2013-12-05
社会的なものとしてのビブリオグラフィ
Stephen P. Weldon, “Bibliography is Social: Organizing Knowledge in the Isis Bibliography from Sarton to the Early Twenty-First Century,” Isis 104 (2013): 540–550.
研究会用に(いつもにもまして)詳しくまとめました。科学・技術・医学史のジャーナルである Isis は、定期的に関連分野の新しい研究を集めたビブリオグラフィを作成しています。その製作の歴史を研究することによって、ビブリオグラフィが有する社会性の様々な側面を描き出そうという論考です。
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科学が社会の中に埋め込まれたものであることは今日では共通見解となっていますが、科学史という我々自身の学問領域がどのように社会的な文脈のなかに埋め込まれているのかという問題はあまり考察されていません。科学史の社会的な側面は、研究に使用されているツールが作り上げられる場合にとくに重要です。ビブリオグラフィは単なる引用の寄せ集めではなく、いたるところで社会的な側面を有しているのです。しかしビブリオグラフィがどのような意味で社会的なのかは複雑な問題です。社会性は多様な仕方で現れているからです。ビブリオグラフィが社会的なものであるのは、
(1)人々の諸集団によって作られるためです。分類がどのようにしてなされるかということから、人々の世界理解の仕方や、彼らが諸事象を扱う仕方のなかの道徳的・倫理的な先入観が見出されます。
(2)社会的な目的のために作られるからです。ビブリオグラフィは、それを必要とする学者コミュニティを結びつけるものです。
(3)ビブリオグラフィは書かれた書物や論文にかんするものであると同時に、書いた人々にかんするものでもあるからです。引用のネットワークは人々のネットワークでもあるのです。
しかしビブリオグラフィや分類の社会的本性は内部にいると見えにくくなります。本論文では、Isis のビブリオグラフィの歴史をケーススタディとしてこのしばしば見えにくくなる要素を検討します。
- サートンとビブリオグラフィの起源
Isis ビブリオグラフィを生み出したのはジョージ・サートンです(1913年)。ビブリオグラフィとジャーナルそのものは、新しい学問分野を生み出そうとする彼の努力の一部でした。彼はビブリオグラフィを用いて科学史の研究者を結びつけようとしました。彼によればそれは新しい学問分野の構築をうながすものであり、そして彼は Isis ビブリオグラフィを自身の中心的な仕事だとみなしていました。Isis 第100巻の Pyenson and Verbruggen 論文*1ではサートンのより広い歴史的文脈が明らかにされました。それによると彼はポール・オトレとアンリ・ラフォンテーヌと活動をともにしており、世界的規模の図書館を作ることで国際協調主義を高めるというオトレの考えに刺激されていました。これら3人はいずれも、ビブリオグラフィが国際協調主義の精神を醸成する助けになると考えていたのでした。サートンはオトレが作ったシステムのなかに自らの科学史ビブリオグラフィも埋め込むということを最初は考えますが、それはうまくいきませんでした。そしてサートン自身のビブリオグラフィの作業から彼独自の世界的規模のビジョンが生まれます。
サートンのシステムには組織化の三つの原理が存在しました。
(1)彼は科学的知識が発展していくものだと考えていたので、時系列的な順序が基礎的なカテゴリーとなりました。
(2)第二のカテゴリーは文明でした。科学はサートンが「歴史的、民族誌的」な文脈と呼んだもののなかで起こるものだとされます。そこで西洋古代、ビザンツと西洋中世、当方の科学と文化、新世界とアフリカといった区分のもとに文献が配置されました。
(3)第三に知識が科学の多様な要素へと区分されました(それぞれが世界の異なった側面を対象にしていると考えられた)。形式的科学(数学や論理学など)や物理的科学から人類学的・歴史的科学、医学、教育にいたるまでの下位区分がなされていました。
これらの三つからなるビブリオグラフィの構造にはオーギュスト・コントの影響が見られます。ただし違いもあり、サートンは19世紀の実証主義者たちよりも文化の非科学的側面を重視する傾向がありました。さらに彼は人々の考えと同じくらい人々そのものに関心を抱いており、その関心に駆り立てられていたように思われます。重要なのはサートンのビブリオグラフィが彼自身の時代と場所の産物だったということです。
- 同時代のビブリオグラフィ
