隠れ家日記

Twitterでは書けないような、シリアスなことを書き散らかすための場所、のつもりです。ほとんど自分語りです。

表現者の資質

 「一杯のカフェオレ」ってタイトルで何かてけとーに1エントリ書こうかと思ったんですが、「一杯のかけそば」自体うろ覚えだし、そもそもネタとしてあんまり面白くできなさそう、ということで即座に却下しました。っていうか、喫茶店のカフェオレでお涙頂戴とかどう考えても無理。
 今は喫茶店でカフェオレを一杯だけ頼むという、非常に客単価の低い悪質な客としてテーブル席を1つ占有しつつ、だらだらとこの文章を書いています。先週はしょたっ子でいっぱいだったこの喫茶店ですが、今日は親子連れどころか一般客すら全然いなくて、がら~んとしています。もっと…トキメキが…欲しい…!

 


 

 昨夜はツイキャスを聞きながら酒を呑みながらぼけ~っとしながら気がついたら寝てた、という自堕落極まりない夜を過ごしたわけですが、今朝起きたら頭が痛くて考えがまとまらなくて、何も文章が書けない状態になってました。要は二日酔いですね。珍しくとも何ともない。
 で、ふらふらする頭で何となく考えた…というと違うか。ん~…想った?のは、今までの人生で失ってきたものたちのことでした。このブログを定期的に読んでくれている方には言うまでもないことですが、おいらは過去に対する執着が非常に強い人間でして、定期的に過去の妄執に囚われては胸を掻きむしるような、情けない性質を持っています。
 まぁ、仮にも自分自身のことを「おっさん」と呼べる程度にはトシをとったわけで、それでいちいちどうこう、ということも(ほとんど)ないわけなんですが。それにしても、手のひらから…指の隙間から零れ落ちていったものたちのことを想う時に襲ってくる喪失感というか切なさというか、そういうものはどうしようもなかったりします。
 それは例えば、手を伸ばせば救えたはずの友人であったり、目を背けて逃げ出してきた場所であったり、あるいは決して戻ることのできない愛おしい日々だったりするわけですが。それらを想うとき、ここまで歩んできた道のりのどこかに間違いがあったのではないか、間違いとは言えないまでもちょっとした行き違いがあったのではないか、などと考えても仕方のないことをついつい考えてしまうわけです。

 


 

 昨夜のツイキャスで、「ブログを長く書き続けられる人って少ないよね」みたいな話になりまして。(いや、もうちょっと違うニュアンスだったような気がするんですが、既に酔っぱらっていたのでイマイチ思い出せません)
 一度三日坊主でブログを畳んだ経験と、現在進行形で毎日書き続けていることを併せて考えると、「ある程度の更新頻度で」「長い期間にわたって」ブログを書き続けるというのは、なかなかに難易度が高い…というか「しんどい」ことではあるんだろうな、と思ったりしました。

 

 いや、まぁ、おいらも所詮半年ちょいしかこのブログを続けてないわけで、あんまりえらそうなことは言えないんですが。ネット歴はそこそこ長い方なので、このブログを始める前から、個人のホームページやブログで長続きするところは少ない、ということは見てきたつもりです。
 その理由の一つとしては、身もフタもない言い方をするなら「面倒臭い」というのが挙げられると思います(って、これはおいらの口癖なんですが)。生活のために身も心もすり減らすようにして働きながら、それでいてリアルにさしたる影響を与えるでもないネットのために、時間と精神力をつぎ込むようにして文章を書き続けるというのは、なかなかに精神的負担が大きい。そこで、日常を優先するために、ネットでの活動を「面倒臭い」ものとして切り捨てるのは、必ずしも失敗や挫折などとは言えないだろうと思います。
 もう一つとしては、(これはしょっちゅう言ってることですが)「書きたいこと」がどれだけあるか、という話になるんでしょう。どれだけの「満たされなさ」を抱えているか、と言い換えてもいい。今まで生きてきた中で、あるいは今生きている日常の中で「満たされなさ」を感じていれば感じているほど、それが表現の強い原動力になるんだろうな、と。

 

 おいらはたまに、「ネットにどっぷり浸かっている人は大体メンヘラ」という暴論を吐きますが、それは上に書いたような理由によります。あまりよろしくないニュアンスを持つ「メンヘラ」という言葉を、その定義もはっきりさせないままに使うのはよくないと思うんですが、慢性的な満たされなさをネットでのみ解消しようと試みるのは、あまり健全な精神の在り様とは言えないだろうと考えています。
 この考え方に従うなら、おいらも十分にメンヘラなんだろうなぁ、とも思います。過去の妄執に囚われ、失ったものたちの代償を求めて、文章という形で自意識を表現しつづける姿は、自分で見ても健全なもんとは言いがたい。…まぁ、ある程度ラクに生きられるようになった今、「健全さ」なんてもんにこだわる必要もないし、むしろ文章書きとしての自分の原動力が失われることの方が嫌だったりもするので、不健全なら不健全でも別にいいやって感じなんですが。
 これはよく書くことなんですが、今のところ毎日こうやって駄文を書き続けることができているのは、読んでくれる人が確実に1人はいる(だろう)という安心感の他に、失われてしまったものの代償を求める気持ち──あるいは、どこまでいっても決して埋まらない欠落──に拠るところが大きいです。(惰性で書いてる日も少なくないですが)

 

 昔どこかで、「表現者たるもの、死に肉薄した経験が無くてはならない」というような文を読んだことがあるんですが、今でもその文の意味するところはわかりません。ただ、「表現者たるもの、失ってきたものに対して鈍感であってはならない」ぐらいのことは言えるかもなぁ、とか。
 どうやっても取り戻せないものに向かって手を伸ばし、もどかしさや喪失感や罪悪感などといった「満たされなさ」に対して正直であろうとすることが、表現者であるための第一歩なんじゃないか。もし、そういったものに対して鈍感になったり目を背けたりして「満たされて」しまったなら、表現するための原動力を失ってしまうんじゃないか。
 底無し井戸のような欠落を覗き込みながら、どうやってその井戸を水で満たそうかと考えるような、無駄にも見える足掻き。キリのない営為。仮にそれが「表現」であるとするなら、長く続けられる人が少ないのは当然かもしれないなぁ、などと思ったりしました。

 


 

  • あとがき

 

 まぁ、もっと健全?な動機で「表現」を続けている方も少なくない…というか、たくさんいると思うんですが。おいらは超がつくほど後ろ向きな人間なので、どうしてもこういう見方をしてしまいます。現実には、未来のことだって(ある程度は)考えざるを得ないし、このブログでも、(後ろ向きなりに)未来へと繋がるようなことを書きたいなと思っているんですが。

 

 余談ですが、喫茶店に2時間ほど居座ったにも関わらず、親子連れの方は1組も現れませんでした。それどころか、たまに入ってくるおじいちゃんたちにチラチラと見られるばかり。一杯のカフェオレをしょたっ子と分け合う夢はいつになったら叶うんでしょうか。