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月が導く異世界道中 作者:あずみ 圭

四章 クズノハ漫遊編

鱗の湯

「例えば、高温に熱した油に水などぶちまけるとどうなるでしょうか?」

「……滅茶苦茶危ないよ。やった人は多分大火傷、下手すれば火事になる。何が例えば、なんだよ識」

「それはどうしてでしょうか」

「水と油は仲が悪いんだよ。そんなことしたら熱い油が飛び散って大惨事になるかもしれない。だから揚げ物をやる時は水が入らないように気をつけないといけないんだよ。少量でもはねて危ないんだから」

「それが……この教本でいうところの、何という現象かはおわかりでしょうか?」

「物理の教科書? 識、出すなら料理法の本にしないと」

 まったく。
 識の奴、いきなり物理の教科書なんて何冊も出して何のつもりなのか。
 熱い油に水を注ぐとどうなるか、なんて揚げ物のやり方とかの本を見れば書いてあるのに。

 ケリュネオン郊外。
 元貯水池だった場所に僕と識、それにエマとエルドワの長老、更には元気になったルリアが来ていた。
 相変わらずドラウプニルはマグマの中でゆらゆら動いて煌きを放っている。
 特に暴走する気配もない。
 手元を離れた時は暴れた癖に一体どうなっているのか、さっぱりわからない。
 エマや長老、それに識が何かを掴んでくれるとありがたいね。
 識は変な話を僕に振ってきて少し脱線してるけどね。
 池の中を眺めている三人から離れた僕らは木で作られた簡易ベンチに腰掛けていた。

「若様、色々と異なる点も多いですが、セル鯨が言っていた爆発は恐らく若様の世界でも起こります」

「え?」

「水蒸気爆発、という現象に近いかと。ご存知では?」

 水蒸気爆発。
 聞いた覚えはある言葉だ。
 ただ、小説とか漫画の話で、だと思う。
 物理でそんなの習ったかな。
 粉塵爆発ってのは覚えてるんだけど……。
 昔の鉱山では比較的この爆発事故が起こっていて鉱山夫の死因として有名だからなあ。
 水蒸気爆発ねえ。
 もしかして……。

「あー、ひょっとしてさっきの油に水を入れた時のことをそういうの?」

「はい。現象としては相当するのではと思います。水が高温の物質に触れ急激に気化するのが水蒸気爆発の基本的な説明ですので」

「……」

 急激に気化……。
 一気に蒸発するってことか。
 確かに、ドラウプニルは僕が想定していたよりもずっと高い温度になった状態で貯水池に落ちた。
 で、あの爆発が起きた。
 結果として水はなくなって底がドロドロの溶岩っぽくなってる。
 あの短時間で池の水が全部蒸発したのは間違いないと思う。
 視界を奪ったのはその時の蒸気か。
 ……まさか識が物理を勉強していたとは思わなかった。
 しかも僕が授業を受ける立場になるなんて。
 物理は、計算とかは結構好きだけど科目としては苦手な方に入るとはいえ、ちょっと情けない。

「人が身につける指輪一つが高熱源体になったとしても、これだけの規模の爆発になるかどうかまではわかりません。爆発のエネルギー計算式までは出ておりませんでしたから。第一、本来なら指輪も衝撃で巻き上げられてどこかに飛んでいってしまっているはずなのに、ドラウプニルは底にありますし、あくまで物理現象としては水蒸気爆発というのが近いというだけのことですが。おそらくセル鯨が当然だといったのもこの現象を指してのことかと」

 確かに。
 指輪が水面に触れて水が気化して爆発が起きたなら、指輪もあの衝撃でどこかに飛んでいってしまっていると考えるべきだよ。
 そう重いものでもないんだし。
 あれは科学でも説明できる現象だったけど、ところどころファンタジーな爆発だったのは間違いない。
 ……にしてもセル鯨恐るべし。
 多分ヒューマンの殆どは知らないだろう現象を理解しているとは。

「本来はあそこまで高温になる予定じゃなかったし、やっぱ不幸な事故ってことか。手元で試した時は上手く制御できてたんだけど難しいなあ。水蒸気爆発か。覚えとく」

「水は気化すると液体であった時と比較して千倍以上の体積になりますし、今回は更に指輪の熱で引火による爆発まで起きた可能性があります。おそらく水素も発生していたでしょうから考えられないことでは……しかし現状から予測できる威力にはそれでも……」

 ……。
 識の言っている事が、僕が理解できる範囲を突破しようとしている。
 それなりに勉強もしてきたけど、僕は基本的には弓漬けの人生だったわけで。
 多分、今テストをやったら識よりも点数低いだろうな、僕。
 しかし、先生もいないのに教科書だけでどうしてこんなに実用的な知識を身につけられるんだろう。
 やっぱ、識は凄いな。

「あの時何が起きたのかはわかったよ。で、あれはどうするべきだろうね。エヴァ達じゃどうしようもないだろうし、やっぱ除去して亜空にお持ち帰りが無難かな」

「極めて安定しておりますので、このままここで活用する方向で考えるのが良いかと」

「マグマ池なんて街の近くにあったら危なくない?」

「ケリュネオンにとっては山で掘り当てられた温泉ともども大きな恵みになりましょう。それに近くと言っても街の子供が近寄れるような距離でもありません。大人でここに落ちるような間抜けは、どのみち長生きなどできませんので気にするほどでもないでしょう」

