メンヘラと事件の話

 迷ったが少し例の件について書く。

 憂鬱で思考能力がめっきりと減退し、長らくやめていた煙草もまた自堕落に再開して、その気怠い煙を肺に流しこみながら、朦朧とした意識状態で唐突にブログを書いている。

 一緒に文芸同人誌を作った女の子が八階からダイブしたり、その元カレが自殺教唆で逮捕され実名報道され、いま徹底して気分ががらんどうになっている(ニュースを見て、実名報道とインターネットの悪魔的なコンビネーションで社会的抹殺を被ることの恐ろしさを考えながら僕は動揺を隠せなかった)。

 

「はは、ここから飛び降りたら死ねるよね」と、以前彼女のマンションで、彼女が空疎に笑ったのを聞いたことがある。そのとき僕たちはオフ会の帰りで、オフの参加者とともに彼女の家に立ち寄ったのだった。メンヘラオフという不健全の塊のような会合。ブロンをキメてから来ましたという女もいた。そして立ち寄った彼女のマンションにはもちろん安定剤や、そしてまたブロンの瓶なんかが無造作に転がっている。そしてオフで集まった女がみんなで仲良く手首を切り、男は「やっぱり心がつらいから出会い厨が」云々と言っている。空虚だ。

 彼女と同人誌を作る際に、実際的に言ってわりと彼女の適当さに少々、悩まされたところもあり、たとえば「こんな企画も考えたんです!これも企画します!」と言って大量にもちかけてきた企画がひとつも実現しなかったり(僕は「このままではまずい」と思い「メンヘラップ」というものを企画することにした)、「私いま睡眠薬でラリってるんですよ~」と急に電話がかかってきたり、「サークラ研究会の会誌を委託請け負う約束勝手にしちゃったんですけど良いですか?」と言われ、詳細は省くとしてその後サークラ研究会と僕のあいだでごたごたが起きるなど、あえて言ってしまえば振り回されていた側面もなくはない。

 こうエントリを書きつつも、やはりああした事件(まさしくそれは事件だ)について書くのは気が引けるが、それでも書く。

 実は、彼女が飛び降りる直前に、僕に彼女からLINEで電話がかかってきていた。「私、いまから八階から飛び降りようと思うんだけど、死ねるかなぁ?」と彼女は言った。「おそらく八階なら死ねると思うけど、少し落ち着こう」と僕は言った。彼女は続ける。「でも、私、いままでいろんな男とセックスして、その男に依存して、相手に寄生虫みたいに生きてきて、こうして元カレとも別れたけどすぐ新しい男できて、一生こうやって生きていくんだったら生きていく意味なくない?」と述べた。返答に窮する。これに「そんなことないよ」と言うのも気が引けた(彼と別れたその日に、彼女から僕に「すきでした」というLINEも来ていた)。

 境界性パーソナリティ障害の承認欲求とそこからくる依存性は、たしかに果てがない。かつて僕もボーダーの女の子と付き合っていたが、まるで穴の空いたバケツに水を注ぐような、いくら愛そうとしても極めて不毛で、精神を摩耗させるような時間だった。さみしさの塊のような存在。(ちなみにボーダーの、他者との依存的な関係性構築のパターンは幼少期の愛着のスタイル、とりわけ母親との愛着のいびつな様式によって大きく規定されていると聞く)。

 僕は彼女のその言葉を聞いて、「そんなことないよ、生きていれば良いことあるよ」などとは言えず、「かなしいね」と皮相的な言葉しか出てこなかった。

 通話の最中に「ねえ、私が死んだらはるしにゃんに迷惑かからない?」と彼女は言った。おそらく確実に迷惑がかかるだろうという予感はあったが、「どうだろう」と僕は答えた(しかし、作った同人誌を十冊ほど彼女に渡しておいたけれど、彼女の側で担当した執筆者や絵かきに彼女がそれを渡さずに飛び降りてしまい、僕に「亡くなったんですか?同人誌もらえますか?」といったリプライやDMが無数に届いたのには、気が滅入った)。

 一人の女の子が飛び降りたということそれ自体はもちろん悲しい事実だ。しかし、言い方が悪くなってしまうが、個人的な感触としては、「だから私を見て!」というメンタリティの凝結したような存在であった彼女はおそらく、ああいった派手な自殺を、そしてあるいはまた事件さえも、おそらくエンターテイメントとして敢行したのではないか、という気さえする(決して露悪的にこう言うのではなく、実直な実感として)。彼女はメンヘラであることをコンテンツとして昇華しようという志向性が極めて高かった(それはツイートを見るだけでも一目瞭然だろう)。そしてようやく自らの存在をああして華々しくコンテンツとして完結し、望むようにメンヘラ女子たちから神格化され、一種の神になったわけだ。邪神かもしれないが。(そういえば、自殺した二階堂奥歯の『四本脚の蝶』の帯文にもたしか、「物語を愛した彼女が、そして物語になった」といった惹句が書かれていたような気がする。それは一方で良い話かもしれない、他方で薄気味悪い話かもしれない)。

 ともかく、人間が死んだり、逮捕されたり、そしてそうした「事件」は、もちろんネットワーク上で消費される(今日もどこかで誰かが消費されている)。でもそういうものだ(余談だけれど、イマニュエル・カントの定言命法の一つは、現代的に言い換えると「他者を単にコンテンツとしてではなく、常に同時に一個の人格として扱え」、といった風にならないだろうか)。

 あまり思考がまとまらない。あの事件の後に、はてなのエントリで彼女を扱ったものを読んだ。雑駁に言ってしまえば「共依存は良くない」というもの。僕はTwitterを見ているとしばしば「メンヘラ女子と共依存したい」と延々と言っている人を目にすることがある。逆に「メンヘラ好きな男の子いないかなぁ」と言っている女の子もいたりする。そしてこのあいだは僕にメンヘラ女子高生がLINEで急に「はるしにゃんは私をわかってくれてる!だから私の処女もらってくれませんか?あと監禁してください」と言ってきた。やめましょう。

 あと最後に一つ。彼女が最後にツイートした「みなさま、よき倫理を!」は同人誌の扉絵を描いてくれた人の考えた言葉で、扉絵に書かれているものだということを一応。

 

 生きるのは基本的に言って極めて困難な営為であり、生存のなかで身体も精神も自らを自らであらしめるために常に数限りないプロセスを強いられる。疲弊する。しかし、だからと言って病んだ人間が共依存という閉域に没入してしまうと、「こういうこと」にもなってしまう。

 結論としては、はっきり言って、平和に生きたい。平和になりましょう。