公開された研究論文のデータについて議論をするのは科学研究の営みの一部です。科学研究における発見は、論文として発表されればその発見の妥当性が完全に保証されたことになる、というわけではありません。吟味されながら、その研究結果の妥当性が評価されていきます。これまでにも、有名雑誌に掲載された後に撤回された研究論文は数多くあります。
ある研究者が大きな発見の報告をし、国民の多くがその人を称賛するようになると、その研究者による研究報告の内容について議論すること自体が難しくなります。少しでも研究結果の疑義について論じれば、人々から非国民扱いを受けて個人攻撃を受けることがあります。そのような人々は、科学研究の作法について知らないのです。10年ほど前に、韓国ではこのような状況が起こりました。
ほとんどの研究者が疑念を持つようなデータがそこにあったとしても、世間にこのような雰囲気が形成されてくると、ブログなど公の場で自分の意見を述べる研究者は少なくなります。
このような状況において研究論文に疑問を示す研究者は、研究者コミュニティからも「コミュニティの和を乱す人物」として敬遠され、アカデミアの外に追いやられるリスクが高くなります。研究者の世界は狭いものです。誰かの研究結果について公で議論するのはカドが立つため、円滑な人間関係を維持しづらくなります。
とりわけ、まだ安定したポジションに就職をしていない大学院生やポスドクがそのような案件に触れるのは多大なリスクがあります。研究コミュニティの和を乱す人物として認識されれば、その後の就職も相当不利になるでしょう。
念のために書きますが、疑念を持ちつつもそこに触れない研究者を批判しているわけではありません。上述のような理由で、そのような案件に触れないのが普通の感覚だからです。下手をすれば職に就けず、家族を食べさせることができなくなってしまいます。知らない人から危害を加えられる可能性もあります。ある意味で、仕方ないと言わざるをえません。百害あって一利無しなのですから。
このような構造的問題を無くすには、国民が科学研究活動に対する理解を深めることと、研究者コミュニティの中で研究者がもっとフランクに発言しやすい雰囲気を作っていくことが必要です。かなり、難しいことですが。
※この記事は有料メルマガ「むしマガ」の211号に掲載された論文を要約した簡易バージョンです。
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