「うーん……」

「この熱は使えます。池の周囲は雪も溶けて気温も高い。ケリュネオンにとっては当面の雪捨て場に出来ますよ。現状、雪の小山がそこら中にできておりますからなあ。あれでは街の機能にも影響してくるでしょう」

「でも、遠いだろう? 雪の処分場所が必要なのは確かだけど。細い路地とか埋まってるしな」

 日本でも豪雪地帯なら融雪に使う水路があったり、一時的に雪を積んでおける空き地でも用意してるんだろうか?
 ……だとしても、そんなの住んだことでもないとわかるわけないよな。
 中津原は都市部なら何年かに一回、数センチ積もる程度だったから当然雪への備えなんてなかった、と思う。
 実際そうなった時は電車もバスも大混乱だったのを覚えている。
 小さかった頃の自分にとっては嬉しいだけの雪だったけど、高校受験で降られた時はきつかったな……。
 バスの中に監禁されてる気になった。

「この程度の距離なら冒険者とドワーフを使って整備すればよいだけです。奴らも街に篭っていては腕が鈍るだけ。巴殿が手がけている温泉は、恐らく配管が土中になるでしょうから街に持ってくるまでにはまだ時間がかかりますからな」

 温泉を融雪に使うのは、元々次の冬を見越しての案だからそれは問題ない。

「若様」

「エマ。長老さんも。何かわかりましたか?」

 識の提案をエヴァに話すかどうか考えていると池を見ていたエマと長老がこちらに来た。
 見ればルリアもこちらに向かって歩いてきている。

「はい。お連れ頂きありがとうございました。あのドラウプニルは内部に蓄積した魔力を熱に変換する装置として安定しています。少なくとも五年程度は現状のままを維持すると考えられます」

 五年。
 結構もつもんだ。

「しかし、そこに至った過程までは率直にいってわかりませんでした。エマ殿と相談したのですが、亜空でも同じことを何度か若様に試行して頂いて、あのようなドラウプニルを作ってもらえませんかな」

「なるほど。似た状況で同じことをやって試行していれば同じようなドラウプニルも出てくるかもしれないってことか」

 それならありか。
 ケリュネオンで使った方がいいって識も言っているんだから、あのマグマと指輪を回収するのはやめたほうがよさそうだ。
 魔族領で使ってから一回も使ってなかったあの腕ですくって持って帰ればいいかと思ってたんだけど、なしだな。

「作られる瞬間から見て、一から研究することが出来れば、きっと近い内にドラウプニルを使えるようになると思うんです」

 エマと長老の懇願に僕は頷いた。

「わかった。適当な場所が用意できたら声かけて。やってみるよ」

『ありがとうございます!』

「ここについては、識が言うとおり、活用する方向でエヴァ達に考えてもらおうと思う。山の方はクズノハで進めるから冒険者の手は使えるんだしね」

「はい。聞き届けてくださりありがとうございます」

 頭を下げたいのは僕の方だったけど、識に先に深々と頭を下げられてしまった。
 温泉は成功、貯水池は失敗だったけど、貯水池の方も何とか利用方法が見つかりそうで良かった。

「ライドウ先生! あの真っ赤な火の池、五年はあのままらしいですね!」

「ルリア。病み上がりに外に出たってのに元気だね」

「そりゃあもう! あんなもの見たらやる気も漲ります!」

「やる気、ねえ」

「お客さんだった頃から思ってましたけど、やる事なす事全部が他人に真似できませんね先生は」

 ルリアは興奮気味だった。
 防寒着は脱いで腕に抱えている。
 確かにこの辺りは厚い防寒着を着たままだと汗ばむほど。

「五鉄については正直識の方がよっぽど非常識だったと思うぞ?」

「クリーム鍋ですか。あれは確かに限られた需要を病的に満たす不思議人気商品でした。ちなみに私はあの良さがさっぱりわかりません」

「それで正しいよ」

「一応、こっちの食材でもあれをアレンジしたクリーム煮とかとろみの強いスープなんかは作ってますけど、甘くないですし」

「うんうん。シチューとかなら僕にも理解できる」

「ここから少し行った森は、そういうのに使ってる美味しい鳥が出始める辺りなんです。ここまでを整備してここを拠点か休憩所に使えるようになれば、それだけでも食材を多く確保できます。嬉しいですよー!」

 森。
 ルリアの指し示す方向に広がってるあれか。
 街からワンクッション置いて目指すなら十分狩りの範囲に出来そうだな。
 雪深い冬の森ってあんまり恵みもなさそうだけど、少なくとも食べれる鳥はいるみたいだから行く価値もあるみたいだ。

「鳥か。そういえばスノーバードとかって鳥は美味しいの?」

 セル鯨が仕留めた鳥を思い出す。
 美味しいなら今度は持ってきてあげてもいいな。

「……先生。あれはあの山に入って仕留めないといけないから、私もまだ調理したことないですよ」

「あ、そうなんだ」

「あの森に出るアレスバードも相当厄介ですけど、狩れないまでじゃないですからね」

「アレスバード。スノーバードよりも厄介そうな名前だけど」

 軍神っぽい。

「比べたら全然です。夏場は真っ赤な体で群れで動くので倒すのが大変ですけど、個々の強さは大した事ありません。冬は真っ白な体になって雪に紛れてのろのろ動くんで見つけ難いんですけど狩りやすさは夏よりも上ですね。ちなみに夏と冬で味が変わりますがどっちも美味しいです」

