中国の珠心算教育情報を日本に伝える研究誌 2011年冬号1月1日発行
通巻131号
珠算史の三大転換点 李 新
珠算の歴史を述べるのに、私は長々と話したくはない。もちろん、旧石器時代の人々でも、生存と発展のために、“計算”がなくてはならなかったが、しかし当時のものは最も低級で、成型した算具も算法もなかった。したがってこれらを研究しても、たいして大きい意義はない。
珠算史を述べるには、人々が珠算の大家と認める華印椿先生(1896~1990年)が編纂した《中国珠算史稿》(略称“史稿”)でアンダーラインを引いたり、話を展開することができるが、“みだりに議論する”ような妄論は慎まなければならない。
華印椿先生は珠算教育に従事して七十余年(華印椿《七十余年の回顧》を参照)、彼は生涯をこの事業に取り組み、最後に名をあげ一家をなして、珠算界のために尽くし、幾千幾万の人々と彼らの子孫のために貴重な文化的遺産を残しました。したがって私達が敬い慕うことができるのです。
華先生の“史稿”は国内外の珠算の史料百種類以上(詳しくは“史稿”の第497―501ページをご覧下さい)著作時間14年かけて書かれたので、慎重に取り扱わなければなりません。しかし書名を“稿”としているので、珠算の歴史学者達にとっては任意に改正するのには便利です。現在では、余裕をもって歴史の証拠を書くことができます。
以下筆者は主に“史稿”の基礎の上に、重点的に珠算史の三大転換点を述べることにします
1.第一の大きい転換点
西暦二世紀、漢代の山東人劉洪の《数術記遺》から話を始めます。
劉洪の算学は、初めの頃は籌算を主としており、彼は各種の計算をする中で、籌算に二つの弊害を感じた。:竹の切れ端で数字を触るので、計算速度は遅い;また、わりに大きいデスクや(あるいは地面)を占用しなければならない。なかでも特に“5”は単独で開けず、横並べ、竪並べはすべて5だけが使いやすくて、“9”を計算しても、5を使うだけ。
しかし、珠算は異なっていた。珠算の形はどうであろうと、たとえ上品でなくても、それはとても優れていた。劉洪の心の中は次第に珠算を念頭におくようになっていった。彼の学生徐岳と相談し認めた後に、徐が執筆した《数術記遺》で、古代広く伝わった多種の計算方法の分類を行い、“珠算”を書く時は、八つの字を概括に用いて:“控帯四時、経緯三才”と記した。北周甄鸞が解釈を行い:“刻板を三つに分け、その上下二段を停遊珠部分とし、中間を定位部分とした。この部分の各位五珠の、上一珠と下四珠の色を分け、その上の別色の玉を五とし、その下の四珠をそれぞれ一とした。したがって下珠を控帯四時と言いその珠遊は三方の中で移動するので経緯三才と云った。”
劉洪の偉大なところは、現代と似ている“この五珠の、上一珠と下四珠で”いわゆる“位”と言ったことで、今日の“桁”と同じだったことです。位があり、左へ向かって:、一、十、百、千……;右へ向かって:十分、百分、千分、....。
考えてもみなさい、一千八百年前の算具、算法、原理上では現代と同じことができ、また千百年も衰えないこの“知識”、これは素晴らしいことではないでしょうか。このようなことのため、1994年、劉洪の故郷――山東の蒙陰珠協は、この史実に基づいて一編のテレビドラマを作製して、喬羽作曲、当時の全国人民代表大会副委員長の王丙乾が題名を:《算経劉洪》、と命名した。これは珠算界がどのように劉洪を評価しており、また貴重な遺産を残そうとしているかという現れである。
2.第二の大きい転換点
“珠算の宗師”明代の程大位
