2010年、新潟市で開業した「北書店」。地域の中でも独自の存在感を持つ“街の本屋さん”をほぼ独力で切り盛りする店主の佐藤雄一さんが2月上旬、下北沢の本屋B&Bに来店しました。
“街の本屋”はこれからどんな場になっていくのか? “街の本屋”とはそもそも一体何なのか? 本屋B&Bのプロデュースを務める内沼晋太郎との“街の本屋”談義は白熱していきます。
★2014年2月7日、本屋B&B(東京・下北沢)で行われた「『本の逆襲』のための全国本屋ツアー」の一環のトークイベント「北書店×B&B 街の本屋の逆襲」のレポートです。
【以下からの続きです】
第1回「本屋なんてやめておけ、という人たちに囲まれても。」
「街の本屋」への問題提起
内沼晋太郎(以下、内沼):今回のイベントのタイトルは「街の本屋の逆襲」というタイトルになっています。先ほどもちょうど、北書店が商店街再生の記事で取り上げられたという話がありました。そこでまずは「街の本屋」について、少し話をしたいと思うんです。
実は先日、Twitterで今回のイベントの告知をしたら、ある方から「B&Bさんはまだ『街の本屋』と言い張るつもりなんだ……」という返信が来ました(参照:「街の本屋」の話 – Togetterまとめ)。あとから知ったんですが、このやりとり、佐藤さんもリアルタイムで見ていたんですね。
佐藤雄一(以下、佐藤):B&Bが今日のイベント告知をしてくれたツイートへの返信だったんですよね。だから当然、私の目にも触れますよね。
内沼:この方いわく、「街の本屋は来る人を選ぶような場所ではいけないと思います。角の肉屋に鶏肉は置いていませんなんてありえないです。チェーン店でも、来てくれる人の事を考えて品揃えを頑張っている店は立派に街の本屋ですし、その仕事に尊敬します。」と。言いたいことはわかるのですが、ただ、僕はそもそもコンセプトに「これからの街の本屋」というのを掲げている店をやっているので、それを特定の「街の本屋」観で否定されるのはどうもな、と思って、少しTwitter上でこの方と議論してみたんです。
佐藤:こういうところにちゃんと返信して、内沼さんすごいなあと思ったよ。
内沼:そもそも最近、この手の「街の本屋」論みたいなものが少し気になっていたのと、あとでTogetterでまとめて、今日の集客につなげようと思った、というのもあります(笑)。
で、「B&Bさんが新しい本屋で大変面白い試みをされているのは存じているのですが、自分はただ、『街の』という言葉に違和感を感じるのです。こうした新しいスタイルの本屋はどうしてもお客さんを選びます。」とこの方はおっしゃっていますが、言い換えると「B&Bは新しい事をやっていて、なんだか敷居の高い、入りにくい店なんだから、それは『街の本屋』と言えるんですか」ということですよね。それに対して僕も少し反論したりして、結局それほど大した議論にはならなかったのですが、やりとりをまとめたら、すぐに5000viewぐらいになって、いろんな人に興味を示してもらえたんですね。
お客さんがいて、本を選ぶ自分ができあがってくる
内沼:実は僕も当初は気づいてなくてTogetterには入れられなかったんですが、ツイートで相手の方が使っている「角の肉屋」という言葉は、最初に佐藤さんが使っていたんですよね。
佐藤:うん。最初のツイートを見て、「その時の状況によって解釈が変わるだけで、街の本屋は街の本屋だよ。角の肉屋と同じだよ。」と北書店のアカウントからツイートしたんですよ。「そもそも本屋なんだから、それ以上の事はそんなに重要ですか?」という感じがして。俺は別に、北書店が他の人にどう言われてもいいもの。
内沼:そのあともいろんな人が「角の肉屋」についてつぶやいていて。「そもそも角の肉屋に鶏肉がなくたって、それは肉屋のビジネスなんだからいいじゃないか」みたいな意見もありました。その通りだと思います。そもそも、今回のツイートの件だけじゃなく、僕は「街の本屋」という言葉が置かれている状況が、少しおかしいと思うんです。ある種の人々にとって、なんだか妙に特別なニュアンスをもつ言葉になってしまっていて、今まで同じようによく「あんなの街の本屋じゃない」的な事をよく言われてきました。
ちなみに佐藤さんは北書店でそういう事を言われる事はあるんですか。
佐藤:外では言われているんじゃないですか。ウチはよく「セレクトショップ」って言われるんだけど、その表現は嫌いなんですよね。「金がなくてたくさん仕入れられないだけだよ」って。本当はガッツリ新刊とかも入れたい。ただ実際は予算もないので商品を選ばざるを得ないだけなんですよね。もちろん、好意で「セレクトがステキです」って言っていただけるのはうれしいです。ただ、「セレクトしているという事はそんなに優雅じゃないですよ」と。
