福島の事故を起こした発電所のまわりには何万人という国にも社会にも同胞にも見捨てられたひとびとが住んでいて、そのひとびとの苦境はひとまずないことにして、インターネット上では放射能が有害か無害か、あるいは「科学的に言って」どの程度有害と見積もればよいか、という議論が続いている。
日本語の「ベビーカー」という呼び名は、あんまりなので、ここではせめて「ストローラー」と言う呼び名で呼びたいが、ストローラーを押して満員の山手線車内に入る母親が正しいかどうかを盛んに議論するのが流行だが、ストローラーをたたんで、疲れ果てた腕で赤ん坊を抱えている母親は車内では「存在しない」ことになっていて、みなが下を向いて、あるいは本を読み、スマートフォンの画面を眺めている。
なかにはスマートフォンの画面のなかの、ストローラーを押して満員電車に「侵入」する危険行為を平然と行う母親の厚かましさについて述べるたくさんの人の意見を読んで内心の快哉を叫んでいる人もいるだろう。
誰がなんといっても、目撃すればわかる、満員電車にストローラーを押して押し入ってくる母親の非常識は満員の車内の、現実の母親とストローラーの場にそぐわない異様さを見れば一目瞭然なのである。
子供のときに性被害にあった女のひとびとのうち、それを近親者相手にしろ告白するのは被害者の1割に満たない、と学生のときに習ったが、日本では幼女性愛のマンガがおおぴらに手に入るので性犯罪が少ないのだ、とオオマジメに述べている男達がいる。
女のひとびとが、「そんなことはない…」といいかけると、待っていたように、「どこに証拠がある。証拠をみせろ。おまえが被害にあったとでもいうのか?おまえが被害にあったというなら、ここで言ってみろ」と襲いかかる。
最近の話柄でいえば、アンネ・フランクの日記があちこちの図書館で破壊されていることが話題になると、「犯人が韓国人である可能性」について論じ始める。
そういうことについて、どうおもうか、と日本人の友達に何度か訊かれたが、どうも思わないので、答えようが無かった。
どうも思わない、がひどければ、違ういいかたをすると、こうしたことはすべて「日本的な光景」で、落ち着いて思い出してみれば判るが、世界中にいろいろな国民が住んでいるといっても、日本でしか起こらないことであると思う。
逆に日本では必ず起こると予期されたことでもある。
福島第一事故が連合王国で起きたとして「この程度の放射能は危なくない」という科学者がいないかと言えば、いるに決まっている。
自分は科学者として職を賭けて述べてもよいが、この程度の放射能で死ぬやつなんていないのさ、という科学者は、自分が顔を知っている科学者のなかでも「こいつは、必ずそう言うな」と思う人間だけで5人はいる。
しかし、ではその5人が他の科学者にも呼びかけて、漠然とでも大学という学問的な権威を利用して「アカデミア」という疑似システムとして国民に「安全だ」と呼びかけるかと言えば、そんなことはありえない感じがする。
ストローラーを押して、満員電車にわけいってくる母親を見て眉をひそめる、気難しい老人がアメリカにはいないかと言えば、やはりいるだろうとしか答えようがない。
だが彼がどんな形にしろ、「母親がストローラーで電車にはいってくるのは規範に反している」と公に述べる可能性があるかと言えば、ない、と思う。
彼は彼の「不快」が彼個人のもので、せいぜい、母親と彼の利害が混雑した車内のなかで相反したに過ぎないことをしっているからです。
スウェーデン人と話していると70年代までのスウェーデンは、子供が通学する道のキオスクに堂々と裸の男と女が性交している写真を表紙に載せたハードコアポルノの本が並んでいるので有名だったという。
面白いと思うのは、そういう話をするときのスウェーデン人の様子は、フランス人がむかしはパリでも隣の便座とのあいだに仕切りがないのが当たり前で、臭くて困った、というのと同じ様子であることで、「洗練に向かう社会の変化」というベクトルのなかで自然と話される。
試しに日本での「女子高校生もの二次元」の隆盛というような話をしてみると、女のひとびとは例外なく「やはり日本人の男は」という「国際常識」が反応して気分が悪くなったような表情で顔をそむけるが、男どものほうは、いわゆる同人マンガ愛好家たちが「表現の自由」を主張しているというところで爆笑する。