程大位(1533―1606年)、安徽休寧(現黄山市)渓口郷の人。青少年時代に長江を遊励し、商業を営むことを主としていた時、偶然算書に出会い、高値をいとわず買いとった。40歳の頃に、《算法統宗》を共に17巻編纂して、1592年に出版した。また6年を経て、彼はまた簡潔な原著、《算法纂要》4巻を書いた。彼の経済的能力で、印刷できなかった問題。またこの二つの本が社会的需要に適するため、“珠算”の一語を明確にする。内容の上で、商業用の計算に使用する加、減、乗、除の口訣及び運珠、例を挙げると、演算など詳細な解説を行い、挿し絵も文章も内容が豊富でりっぱだった。またわりに大きい紙面で人々の暮らしに関係のある斤両、丈量、斗升などの実例を紹介している。語言通俗、一般民衆にはよくわかるものであった。
明朝の後期、南に徽商がいて、西に晋商があり、彼らの足跡は、北は燕趙、遼東に至り、西は隴(甘粛)、青、に至り、東は海外と東南諸国に至る。その時代は、商業にはひとまとまりの経営の道があった。信用と名誉を重んじ、文化があり、計算がよくわかっていた。程大位の二つの書は、客観の需要に合っていたのです。
珠算書、程大位の論著は、学術レベルがもし彼の先人に及ばないかもしれないと言うならば、例えば明朝呉敬の《九章詳注比類算法大全》(1450年)、また70年余り過ぎてまた王文素の《算学宝鑒》(1524年)、更に前には元代の朱世傑の《算学啓蒙》(1299年)、南宋楊輝の《日用算法》と北宋沈括の《夢渓筆談》など、この人たちの理論、学術のレベルはすべてかなり高いものになるが、しかしすべて欠点がひとつあって、“珠算”の二文字がなく話題にしていない(《中国珠算史稿》35ページから引用)。珠算書が“珠算”の二文字を敢えて書かない時代は悲劇ではないか。どうしてこのようになったのだろうか?華印椿先生が考えたのは:“その当時のいくつかの学者は、すべて社会に気兼ねして前代からの商人を卑しめる気風があって、書の中に敢えて珠算”を紹介しなかったのではないか(華著“史稿”の第37ページ)。
社会上は実際に珠算を使ってはいるが、文人学士は自分の著作の中で敢えて“珠算”を書く勇気がなかったのは、これは歴史の文献に極めて大きい傷を残したことになる。歴史書が真実を書かないで、何を以って証明をするのだろうか?
実は宋、元、明の時代には、カウンターの上の算盤はすでにかなり普遍的であって、たとえば北宋の宮廷絵師張択端の描いた《清明上河図》のように、左端の“趙太丞の薬店”では、すでにカウンターの上にひとつの算盤の絵が描かれていた。つまり、その時代(北宋960―1127年)には、算盤はすでに家庭や、商店にまで普及していたのです。それでも、やはり珠算を避けていたのです。 この現実を書に書き著わした程大位はすでに明末だったのです。
劉洪から程大位まで、“珠算”の一詞の間隔が一千年余りあった。珠算の歴史問題に関わる人々は考えにくくて、あれらは“書を以って証明する”という学者達のこだわりを堅持して、例えば清朝の大数学者梅文鼎のように、彼の書いた《古算器考》で書いているのは、“算盤が使われるようになったのは元末か明初だ”と言って、あたかも元末(1368年)以前には中国には珠算がなかったように言っている。もちろん、梅文鼎の保守をまだ批判することができない。なぜなら彼が書物で“珠算’の二文字を見たのは1592年の程大位の論著であって、つまり、梅文鼎もやはり“多估(多く推測する)”の年代の嫌いがある。
このことから、学術レベルを議論すれば、程大位は彼の大先輩(王文素、呉敬など)よりどうしても低く、その上また商人の出身で、普通性論著を書き出して乾坤を転換させた。《算法統宗》だけ、1592年から1934年まで、ずっと印刷されてきて、また多くの人々が争って復刻増刷してきたのは、考えて見ると、印刷した書の数量をどのように推定すればよいのか? 現代の数学者魏人庚によれば《算法統宗》の説法は:“印量の多さ、広く伝わる広さ、は世界稀にみるものである”(1986年《算法纂要校釈》の序文から)。
“小人物”の程大位が、珠算史上で果たしてきた乾坤作用の転換は、重視しないわけにはいかない。
3.第三の大きい転換点
現代の華印椿先生と中国の珠算協会
