私はどちらかといえば、モロに見えるよりパンチラのほうが好きだ。パンチラは想像力を喚起する。見てしまった自分と見られてしまった相手との間で、自分勝手で楽しい物語が始まる。だが、実際にストーリーが進んで隠れていた部分が見えてしまうと、映画のエンドロールで感じるような寂しさを覚える。
こんな感情が芽生えたのは1950年代からだと『パンツが見える。羞恥心の現代史』は言う。
下着をつけなかった和服時代はモロに見えるのが当たり前で、パンツやズロースが見えると残念な気分になったそうだ。今でもスカートの中からオーバーパンツのようなものが見えると、興奮するどころか逆に萎えることがあるが、当時もそんな感覚だったのかもしれない。
『パンツが見える。羞恥心の現代史』は、建築史家で風俗史家の井上章一助教授によるパンツ史の物語。20世紀初頭の和服・ノーパン時代から、20世紀後半以降のスカート・パンチラ時代まで、小説・雑誌・新聞などの資料をベースに、パンツの歴史と羞恥心の変化を紐解いていく。
面白いのは、パンツの有無と男女の感覚という異なる視点から時代を分析しているところ。
羞恥心のありようにも、歴史はある。現在のはずかしさを基準にして、過去をながめる姿勢は、あらためられねばならない。変化は、服飾だけでなく、人びとの心性にもあることを、銘記しておく必要がある。
著者のパンツに対する執着心には心を打たれる。下衆な感じはしない。読んでいて嫌悪感もない。この学者魂は見習いたいものだ。
男のパンツ観は、しだいにうれしがる方向へ推移した。性感の漸増と言うべきか。とにかく、なだらかにふくらんでいったのである。
いっぽう、女のパンツ観は、はずかしがる方向へ、急激にうつっている。こちらは、飛躍的に事態が進展していった。男女の性感と羞恥心は、20世紀中盤以後、そんな差異をはらみつつ展開してきたのである。
では、いったいいつごろから、こういう変化がおこってきたのだろう。また、何をきっかけにして、パンツへの想いは変動していったのか。どうやら、ふたたび時代をさかのぼって検討してみなければ、ならないようである。
今回の記事タイトルは上野千鶴子の本から拝借した。『パンツが見える。羞恥心の現代史』を要約するのに打ってつけだった。
予想だが、女性はスカートを履く瞬間、パンツを見られるかもしれないという羞恥と期待が、同時に頭をよぎるのではないだろうか。時には意識的に、時には無意識に、女性はスカートの中に物語を作る。男性はその物語に胸を躍らせる。
幸せの形はいろいろだ。
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