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魔導世界の不適合者 作者:真中文々

第二話『二人目のデヴァイスクラッシャー』  (Episode02 『SECOND・IRREGULAR』)

第二話 第四章  破壊と再生 15

         15

 ギシギシ、という擦れる音が耳朶に障った。
 油が切れている。
 頑健な作り故に、手応えがある。蝶番が軋み、下手をすれば壊れてしまいそうだったが、構わずに山小屋の扉を開けた。
 統護は簡素な間取りのバンガロー内を一望する。
 明かりが点いていない室内は、窓から差し込む月光のみが頼りであり、全体的に仄暗い。
 外よりも一層、闇めいて感じられた。

 中央に――優樹が立っている。

 暗がりの中で詳細までは分からない。身体能力に比すると五感はさほど強化されていない。
 奥にあるソファーには、那々呼が猫のように丸まって寝息を立てていた。
 統護はゆっくりと話し掛ける。

「待たせたな。助けに来たよ」

 優樹は後ろのソファーへ語りかけた。
「起きなよ、那々呼ちゃん。やっと王子様が君を助けに来たよ」
 統護は首を横に振る。
「いいや。那々呼を迎えに来たのも事実だけれど、助けに来たのはお前だよ、優樹」
 そう。優樹を助けたかった。
 最初は元の世界の優季を重ねていただけだった。
 願わくば、自分と同じ転生者であってくれと思っていた。
 でも――今は違う。
 優季への想いや思い出とは関係なく、ただ目の前の優樹を純粋に救いたい。
 彼女とのほんの僅かな思い出が、今の統護の原動力であり、想いだ。
「駄目だよ、統護。もうボクは駄目なんだ」
 そう言って、優樹は那々呼の傍まで後退すると、壁面に埋め込まれている【DVIS】装置に、自身の専用【DVIS】を通じて魔力を作用させた。
 室内に魔術――間接魔導――による光が満ちる。
 視界が明るくなる。

 灯りによって露わになった優樹は、朽ちかけているマネキンのようであった。

 服から露出している肌の半分以上が硬質化あるいは結晶化しており、それもヒビ割れている。右目は白い石にしか見えず、明らかに眼球として働いていない。辛うじて肌としての体裁を保っている箇所も、大部分が血色を失っていた。
 統護は思わず息を飲んだ。
 優樹は柔らかさを失った目尻と頬を無理矢理に笑顔にすると、口の端に亀裂が走り、表層面がバラバラと崩れ落ちた。
「醜いでしょう? ボク」
「ゆ、優樹……」
 悲痛な声で、優樹は恨み言を漏らす。