華印椿先生の業績はみんなが納得できるものである:(一)彼の文章《中国算盤の独創性を論ず》は、一挙に日本の珠算の権威山崎与右衛門の“中国算盤西来説”を覆した。(二)彼の論著《中国珠算史稿》、このツール性の書は、すべての珠算史を研究する者にとって、非常に大切なものである。(三)華先生は珠算事業を促進し発展させる上で二つの大きな歴史的貢献をされた。一つは1963年11月15日、彼は珠算家の身分で中国科学院数学者の孫克定が主宰し、40数名の数学家、教育家が参加する“珠算及び補助工具座談会”に参加した。会の後、会議の精神を実行するため、専門に仕事をすすめるスタッフ――“7人のグループ”を創立し、華印椿は成員の一人となった。珠算はこの時から、第一次の高い次元の時代にはいっていった。二つ目は、1978年12月3日~9日まで、華印椿は83歳の高齢で、自ら桂林珠算座談会に参加し、また会議指導者グループを代表して会議の総括と閉会の挨拶をおこなった。
まさにこの会議は中国の珠算協会の創立を促進した。
華先生はその学術のレベル、声望で生涯を珠算の事業に身を投じ、珠算界の大家として尊ばれその名に恥じなかった。中国人が発明した珠算はとても価値があるが、しかし歴史の上でまだ第一次に成立した国家1級の学術性大衆組織であり、原因は多方面にあるが、しかし華先生は生涯この事業に奮闘され、そして後輩を奨励し抜擢して、固く志を立て、彼が80歳の後の10年間で、宿願を果たした(中国珠協の第一の10年間)、華先生の業績は国内外で重大な影響があったので、珠算の歴史上第三の大きい転換点に入れました。
上述の三点:劉洪、程大位、華印椿は、中華の珠算文化の一定歴史時期内で、決定的な役割を果たした人物とみなすことができる。もちろん、まだまだ多くの珠算家達のかなり重要な役割もありました。一つの偉大な事業の成功は、リーダーだけでなく、更には多くの人民大衆の共同と功労によるものです。
作者:中国珠算協会第一・二期の副会長兼秘書長
(珠算与珠心算誌2010年第三期号から大谷が翻訳転載)
珠心算教育の形式の多様性問題を分析する(2)
景 婉 博 (2010-7-5)(前号からの続き)
マレーシアの教育は11年制の義務教育のため(小学留念、中学5年)全部無料です。珠心算教育のマレーシアでの発展は順調ではなかった。前世紀の七十年代、マレーシアの教育部は珠算授業を廃止していたが、1995年になって、マレーシアの教育部長は珠算を正式に小学校の数学の課程に組み入れることを宣言した。様々な要素の影響のため、珠心算教育は学校で行ったが、効果は理想的ではなかった。これに反して、民間の珠心算団体は、雨後のタケノコのように次々と成立して、しかも、珠心算の月謝は他の習い事を上回る活況を呈し始めました。2002年、マレーシアの教育部は再度珠心算教育を推進し始め、三年間すべての小学校で珠心算教育を普及させることを求めた。新しい数算課程は2005年に実行を始めたが、珠心算の授業時間は増加していなかった。2005年までに、マレーシアに三百を超える中国の珠心算センターができ、学生人数は15万名を超えた。
二、我が国(中国)の珠心算教育の主要な形式及びその特徴の分析
現在珠算珠心算教育は我が国では正式な課程ではなく、小学校の授業から取り除かれている。しかし、珠算の基礎の上で新機軸を打ち出して発展する珠心算は、一連の科学を通じた研究と実験によって、それが学生に対する智力の潜在エネルギーを開発する著しい作用を持つことが証明され、その他の課程の学習に対しても効果影響のあることがわかり、そのため現段階では珠心算教育を広めることに一定の現実的な意味を持ってきている。しかし、珠心算教育の教育体系がまだ形成され統一モードがまだできていないため、各種の教育形式がまちまちで、進学予定者、教師、経費の出所不一致によって、教育形式もまたそれぞれ異なってくる。場所区分によって、主に幼稚園と小学校のキャリヤーの展開;教育場所の性質によっての区別、主に公営の学校と民営の学校の珠算珠心算教育がわかれる;教師の編成区別によって、また外部教師による授業と専任教師による授業の二種類の授業にわかれる;課程の設置方式によって、単独進行及び数学授業との結合の二種類の形式にわけて行うことができる;課程の組織形式によって、活動の授業、興味のクラスに分けて、選手養成など何種類の形式にわけることができる。この何種類かの形式は交差し、相互の浸透、それらは教育の理念、教育方法と教師の素質などの方面でそれぞれ長所があって、それぞれに利害がある。
