日本の刑事裁判制度の重大な欠陥が露わになった事例のひとつである。
片山氏が逮捕されたのは昨年の2月10日だった。
片山氏は1年以上の長期にわたり身体の自由を奪われたことになる。
報道されている情報によれば、検察側は決定的な証拠を掴んでいない。
「犯罪の証明」はまったくなされていない。
そして、さらに重大な事実は、警察・検察は、片山氏を逮捕する前に、この事案において、4人の市民が逮捕され、その一部が起訴されるという事態が生じたことである。
そのすべてが、誤認逮捕、誤認起訴であった。
しかも、警察は誤認逮捕した市民から、全面自白の調書まで取り付けていた。
完全無実の人間が自発的に自白調書の作成に応じるわけがない。
自白調書の作成を強要したか、あるいは利益誘導したということになる。
片山氏の保釈については3月4日に東京高裁が保釈決定を示したが、検察が抗告して保釈が停止された。
ところが、高検が行うべき抗告を地検が行なっていたことが判明し、高検が再度抗告したが、高裁はこれを認めず、片山氏の保釈が実現した。
犯罪の証明が極めて不確かな事案で、片山氏は1年以上にわたって身体の自由を奪われてきた。
しかも、接見禁止措置が取られていたために、外部の情報と接することも遮断されてきた。
一連の経過は、日本が人権蹂躙国家であることを明白に物語っている。
日本の警察・検察・裁判所制度は、いまなお、前近代の暗黒の時代にとどまっているのである。

日本国憲法には次の条文がある。
第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
第 三十四条 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁 されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。
第三十八条 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
○2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
○3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
身体の自由は、基本的人権のなかでも、もっとも根源的なものである。
18世紀的人権、19世紀的人権、20世紀的人権という表現がある。
自由権が18世紀的人権、参政権が19世紀的人権、生存権が20世紀的人権と表現される。
身体の自由は人間の最も根源的な基本的人権なのである。

片山氏および弁護士の説明を聞く限り、犯罪の立証は客観的になされていない。
有罪と無罪の分かれ目はどこにあるか。
その根拠となる法律条文は次のものである。
刑事訴訟法
第三百三十六条
被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。
有罪の認定は「犯罪の証明」による。
「犯罪の証明」がない場合は、無罪の判決が言い渡されなければならない。
ここで問題になるのが「犯罪の証明」である。
「犯罪の証明」の程度が問題になる。
この点について最高裁判例が示していることは、
「刑事裁判における有罪の認定に当たっては,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要である。」
というものである。
「犯罪の証明」について、合理的な疑いを差し挟む余地があれば、裁判所は無罪の判決を言い渡さなければならない。
これが「疑わしきは被告人の利益に」という大原則なのである。