「どうして、どうしてお風呂場でのボクの裸を最後の姿にしてくれなかった……!!」

 涙は出ない。すでに彼女の涙腺は死んでいるから。
 ロイドに命じた意味を、統護は理解する。
「アイツはお前に『命令を果たせなくて済まない』って言ってたよ。そして俺に『お前を救って欲しい』とも言い残した」
「そんなの無理だ。この姿で分かるだろう? ボクは統護にとって綺麗な姿のまま死にたかったというのに、どうして化け物のボクに対峙したんだよ」
 強度を失ったボロボロの歯を噛み締めて、優樹は「ACT」と【魔導機術】を立ち上げた。
 そよ風であった。
 本来ならば疾風のドレスである彼女の【基本形態】は、身体の外層を弱々しく循環して衣服を少しだけ波立たせるだけ……
 そして魔力を消費した事により、更に身体の崩壊が加速する。
「さあ、戦おう統護。ボクはお姫様を救出しに来た騎士の前に立つ、邪悪な魔王となろう」
 顔面を崩しながら凄絶な笑みを浮かべる優樹に、統護は右手を翳した。
 五指を拡げた右手を彼女へ向け、意識を集中する。
 二メートルも離れていない。この距離ならば、一度体現している今、造作もない。
 転送した魔力球で優樹を包み込む。
 包むイメージは優しく。
 握り込む右手は、力強く。
 魔力球は優樹の【DVIS】である左耳のピアスへと収束し――呆気なく破壊した。
 ピアスの破片が床板に落ちる。
【DVIS】が破壊され、優樹の魔術が消えた。
 優樹は虚ろな瞳で、悲しげに言った。
「凄いね。それが本物の【デヴァイスクラッシャー】か……。ボクの偽物とは大違いだ」
「ま、万能ってわけでもないけどな」
 拳で殴れる至近距離だからこそ、簡単に精確な三次元座標を脳内にアジャストできた。
 しかし距離が離れる程、難易度は正比例どころではなく倍加する。訓練を重ねれば精度は上げられるだろうが、相手も【DVIS】を動かし、的を絞らせない工夫をするはずだ。
 それでも――遠方からの攻撃手段を得たというのは、なによりも大きい。
 これから戦う相手は、統護を近付けさせない為の魔術に集中する、動かない砲台ではいられなくなったのだから。それだけでも戦術面で劇的に違ってくるだろう。
「これで終わり……か。ボクの負けだよ」
「いいや。俺はお前を負けさせない。俺達は二人で――勝つんだ」
「え?」
 理解できないと呆けた面持ちになる優樹。
 統護は優樹に、はにかんだ。
「その制服姿、凄く似合っているよ。出来れば元気になったお前の制服姿も見たい」
「と、統護」

「いや。――絶対に見てやる。お前が嫌だって言ってもな……!!」

 リミッターを外す感覚で、魔力を高めていく。
 神経と知覚のチャンネルを切り替える。
 統護は今こそ『真のチカラ』を解放しようと、〔言霊〕を唱えようとした。

 魔術とは似て非なる統護のチカラ――魔法を使おうと。

 この【イグニアス】世界の人々が標準的に秘めている魔力を媒体として、堂桜財閥による超技術――機械と電脳の【魔導機術】――を利して顕現する超常現象を『魔の技術』と定義するのならば。
 異世界人である統護が、元の世界で堂桜一族として継承してきた一子相伝の業――
 己の血脈と魔力によって、世界の自然と調和を司っている〔精霊〕と契約して、直接的に超常現象を顕現する『魔の法則』といえるのが、統護の真のチカラ――魔法である。
 そして魔法は、この世界の魔術の開発理念でもある、実在しないはずのモノ。
 人造的な技術を要さず、契約と法規で〔精霊〕力を操り超常を体現できる統護を、ユピテルは【ソーサラー】と区別して【ウィザード】と呼んだ。

 空想上の存在であるはずの、伝説の〔魔法使い〕――と。

 勝算は充分である。
 統護が全力で回復系魔法を施すことによって、優樹の中のナノマシンネットワークを活性化させれば、魔法とナノマシンの復元機能で彼女の身体を再生可能なはずだ。
 どこまで治癒魔法による直接回復と、魔力供給によるナノマシンの身体復元を行うかのバランス感覚が勝負になってくるが、可能な限りナノマシンの使用を抑えたい。
 必ず――命を取り留めてみせる。
 そこから先のナノマシン除去は、堂桜の研究者グループに託すしかない。
 まずは、統護が〔魔法使い〕であると知られない為の〔結界〕を、山小屋の内側に――

 優樹の左胸やや中央より――つまり心臓が爆発した。

 ドン、という小爆発の残響と共に、優樹の身体がエビぞりにしなり、崩れ落ちる。
 統護は慌てて駆け寄って抱き起こすが……

 上半身を抱き上げている少女は、すでに絶命していた。

         …

 熱湯に近いシャワーを浴びながら、ケイネスは思い出した。
「……ああ。そろそろ優樹ちゃんの心臓の爆弾が作動する頃合いかしらね」
 悪気はない。
 悪意もない。
 どうせ助からないのだから、ひと思いに楽にしてあげよう――と思っただけだった。
 湯船の中で鎮座している少女を見る。
 戦闘によるダメージの回復が早い。
 なによりもナノマシン集合体との適合性と融合率が想定値をはるかに凌駕していた。
 この子は貴重なサンプルとして大切に扱わなければ。
 米軍【暗部】との関係が続き、陽流が無事に手元に残っただけで、今回は充分であった。

