページ、ISBN 978-4120045950、定価3,700円+税。

photo: wikimedia commons

  1. Erasmus, Epistolae D. Erasmi Roterodami [...] (Basel, 1521), 85. []
  2. Giles Constable, The Reformation of the Twelfth Century (Cambridge: Cambridge University Press, 1996), 207より抜粋。近刊予定の同書の翻訳草稿の閲覧を許可していただいた小澤実氏に感謝したい。 []
  3. ガリレオ「クリスティーナ大公妃宛手紙」、青木靖三編訳『世界の思想家 6 ガリレオ』平凡社、1976 年、209 ページより引用。 []