珠算珠心算の教育形式の分類に関して、本論文は伝統的分類法を採らず、教師の出所によって現在の珠算珠心算教育の形式分類を各自の特徴と長所と短所を紹介して分析することとした。大雑把に言って、珠心算教育を公営の教育、民営教育、そしてその他の形式というように三つの形式にわけることができる。 公営の珠算珠心算教育の中でもまた、公営の学校の教師による授業と、公営の学校外から招聘した教師による授業の二種類の形式がある;民営の珠算珠心算教育にもまた、純粋に育成訓練された民営の教育機構と、教師を招聘して民間経営を行うものとの二種類がある。;その他の教育形式の中では主に青少年センターのような比較的に独特な教育モードがある。
本論文は主に現段階をめぐって珠心算教育の存在する各種の形式について、分析した各種形式の特徴と利害に帰納して、今後注意すべき問題点を出して、もっとより良く、更に効果のある珠心算教育の展開と推行普及のため些かの参考意見を提供したい。
(一)、公営学校の珠算珠心算教育
1、自前教師による授業
公営幼稚園の教育モードと方法は、必ず国家教育局などの関係部門の管理によらなければならない。国家が推行する教材を取り入れ遵守して幼児の早期教育を展開する。現在、珠心算はすでに非学歴教育または非幼児教育であり、教育部の学校を設立・運営する範囲に属していない、しかし長期の教育実践と科学研究の結果が証明しているように、珠心算の学習が児童の智力の潜在エネルギーを開発することに対して著しい役割があって、“一科の学習によって、多くの学科によい結果をもたらす”(一科学習、多科収益),に至っている。そのため、一部の公営学校が行っている珠心算教育を学校の特色課程として全校で展開すれば、それは良好な教育の効果として良い社会の反映を得ることができる。 これらの公営幼稚園は珠心算を学校の本課程として開設し、珠心算を教える教師は学校の自前の専任教師であるが、もし小学校が珠心算授業を展開するならば、一般的には数学の教師が代わって珠心算授業を教えることになり、少しの部分はその他の学科の優秀な教師が珠心算授業を教えるようになる。
公営の学校が自前の教師で珠心算授業を行う長所が主に三つある:場所が固定している、学生募集の安定、教師の素質に保証がある。特に教師の素質はその多くは民営の幼稚園に比べることができない。公営幼稚園の教師の募集プログラムは厳格で、教師に幼児教育の専門的な資格を持つように求めており、そのために教師の素質比較的に高い保証がある。その他、公営幼稚園はいっそう重点的に幼児の啓蒙教育を展開するために、幼児の発散性思惟能力を育成して、そのため全体で幼児の就読過程はほとんど幼児の丸暗記する内容を求めることはなく、詰め込み式教育にならない、だから、珠心算課程を開いている公営の幼稚園の中では、高度な訓練を学生に求めることはなく、しかも珠心算の期末テスト体系を組み入れることもない、そのため、教師のテスト審査の負担や実績評価をする負担もなくて、学生も過重の試験の負担もなく、楽しませながら教え、楽しみの中で学習し成長していく。弁証法的唯物論は、すべての物事にはみな両面性をもっている、と述べている。公営の幼稚園あるいは小学校で珠心算教育を展開するにあたってもその長所があるが、同時に欠点も避けることができない。たとえば、公営の幼稚園あるいは小学校は、新入生を受け入れる時、学生の戸籍によって、合格をしても、学生が、ある勉強をしたい珠心算課がある学校であっても、その自身の戸籍または学生募集の範囲内にない場合、本当にもし勉強したいならば、必ず高い賛助費あるいは学校費を納めなければならない。いくつかの豊かではない家庭に一定の経済的負担をもたらし、いっそう教育と学生のバランスのとれない不均衡な発展をもたらすことになる。