         …

 統護は目を見開いた。
 死んで――いる。
 いつ絶命してもおかしくない状態で、心臓を吹き飛ばされたのだ。優樹は呆気なく即死していた。
 統護は迷わなかった。
 床に手を置くと、室内を覆う情報遮断用の〔結界〕を形成する。
「古の契約に基づいて召喚するぞ! 死と再生を司る至高なる女神っ!!」
 神を象ったチカラのビジョンではなく、この世界に在る〔神〕そのものを使役する。
〔精霊〕や〔御霊〕の上位存在である〔神〕を、統護のチカラとして顕現させるのだ。
 骸と化した優樹を片手で抱く統護の前に――赤と白を基調としている十二単に近い、豪奢な神御衣を纏い、背中に黄金の円環を輝かせている、細身の若い女性が光臨した。
 彼女こそ統護が顕現させた至高の女神。

 其の名は――〔太陽神アマテラス〕である。

 太陽神は怒りの眼差しで統護を射貫く。
 人間にチカラとして振るわれる怒りだけではなく、更に深い断罪の怒りだ。
 統護の魂に〔太陽神アマテラス〕の意志が響く。

 ――汝、死者を蘇生させるという大罪を理解しているのか?

 理解していると統護は答える。死んだ者が生き返るのは、決して美談ではない。故人の縁者や友人・恋人・伴侶がどれだけ望もうが、死は自然の摂理であり生者が背負う義務だ。
 人は死するが故に――生きているのだ。
 死が待つからこそ、生命はありがたい。
 死から解放されてしまった者は、もはや生きているとはいえないのである。
 統護は魂の禁忌、生きる者全てへの冒涜を侵そうとしている。
 肯定を以て、統護は〔太陽神アマテラス〕からの赫怒を受け入れて、チカラを使役した。

「――〔神威奉還〕」

 黄金の光が、奔流となって統護と優樹を飲む込む。
 太陽神のチカラにより、優樹の蘇生――すなわち〔黄泉還り〕を発動させた。
 その反動として、統護の魂が一時的に〔天岩戸〕へと封じられた。
 黄泉の国に墜ちる事ができないのならば――その魂を八百万回、死と同等の苦しみに蝕まれるがいい。それが統護が課せられた生者と生命を冒涜した罪。
 極限という表現が生ぬるい地獄と煉獄。
 統護は耐える。
 罪の痛みに。
 しかし――元の世界で優季を喪った時の心の痛みを思えば、この程度の魂の痛み!
 冷徹な双眸で統護を見下ろす太陽神が忌々しげに舌打ちした。
 同時に、統護の意識が遠ざかっていく……

         ◆

 魂がゆっくりと人のカタチを象っていく。
 黄泉の国から引き戻されて、自我を取り戻した優樹は、呆けた視線で周囲を見回す。
 此処は――上も下も右も左もない光の中だった。
 とても温かい光のみで形成されている、不可思議な場所。
 優樹は一糸まとわぬ姿であり、他には誰も居ない様子である。
「ええと? あれれ? ボクは一体!?」
 問いに答えるモノがいた。

『ここは輪廻の輪の中心。貴女は貴女の世界――【イグニアス】と識別コードを与えられている場所へと帰還しようとしているの』

 不意に姿を見せたのは、美しい少女であった。
 光り輝く白い左翼と、光を吸い込む禍々しい右翼。
 対となる双翼を誇らしげに拡げている――羽衣めいた和装に身を包んだ十代半ば程の美女。
 その絶美は罪とすら思えるほどである。
 堕天使、というフレーズを優樹は脳裏に浮かべる。
 女神にも見え、悪魔にも見え、光と闇が同居しているような、不思議な存在だ。
 その光と闇の堕天使の貌に、優樹は息を飲んだ。

