(2014年3月5日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
ウクライナは安定した自由民主主義国になることができるのだろうか? この問いの答えは「イエス」でなければならない。では、ウクライナはこれから安定した自由民主主義国になるのだろうか? この問いに対する答えは「分からない」だ。
もちろん、ほかのいろいろな国々がこの目標に到達したことは分かっている。しかし、普通選挙が行われる民主主義国はひ弱な植物であること、まだ生まれて間もない時期には特に弱いことも分かっている。
まだ若い民主主義、例えばエジプト、タイ、ロシア、ウクライナなどの民主主義に起こっていることは、まさにこの真理を浮き彫りにしている。民主主義がひ弱なのは、それが複雑な、そしていくつかの重要な点で不自然なゲームだからだ。
最初に指摘しておきたいのは、国民に説明責任を負う政府は唯一の大人向けの政府だという点である。そのほかの形態の政府はすべて、国民を子供扱いする。その昔、国民の大半が字を読めなかった時代なら、そのようなパターナリズム(父権主義)も正当化されたかもしれない。だが、現代ではもう通用しない。
国民の教育水準が高まりその見聞も広まるにつれて、国民を子供扱いする政府は次第に受け入れがたいものとなる。このことは、長期的には中国にさえ当てはまるだろう(筆者はそう期待している)。
証拠はこの楽観論と符合する。ポリティIVデータベースによれば、今では(程度の差はあるものの)民主主義の国がほぼ100カ国に達している。1990年の2倍に相当する数だ。ちなみに、1800年にはその数はゼロだった。
また、正真正銘の独裁国家の数は、1990年の約90カ国から今日の約20カ国へと激減している。ただ不幸なことにアノクラシーの国、すなわち統治が非常に不安定でちゃんと機能しておらず、汚職も見られる国の数が約20カ国から50カ国超に増加している。これらの国々は独裁体制が崩れているのかもしれないし、民主主義体制が崩れているのかもしれないが、武力紛争や力による権力奪取も起こりやすい。
本物の市民と誠実な守護者
では、安定的で成功している民主主義の基盤は一体何なのだろうか? 端的に言えばそれは、民主主義には2つの自制――国民と国民の間の自制、そして国民と国家の間の自制――が必要だということだ。これらの自制が実現するかは4つの点にかかっており、そのすべてが満たされなければならない。
第1に、民主主義には市民が必要だ。市民とは、公的な世界に関わる人だが、それだけではない。とりわけ市民は、共有されている手続きに対する忠誠は自分が与する政治勢力に対する忠誠よりも優先されなければならないというルールを受け入れる。