しかし、日本の警察・検察・裁判所の現実は、こうした憲法および法令の定めに反する「前近代」の状況そのものなのである。
「前近代」の意味を一言で表現するなら「法の支配」が実現していないことである。
PC遠隔操作事件では、誤認逮捕された被疑者がうその自白調書作成に追い込まれている。
このこと自体が、日本の警察・検察取調べの前近代性を如実に示しているのである。
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警察・検察・裁判所制度が適正に機能していることは、健全な民主主義社会に
必要不可欠な要素である。
この問題が重要であればこそ、いまから200年以上も前の、フランス人権宣
言にこれらの事項が包括的に盛り込まれているのである。
フランス人権宣言が制定されたのは1789年のことだ。
第7条(適法手続きと身体の安全)
第8条(罪刑法定主義)
第9条(無罪の推定)
にこの重要な規定が盛り込まれている。
とりわけ重視するべきは「無罪推定の原則」である。
第9条の条文を提示しよう。
何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定される。ゆえに、逮捕が不可欠と
判断された場合でも、その身柄の確保にとって不必要に厳しい強制は、すべ
て、法律によって厳重に抑止されなければならない。
「何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定され」
なければならないのだ。
被疑者の人権が十分に守られることが必要なのである。
ところが、日本の現実はどうか。
完全にその逆なのである。
これを「人質司法」と呼ぶ。
被疑者の身体が拘束される。
長期の勾留は、被疑者の社会的生命を抹殺するに十分な破壊力を有する。
虚偽であっても罪を認めれば、
身体の拘束を停止し、
判決において刑罰を軽減する。
こうした「利益誘導」によって、虚偽の自白を導くのである。
それでも、真に無実であり、無実の主張を貫く者がいる。
無実であるのに、罪を認めるわけにはいかないからだ。
裁判所の判断が適正で、無罪を言い渡されるべき人間に無罪が言い渡される現
実が積み重なれば、被疑者は安易にウソの自白をしないようになるだろう。
しかし、これでは「人質司法」は機能しなくなる。
「人質司法」の背後にある考え方は、「必罰主義」であり、「治安の維持」、
「公安の維持」なのである。
どういうことか。
「必罰主義」とは、分かりやすく言えば、
「たとえ10人の冤罪を生み出しても、1人の真犯人を取り逃がすな」
というものである。
真犯人を一人として取り逃がさないためには、「疑わしきを罰する」対応が必
要になる。
冤罪を生み出さないことよりも、真犯人を取り逃がさないことが重要なのであ
る。
これは、国家の利益を重視する立場から導かれる結論である。
市民の人権が侵害されることよりも、国家の治安を守ることが重要であるとの
価値判断に基づく考え方だ。
これに対立する考え方が「無辜(むこ)の不処罰」の考え方だ。
「無辜の不処罰」とは、
「たとえ10人の真犯人を取り逃がしても、たった一人の無辜を処罰してはな
らない」
との考え方である。「無辜」とは「無実の者」という意味だ。
「国家の利益」よりも、まずは、すべての市民の基本的人権を重視するのであ
る。
日本国憲法には次の条文が置かれている。
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が
国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及
び将来の国民に与へられる。
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわ
たる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪
へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託さ
れたものである。
基本的人権の尊重は、日本国憲法の最も重要な基本原則なのである。
だからこそ、第十章「最高法規」のなかに、上記の第九十七条が置かれている
のである。
ところが、日本の現実は違う。
「無辜の不処罰」ではなく「必罰主義」が基礎に置かれ、
「法の支配」、「無罪推定原則」、「罪刑法定主義」、「適法手続き」の諸原
則が、実体として無視されているのだ。
日本の警察・検察・裁判所の重大な問題を整理して提示すると次の三点に要約
できる。
第一に、警察・検察に不正な裁量権が付与されていること
第二に、基本的人権が尊重されていないこと
第三に、「法の支配」、「裁判所の独立」が確保されていないこと
である。
刑事訴訟法に次の条文がある。
第二百四十八条 犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯
罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができ
る。
「起訴便宜主義」と呼ばれるものだ。
起訴するかしないかの判断が検察官に委ねられている。
こうした裁量権は、検察だけでなく、警察にも付与されている。
具体的に言えば、
犯罪が存在するのに無罪放免にする裁量権
と
犯罪が存在しないのに、市民を犯罪者に仕立て上げる裁量権
が警察と検察に付与されているのだ。
そして、これが、「人物破壊工作」の最大の武器として活用されている。
つまり、政治的危険人物を犯罪者に仕立て上げて、社会的生命を抹殺するので
ある。
その際に有効な手段として用いられるのが「人質司法」の各種方策である。
日本の警察・検察は、巨大な裁量権を有し、明らかに犯罪が存在するのに、こ
れを無罪放免する一方で、無実潔白の市民を「裁量」によって犯罪者に仕立て
上げるのである。
第二の問題である「基本的人権の蹂躙」とは、
「罪刑法定主義」、「無罪推定原則」、「適法手続き」の諸原則をことごとく
無視していることだ。
逮捕・勾留の手続すら踏みにじられている。
完全に「前近代」の状況にある。
そして、第三の問題が「法の支配」と「裁判所の独立」の欠落だ。
裁判所が最終的に適正な判決を示すならば、無実の人間が無実の主張を貫くこ
とが容易になる。
被疑者は無実の真実を貫いても、その努力が報われるからである。
しかし、これでは「人質司法」の威力は低減する。
普通の市民は、「逮捕」、「勾留」の圧力に抗しきれない。
これだけで、普通の市民生活は完全破壊される。
そこに、さらに拍車をかけるのが裁判所の不正である。
裁判所は法と正義に基づいて、独立して判断を示す機関ではない。
元裁判官の森炎氏が
『司法権力の内幕』(ちくま新書)
http://goo.gl/7iYDSu
で明らかにしているように、裁判所は政治権力から独立した機関ではなく、政
治権力の一翼を担う「権力機関」なのだ。
とりわけ、日本ではその傾向が鮮明である。
つまり、日本の裁判所は検察権力の配下に置かれている、治安維持機関として
の性格を強く有しているのだ。
この裁判所が「人質司法」の効力を最大化するために全面協力している。
つまり、検察が強要する自白に応じたものを裁判所判断で優遇し、検察の強要
に抵抗して自白を拒絶する者を徹底的に虐待するのである。
そうでなければ、「犯罪の証明」が十分でない被疑者の身体の自由を、長期に
わたって奪うことに裁判所が加担するわけがない。
この「前近代性」を排除するために、三つのことがらが必要である。
第一は、警察・検察の裁量権を排除すること。
犯罪は犯罪であり、無実は無実だ。
犯罪者を無罪放免することも不適正であるし、無実の人間を犯罪者に仕立て上
げることも不適正だ。
刑事訴訟法第二百四十八条の改正が必要だ。
第二に、人権尊重を徹底することだ。
「罪刑法定主義」、「無罪推定原則」、「適法手続き」の厳正な運用が不可欠
だ。
これらの諸問題を是正するために、まず絶対に必要なことは、
「取調べ過程の全面・完全可視化」
と
「取調べ過程における弁護士同席の義務化」
である。
「人質司法」を成り立たせている被疑者の長期勾留も禁止するべきだ。
「取調べ過程の全面・完全可視化」とは、被疑者だけでなく、被害者、目撃者
などの関係者の取調べについても、全面可視化することである。
警察・検察の不正を防がなければ、日本の警察・検察・裁判所の近代化は実現
し得ない。
第三は、裁判所の政治権力からの独立性確保である。
現行制度では、最高裁長官の指名権が内閣総理大臣にある。また最高裁裁判官
および下級裁判官の任命権が内閣にある。
下級裁判所裁判官の任命は、最高裁が指名した者の名簿に依っており、最高裁
事務総局の権限が絶大である。
つまり、裁判所全体が政治権力によって支配される構図のなかに置かれている
わけだ。
これでは、政治権力から独立した裁判所の機能など期待できるわけがない。
事態を是正するには憲法改正が必要になる。
片山氏の長期不当勾留は日本の警察・検察・裁判所制度の前近代性を示す如実
な事例であり、その是正が急務である。
uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-9ff6.html植草さんちから転載しました。
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