内沼:当然全部の本は置けないので、セレクトするのは当たり前ですよね。
佐藤:ただ、「選んでる」っていうのは当然なんですけど、「セレクト」って言葉の印象はどうですか? ちょっと優雅な印象じゃないですか。そんな感じとはちょっと違う。
ただね、重要なのは「選ぶ自分がなぜあるか」って事ですよ。確かにこの本を選んでいるのは自分なんだけど、そういう自分になぜなったかというのは自分だけの問題じゃなくて、その本屋がある街の問題であり、お客さんの問題ですから。お客さんがいて、こういう本を選ぶ自分ができあがってくる。その蓄積なので何とも言いようがないというか、全くデータ化なんてできない、説明できない部分ですよね。
やっぱり「これから」が大切
内沼:街の人にとって、街角に肉屋があるように、そこに本屋がある。それを成り立たせているのは、そこで働く人と、買いにくるお客さん。「街の本屋」という言葉を、そのくらいのニュアンスで使うことには大賛成です。
僕があまり共感しないのは「街の本屋」を無暗に礼賛することなんです。例えば、昔ながらの小さい本屋で、いつも同じおじさんがひとりで座っていて、絵本の回転塔があって、定期購読や客注をたくさん扱っていて……というような、それぞれが小さなころに自分が通っていた地元の普通の本屋のイメージみたいなものをもって「街の本屋はすばらしい」と言うようなこと。確かにそれは僕にとっても美しい記憶なんですが、はっきり言って、今はそのモデルではもう商売として成り立たない。これは自明です。言っている人たちだってわかっている。例えば自前で土地と物件を持っている――つまり家賃負担がなくて、近くにたまたま大きな新刊書店がなくて、たくさん本を買ってくれる常連のお客さんがいて……とか、よほど特別の条件が揃っていない限り、難しい。
佐藤:学校への教科書販売を扱っているとかね。
内沼:そうです。そういう昔よくあった「街の本屋」が、今まだギリギリ少し残っているからといって、自分の美しい過去の記憶をもとに「すばらしい」と言うことって、未来のある発言ではないんじゃないか。誤解を恐れずに言うと「天然記念物を保護する」感じに近いような気がするんです。
佐藤:自分の記憶や良い思い出を投影している存在ではあるんでしょうね。時代とともに自分の好きだったものが変わっていく事が嫌だという感情があるんじゃないかな。もちろんその感情はわかる。ただあまり強要する事じゃないかもしれないですね。「街の本屋」っていう話も、カフェに例えると、いわゆる「オシャレカフェ」より「ちょっと寂れた喫茶店」がいいよねっていう動きがあるじゃない。オシャレカフェが流行った事によって、逆にそういう発言が出てきた。それと大して変わらないんじゃないかと思います。
内沼:僕もそう思います。ただ、ひょっとしたら「街の本屋」と「ちょっと寂れた喫茶店」の事情は、少し違うかもしれない。今残っている「ちょっと寂れた喫茶店」って、実はきちんとおいしい珈琲やサンドイッチを出していたり、そうでなくても、味が出ていい雰囲気の空間や内装をしていたりしますよね。珈琲は缶コーヒーでも家で淹れても飲めますから、その「味が出ていい雰囲気の空間や内装」は、「ちょっと寂れた喫茶店」の商品価値の一部というか、かなりの部分を占めているんですよ。商品価値が認められて、お客さんが「いいよね」と来ていて、経済として成り立っている。一方、もちろん本屋にだって、「味が出ていい雰囲気の空間や内装」だから「この店で買いたい」ということもあるだろうけれど、少なくとも相対的には喫茶店ほど、それを売りとしてきた商売ではないはずです。
品揃えとか棚づくりとか、店主の人柄や知識とか、そういうものを「いいよね」といって、特定のすごく努力している「街の本屋」を褒めるならわかります。ぼくがいた往来堂書店はそういう店でしたし、いまもひとつの目標として尊敬しています。けれどただ昔ながらなんでもない佇まいなだけの本屋、常備の本しか入っていなかったり、棚がスカスカだったり、返品できない本が黒ずんだまま入っていたりするような本屋まで含めて、ただ雰囲気が好きだから同じように「街の本屋」という括りに入れて「いいよね」「こういう店が街にあるべき」とか言うのを聞くと、さすがにずれてるなと思うんですよ。それはマニアの世界です。普通の人はそんな店を求めていないでしょう。それこそ、入りにくいしね。