 冬は真っ白に、って雷鳥かよ。
 夏は見つけやすいけど群れを相手にしなくちゃいけない。
 冬はのろいし狩り易いけど、真っ白で見つけ難い、か。
 それなりに面倒な鳥だな。

「最初はお肉も硬くて臭くて食べるの無理かなって思ったんですけどね。私、やれることなんて食べ物に関することくらいしかないでしょう? だから作物とか、獣とか、食用にできそうなものの処理とか調理方法はしっかり見つけていこうって思って。アレスバードは性格上量を確保できるので頑張りました」

「研究して食べ方を見つけた?」

「はい。いつまでも先生のお店から都合してもらう食べ物に頼っているじゃ駄目ですから。ケリュネオンはケリュネオンで住んでる人のお腹を満たしませんと。今も夏の余剰分を保存食材に加工できないか研究中です!」

「凄いね」

 いや本当に。
 初めて見る野菜とか肉の美味しい食べ方を研究するというのは、やったことがない。
 日本はレシピも溢れてたからなあ。
 僕が手にするような食材の調理方法は大体ネットや本で探せた。
 毒の有無程度は魔術で調べられるとはいっても、大したもんだ。

「そんなことありませんよ。あんな池を作っちゃう先生の方が余程凄いです。冬なのにこれだけ暖かい場所があるとなると、今年の冬も何とか乗り切れるって思えてきましたから。使い方、色々ありますもんね!」

 雪を溶かす。
 暖を取る。
 ……。
 ……。
 あとは……魔術を応用して色々やる。
 うん、色々だ。
 確かに色々あるな。

「……ああ、そうだね。役立ててくれれば嬉しいよ」

「私も、体調を崩してる場合じゃありません! ちょっと慣れないことをしただけなのに恥ずかしいです」

「慣れないこと?」

「冒険者の方に同行して魔物の現場でのよりよい処理方法を試しに行きまして。その時の怪我と疲れで少し寝込んでました」

「処理方法って、倒し方?」

「まさか! 血抜きとか、肉の切り分け方ですね。素材はともかく、食材の方となると冒険者の方々はやはり肉を適当なブロックで持ってくるケースが多いんです。それだと食用に適さない肉も多いので」

「……」

 ……奥が深いな。
 確かに魚のしめ方や熟成も、種類によって適した方法も期間も全然違う。
 素材じゃなく食材として扱うとなれば冒険者のやり方は雑かもしれない。
 ルリアが最適な手順を教えたとしても、彼らがそれを実践してくれるかの問題はあるけど……。

「結局、良いやりかたで処理した食材なら価値も上がるので、こちらもより高く買い上げる事が出来ます。だから冒険者の皆さんにも利益はあることなんですよね。常に出来なくても余裕のある時にやってもらえるだけで、特に今は助かりますから」

 見透かされたような。

「縁の下の力持ち、みたいなもんか」

「? 私もお姉ちゃんの支えになりたいですから。政治の仕事ではあまり手伝えることもないので、せめてもの、ですけど」

 苦笑するルリア。
 政治は魔窟だ。
 僕はルリアのことを賢明だと思った。
 誰にも向きと不向きはある。
 ルリアはルリアにやれることでケリュネオンに貢献できているならそれでいいと思う。
 だけど、手伝えることもないっていうのは、多分自分ことを過小評価しすぎだ。
 僕にだって、食糧が国にとってどれだけ大事かはわかる。
 エヴァにとって今後、ルリアの生み出すだろう多くの技法は力になっていくのは間違いない。
 なんだかんだで、上手に助け合ってやっていけるんじゃないかな。
 ……ああ。
 そうか。

「エヴァも大変だけど、僕らも手伝うから。春になれば雪も溶けるし、開墾も進む。足りない人手は冒険者ギルド経由で移住者を募ればいい。エヴァを支えるのもいいけど、あんまり一人で抱え込みすぎないように」

 ゼフはクズノハを商会として逸脱していると言った。
 多分その理由の一つは、僕らがあまり他の誰かに依存しないから、じゃないか?
 不足しているものがあれば、商会はそれを他から調達する。
 職人が素材を調達するように、当然のことだ。
 だけどクズノハ商会はその気になれば亜空だけで全てを完結させられる。
 それは……確かに異質なのかもしれない。
 足りないものがあれば他の商会に頼るのは当然だけど、そうしないに越したことはない。
 商会が国に変わっても、基本的にそれは変わらないだろう。
 なら国の維持に重要な食糧を他の国に依存すれば、それは確実に弱みになる。
 なんてケリュネオンのことを考えてて気付けた。

 となると……クズノハ商会って、外から潰そうとするとかなり大変じゃないか?
 僕自身だけじゃなくてクズノハ商会も防御力高かったんだな……。
 うん。
 ザラさんとかレンブラントさんに聞いた対立する商会への対処方法も、クズノハを相手に考えてみると使えないのも結構ある。
 従業員もそれなりに強いし家族を抑えようにも亜空だ。
 表立ってやってる仕入れも建前だから別に無くしても構わない。
 そもそも輸送関係を妨害されたら転移しちゃえばいい。
 ツィーゲとロッツガルドで言えば悪評がたっても笑い飛ばされるレベルでお客さんから支持もされてる。
 黒字は毎月拡大し続けて、当座の現金にも困らない。
 始めてまだ数年なんだけど……いつのまにか凄く厄介な商会になっているような。 
 レンブラントさんにあの段階で会えたのも大きいけど、一番は皆が頑張ってくれたからだなあ、本当にありがたい。

