さいきんの私がわかってきたこと。
「忌憚ない考え」っていう意味のことわりをしてから、ほんとに忌憚なさそーな話をしてくる人に、こっちもおなじよーに忌憚なく相手の考えとは違う自分の意見を述べかえすと、ほとんど相手は機嫌をそこねる。
「忌憚なく話せる人だと思うから」っていう私を信頼してくれるよーな意味の言葉を最初につけてくるから、私もその相手は忌憚なく話せるんだなー、って信頼しても、私の答えが相手にとって気に食わないものだったら、だいたい機嫌をそこねられる。
けっきょく、「忌憚ない話をしよう」っていう人は、自分が忌憚ない話をしたいだけで、相手にその同意を求めてるだけなのかなー、って思うよーになった。
Aという意見を忌憚なく述べてくる人に、Bという意見を忌憚なく述べかえすと、相手はなんでか機嫌悪くなって、話が通じないとか言い出したりして、こじれちゃう。
そーいうことをなんどか経験してるうちに、そーいう「忌憚ない話をしよー」って対話を持ち掛けられても、こっちはそれを鵜呑みにしちゃダメなんだなー、って感じるよーになった。
だから私が納得いかない考えを言われたとしても、「私はこー思いますよ」って忌憚なく言い返すんじゃなくて、「そーですね。私も考えてみます」っていう、自分の違う意見を言わないことが「処世術」なのかな。
そんな処世術を身につけていくことで、なにを得られるのかな。
なんどかこんなふーに、相手だけじゃなくて私の中にもモヤモヤした苦い思いが残るよーな出来事を経験して。
私がそれでわかったのは。
忌憚ない意見を交わせる関係、っていうのは、一朝一夕にできあがるものじゃないんだなー、ってこと。
いきなり最初から、そんなことはできない。
忌憚ない意見をあなたなら受け止めてくれるだろーから、っていう信頼は、いきなりの関係で生まれるものじゃない。
いきなりそんな信頼をいだきあえる、っていうのは幻想。
いきなりの関係でそんな「信頼」を口にする人は、「信頼」してるんじゃなくて、「自分の遠慮のない意見をあなたは聞きなさいよ」っていう要求なんだよね。
だからその要求が満たされないと(意見に同意されないと)、それが怒りにかわりやすい。
なんでもこの人には言える、っていう信頼。
話自体がこじれても、関係はこじれない、っていう信頼。
この信頼は、時間をかけてお互いで築いていくもの。
築く時間をはぶいたインスタントな言葉は、ただのきれいごと。
いきなりそんな「信頼」を寄せて忌憚ない話をしてくる人は、ちょっとでも気に食わない展開になると怒ったり関係を断ち切るのも早急。
時間をかけずにつくったものは、修復の時間もはぶいてあっけなく壊せる。
いきなり信頼関係を言葉にしてもちかけてくる人は、お互いの関係に信頼なんてないのをわかってるから、言葉で取り繕うんだね。
そんな相手を信じて、こっちも信頼しちゃう、っていうのも、私自身もインスタントな感覚があった、ってこと。
自分がそれを変えなくちゃ、これからなんどでも似たよーなこと繰り返して、苦い後味を自分の中に残す。
「バカみたい」って自分に思う時間が、自分を壊すね。