文人商売

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就活をあきらめた僕が冬の江ノ島で考えたこと

  とある神奈川県の僻地に住んでいて、都心までは遠かった。小田急線で一時間上っていくことになる。だるいと思いながら説明会とかに行っていた。大学院に進学するつもりだったが、就活をするべき理由はいくつかあった。

 

・  社会で働いている人と会って話す経験は大事だと思うよ!社会人のフォーマットに従ってしっかりしゃべれる技術を就活で身につけておいたほうがいいよ!

・  いろんな企業を見れていい社会見学になるよ!会社で働いている人が仕事のこととかペラペラと語ってくれるのは就活のときくらいだよ!どうせ自分から勉強なんてしないんだから、これを機にいろいろと見ておきたいよ!

・  立派な企業に内定もらったらかっこいいよ!後輩の女の子が「え〜しっきーさん◯◯の内定もらったんですか!私就活よくわからないんで、相談に乗ってもらってもいいですか〜?」とか言ってくるから、就活とは何か、社会に出て働くとはどういうことかを熱く語りたいよ!

・  日本の就活はいびつな部分も多いんだけど、だからこそ、通過儀礼としてひととおり体験しておきたいよ!世代意識ということもあるし、おじさんになって自分の就活を振り返ったとき、「就活とかまったくやってなかったわ〜」というのはちょっと寂しいような気がするよ!

・  ずっと僻地のキャンパスにいたから、他の大学生がどんな感じなのかとか、よくわからないよ!色んな大学の奴としゃべってみるのも悪くないことだと思うし、友達もできるかもしれないよ!彼女ができる確率だって0じゃないよ!

・  リクラブという言葉もあるよ!社会人になってから合コンに来るような女と付き合うのは嫌だよ!一緒に選考受けた女の子と仲良くなって、一緒に選考が進んだことを喜びあったり、お祈りされた傷を慰め合ったりしたいよ!

・  単純に、院卒で就活する場合の練習になるよ!

 

 やるべき理由はいくつもあったのだが、いつの間にか、上るはずの電車を下って、反対方向の江ノ島まで来ることが多くなった。

 

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 冬の江ノ島に何か面白いものがあるわけでもないし、独特の風情があるわけでもない。冷たい空気にどうしようもなく潮の匂いが混じっている。売店や茶店のいくつかも一応やってはいたのだが、やっているという以上の意味はなかった。周りにいる人達を見ていても、ぱっとしないカップルや高齢者が多かった。

 それでも江ノ島に足が向かってしまうのは、どこか割り切れない気持ちとシナジーを持っているからなのだろうか。何をするわけでもなく、考えごとをしながら歩いていた。散歩をするにはなかなかよかった。

 

 

 自分からやめると決めたはずなのに、ずっと鬱々としていた。気持ちを切り替えて春休みを満喫するという気分にはなれなかった。ツイッターのタイムラインに流れる、就活に関するつぶやきが心にのしかかった。まとめサイトのリンクに貼られた就活関連の項目をついつい追ってしまっていた。

 エントリーシートを出した企業も、結局テストを受けにかなかったし、非通知でかかってくる電話に出なかった。日を跨いで何度か着信があった後、来なくなった。

 同世代が苦労しているという事実から、何をしていても無関係でいられないような気がした。チャンスが一回きりであるという観念は、その内実が自分にとって必要ないものだとわかっていても、気が重くなる。

 

 

 ネットを徘徊するクズにありがちなことだが、僕はよくフェイスブックやサークルのホームページなんかのアルバムをよく見る。自分と関わりのない人の写真をたくさん見た。デスクトップとブラウザを通した一方的な視点は、現実と積極的な関わりを持たない人間が手軽に享受できる一つの権力なのかもしれないが、明確な理由は自分でもよくわからなかった。ただそれを見ることができる、ということに過ぎないのかもしれない。基本的に暇人なのだ。リア充の写真を見て恨みのエネルギーを蓄えたり、可愛い女の子の写真を見て死にたくなったりしていた。

 

 写真映りの悪い女の子が好きだった。カメラと、自分という被写体との適切な距離を捉えあぐねているような女の子。美人とかブスだということではなく、カメラによって自分の一部を切り取られるという考え方に、うまく馴染めない人はいる。もっとも異性からよく見られるであろう表情を作れない、または作ろうとしない子。そういう「感じ」は、僕くらいになると写真を見ていてわかった。どこかで、もっと別の、誠実なあり方を探ろうとしているような人。そういう人が、好きだった。(僕は変態なのだろうか?)

