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GS全盛期、ザ・タイガースのメンバー「ピー」として一世を風靡した後、突然の芸能界引退。今年、40年の沈黙を破って活動を再開した瞳みのるさん。2月に出された自伝は現在も版を重ね続ける好調な売れ行きで、9月からザ・タイガースのメンバーと一緒に回る全国ツアーはチケットが即完売と、完全復活を遂げた瞳さんに、復帰に至った経緯やタイガース時代のこと、本についてのお話をお聞きしました。
老虎再来! ピー、完全復活
――ザ・タイガース解散後、慶応義塾高校の中国語教師を経て、今年40年ぶりの復帰ですね。
最近はほぼ毎日ドラムの練習をしています。沢田(研二)、タロー(森本太郎)、岸部(一徳)の4人で演奏したのは40年ぶりでした。沢田はずっと続けているプロで、僕と岸部は本当に久しぶりの演奏なので、プロの前でアマチュアがやっているような感じでしたね(笑)。ちょっと照れました。
――2月に出された自伝「ロング・グッバイのあとで」が活動再開の始まりでしたね。書こうと思ったのは、瞳さんに捧げられた曲「Long Good‐by」を沢田研二さんが歌われていたのを聴いたのがキッカケということだったのですか?
自伝は前から書きたいなとは思っていたのですが、どうも重い腰が上がらずそのままになっていて。
2008年に、2週に渡って沢田を特集しているNHKの『SONGS』という番組を見たんです。その一番最後、大トリで沢田はあの曲を歌ったわけですね。それを考えると、彼があの曲に秘める比重というのをすごく感じました。「僕のことをそんなに想っていてくれたんだ」と熱いものを感じて、嬉しくて。それで、これはメンバーにお返しをしなければと思って。「道」という返歌もすぐに作りました。
友人が目次を作ってくれたことも後押しになりましたね。
――「この曲を聴いてピーが帰ってきてくれたら…」とファンも想像していたと思います。ファンの想いが現実になりましたね。
みなさんに一番関心を持っていただいているところだと思ったので、本書の最初の章でこの経緯についても触れています。せっかくだからと本のタイトルにも「ロング・グッバイ」を入れました。チャンドラーの小説にも「ロング・グッバイ」というのはあるし、書名の由来を教えるのが面倒なときは、冗談で「チャンドラーの続編ですよ」なんて言ったりもできるしね(笑)。
――本の中でもジョークが多かったですね。
人を喜ばせるのが好きなんです。料理もそうで、自分が作ったものを食べてもらって美味しいと喜んでもらうのが好きなんです。人を笑わせるということも料理を作るのと同じ喜びがありますからね。人が喜んでくれるとこちらも楽しくなるし、言ってよかったな、考えてよかったなと思います(笑)。
いま振り返る、タイガースとその後
――タイガースの中でも瞳さんはムードメーカーのような存在だったのですか?
僕は割と明るいほうで、今よりもっと陽気でした。バンドを辞める頃からは、こんな単純じゃいけないな、もっと物事を考えなくちゃと思うようになりまして、そこから少し内省した部分もあります。
――人気の絶頂にあったタイガースを辞めるということは、なかなかできることではないと思います。
仕事は「何でこんな幼稚なことをやらなければいけないんだ」と思うものが多かったんです。それもあってメンバーが抜けてしまって、僕も芸能界に嫌気がさして決めました。
僕はブレるということが嫌なんです。だから、辞めると決めたら自分の考えにはできるだけ忠実に生きていきたい。タイガース時代のレコードも処分してしまって、今も1つも持っていません。そうでもしないと吹っ切れなかったので。会社が押し付けた音楽はやりたいロックとは違ったということもありました。
――そんなタイガースの曲の中でも好きな曲は?