日本人はサイコーだ、オモロイ、と述べる。
だいたい、そのへんから「二次元」の話からそれて、それなら地下鉄のなかで突然ペニスを露出させるのもモダン・アートとしての表現の自由で、という悪ふざけのなかへ話がなだれこんでいく。
アンネ・フランクの日記の犯人が韓国人だろう、という話柄に至っては、アンネ・フランク自体が、欧州人にとっては判りやすい身近な話題なので、ツイッタで見ていても、日本人の妻たちが欧州人の夫に話してみたら…というツイートがたくさん流れていて、いずれの場合でも、日本の病弊がいかに深いか、それ以上説明されなくても直ぐに感得されたもののよーでした。
「わかりやすさ」「現実感をもって感じられる」という点では、大久保の「韓国人を殺せ」デモよりも、欧州人にとっては日本がいかに異常な状態になってしまっているか判りやすかった。
異常、と言われても日本の人にはピンと来ないかも知れないが。
この数年、多分、フクシマ以来だと思うが、日本に興味がある外国人のあいだで話題になるのは「日本のひとの議論の奇妙さ」で、まず現実から乖離してしまった「言葉でつくりあげたからくり」のようなものに夢中になってしまう、現実のほうはからくりをいじりまわすのに夢中でお留守になってしまう、ということが話題になった。
「子供が死ぬ可能性」と「科学の方法に準拠して考える」(つまり「子供があきらかに放射性物質が原因で死んだ」という事実が発生してから科学的に因果関係をたどって論理を形成する)というふたつの事柄は同じ言語の重みで考えてはならないことになっているが、日本語には、そういう言語的ルールがそもそも存在しないらしい。
「一個の人間の生命」が言語が構成している認識の外側の「絶対」によって他の価値との比較を拒んでいる、という前提が存在しないので、子供が生きていることと子供が死ぬ可能性があることとが同じ地平に論理上はおかれてしまう。
日本の戦争の終わりには「神風特攻隊」というものが存在して、その存在を日本の人は誇りにしているが世界中の人間は軽蔑している。
用兵者に「急降下爆撃機の爆撃精度が10%を割ってたいへんならば、それを30%に引き上げるために操縦士に納得してもらって人間が操縦したまま空母に突っ込んでもらえばどうか」と考えさせたのは、福島の子供が死ぬことが科学的な想定現実にしか過ぎない日本の科学者と同じ現実感覚からだろう。
そうして、それは、実際には満員電車にどうしてもストローラーを押して
乗らざるをえなかった母親を何の躊躇もなく憎み、あまつさえ「人間的規範に反する行為」として敷衍しようとして、泣き叫ぶ未成年の女の子を抑えつけて強姦するマンガを「ただの自慰行為の道具」(そのおかげで日本は統計上も性犯罪が少ないじゃない)とうそぶくひとびと、あるいはアンネ・フランクの日記の破壊者が「韓国人であるかもしれない」と発想すること自体の卑劣さにまったく気づかない人間の本質的で深刻な倫理的鈍感さと、まったく同じ種類のものである。
戦争中に、ティーパーティで日本人の蛮行が話題になったときに、あるイギリス人の大学教授(哲学)が「日本人は悪人ではないに決まっている。善がない世界には悪も存在しないからだ」と述べた。
だから日本人科学者たちの福島第一事故後における態度は科学的のみならず日本人の道徳世界の規範に照らしても正しいし、「ベビーカー」を押して車内に闖入しようとした母親は決定的に誤っている。
未成年を強姦する「二次元」を描く作家は胸をはって「表現の自由」を主張できるのは論理的に明瞭であるし、アンネ・フランク日記の破壊者が韓国籍だった場合、叡知をかたむけて推量した日本人たちは自分達の「正しさ」に快哉を叫ぶべきであると思われる。
しかし、ここには重大な疑問がなくてはならない。
現実から剥離した言語によって建築された文明に意味がありうるだろうか?
それは、そもそも文明と呼びうるものだろうか?
悪魔と神が敵対する存在でないことは、以前、すでに述べたが、悪魔の論理の整合性は常に神の論理の整合性と同等なのである。
悪魔から見れば神こそが悪魔なのでしかない。
日本の人は悪魔と差し向かいで、じっくりとお互いの「バカな人間には理解されない身の上」を話しあってみるべきなのでしょう。