「はい。倒れないように頑張ります!」

「識! そろそろ戻るよ。二人はどうする?」

 クズノハ商会を改めて自分で見直して妙な感動を得ながら。
 傍にいるエマと長老に尋ねる。
 亜空に戻るか、街に行くのか。
 二人とも街にも同僚や部下がいるからどうするつもりか聞いておかないと。

「私どもも、街までご一緒します。これと温泉を考慮した計画の見直しと、ハイランドオークで雪の処理に回れる者が数名おりますのでその派遣についてエヴァと話もございますので」

 エマはエヴァには厳しい。
 でもなんだかんだで鞭だけで付き合っている訳でもない。
 実は期待しているからじゃないかと僕は密かに考えていたりする。

「儂も一度街で若いもんの作業状況を確認します。その後は、温泉にも興味がありますので巴様のお手伝いに加わろうかと。よろしいですかな?」

「了解」

 あれ、識の反応がない。
 池の方を向いて目を閉じ、口元に右手の甲を当ててぶつぶつ言ってる。

「しかし、蓄えられた若様の魔力量を最大に見積もったとしても……熱変換効率が……結果として発生する……どう考えても左右の式の値が等しくならない……」

「識!」

「だがそれではまるで……」

「識!!」

「っ!! はい、なんでございましょうか!」

「……戻るよ? どうかしたの?」

「あ、わかりました。申し訳ありません、ついつまらぬ事を考え込んでしまいまして。思った以上に物理学という学問が面白かったもので」

「……まあ、ほどほどにね。で、巴は今日一日山に篭るんだっけ?」

 歩き出した僕の横に並ぶ識。
 魔術とか農業関係だけでも結構勉強とか大変だと思うんだけど、この上物理にまで手を出して大丈夫なのか心配になる。
 あんまり根をつめるようならどっかでやめさせるか。
 この分だと寝る時間削って本読んでそう。

「……はい。二日で形にすると張り切っておいででした。澪殿もご一緒です」

「澪も? 珍しい。温泉に興味があるのかな」

「あるのは、その、温泉そのものではないようですが」

 額をかきながら、妙に言い難そうに話す識。
 そのものじゃない、とな?

「美容とか健康方面ってこと?」

「いえ、澪殿が惹かれているのは混浴の習慣だと思います」

「こん、よく?」

 なんのこっちゃ。
 温泉が混浴?
 いや、混浴温泉は日本にもあるけど……一般的じゃない。
 大抵の温泉は男湯と女湯に別れてる。
 一つしかない場合も、時間で切り替えたりしている場所の方が多い。
 温泉や湯治場の混浴が普通だったのは、江戸時代くらいまでだったはず……!?
 江戸?
 まさか、そういうことか!?

「はい。巴殿が温泉は男女混浴が基本だと澪殿に説明しておりました。無事整備が終わったあかつきには、一番風呂は四人で入ると決めておられましたぞ?」

「よ、四人?」

「もちろん、我々と若様で四人です」

 識があっけらかんと言い放った。
 なんという……落とし穴。
 亜空の貨幣に、多少変則的とはいえ両やら文やらを採用した巴のことだ。
 確かに考えられないことじゃなかった。
 そこも、江戸の感覚で考えておかないといけなかったかっ。

「四人で入るっての、あの二人楽しみにしてる感じだった?」

「それはもう。かくいう私も、温泉というものに興味はあります。楽しみです」

「そう……」

 まあ。
 覚悟、決めるか。
 どうせあんなホワイトアウトな山の中で混浴なんて、湯煙と吹雪で苦笑しか出てこないことになるのが目に見えてる。
 巴には悪いけどね。
 元々湯を街に持っていく為に掘ったものだから、場所が通称魔の山なのは仕方ない。
 まさかあいつもあの場所を一大リゾート温泉街として開発する気はないだろう。
 密着とかなければ、まあ乗り切れる。
 家族で温泉入ったのと同じようなもんだ。
 それにしても……予め男湯と女湯を分けるように言っておくんだった。
 失敗したな。

「なにやら、鱗、毛、水棲、大型、と各種族に合った沢山の屋外風呂を作るのだと実に楽しげでしたなあ、巴殿は」

「え……」

 なぜそれで男と女を分けない!
 どうしてそこが混浴になるんだよ!
 言葉には出さなかったものの、覚悟は決めたものの。
 理不尽を感じた。
 何となく鱗の湯って言葉が頭に浮かんだ。
 理不尽だ。





◇◆◇◆◇◆◇◆





「レヴィ、悪かった」

「わかればいいのよ、わかれば」 

 ケリュネオンの難所、強力な魔物が多く生息する魔の山。
 もうすぐ魔の山ではなく温泉山と呼ばれる事になるのだがその未来はともかく。
 先日真とともにこの山を訪れ、だが魔物と遭う前に亜空に戻ったスキュラのレヴィが身の丈よりもずっと大きな岩を担ぎながら、彼女の隣でふらふらしているローレライの青年と話していた。
 彼は工事用の道具を魔術で浮かせ運搬している最中だ。
 二人とも、温泉を作る工事に参加しているのだ。
 だが二人は今、他のメンバーとは少し離れた場所にいた。