「君は――淡雪!?」

 光と闇の堕天使は是非を口にしない。
 ただ浮かべている薄笑みは、淡雪のようであり、全くの別人のようであった。
『貴女はね、トーゴが無茶をした所為で、再び生をやり直さなければならなくなったの』
 見方をかえれば一種の呪いね、と意地悪く微笑んだ。
「そ、それって転生ってやつ? ボクは赤ん坊として産まれ直すの?」
『普通はそうやって魂が循環するわ。様々な世界を渡り歩きながら。けれどもトーゴは無理を通して、そのままの貴女を生き返らせたわ。貴女の為だけに神をも畏れぬ大罪を背負ったわ。器たる身体はもうじき再生する。だから貴女の魂はそこへ戻ればいい』
「……信じられないよ」
 淡雪と同じ貌をもつ堕天使は、光の塊を差し出した。
「これは?」
『せっかく黄泉の国にまで赴いたのだから、ちょっと拾ってきたの。今回、特別にプレゼントしてあげるわ。気に入ってくれると嬉しいのだけれど』
 堕天使の手の平から離れた光の塊は、優樹の中へと溶け込んできた。
 直後、優樹の身体が光の粒子と化して、弾けた。

         …

 辛うじて繋いでいた、統護の意識を呼び戻す声が、耳元から聞こえてくる。
「――統護、大丈夫? 統護、しっかりして」
「ん……。優樹、か?」
 ぐったりと弛緩し切っている統護を、優樹が優しく抱き支えていた。
 太陽神は消えている。
 魔力と体力そして気力までを限界まで使い切った統護は、憔悴し切っている。超人的な身体機能を得ていなければ、衰弱死は必至であった。
 統護は優樹の頬に、頭を傾けた。
 優樹は愛おしげに統護の頭を抱えて、頬を擦りつけてくる。
「身体、大丈夫か?」
「それはボクの台詞だよ。まったく無茶をして」
 優樹の身体は完全に再生されていた。
 サイバネティクス化されていた右手も、本来の肉体へと戻っている。体内のナノマシン集合体による神経ネットワークのリンクも正常化で安定しており、以前とは違い、【ナノマシン・ブーステッド】として格段に進化・適合を果たしている。
 優樹の説明を聞いた統護は、残念そうに言った。
「そっか。できればお前の中のナノマシンを除去したかったけど、無理だったか……」
「右手が元に戻っただけでも凄い嬉しい。それにボクの身体はもうナノマシンと共生しなければ維持できないから。それに今は能力を解放してもナノマシンに喰われるって事もないから。ボクとナノマシンは一つの存在として融合しているのが、神経リンクで確認できるよ」
「なら……いい。よかった、優樹」
 極度の疲労から眠りに落ちようとする統護へ、優樹は囁いた。

 ……二年前の雨の日。相合い傘して二人で学校から帰ったのを、君は覚えている?

 統護の目が大きく見開かれ、眠りに落ちそうだった意識が、一気にクリアになった。
 優樹はなおも歌うように言葉を連ねる。思い出という名の言葉を。
 初めて喧嘩した時の事。
 最後になったお誕生日会の事。
 一緒に小学校を卒業した時の事。
 二人で散歩した時の事。
「あの時はね、偶然鉢合わせたんじゃなくて、ちゃんと統護がいるって分かってたんだ」
「お前……どうして?」
「一緒の高校に進学するって分かった時、本当に嬉しかったんだ」
 優樹は統護の頬を、両手で優しく挟み込むと、目を目を合わせてきた。
 統護の瞳に映る彼女は泣いている――

