世の中にたえて花粉のなかりせば、とつぶやく。列島が黄や赤の花粉情報に染まっていくのを見ると、かゆい目がますますむずがゆい。アレルギーと呼ばれるこの症状、何かを「異物」として排除する免疫の過剰な働きらしい▼いわばけんかである。迷惑だが、花粉も免疫もそれぞれ大切な役目があって、両成敗ともいかない。どうか仲良く、と願いつつ、このほど公開された道徳教材を開くと、「ともだちとなかよく」。低学年用の本にあった▼いじめ防止が狙いの一つで、来月、全国の小中学生が手にする。共に生きる大切さを教え、命の尊重を説く。異論はない。ただ「日本人としての自覚」「我が国を愛し発展に努める」といった記述に、ふと立ち止まる。食事中に砂粒を(か)んだような感じがする▼心からの自然な愛はいい。けれど国への愛を国が説くと、天然色の愛にどこか人工的な色がつく。海の向こうの人々にもそれぞれの「我が国」がある。摩擦が繰り返される現実を思う▼自分の考えを押しつけるのではなく、相手の立場も考え、耳を傾ける。異質な他者とどう折り合いをつけるのか。沖縄生まれの詩人、山之口貘(ばく)の「存在」という詩は問いかける。〈僕らが僕々言っている/その僕とは、僕なのか〉▼こちこちに固まった自意識に尋ねても、答えは〈くどくなるだけである〉。だから、もう一回り〈社会のあたりを廻(ま)わって来い〉と。ときに「異物」になっても、一回り。社会のふところの広さを信じ、もう一回り。