「セル鯨殿も、若様も、よくこのような山の中を歩きまわれたものだ」

「あの二人はどうかしてるのよ。とんでもなく寒いのもあるけど、ここ距離感どころか平衡感覚まで無くなってくるでしょ?」

「ああ、自分がどこにいるのかすらさっぱりわからなくなる。恐ろしい所だな」

「私は確かに寒さをなめてたから、巴様からお話をもらった時にこの際克服するつもりで志願したけど、流石にまだ巴様の結界から出る気にはならないもの。あのお二人、若様とセル鯨さんは世間話をしながら、ここを真っ直ぐ温泉が出るらしい場所まで歩いていったのよ!?」

「うむー。レヴィが寒さに負けて逃げ帰ってきたと聞いた時は、良いからかいのネタが出来たと思ったが……これは参った。伸ばした自分の手すらおぼろげにしか見えなかった。とても動けぬことを笑えるものじゃない。むしろ高確率で死ぬな」

 レヴィは自分がギブアップした山の環境が如何に苛酷だったかを、自分を笑ったローレライの青年に教えてやるために皆と少しだけ離れた。
 そしてわずかに結界の範囲から出てみた男が、数分でレヴィに謝ったところだった。
 実際、ケリュネオンから冬以外の季節で三日ほどの距離にあるこの山は、とても冬期に人が足を踏み入れるような環境ではない。
 強力な魔物、絶えず荒れ狂う吹雪、その雪は狂ったように様々な方向に飛び交い、下に積もった雪までもが強風で巻き上げられ視界など無いに等しい。
 当然耳に届くのは風の轟音だけ、上に向かえば向かうほど気温も下がり、やがて土は氷に代わり、昼であってさえ光が遮られていく。
 戦うどころか留まることさえ出来ない山である。
 世間話をしたり、ついついドリルになって地中を突き進むアトラクションなどやっている場合では決してない。
 現状、この工事の頭である巴が温泉の出た場所一帯に結界を張っているからこそ作業が可能になっている。
 そんな状況だった。
 結界内は雪が入り込まず、強風もほとんどが遮断される。
 気温は零度くらいだが、外と比較すれば大分高く保たれていて、作業をする上で亜空の住人にとって支障がない状態になっていた。
 今レヴィと青年が話をしながらこの場にいられるのも単に巴の結界のおかげである。
 ともあれ用事を終えた二人は急ぎ足で皆が集まる作業場に合流し、担当ごとに分けられたそれぞれの班で次の仕事に取り掛かっていった。

「取りかかりは順調じゃな、澪も張り切ってくれておるから捗る捗る」

「岩風呂に檜風呂、打たせ湯に足湯に流水風呂? それにこれは……また随分と沢山の種類を製作するのですな巴様」

「うむ、頼むぞ。若の国では入浴もレジャーの一つのようでな。参考にした若の国の入浴施設はそのように様々なスタイルの風呂があった。時に温泉は旅行の目的にもなり得るものであったようでな。手が抜けぬのじゃ。造作をかけるが、折角じゃから若にも満足してもらいたいでな。頼むぞ」

 いわゆるスーパー銭湯の派生である、温泉レジャー施設だった。
 真が聞けば、どこにいった江戸時代と言いたくなったことだろう。
 伝統的な銭湯デザインも再現する予定になっているから、巴に言わせれば大は小を兼ねる、なのかもしれない。
 足湯に打たせ湯、サウナまで備えられる予定になっていた。

「確かに。なに、我らもやり甲斐があります。お任せを、と言わせて頂きましょう。それにケリュネオンの街まで湯を引く計画も面白い。ん、申し訳ありません、失礼します。どうした?」

 近付いてきた若い職人の存在に気付いた親方ドワーフが、一言断りを入れて巴との話を中断した。

「親方、巴様から頂いたこの湯の成分なんですが、少し問題があるようで」

「何だ?」

「一時的に湯だまりになっている場所で沈殿物が見つかりました。確かめたところ、湯の中に含まれる不溶性の物質が外に出てきたことで固まって沈殿したんじゃないかって話で」

「……考えてた普通の保温用配管じゃ、なんぞ詰まるかもしれねえってことだな?」

「はい」

「……ふむ。大工経験が多い奴はそのまま、それ以外の奴で一つチームを作って調査しろ。空気に触れねえように地中を通す配管なら問題ないかもしれんが、確かめるに越したことはねえ。詰まるなら菅の材質や永続付与魔術で対策できねえか試行させろ。それから他の種族のメンバーにもお願いして意見を聞いてみろ。俺らじゃわからんことも教えてくれるかもしれん」

「はい!」

 巴と話していたドワーフが、部下の問題点報告に対策を講じる。
 見ていた巴は満足そうに頷く。
 力仕事は澪を筆頭に、既に敷地の確保と整地を進めている。
 肝心の湯の方も入浴に問題なく、彼女が知る温泉そのもののようだった。
 職人であるドワーフも良く動いていて、温泉計画は順調に進んでいる。
 巴も満面の笑顔で作業を監督していた。
 しかし、不意に巴の目が冷たく、そして鋭くなった。
 ほんの一瞬の事だ。