「君は異世界からきた〔魔法使い〕だったんだね、堂桜統護」

 統護は小さく頷いた。
 視線は優樹の瞳に張り付いている。
 彼女の瞳が悲しげに潤む。
「だけどゴメンね。ボクは君の世界の比良栄優季の記憶を得たけれど、やっぱりボクは別人なんだよ。正確には君の幼馴染みじゃないんだ」
「優樹……」
「嬉しいんだ。ボクじゃないボクの記憶。違う世界の自分の記憶。弟以外は真っ黒だったボクの思い出が、ボクじゃないボクの記憶で満たされていく。まるで光みたいだよ。君との幸せな記憶と思い出。それはボクにとって何よりも大切な宝物だ」
 優樹は統護に唇を重ねた。
 ついばむように、二度、三度と。
 キスの後に額を合わせた。
「だから。だからボクに思い出をくれた比良栄優季の為にも、ボクは君に真実を告げるよ」
「真実?」
 統護の声に恐れが滲む。
 神すら怖れない男の頬が、畏れで歪む。
「うん。君が心の中で決定的に否定している事。比良栄優季の記憶は――クリスマスイヴの前で途切れているんだ。彼女は――死んでいるんだよ、統護。もう何処にもいないんだ」
 ズキリ、と統護の胸が痛む。
 ギシリ、と統護の心が軋む。
 認めたくなかった事実を、当のユウキから告げられ、心が張り裂けそうになる。
「最後に、この世界のユウキとして、ボクの中にある彼女の気持ちを、あのイヴの約束の言葉を伝えるね」

 ――大好きだったよ。

 優樹はもう一度、キスをした。
 そして涙まみれの両目を優しく眇める。
「彼女はいつまでも自分を引きずって欲しくないって。もう引きずらないで、これからは真っ直ぐに前を向いて。真っ直ぐに前だけを――」
 精一杯の笑顔は、泣き顔だった。
 統護は頬を涙で濡らしながら、封じ込めていた想いを吐露する。
「俺も、俺もお前がずっと大好きだったよ、優季――」
 ありがとう、と告げる。
 ようやく終わった。

 これで本当に、幼馴染みとの初恋に決着がついた。

 優季との記憶を思い出として昇華できた。

 気が緩んだのか、そこで統護の意識はプツリと途切れた。
 そんな統護を、優樹は優しく抱き続けた。
 二人は重なり続ける。せめて夜が明けるまでの仮初めの――二人だけの永遠の中で。
 いつまでも寄り添っていた。

         …

「――というワケだったんだ」
 統護は衛星通信によるフォト電話で、アリーシアに今回の事件を話していた。
 あれから……優樹は姿を消した。
 淡雪とルシアによると、比良栄家で大きな動きがあり、その事変によって彼女は彼女で新しい人生を始める事となったらしい。
 現在も一切の動向が不明で、統護もあえて調べようとはしない。
 統護はそれでいい、と思っている。自分は過去の思い出を振り切った。だから彼女にも過去を振り切って、今度こそ女の子として幸せな思い出を作って欲しい。
「うんうん。なるほど大変だったね、統護」
 優しい表情で何度も頷くアリーシア。
 通信画面内のアリーシアは、風呂上がりのようでバスローブを羽織っている。
「そして今回もお疲れ様。よく戦ったね」
「じゃあ、こっちはもう遅いし、今夜はこれくらいで……」
 統護は話を切り上げて、そそくさと通信を切ろうとしたが。