サートンは当時ビブリオグラフィを作ろうとした唯一の人物ではありませんでした。他の試みとしてまずあげられるのがカール・ズートホッフの Mitteilungen zur Geschichte der Medizin und der Naturwissenschaften (1902年–)です。自然諸科学を扱うパートAの構造は非常にシンプルなもので、単に領域にのみ注目した分類がなされました。当初それらは単に Alchemie から Technik と Zoologie へとアルファベット順に配列されました(後に領域間の関係を考慮したものになる)。医学史を扱うパートBでは時代ごとの下位区分が導入されました。またイタリアではアルド・ミエリによって Isis に類するイタリアに注目したビブリオグラフィが作られます(1919年)。これはサートンのモデルに深く依拠したもので、構造的にもほぼサートンの Isis ビブリオグラフィをそのまま受け継いでいました。
サートン、ズートホッフ、ミエリのビブリオグラフィはいずれも、学問領域の形成という社会的な文脈のなかで生まれたものでした。ビブリオグラフィの作成は、科学史を独立した学問領域にするために不可欠の条件だと考えられたのです。分類の体系はコントの計画などを背景として持っていました。そしてサートンのビブリオグラフィが最も複雑で明確であったのは、彼が文明をこえた知識の大きな広がりを可視化していた人々と共同していたからだったと言えます。彼にとって科学史は文明研究の不可欠の要素だったのです。
サートンが Isis の編集者をやめる時期(1953年)が近づくと、ジャーナルの編集とビブリオグラフィの編纂を分離する必要が明らかになります(両者とも非常に多くの時間を必要とする労働だったので)。サートンがいなくなって二つの大きな変化が起こりました。第一に委員会によって仕事が引き継がれます。サートン自身は、それが本性的に非人間化をもたらすとして反対していました。第二に分類体系が変化します。まず時系列と領域による二種類の分類へと簡略化され、さらに科学外のもの(芸術史、教育史など)が削除されました。
サートンの退任に際して調査委員会が設けられ分類体系の改訂が進められます。中心になったのは Hnery Guerlac でした。彼はコーネル大学で科学史の課程を作成し、そのためのシラバスと資料の集成を出版します。そしてそれらの資料のためのカードシステムを作成しました。他に I. B. Cohen、Conway Zirkle、Dorothy Schullian、Genevieve Miller、Morris C. Leikind が委員に加わっていました。この委員会のいくつかの特徴が指摘できます。第一に男性が中心的な地位を占める傾向が強かった時代であるにもかかわらず二人の女性委員が入っていました。また Guerlac と Cohen という二人だけが物理的科学の歴史家であり、ほかは医学や生物学の歴史を研究していた人々でした。
委員会によって作られた新しいカテゴリー、すなわち疑似科学に関して非常に興味深い仕方で社会的文脈が現れています。なぜ様々な疑似科学が一つのグループにまとめられることになったのでしょうか。これを理解する背景となるのは、当時 Zirkle がルイセンコ論争に加わっていたということです。彼は熱烈な反共で、アメリカにおけるルイセンコ批判の先頭に立っていました。それだけでなく彼は植物学者としても専門的な理由からルイセンコ主義に反対していました。これらのことから疑似科学が一つのグループにまとめられた理由が理解できます。現代により近い問題を扱うほど、歴史家であっても近代的な科学的知識と現在人々が単なる迷信だとみなしているもののあいだの差異を理解しなければなりませんでした。
1960年代まで委員会によるビブリオグラフィ作成がなされたが、このシステムを長く続けるのは不可能であるということが判明します。そこで単一の担当者が設けられることとなりました。同時に毎年発行されるビブリオグラフィの増加にともなってそれらをまとめたもの(cumulative edition)が求められるようになります。