「では、済まぬがしばらく任せるぞ。夕刻には戻るゆえ、わかることから手をつけてゆくように。結界に問題が生じるようなら澪に頼むとよい」

「……わかりました。いってらっしゃいませ!」

「うむ」

 霧の門に消える巴。
 行き先には、先ほどの冷たい目が関わっていた。
 温泉という楽しみが実現に向けて動く一方で、彼女はやっておくべきことを片付けるつもりでいる。

「……」

 そこは、静かな湖だった。
 巴も、そして彼女の主も訪れた事がある森の中にある湖。
 名はメイリス湖。
 楽しげな様子など一切感じさせない巴が腰の刀を抜き、一閃させた。
 実に不思議な光景が現れた。
 巴の刀が走った軌跡から見るとメイリス湖の中央に島が見え、そしてそれ以外のどこから見ても湖に島など見えない。
 再び巴の刀が振るわれる。
 うっすら輝く軌跡は裂け目のように広がり、巴はその中に入っていく。
 彼女が中に消えてしばらく。
 裂け目はなくなり、メイリス湖に静寂が戻った。

「流石に自らの領域に侵入されれば警戒はする、か。もっとも、ソフィアとランサー如きにも効果を為さなかったものが儂に通ずることなど有り得んがな。さて……」

 周囲を見渡した巴はそう呟くと、大きく息を吸った。

「リュカーー!! 出て参れー!!」

 刀を納め、大声でこの空間の主を呼んだ巴。

「む……眷属か。余計な手間は省きたいから、わざわざ大声を出してやったんじゃがなあ」

 水辺から現れた気配に巴が目を向けると、そこには真と響をこの世界に案内したゲル状の魔物がいた。

「リュカを連れて参れ。上位竜同士の用件ゆえ、眷属の出る幕ではない」

「……」

 不規則に震えるゲル。
 しかし、リュカを呼んでくる気配は見られない。

「やれやれ。面倒だが……仕方あるまいな」

 巴の嘆息。
 刀の柄に手が置かれ、わずかに彼女の目が細まった。

「何用ですか、蜃、いえ巴」

「止めに出てくるなら、最初から下らん様子見などするな。面倒臭い」

 ふわふわと宙に浮きながら、湖面を進んでくる小さな竜。
 転生したてのリュカだった。
 翼を活用している様子はなく、魔術で飛んでいる。
 巴はリュカを視界に入れると、刀には手を掛けたまま、すぐに出てこなかったリュカに文句を言った。

「無礼な訪問の用件は何か、と私は聞いたのですが?」

「相変わらず、生真面目じゃのう」

「貴女は、随分と変わったようですね。怠惰と気紛れ、惰眠の象徴だった霧の竜とはとても思えません」

「色々あってのう」

「それは興味深いですね」

「……」

「……」

 巴とリュカの間に不穏な空気が流れる。

「さて、用件じゃったな。リュカ、どういう理由かは知らぬがお前、前の記憶を持っておるな?」

「……何を根拠に言っているのか知りませんが、それが出来るのは我ら上位竜でもグラントだけですよ、巴」

「うむ。じゃからルトと儂も安心しておった。ソフィアなんぞにやられおったお前達じゃが、まあ何事もなく転生して新たに生きておればそれでよいとな。気にも留めておらなんだよ」

「ならば問題ないでしょう。眷属の者達から聞かされましたが、あの者に敗れたことは確かに不覚。謗りも甘んじて受けましょう」

「……じゃがのうリュカ。夜纏、ドマの奴の卵から記憶を読んでみたら、しっかりソフィアに殺された記憶を残しておってのう」

「っ。かつてない事態ですね。そのような能力のない彼が前の記憶を残して転生するなど」

「紅璃、アズマも生まれたばかりじゃったが確かめたところ記憶を保っておった。ならばお前だけがいつも通りの転生をしたと考えるのは不自然じゃな、リュカ?」

「巴、いい加減になさい。例え前の記憶を持っていたとしても、それが貴女の来訪にどう影響するというのですか」

「そうでなくば……お前の若への警戒が説明できんのじゃよ。今儂に記憶を見せまいと防いでおる理由もな」

「ライドウへの警戒? 一体何を」

「若の記憶の中で、お前は若を明らかに過剰に警戒しておった。わからんか? それが、“儂がアズマとドマの記憶を調べる切っ掛け”なんじゃよ。全てはお前の態度から生まれた疑問じゃ」