2、外部から招聘した教師による授業
現在珠心算授業は九年制の義務教育の範囲に入っていないので、それぞれの小学校は教育部門の要請でも、1学年の珠心算授業を設けることは難しい、しかし、たくさんの学生の父兄が自分の子供に珠心算を学習させる強い願望と需要があるが、同時に困ったことに社会は各種珠心算養成学校の授業レベルを理解しないし、これに加えて彼等の教育法がまちまちで、更に授業料が高いのが原因で、一部の学校ではやむを得ず就学前の珠心算課しかできない。このような方法が現段階での珠心算教育である。このような難しい普及の情況下で珠心算教育を行っていくために一種の有効な試みがある。具体的な方法は、公営小学校で学生募集を責任もって行い、珠心算を学校の特色ある課程の一つとして就学前班教育を展開する。たとえば、広西省南寧市白沙路小学校はすぐにこのような形式を取り入れた。(続きは次号にて紹介します)
あ と が き
☆本年もご支援よろしくお願い申しあげます
☆今回紹介しました李新先生は、当研究会の特別顧問をしていただいております。中国へ珠算交流に行った時はいつも交流の場所まで来て助言をしていただいております。「中国珠心算簡紹」106号にも『珠心算研究における「金」探し』という一文を書いていただきました。また、「珠算史研究」誌(48号)にも紹介しました『中日珠算友好の大きなドキュメンタリー』という長文もあります。この度の『珠算史の三大転換点』は中国の珠算史を理解する上で解りやすいものになっており参考になるのではないかと思います。
☆前号から引き続き紹介しております「珠心算教育の形式の多様性問題の分析」の筆者は、現在中珠協秘書処に勤務している日本語通訳の女性です。中珠協に勤務して余りたっていないのによく調べて書いていると思いました。彼女は昨年(2010年)12月に北海道で開かれた、世珠連第三届第二次常務理事会に通訳として参加しています。日本で世珠連の会議が開かれているのに、日本の珠算界にはこの情報が伝わってこないのは残念です。我々ももう少し関心を持ちたいし、会議内容についても知りたいと思っています。
☆昨年中の我々研究会としまして、やはり大きな出来事は上海方面での珠算交流でした。上海万博での珠算公演は実現しませんでしたが、一つの出来事が伝わってきました。
中国珠算博物館のホームページによれば、2010年9月18日“上海万国博覧会南通友好デー珠算文化体験活動”が中国珠算博物館で行われた、と報じています。参加したのは、上海万博の各国家館及び国際組織の出展官員一行60名です。参加者達は、珠算文化の陳列品を見学し、その奥深さに我を忘れて写真を撮り、その文化の見事さに称賛を贈ったそうです。また、子ども達の模範演技に対しても、その素晴らしい演技に対して、目を見張り称賛と暫く鳴り止まぬ拍手が送られたと報じていました。我々の希望が実現したように思いました。
☆さいきん、日中関係で不安な情報がよく伝えられてきます。そして、これが珠算交流にも影響するのではないか? と心配する方もおられるようです。しかし、我々が行っているのは、民間交流であって、影響を受けることはけっしてありませんし、影響させてはいけないと思います。日中の文化交流は千年を超える永い歴史があり、珠算にしても数百年の歴史があります。今起こっている出来事はこの永い歴史の中のほんの一瞬にしか過ぎません。これからも日中珠算交流の発展に最善を尽くしていきたいと思っています。(大谷)
以 上