2014年3月4日11時25分
●避難受け入れから交流続ける
原発事故後、会津若松市のあるホテルが、大熊町の避難者を受け入れた。会津の人には町がどこにあるのか、すぐ思いつかなかった。ホテルでの避難生活は終わったが、互いの交流はいまも続いている。「すっかり町の一員になった気分だな」。大熊の人と酒を酌み交わすホテル専務の小野寺康弘さん(47)は、しみじみと言った。
2011年3月末、会津若松市のシティホテル石橋に県職員から電話が入った。「避難者を何人泊められますか」
西に約90キロ離れた会津まで逃げてきたのは、着替えも財布も持たない大熊町民だった。うつむく人たちに、かき集めた食材で食事を用意した。「温かいものはいつぶりだろう」と涙する姿に、小野寺さんは「これは放っておけねえな」と思った。
遠慮してイヌをホテルの外につないでいた人に「家族だろ。入れてやれ」と言うと飼い主は破顔し、うなずいた。洗濯機の増設から高齢者の病院送迎、出かける人の弁当作りまで、考えつくことは何でもやった。
ホテルには11年末まで避難者がいた。初めは口数が少なかったが、ぽつりぽつりと本音を聞かせてくれるようになった。親から引き継いだ会社を途絶えさせたと自分を責める人、家族写真を探しに帰りたいと願う人――。会津で生まれ育ち、震災後も家に帰れる自分には計り知れない苦悩だ。「俺なら耐えられないな」と感じた。「何ができるだろうか」と自問自答して出した答えが、町への一時立ち入りの同行だったという。
独り暮らしの60代の女性が、地震で墓石がずれ、骨つぼが雨ざらしになったことに気をもんでいた。息子の遺骨もあるという。震災から2年目の冬、ようやく一緒に立ち入りできた。力任せに墓を動かし、元の位置に戻した。「やっと安心して布団に入れる」。眠れない夜が続いた女性は、拝むように手を合わせ喜んだ。
先祖の遺影、宝物のプラモデル、思い出のキーホルダー。日常を寸断された人が、大切なものを必死に探す姿にいつも胸が締め付けられる。「力になりたい」。立ち入りの手伝いは、ずっと続けるつもりだ。
●「放っておけぬ、今では家族」
今では頻繁に仮設住宅に招かれる。高齢者の面倒は誰がみるか、知らない場所で暮らせるか――。ばらばらに暮らす人たちの本音が飛び交う。元気づけたいが、無責任に「大丈夫」とは言えない。町民の将来が見通せないのは自分の目にも明らかだから。原子力災害の罪深さを呪いたくなる。
2月、町の人と食卓を囲んだときのことだ。「外では笑っているけど、夜は布団で泣いているんだ」。60代男性が漏らし、小野寺さんを指さした。「ばかみたいに明るく接してくれるあんたに俺たちは救われてる。なんでそこまでやってくれるんだ」
「放っておけない性分だから。今では家族みたいなものだし」。照れたように頭をかいた小野寺さんと町の人の友情はもうすぐ4年目。毎月11日にホテルで開く交流会は、これからもしばらく続きそうだ。