 巴は静かに言葉を続ける。
 リュカは巴が口にした、若の記憶の中で、という言葉に明らかに驚きを示した。
 しかしすぐに驚きは消え、表情に自信が戻る。

「ふふっ、若の記憶? ライドウに支配される身である貴女が、主である彼の記憶など見られる訳がないでしょう。はったりをかけるのは止めてください」

「……儂らの関係は少々特殊でな? 若は儂に記憶を惜しげもなく晒して下さるでな。まあ、ここまで話をしている時点で最早確認の意味もない、か」

 僅かに二人の間に流れる空気が変わる。
 巴が、変えた。

「記憶を、他者に惜しげもなく見せる? そんな馬鹿な者がいるわけがありません。それにライドウは他人に記憶を覗かれることを良しとするような精神を有してはいません」

「ふっ、お前に若の何がわかるか。あの二人を見て、それでも響に期待するような者にわかろうはずがないわ」

「……まさか、本当に従者に記憶を見せる主人など、そんな馬鹿げた存在が」

「誤算じゃったなあ。裏で動くつもりが、あっさりと露見してしまった。リュカ、もうわかろうな? 儂の目的はお前の命、じゃよ」

「上位竜同士が殺しあう? ライドウにそこまで狂わされましたか巴」

 リュカの言葉に巴は喉元で笑った。

「かもしれんのう。あの方は実に麻薬じみた魅力をお持ちじゃ」

「どう考えても、その言葉が示すのは勇者のいずれかであると思いますが?」

「誰の目にも良いもの、大勢から賞賛を受けるものというのはその実誰一人熱狂させることが出来ぬ、という考え方もある。より最大公約数を求めた結果は無難なものにまとまることもある、その反例としての考え方かもしれんがな。うちの若は万人受けはせんが、ほんの一部の者を熱狂させる、そういう方なんじゃよ」

「私にはその魅力がまるでわかりませんでしたね」

「じゃろうな。だから響と組んだ。そうじゃろ? 若を秘蔵の書庫に入れ、いかがわしい召還儀式など紹介したのもお前が若を警戒し、恐れるがゆえ。さっさとこの世界から若を消したかった」

「召還儀式は、彼の望むものかとも思ったのですがね……」

「否定はせん。じゃがあの儀式、随分と癖がある様子。分析は済んでおらんがまともな儀式ではなかろう」

「私も詳細は知りません。ただ、代償を払えば確実に召喚された者を元の世界に帰す儀式として収録されたものに間違いありません」

「……ふん。まあ、それはお前に聞けずともよいわ。転生したばかりのお前らには悪いが……もう一度転生してもらうぞ。この上裏でこそこそする輩が増えては目障りで仕方ない」

「私の領域に単身やってきてその言葉を吐くというのは、少々真意を疑いますね巴。私も貴女も、己の領域ではおよそ敗北はありえ……ら? お前ら、ですって? まさか貴女」

「アズマは儂、ドマはルトじゃがな。とりあえず、記憶は引き継がれておらん。死に方がイレギュラーじゃったから、と儂らはみておる」

「……ライドウが女神以上にこの世界にとって危険だと、こんな簡単なことさえわかりませんか、ルトも、貴女も」

 巴は無言で太刀を抜き放った。
 一気に空気が張り詰める。

「私の領域で亜空は展開させませんよ。ソフィアの時の不覚は繰り返しません」

「哀れじゃなあ。亜空など、元々使う気はないわ。残念じゃが、儂と今のお前では勝負も成立せん」

 巴が魔力を纏うリュカとは異なる方向に刀を振るった。
 クリオネが獲物を捕食する瞬間に酷似した、巴に攻撃を仕掛けたゲルが真っ二つになる。
 音もなく、素早いモーションの変化だったにも関わらず、巴はリュカへの視線を逸らすことなく斬って捨てた。
 以前、力任せに刀を扱っていた姿は、もう今の巴にはあてはまっていなかった。
 開戦だ。

「この!」

 リュカの声に反応して湖から輝く水柱が無数に立ち上る。
 己の構成する空間で、しかも得意な属性の術ともなればリュカの放つ術に詠唱など不要だった。
 渦巻く多数の水柱が自在にうねって多彩な軌道を描き、巴に襲い掛かっていく。
 しかし巴はその状況を見つめながら微塵も焦った様子はなく、何を考えたのか刀を鞘に納めた。

「耐性があるから耐えられるとでも!?」

「……」

 動くことすらなく、巴は次々に貫かれていく。
 宙に持ち上げられた彼女はそこでも荒れ狂う水に襲われていた。

「っ!?」

 見ていたリュカが息を呑む。
 無理もない。
 いきなり何もかもが消え去った。
 リュカが湖の水で大技を放つその前まで、時間が巻き戻ったように。
 唯一つだけ、巴の姿はあるべき場所になく、一瞬でそれに気付いたリュカが彼女の姿を追う。

「遅いのう」

「ば、かなっ」

 上空からした声にリュカは思わず呻いた。
 しかし、適切な対処ができない。
 巴は既に腰の刀に手を掛けたあとだった。

「――っ」

 目に終えぬ高速の斬撃。
 巴が励んでいる居合いの太刀だった。
 やや高く浮いた自分を上から下に通り過ぎていく巴の姿は、リュカにはいやにゆっくりと感じられた。
 そしてまた、リュカは巴を見失う。
 何をされたのかいま一つわからぬ混乱の中、全方位に攻撃を仕掛け、巴を退かせようと試みるリュカ。
 互いに能力は知っているはずの相手との戦いだというのに、巴の手が全くわからず彼女は焦っている。

「アズマもそうじゃったが、やはり弱い」

「蜃、そこにっ!?」

 リュカはつい、かつての名で巴を呼び、次いで己の身に起きたことを知った。
 視界がゆっくりと変わっていく。
 原因が、首をはねられたからだと気付いた時にはもちろん手遅れで。
 リュカの頭が静かに湖に落ちていった。

