4-7 朝鮮人強制連行はなかったか?

 

1939年以降戦争終結まで、政府が決めた計画に基づく労務動員が実施されました。動員は日本人のみだけではなく朝鮮人も対象となりました。炭鉱・鉱山や軍事施設建設での労働のために朝鮮から日本内地につれてこられた朝鮮人だけでも約70万人を数えます。しかも朝鮮人の動員は本人やその家族の意思とは関係なしに行われていました。つまり様々な脅しや圧力、あるいは物理的な暴力が加えられて、指定された労働現場に出ていかなければならない状況があったのです。このため、朝鮮人に対する労務動員は、その実態を記録した研究者らによって朝鮮人強制連行と呼ばれるようになりました。

 

こうした暴力的な動員が行われていたことは、当時の状況を知る人はもちろん否定していませんし、史料に基づく歴史研究の蓄積のなかでも確認されています。したがって、朝鮮人強制連行という語は歴史用語としても定着しており、たいがいの歴史用語辞典でも強制連行ないし朝鮮人強制連行の項目があり、その意味の解説が記されています。ちなみにそうした事実を否定するような主張や宣伝は、当時のことをよく知る人びとが多く存命であった1990年代初頭まではほとんど行われていません。

 

ところが近年になって、朝鮮人強制連行の事実はなかったといった主張や宣伝がさかんに行われています。その論拠は①日本内地での就労を希望する朝鮮人は多数おり、当局はそれを制限していたほどであった、②実際に動員に積極的に応じて日本にやってきた朝鮮人がいる、③命令に従わない場合についての罰則規定がある国民徴用令が朝鮮で発動されるのは1944年9月であり、それ以前の動員計画での要員充足は強制力を持つ行政命令によって行われているわけではない、というものです。

 

しかしこれらの論点は朝鮮人に対する労務動員において暴力的な動員がなかったとか、それが例外的だと言った話の根拠にはなりません。
まず①については、日本内地渡日希望の朝鮮人が多数いたことは確かですが、そうした人びとが動員計画で集めようとしていた職場への配置を希望していたかどうかを考慮する必要があります。この点については、日本内地での職を求める朝鮮人の希望と動員計画での主な配置先とはマッチしていなかった傾向があることがわかっています。動員計画で主に配置しようと炭鉱・鉱山は労働条件と待遇の悪さが知られていたため避けられていたのです。渡航制限があったのもこのためです。つまり、勝手に自分で決めた職場への移動を許さないことによって、動員計画による炭鉱・鉱山などへの就労に導こうという政策がとられていたのです。

 

とは言え、炭鉱であろうと何であろうと雇用先があるのであればそれに応じるという朝鮮人がゼロではなかったことも確かです。そこから②のような主張がでてくるわけです。しかしそうした朝鮮人だけをいわば“希望に応じて”連れて来たのかと言えばそうではありません。そもそも1940年の朝鮮総督府の調査によれば朝鮮農村にいる転業・出稼ぎ希望の男子は約24万人と推計されていました。ところが1940年度の動員計画では、朝鮮内・日本内地へ動員すべき労働者で朝鮮農村を給源とする人員は25万人でした(しかも転職希望者の約24万人のなかにも “転職はしたいが炭鉱や鉱山など酷い待遇をするという職場はお断り”の人が相当含まれていたでしょう)。つまりこの年度だけでも希望者のみでは動員の人員確保は無理であったわけです。しかもこれ以降の年度で動員規模はますます多くなっていきます。“どこでもいいから働きたい”という朝鮮人が動員に積極的に応じてやってくる、というケースは動員政策が始まった初期においては確かにありましたが(そしてそのように経済的な苦境に陥っていた朝鮮人がいたことが植民地社会の現実であることにも注意すべきでしょう)、それを一般化することはとうていできません。

 

大原社会問題研究所所蔵「日炭高松炭鉱の朝鮮に於ける労働者募集状況」

 

そして、国民徴用令の発動以前の時期にも実態として暴力的な連行が多発していたので、③も強制連行虚構説の根拠にはなりません。動員のための人員確保の暴力性については多くの被動員者の証言のみならず、当局者自身の残した証言、公文書からも裏付けられます。例えば1943年11月に行われた雑誌の座談会で朝鮮総督府の労務動員担当の事務官は「労務者の取りまとめ」は「半強制的にやってゐます」と発言していました(「座談会 朝鮮労務の決戦寄与力」『大陸東洋経済』1943年12月1日号)。ここでの半強制的という語の「半」は法律上の強制ではないというだけです。行政当局の別な資料では、農耕に従事していた老人や年少者の駆り集めや、たまたま駐在所の前を通った人物をだまして自動車に乗せて役場に連れて行って動員したケースを「半強制的募集」と表現しています(朝鮮総督府高等法院検事局『朝鮮検察要報』第9号、1944年11月号)。

 

また1944年4月の道知事会議では朝鮮総督自身が「官斡旋労務供出の実情を検討するに労務に応ずべき者の志望の有無を無視して漫然、下部行政機関に供出数を割当て、下部行政機関も亦概して強制供出を敢てし、斯くして労働能率の低下を招来しつゝある欠陥は断じて是正せねばなりません」との指示を伝えています。要するに、本人の意思に関係なしの強制的な人集めが行われているのでそれを止めるように言っているわけです。

 

朝鮮総督小磯国昭「訓示要旨」、1944年4月12日、『朝鮮総督府官報』1944年4月13日号に掲載。

 

 

しかし人手が不足しているにもかかわらず動員が拡大していったなかでは「強制供出」が改められる余地はありませんでした。1944年6月に朝鮮を視察した本国政府の役人は「動員の実情」について「全く拉致同様な状態である。/其れは事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多くなる」ことを伝えていました(小暮泰用より内務省管理局長宛「復命書」、1944年7月31日)。

 

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小暮泰用より内務省管理局長宛「復命書」、1944年7月31日

 

そしてもちろん、国民徴用令の発動以降、より動員の実態が暴力的になっていきました。当時の朝鮮では動員忌避者が逃げ隠れすることが日常化し、朝鮮総督府自体も本人を動員できなければその家族を連れてくることを命じるなどの近代国家とは思えないような指示すら出されていたほどでした。いうまでもなく、日本人に対してはこのような人集めは行われておらず、植民地支配のもとでの差別に基づく政策であったということができます。

 

なお、労務動員に限らず、朝鮮人を軍慰安婦や志願兵を含む軍人、軍属としたことなどを含めて朝鮮人強制連行という場合があります。つまり、戦争遂行のために朝鮮人を使用したことをすべて朝鮮人強制連行といっているわけです。志願兵についてみても実態として圧迫が加えられて「志願」が強いられたケースがあるわけですし、“日本帝国臣民として戦う”という“皇国臣民たる朝鮮人”がいたとしても、それは植民地支配のもとでほかに選択肢もなく日本帝国に都合のよい教育がなされていたためです。さらに言えば、そもそも朝鮮人のほとんどの人びとは日本の政策決定に参加できませんでした(朝鮮では衆議院選挙は行われていません)。朝鮮人は勝手に決められた動員政策に駆り出されたという事情もあります。各種の朝鮮人への動員をすべて強制連行と呼ぶ場合は、そうしたことを根拠としているのです。

 

参考文献
古庄正・山田昭次・樋口雄一『朝鮮人戦時労働動員』岩波書店、2005年
外村大『朝鮮人強制連行』岩波新書、2012年