そういうことを言う人たちが、ビールを出して毎日イベントをやって家具も売って……とやっているB&Bを「あんなの街の本屋じゃない」と言うわけです。ですが、こちらがそうやっていろいろ試行錯誤しているのは、品揃えとか棚づくりとかをきちんとやるためであり、街の知的好奇心の渦の中心をつくるためなんですよ。ぼくらはこれまで「街の本屋」と呼ばれてきた素晴らしい店をリスペクトしながら、その「街の本屋」が叶えていたものをこれからの時代に続けるにはどうあるべきか、ということを考えながらやっている。別に何と言われようがどうでもいいといえばどうでもいい、自分たちがいいと思う店をやるだけなんですが、「あんなの街の本屋じゃない」とかネガティブな言葉をぶつけられると、それはやっぱり少し聞き逃せないわけです。
あのtwitterでの返信を受けて、こうした「街の本屋」礼賛に対してあまり異議を唱える人がいないから、僕は少し反論しようと思いました。やっぱり「これから」が大切。「これからはこういうやり方でやっていこう」とか「こういうやり方なら食べていける」とか、これから本屋をやりたい人、続けたい人の応援をする方が、過去を振り返るよりずっといいなと思っているんです。そういう意味で北書店も「これからの本屋」のモデルのひとつだと思っています。
一人で全部やる――北書店というモデル
内沼:ひょっとしたらここに来ているお客さんでも、実家に帰って一人で本屋をやりたいと思っている人がいるかもしれない。佐藤さんは、本当に一人で北書店を営業されているんですよね。
佐藤:そうですね。こうやって東京に来る時だけ昔の同僚だった子に手伝いに来てもらって、それ以外は全部一人でやっています。
内沼:そういう北書店のようなやり方で食べていけないだろうか、という思いを持っている人もいると思うんです。それはどこか別の土地でも成り立つと思いますか。
佐藤:できないかもなぁ。
内沼:できない……(笑)。「俺にしかできない」ということですか?
佐藤:そういうわけじゃないんだけど……。
例えば、「ものすごくお金があったら」とか「他に副業がある」とか、要するに先立つものや資金があって、そのお金を元手に十分暮らしていけるだけの仕事はできるかもしれないです。元手を増やしていく事は難しいかもしれないけど。ただ、私の場合は、業界のセオリーからしたら通常の半分以下の資金で始めたので、それがモデルになるのかどうかはわからないんだよね。それと、設備投資のお金がほとんどかかってない事が特殊なんだと思います。
内沼:本棚を北光社から貰ってきたからですね。
佐藤:そう。でも本棚に関しては、B&Bの方が良いモデルになるんじゃない。
内沼:家具屋さんと提携して、販売もしながら本棚として使用しているので、ウチも本棚に関して費用はほとんどかかってないです。
佐藤:例えば昨年、神戸にあった老舗書店の「海文堂」が閉店しましたけど、他の誰かが「海書店」と名乗って本屋をやる、という事だったらそれは私と同じ状況ということになりますね。それである程度の資金が確保できれば本屋はやれるし注目も浴びる。
私が本屋を始めた2010年以前と以降で随分違うのは、SNSがかなり発達したということ。積極的に発信すれば、支持してくれる人がどこから来るかわからない。それは地元だけじゃないんですよね。
第1回目のトークでは内沼さんと「商圏ってどこまでなんだ」という話をしましたけど、地元のお客さんだけだと、北書店も正直厳しいです。いい日もあれば悪い日もある。でも悪い日がそのまま終わるかというとそうでもなくて、県外からのお客さんが来てくれて、たくさん買っていってくれたりする。北書店はそういう風にやってきているんですよ。
今の本屋は、返品ができる商売じゃないですか。1000万円分仕入れると、翌月に請求が1000万円分来る。売上が800万円しかなくて、経費が100万円かかると、300万円支払いに足りない。そこでどうするかというと、300万円分返品しましょう、という事になる。ちゃんと自分の店の規模を考えて、その日の売上から翌日の発注金額と返品の量を調整していく。そうやって資金繰りをしながらお店が回っていく。私が北光社にいた10数年間というのは、常にそういう状態だったんですよ。ずっとそんな計算をしていたから、良くも悪くもそれが身に付いたんです。だから北書店も強気で始められたのかもしれない。
内沼:北光社時代の書店員としての経験が大きいんですね。
佐藤:ちょっと特別な経験でしたね。一担当者の権限を飛び越して、資金的なところで計画を立ててやっていたので。さすがにそれは、なかなか経験できない事だったかもしれないですね。
[第3回に続きます](2014/03/07更新予定)
構成:松井祐輔
(2014年2月7日、B&Bにて)