「もう終わりかの」

「……まさか」

 リュカの頭が言葉を紡ぐ。
 一瞬で湖面が凍りつき、少し遅れてふわりと湖面に降りた胴体が氷の上に転がった頭を手にした。

「まるでアンデッドじゃな」

 巴は驚きもせず、頭を元の位置に戻して繋げるリュカを見て苦笑した。

「この場で戦う以上、この程度の状況は読んでいたでしょうに」

「無論じゃ。お前は儂の手の内がまるで読めんようじゃがな」

「……確かに。戦士として戦うかと思えば術を用い。そして防ぐでも食らうでもないあのやりよう……幻術ですか」

「その通り」

「幻術とわかれば、対処など容易い。幻とわかる幻に意味などありませんよ?」

「さて、どうかのう」

 巴の腰が落ち、突然その場で居合いを放った。
 遠目でも抜き手が辛うじて追えるだけの凄まじい速さに、リュカが表情を硬くする。

「何のまねです?」

「すぐにわかる」

「……ふゆかっ、あ?」

 肩口に鋭い熱さを覚えたリュカ。
 視界が真っ赤に染まる。
 斬られた。
 彼女がその事実に気付くまでに数秒を要した。

「儂の手下に持たせた刀にマーキングという能力があってな。条件を満たした相手なら距離も射程も無視して自在に斬れる。……もっとも、魔力の消費もばかにならんが、それでも刀一本でやっていくつもりなら有用でな。面白そうじゃったから儂のにも付与させた」

「まるで曲芸ですね」

 リュカの傷が瞬く間に癒えていく。
 首をはねられても、あからさまな重傷を負わされてもそのダメージに動じていない。
 叫び声すらない状況は異常だった。

「治癒の術、回復に掛けては上位竜でも並ぶものがいない、か。名も腕も錆び付いてはおらんか」

「こんな攻撃で、私を殺せると?」

「ほんの試し斬りと、儂の修行の成果を確かめたかっただけじゃよ。もう、終いにしよう」

 言うが早いか、巴の姿が合わせ鏡のように増えていく。
 そして横一列に並んだ全ての巴が静かに詠唱を始めた。

「また幻術ですか! 何をする気かは知りませんが、やらせません!」

 増えた巴を次々に魔術で消していくリュカ。
 しかし、消す端から更に巴の姿は増えていき、まるで状況に変化がない。

「ここまで大規模の幻術など、どうしてここで! ……まさか、気付かぬうちに亜空に引き込まれているとでも……」

「そのような姑息な真似はせん」

「そこですか!」

 巴の声がした方向に向け、即座に高めた力を乗せて全力のブレスをみまうリュカ。
 真がみたルトのそれと比べると微々たる威力だが、小さな体から撃たれたものとしては相当な威力のブレスだった。
 リュカのブレスは巴を捉えたように見え、しかし急速に薄れて消え去った。
 当然巴は無事だ。

「一体、貴女はなにを仕掛けているのですか……」

「恐らくは覚えていることもかなわぬじゃろうが……有幻無実うげんむじつ。それがお前を殺したわざじゃよ」

「殺した? なにを」

「これで気付けるか」

 巴がリュカに腕を向けると、風が吹いた。
 何の魔力も込めない、正真正銘ただの風だった。

「風? これで何が――!?」

「……」

「体が、霧に!?」

夢幻ゆめまぼろしうつつとは、果たしてどこにその境界線があるんじゃろうなあ」

 独り言のように呟く巴。
 風に流されるように、リュカの体が薄れ手足、翼からなくなっていっている。
 リュカがそう感じたように、風に押し流される霧、それに映った幻を見ているような奇妙な光景だった。

「幻術などで!」

 即座に今起こっている事を幻と断じたリュカ。
 打ち払おうと術を展開するも、状況は何も変わらなかった。

「無駄じゃ。己自身が一瞬でもそう疑ってしまった以上、お前のその身はまことの幻と成り果てた。最早消えていくのみ、じゃよ」

「他者を幻に変える術など、そんなものが、そんな力が」

「ならば、攻撃を幻にするのは認めるのか? まあ、好きに解釈せい。頭だけになっても恐怖を浮かべんのは立派じゃったぞ」

「待ちなさい、どこに行くのですか!」

「終わったでな、温泉が待っとる。それに、夕食に遅れても若にいらぬ心配をさせる。お前や他の上位竜などのことで、あの方の心を乱しとうない」

「蜃、巴! ま、て……」

「ではまたな、リュカ」

 リュカの姿が掻き消えた。
 そして、その場にはもう何一つ動くものはなかった。
 それなりの数がいたはずのリュカの眷属も、誰も息をしていない。
 巴は振り向きもせず、メイリス湖を後にした。
 ケリュネオンに戻り、存分に温泉への情熱を燃やした巴は、いつものように皆と夕食をとり、何事も無く一日を過ごした。
 リュカを殺したことなどおくびにもださなかった。
 ソフィアの残した思わぬ置き土産は新たな火種になることもなく、真の知らぬ内に静かに一件落着となった。
 一巻の時から沢山本を置いて頂いている地元の本屋さんあてになんですが、生まれて初めてサインというものを書きました。
 小説を書くよりも一枚の色紙にサインを一つ書く方が精神的にきついですね。どんなサインを書けばいいのかと悩んだ記憶は、もう思い出したくありません、はい。

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