 

 反対に、カメラとうまく馴染んでいる人もいる。男女問わず、光と、角度と、化粧と、加工技術と、特定の切り取り方によって、多くの人間の羨望を集めるような画像ができあがる。ある種の欺瞞のようなもの。そしてそれこそが、確実なデータとして、風化することなく残り続けていくかもしれない。後から振り返ったときに、そういうものこそが事実となってしまうのではないかという捉えどころのない恐怖だった。意味もなく、またわけもわからず、暗澹たる気分になることがある。誠実であるはずのものが真実から切り離されていくという予感……。

 

 もちろん、それは全くたいしたことでも、悪いことでもなく、当然そうするべき行為だということはわかっている。おおらかな心で見れば、それは人間全体の幸福の総量を増やすことにも作用しているだろう。ちょっと自分を良く見せたいのは写真に限らずだれだってそうだ。

 だが、どこかやりきれなく自分が思っていることも否定できない。そしてそれは、公正を盾にして、同質な人間が手に入れる優位を憎むという、島国根性から来ていること。そういう傾向を自分自身が避けがたく持っているということを、認めるべきだった。要するに、自分がしようもない人間だということにすぎない。

 

 しようもない人間故に、国とか、所属に何かしらのプライドを求めてしまう。そこに誠実で公平なものがあると思ってしまう。その自分自身のありようを、まず僕は認めるべきだった。

 それは、自己分析とかではなく、常に拭いがたい不安として僕の目の前にあった。誰でも、壮大なものと矮小なものの間で生きている。結局自分には何も変えることができないのではないだろうかという絶え間ない不安と、身の回りにあるちっぽけなものを大切にしていく他ないという心地良いあきらめがあった。

 

 日本型の雇用が特別に悪いとは思わない。他の雇用形態と比べて一長一短があるだけのことだ。一つの共同体として、教育するとか支援するとか、データにあらわれない気持ちを汲んであげるとか、そういう部分は絶対に必要だろう。(もちろん、男女平等とか非正規雇用とか新卒一括採用とか、見なおす必要のある部分は多いが、土台から変えてしまおうとするのは間違っていると思う)

 ただ、決定的な不安もある。そこには、たとえばアメリカ型雇用のような理念、核のようなものが、蓋を開けてみれば何もないという不安……。結局は何も考えていないのではないだろうかという不安だった。それは現在の新卒採用の状況を見ていればわかる。

 本来諦めを伴ったものなのに、希望を語らせるということ。契約という概念もないのに、実践的な能力をはじめから要求していること。職を持てるかどうかという致命的な権限を握りながら、茶番じみたことを進んでやらせるということ。

 間違っていると思う人は多いだろうが、例えば僕が企業の人事になったからといってそれを変えられるとは思えない。企業側もいろいろ大変なんだと思う。リクルートなどの就職情報会社に対して腹立たしく思う気持ちもあるが、一部のクズがそういう風潮をつくりだしたわけでもなく、結局はみんなそれに迎合してしまったのだ。

 

 

 捏造して乗り切るつもりでいた。自己分析も、自己PRも、すべて嘘で乗り切ろうと思っていた。仮に自分という人間を見せて、それで選考に落とされたらたまったもんじゃない。

 現在の就活の一番の問題は、ふるい分けることを前提とした選考プロセスにおいて、自分というものを語らせることだ。それは必ず誰かの人格を否定することになる。そして、そういったことを時間が経っても笑って済ますことができない人だっている。そういうものと無頓着でいられない時代の空気がある。それは年代が上の人からすればよく理解できない感覚かもしれない。ただ、職があるかどうかという僕たちにとって致命的な部分を握っているのもそういう人達なのだ。

 

 

 だから、堂々と嘘を言うことに関しては何の躊躇いもなかった。「あなたの長所はなんですか?」なんて聞いてくる奴に敬意を払う必要はな。

 1を10にするのは簡単だが、0を10にするのは難しい。ちゃんとした下調べと作り込みが必要になる。だが要は質問にたいしてすらすらと矛盾なく喋れればいいだけなので、ウェブや自分の体験を参考にしながら、質問に対する解答例をつくって細かく掘り下げていけばいい。(面接官はプロなので嘘をついても見ぬくとか言う奴もいるが、そんなわけないw)

 僕はバスケットボールサークルとボードゲームサークルに所属していて、バイトは居酒屋と塾講師とベンチャー企業のインターンをやったことにした。(全部うそ)

 自己分析なんていう考えを無視してしまえば、捏造エピソードを考えるのはむしろ楽しくさえある。自分で出演する演劇の脚本を自分で書いているようなものだ。僕が最も力を入れたのは、カードゲームの大会でいくつか賞をとったというエピソードだった。