こうしてウィスコンシン大学の司書(ライブラリアン)であった John Neu が毎年のビブリオグラフィの編集者となります。彼は歴史家というよりは司書であったために、分類を自分で修正するということは適切でないと考えました。そして guerlac の委員会が作成した体系を用いて30年間にわたってビブリオグラフィを作成しました。その一方で1913年から1965年までのあいだに出版されたビブリオグラフィにある引用を整理するためにロンドンのインペリアル・カレッジで働いていた Magda Whitrow という別の人物が選ばれます。Whitrow は、Neu とは異なり分類を自分の仕事だと考えていました。というのも彼女は他の分類の専門家とともに働いており、さらに資料の内容を理解するための勉強も積んでいたからです。彼女が関与していたのはロンドンの分類研究グループ the Classification Research Group で、その中心にブリス書誌分類法の改訂に携わっていた Jack Mills がいました。Whitrow の分類方法にはブリスの影響が見られます。たとえばラテン・アルファベットの大文字、小文字とアラビア数字を組み合わせた分類記号には影響が明白です。さらに Whitrow は、サートンの分類の仕方に S. R. Ranganathan が提唱した考え方を組み合わせて非常に複雑なビブリオグラフィを作り出しました。この二人の作業によってビブリオグラフィが成熟し、また歴史家の安定したリファレンスツールになったことが、科学史の繁栄を継続させたと言えます。
サートンが編集に関与していた最初の40年間にわたって、ビブリオグラフィと Isis そのものはサートン自身によって財政的に支えられていました。その後学会がジャーナルの運営を引き継ぐと、多様な機関に属する研究者が支援を行うようになります。ビブリオグラフィの編集者である Neu の給与は学会から支払われることはなく、ウィスコンシン大学から支払われていたのでした。Cumulative bibliography のほうは、アメリカ国立科学財団やアメリカ鉄鋼協会(?) US Steel Foundation をはじめ様々な組織や個人の支援を受けていました。Whitrow や彼女とともにはたらくスタッフはインペリアル・カレッジに提供された部屋で作業していました。こうして多数の組織が Isis ビブリオグラフィに関与することとなります。
- デジタル時代:1993年から今日まで
John Neu らによって1980年代後半からビブリオグラフィのデータを統合するデジタルデータベースの作成が始められます。こうして生まれた「科学・技術・医学の歴史」データベース(HSTM)は学術的ビブリオグラフィの転換点となります。このデータベースのホストとして様々なところから集められたデータを管理するのは、データベース提供者である研究図書館グループ(RLG; Research Library Group)です。RLGはビブリオグラフィの内容そのものに関心を持っているわけではありません。新しい仕組みによって問題も生まれています。まず安定性の問題です。1993年以来データベースのホストは RLG から2000年代前半にオンラインコンピュータ図書館センター OCLC へ、さらに2012年に EBSCO に移りました。さらに、個々のデータ提供主体に変化が現れました。Isis 以外の提供主体である技術史学会、ウェルカム研究所、イタリア科学史ビブリオグラフィが紙媒体でのビブリオグラフィの出版を取りやめています。
2002年から John Neu の引退に伴い著者がビブリオグラフィの編集者になります。そこではまず分類体系がサートンのものに近い複雑なものへと変化しました。より重要なのは、分類の構造を補完する索引(事項索引)を作成したことです。この10年あまり、テクノロジーがビブリオグラフィの形を新しいそれまで予期されていなかった仕方で変化させてきました。その仕方はビブリオグラフィーのデータの社会的要素を強調するものです。コミュニケーションツールとしてのインターネットを通じてビブリオグラフィと社会的なメディアが融合しています。たとえばソーシャル・ブックマークのツールによって情報を同僚と共有することができます。また学術的なソーシャルメディアサイトでは研究者は彼ら自身の作品のビブリオグラフィをアカウントに組み込むことができます。ビブリオグラフィがソーシャル・ネットワーキングと融合しているもとで、それに沿った Isis のデータの新しい方向性が模索されています。
一部の人々は人間によって作られるビブリオグラフィは終わるだろうと言っていますが、著者はそうは考えていません。むしろ新しいツールによって人々が個別の研究領域に適合する固有の分類構造を構築するようになり、ビブリオグラフィ製作者がそれを助けるというように、ビブリオグラフィがより社会的なものとなると考えられます。
*1:Lewis Pyenson and Christophe Verbruggen, “Ego and the International: The Modernist Circle of George Sarton,” Isis 100 (2009): 4–35.
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