僕は「花の首飾り」ですね。いま、「花の首飾り」の曲にポイントを絞った本を執筆中で、タイトルも「花の首飾り物語」(仮題)にする予定です。作詞家の橋本淳さん、作曲家のすぎやまこういちさんにインタビューしたり、自分の考えを書いたりしています。9月からの公演に間に合えばいいなと思っていたのですが、全然間に合いそうにありません(笑)。
――それにしても引退後、メンバーなどの旧友や関係者とも一切連絡を絶っていたというのもすごいですね。
当時の妻から、一切そういうことはやめてくれと言われていて、完全にシャットアウトしていました。まだ彼女が学生時代にスキャンダラスな書かれ方をされたことがあって。訴訟にはなりませんでしたが、一度地裁までいって、結局記事の差し止めをしたということもあったんですよ。テレビでも、当時の映像を勝手に使われて出演料が送られてきたので、内容証明をつけて送り返したこともありました。だから、「瞳という人間は恐いな」と思わせることは出来ましたね(笑)。
――本にもありましたが、柴田錬三郎さんとの親交は意外な気もします。
僕が通っていた六本木のレストラン「キャンティ」のオーナーの紹介で知り合いました。柴田さんは外見は苦虫を噛み潰したような顔をしていますけども、すごく面倒見が良よくて心の優しい人で、外見とは全然違いましたね。それで柴田家に出入りするようになって、柴田さんの生き方を学ばせてもらいました。柴田さんは苦しみぬいて、自分の肉を切り血を絞るように文章を書く方だったと思います。これがプロなんだなと。なので、自分も何かをやる以上は生半可には出来ないなということを思っています。
受験勉強、中国研究、教師時代
――大学受験の際、勉強のため洗髪の時間ももったいないとすぐに坊主にされたそうですね。
僕は自分の勉強不足を痛感していたので、もっと勉強しなくてはいけない、教養と呼ばれる書物は読まなければいけないなと思って、ドストエフスキー、トルストイやプルースト、源氏物語や平家物語といったいわゆる古典は大体読みました。勉強としては面白かったですけど、結構無理にやっているという感覚はありましたね。
――普段読書はどういうものを読まれますか?
小説が多いですが、ノンフィクションも好きです。原文で読んだり、翻訳ものを読んだりしますが、読むのはやはり中国関係のものが中心ですね。
――印象に残っている本はありますか?
最近では余華という人の『兄弟』は面白かったですね。前編は文革時代のことが書かれていて特に面白かったです。『ワイルド・スワン』も毛沢東時代を書いたノンフィクションで面白かったです。やはり文革時代を書いた作品は面白いものが多いです。余華はそこにフィクションを持ってきているわけですが、現実から程よく距離を置いていて、ユーモラスな部分もあって楽しいし面白いです。ちょっと下品なところもあるけどね(笑)。中国人でノーベル文学賞の受賞者はまだいませんが、獲るんだったらこの人だと僕は思います。余華はチャン・イーモウが監督で映画化された『活きる』という作品も書いていますが、これも面白い。宮城谷昌光の中国ものも好きでよく読んでいますね。
――教師時代に生徒におすすめしていた本はありましたか?
津本陽の『わが勲のなきがごと』をよく生徒に読ませて感想文を書かせていました。戦争で南方に送られた人物を主人公にして戦争を描いた作品です。戦前は全く喋らない人物だったのに、帰ってきたら人が変わったように饒舌になっていて、肌つやも凄くよくなっていた。それは戦地で人肉まで食べて生き残っていたからなんです。でも彼は戦地で何があったか、それを一言も語らないんですね。読んでいる側は想像するしかない。だから、大事なことや物事の本質は語られないということ、そういうことを想像することの大切さを生徒に学んでほしいと思って読ませていました。
「ピー先生」ではなく、「ロックンローラー・瞳みのる」として
――脳溢血で倒れ、生死の境を彷徨ったこともあったそうですね。
「失うものは何もない」と開き直りましたね。もうやれることはやってやろうと、考え方もだいぶ変わりました。
――中国の研究をされていたということで、日中の架け橋になる活動も精力的に行っているそうですね。
個人的に唐詩や明治期の詩・唱歌の翻訳活動をしていて、未発表のものもたくさんあります。出版活動もしていきたいですね。
バンドでは中国でもコンサートをやりたい。タイガースは文化大革命の頃に活動していて、中国ではほとんど知られていないはずです。沢田がソロになってから出した「時の過ぎ行くままに」は中国でもカバーされて非常に売れたので曲は知られているんですが、沢田本人のことはほとんど知られていないんです。沢田も中国で人気がある曲だと聞いて、驚いていました。なので、僕としては、もっと中国で知られてもいいと思うし、文革でエアーポケットのように抜けてしまった部分の穴埋めをしたいと思っているんです。
仮に、僕たちが活動していた時期が今のような状況だったら、中国でもSMAPに負けないくらい人気も出ただろうし(笑)、もっと色々できたと思います。
――タイガース4年、教師生活33年を経て、これから第3の人生が始まりますね。
中国には「棺を蓋いて事定まる」という、死後にその人の評価が定まるという意味の言葉があるんですけども、僕は人の評価なんて気にしないで生きたい。この先どんなことが起こるのか分からないのが面白いし、分かってしまったら面白くない。これまでハチャメチャに生きてきましたけど、そもそも、ロックをやるということは、不良の魂がないとダメなんですよ。「荘子」にある例え話のように、みんなから尊敬を受けて窮屈に生きていくよりも、これからも見苦しくのた打ち回ってでも自分の好きなように生きていきたいですね。