 マジック・ザ・ギャザリング、デュエル・マスターズ、遊戯王などのカードゲームが好きで、色んな大会に出て、世界大会のためにアメリカまで遠征しに行って、成績のほうもそれなりにいいところまで行っている。カードゲームは新しいカードが出るたびに環境が変化していくので、自分の手持ちのカードと、置かれた環境との兼ね合いから、常に最適な戦略を考えだした。特にマジック・ザ・ギャザリングなんかは世界で普及しているので、外国人のプロが書いているブログなんかを読んで勉強し、カードに関してならドイツ語とフランス語でも読めるようになった。地方のおもちゃ屋さんでやるような大会も好きで、大人から子供まで大勢の人と仲良くなった。カードを通して色んな職業や価値観の人と知り合うことができた。……みたいな感じで自己PRを構成していった。

 もちろんカードや大会の情報も人に語れるくらいには調べたし、カードでしかコニュニケーションをとれないおじさんとの話、カードが趣味の実業家と仲良くなって勉強になったという話、いじめられっ子の少年と知り合って色々あった話など、文章に起こして詳細まで作りあげた。特に少年との心あたたまるエピソードは、書いているうちに本当にあったことのような気がして自分でもちょっと感動してしまうくらいだった。

 

 ……といったバカなことを真面目にやっていたのだが、実際に真面目にやらざるを得ないという現状が多くの人にある。そして、僕が就活を諦めた理由も、やはり捏造というところにある。実際に企業と方とお話させていただいたら、あんまり悪い気がしなかったというのが一つ。そしてなんといっても、オリンピックでの浅田真央の演技だ。もう感動して泣いてしまった!(歳をとると涙腺が緩くなるというのは多分本当)あんな演技を見せられた後に、人を見下しながら捏造エピソードを語ることはできない。そもそも内定しても断るつもりだったし、そんな歪んだことにリソースを割きたくなかった。

 

 日本型の雇用形態での採用において、人間を見る、という考え方は正しい。話し方や雰囲気とか、こいつと一緒に働きたいか、というファクターが重要になってくるのは当たり前だろう。だが、その方法として人間を語らせるというのは間違っている。

 考え方のプロセスとか、問題発見能力を見たいなら、(人柄を見る場合にでも)パーソナリティーと切り離した部分だけを聞くべきだと思う。業界のこととか、企業が置かれた情報とか、それこそこの先僕たちはどうしていくべきだとか、そういうことを語らせればいい。もちろん、対策されて画一的な答えになるのは決まっているが、少なくともお互いに配慮は示せるんじゃないかと思う。

 ネットを徘徊しているとよく見る「ライフネット生命」という会社は、新卒採用向けの課題として1万字くらいのレポートを提出させるらしい。「1万字書くくらいなら真面目に自己分析するわ!」という人も多いだろうが、個人的にはレポートのほうがありがたいと思う。それが志望度を図る指標にもなるわけだし。大企業じゃなくてベンチャー企業の側がそういう配慮をしているというのは皮肉なものだと思う。

 

 あと、適性検査なんて本当に酷い!! 選択式の心理テストみたいなやつだ。

 学科試験は、(電卓を打つだけの簡単なお仕事をやらせといて何がわかるんだ?という疑問は置いておいて)まだ理解できる。ただ適性検査に関して言えば、その意図を考えると本当に腹立たしい限りだ。

 僕はある企業にエントリーシートを出して、それが通過した後に適性検査というものをやらされた。それが物凄く長くて一時間以上あり、大部分がその適性検査というやつだった。

 適性検査は、まず始めに「良く見せようとする解答はわかるので自分に正直に答えてくださいね」みたいな但し書きがあって。そこから色々と、なんとも言いがたい質問が聞かれる。解答は「強くそう思う」「そう思う」「そう思わない」「強くそう思わない」みたいな4択だった。普通、世の中にあることってもっと多義的だし、大体の問題はその4択の間を行ったり来たりするもんじゃないのだろうか?それをあえて、一つに選ばせるというのが検査の趣旨なのだろいう。

 やっていくうちに、自分がさっき答えた問題と明らかに矛盾するような問題が出てきたりと、わざとそういう仕組みになっているのだろうが、なんか酷いと思った。なんか対策の仕方があるのかもしれないが、もう間に合わないので僕は真面目に答えていた。そして、すごく長いし、途中から激おこ状態になって全部左の選択肢にした。それくらいムカついてしまったのだ。その企業からはお祈りメールが来たので、ちゃんと適性検査は見られていたことになると思う。