「あはははは。逃げるんだ!? 統護」

 アリーシアは朗らかに笑っていた。しかし目だけは全く笑っていない。
 しかも額にはくっきりと青筋が浮かんでいる。
「あ、いや、その……」
 統護の頬が引き攣り、全身から大量の汗が流れ始める。
 通信オフのスイッチへと伸ばした指を、力なく引っ込めた。
「隠そうとしても無駄だよ? 締里から全部聞いちゃっているから。全部ね」
 それからダメージが深刻な締里も所属組織から療養を命じられて、現在は行方が知れない。
 アリーシアの帰国に合わせて戻る予定とだけ教えられていた。
「あのさ、アリーシア。俺は別に隠すつもりじゃ」
「ねえ統護。戦いとは別に、豆腐の角に頭をぶつけたりした?」
「え? 豆腐?」
「なんか物忘れが激しいみたいだから」
「……」
「ちゃんと覚えているかな? 統護と私の関係は?」
「こ、婚約者同士、です」
「あれ? 覚えている。意外ね。だったらどうして委員長と子作りの約束とかするかなぁ」
 作り笑顔が、凄みのある貌に変貌した。
 あの夜に召喚した太陽神の怒りの貌よりも――遙かに恐かった。
「し、仕方が無かったんだ!」
 みっともなく狼狽えながら、統護は必死に弁解した。
 ちなみに、みみ架は堂桜本家と独自に交渉して、統護との子供には堂桜関係の利権に一切関わらせないという証文を以て、自分と統護との約束の認可そして堂桜関係者としての情報保護を取り付けていた。
 当然ながら統護は一族会議でつるし上げされ、以降――淡雪は一言も口を利いてくれない。
「そ、そ、それでな、アリーシア」
 言い出しにくい話だが、アリーシアがみみ架との約束を知っているのならば、ここで婚約破棄の時期をはっきりさせようと決断する。
 みみ架と子供を作るのならば、やはり他の女性との婚姻は道義としてまずい。みみ架が自分との恋愛や結婚に興味がないのは、別の話だ。
 それにもともとアリーシアとの婚約は、あくまで形式上のものである。
「俺達の婚約についてだが――」

「正式な婚姻まで二年以上あるはずなのに、もう愛人一号とは、さすが統護だね!」

「あ、うん。ええと。……御免なさい」
 みみ架の言葉を思い出す。アリーシアは婚約解消する気はないはずだと言っていた。
 再び笑顔めいた朗らかな表情になるアリーシア。
 統護の目には怒りしか読み取れないが。
「実は締里だけじゃなくて、委員長とも話し合っているから、うん、心配しなくていいよ?」
「そうだったのか!」
 ちくしょう、だったら教えてくれよ委員長。
 泣きたい気分だった。
「このままだと、私達の結婚式に、統護との子供を連れた委員長が出席するか、お腹を大きくした委員長が出席するっていうシュールな光景が現実になるけれど、しょうがないよね」
「ああ。しょうがない……ですよね?」
 愛想笑いで追従しようとする統護。
 ギロリ、と睨まれた。
 婚約解消どころか、このまま結婚は確定のようだ、と統護は諦めた。
 どうしよう……
 なんだか取り返しのつかない道を歩み始めている気がする。
 振り返っても、不義理や不誠実な真似はしていないはず――はず……
「うんうん。約束は破れないよね。私との結婚も、委員長の子作りも。だから今回だけは大目に見てあげる。今回だけは。私って理解のある妻でしょう? でも次はないから。次、他の女と変な約束してみなさい。ちょん切るからね」
 凄まれて統護は萎縮した。
 ちょん切るって何をだ? いや、確実にナニだとは分かっている。
 背筋が凍る。間違いなく彼女は本気だ。
「理解してくれて嬉しいよ、アリーシア。流石は俺の婚約者だ! 愛してる惚れ直した!」
「うっわ最低……」
「ゴメン。反省してます。すいませんでした」
「あ、そうそう。反省の証として原稿用紙二百枚分、手書きで反省文を書くこと。鉛筆書きは不可でインクで清書して。書き間違いに修正印やホワイトを使ったら駄目だから。その場合は最初から書き直しね」
「え? マジで!?」
「なにか不満の声が聞こえた気がするけれど、空耳だよね。それじゃあ来週の日曜までに書いて提出してね。延期は認めないから」
 一方的に言い残し、アリーシアから通信を切られた。
 統護は脂汗を流しながら、愕然と呟く。
「手書きで原稿用紙二百枚って……鬼かよ、アイツ」
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