 人間の適性をデータの裏付けとして提示できるレベルで図るテストなんて、どういう理論にも基づいているか検討もつかないし、たぶん統計的な手法を使っているのだろう。試験がそれ自体独立しているわけじゃなくて、他の大勢に受験者の解答との兼ね合いと、検査後にも続ける観察から結果の裏付けを作るのだ。

 就活の少し前にリクルートの人がキャンパスに来たことがある。就活に向けてのデモンストレートみたいな感じで、一回だけ顔を出して見た。なんというか、嫌な人間だなあ、と思った記憶があるのだが、彼はSPIの性格検査の試験について説明していて、そのそこで出た適性の結果は企業に入った後も使われるんだよ! みたいなことを強調していた。

 統計というのは人間の作為の介在しない複雑な現象を分析するので、つまり、よくわからない部分を散りばめたテストの結果と、その入社後の社員の結果との相関を図りながら、データを集めていこうという話なのだろう。

(つまり、テストを受けて入ってきた社員の業績を見て、性格診断で〇〇という結果が出た社員は実績を上げる傾向にあるから、これからは〇〇という結果が出た社員を優先的に採用することにしよう!仕組みとかはよくわかんないけど、データで出てるんだから間違いないでしょ♪みたいな感じ)

 たぶん、今はまだそれほどしっかりとしたデータが集まりきっていない状況なのだろう。そのリクルート社員は、「だんだん結果は出ています」みたいなことを話していた気がする。就職アドバイザーとして学生の前に立っていたのだが、まったく同じ口調で企業に営業をかけている場面が想像できた。

 適性テストみたいなものを開発して、ビックデータとしてその人の適性を定めようとする。データはまだそれほどなく、成功するのかどうかはわからないという段階だろうし、実験中なんだと思う。

 別に統計的手法自体が必ずしも悪いとは思わない。アンケートに答えるだけで自分の適性にあった配属先や企業がわかるなら、就活生と企業のお互いにとってメリットがあるという考え方はおかしくない。

 ただ、そういうのって双方の同意があって成り立つもんなんじゃないの? 企業は一方的な権力を持った立場で、目的なんて一切説明せずに、ただ「適性検査を受けてくださいね」とだけ言って、学生に実験を強要していることになる。それは、単純に失礼というか、常識はずれにも程があると思う。

 

 ちなみに僕が適性検査を受けた企業は、データを見てもやっていることを客観的に見ても、けっこう良い企業だったのだ。従業員の補助や社会貢献とかも形だけじゃなくてちゃんとしている感じだった。そういう企業でも何の躊躇いもなく適性検査なんかを使ってしまうのだ。

 就職採用会社の営業に負けてしまったのかもしれないし、そんなもの馬鹿らしいと思っていてもデータの裏付けとして一応は持っておきたいとか、参考にはしないけど学歴で足切りする口実が欲しいとか、適性検査ってすげえ!と本気で思っているのかはわからない。でも結局、よく考えていないんじゃないかと思ってしまう。

 

 頭が悪い、と組織に対して言うのはフェアではない。いくつかの説明会に出て、企業の人とも話したが、基本的に大企業の社員は優秀だと感じた。(そういう人だから学生の目に触れる場所に出るのかもしれないが)やっぱり、なんだかんだいって成果を上げている企業にはそれなりの人物がいるのだと、(普通に考えれば当たり前のことなのだが)感心することもあった。ただ、同時に、その場所と空気に触れた皮膚感覚として、「駄目かもしれない」という思いも漠然と感じていた。

 未来予測なんてできないが、現状のシステムがこのまま続いていくとは思えない。就活就活という事実と直に触れてみると、世代間の格差というものは確実に存在する気がしてくる。選考世代のつけが、構造的な部分もそうだが、何より、重々しい歪んだ空気として拭い難く自分に迫ってくる感覚。その重圧は、就活からきっぱり手を切ってしまった今も、すっきりと消えてくれない。

 

 問題は、僕自信が、おそらくは古い時代の価値観を、ある程度は内面化してしまっているということにつきるのかもしれない。

 

 なんだかんだ言って、謙虚は美徳だと思っている。能力があってもそれをひけらかさず、自分ではなく誰かのために使う人を尊敬している。慣れ合いは気に入らないが、近くにいる人の気持ちを汲んであげれるとか、そういうことの延長で僕たちはずっとやってきたのだという気もしている。

 日本型企業がそういった部分を求めているというのはわかるし、そうあるべきだとも思う。ただ、フォーマット自体が不誠実なものを含む自己PRとか、統計の実験を強要する適性検査とか、そんなことをする時点で、もう大義を失っているんじゃないのか。

 

 

 いろいろと言ったが、優秀な奴らは自己PRとか適性検査なんか適当に済まして、問題なく就職してしまうというのも想像できる。歪んだ部分も理解した上で軽くはねのけてしまえる人を企業は求めているのだという考えもあるし、その通りなんだろう。

 ただ、社会はある特定の部分だけで成り立っているわけではない。一番の問題は、大企業に就職できる人が限られているということではなく(立派な企業に行けるのは一握りの人だというのは今も昔も変わらないだろう)、それなりの規模の企業に努めなければ、しかるべきプライド持ってまっとうにはたらくことができないのではないかということだ。

 非正規雇用の社員の割合が全体の35%まで上昇しているそうだ。(厚生省2012年のデータ)しかもその比率は若年層が多い。年功序列というシステムも、維持できなくなれば、若い世代が一方的に損をかぶることになる。

 

 みんながみんな、自己実現とか、表現社会とか、そんなことを思っているわけじゃないだろう。しかるべきプライドと、自分が何かしら意味のあることをしているという実感があれば、それなりにはやっていける。もちろんそれには諦めが伴うのだが、それが就職をするということではないのだろうか。

 欧米の職業感とは違うかもしれない。でも、日本で生きてきた以上、危険なことでもあるのだけれど、みんなといい関係を築きたいとか、周囲の期待を裏切りたくないとか、自分を雇ってくれた会社の恩に報いたいとか、そういった部分を皆ある程度受け継いでいると思う。

 だからこそ、あえてそういった部分をうまく利用するブラック企業なんて絶対に許してはいけないと思う。誰だって、価値観とか、尊厳を握られていては弱いだろう。

 

 時代は変わったんだよ!ブラック企業なんてやめればいいだけの話じゃん!これからは個人で何でもできる能力が必要な社会がやってくる!(英語とIT!!)……みたいな言説はあまり好きになれない。

 言ってることに一理あるし、たしかに時代は変わるのだろうが、国とか社会とかを考えた時に、みんなが一斉に右から左に向くみたいなことは基本的にない。選考世代の良い部分を汲み取ろうとしない試みは、結局不毛なものになることが多いと思う。

 

 競争社会とか自己分析とか適性とか、下劣な奴らが提唱して馬鹿な奴らが再生産するような価値観は、もちろんおかしいのだが、そのすべてが間違っているというわけでなく、ある程度の説得力はある。一定の価値観を再生産するように語ることは簡単だが、簡単だという理由で力を持つ部分もある。

 どういう部分にも一定の合理性があって、複雑なものが絡み合っているから、なかなか解決策を見出すのは難しい。どんな社会でも、一人ひとり違うというのが真理ではあるのだろう。

 就活してる間はクソみたいな企業は死ねと憤っている奴は多いかもしれないが、成功して望みの企業に入ってしまうと、「まあクソゲーだけどみんな頑張れよw」となってしまう。失敗してしまった奴は、文句を言おうとしても、まともな奴であるほど「自分が失敗したから文句言ってんだろw」という視点から逃れることはできない。失敗と成功という格差を産んでしまうからこそ、若い世代がみんなで団結するというのは難しい。嫌な構造である。

 

 

 

 なんか、就活が嫌になった愚痴と言い訳を延々と述べるだけになってしまった。……江ノ島とか全然関係ないし。

 

 僕自身は、院卒で就職しようと思っていた。第一志望がゲーム会社で、次が総合研究所で、2ちゃんねるがソースの優良企業を滑り止めにして……みたいな計画をなんとなく立てていた。

 試しに就活を経験してみて、疑問が生まれた。このまま会社に就職して、定年まで働くということは、僕が思っていた「まっとう」なことなのだろうか。その影で、まっとうならざる状況に置かれた大勢の人がいるのではないだろうか

 社会を構成する多くの人がほどほどにプライドを保て、まっとうに仕事ができた時代(実際はそんなこともなかったのかもしれないが、少なくともそういう空気のようなものはあった)はもう終わってしまったのかもしれない。新卒で優秀な会社に就職して、誠実な仕事をしたいということ、「まっとう」なことをしたいというそれ自体が、多くの欺瞞の束に過ぎず、「まっとう」から遠ざかっていくかもしれないということ……。僕は僕にできるやり方で、何か別の形の「まっとう」なものを探っていかなければいけないのではないか。

 

 

 図らずとも、僕は変なキャンパスに所属してしまった。その大学は、自己PRとかプレゼン大会とか写メ詐欺とか、そういった欺瞞と色濃く結びついているようなところなんだけど、それでも、本気で社会を良くしたい、という思いを持っている人達が自分の周りにいるということも事実だった。

 

 実際に就活に触れてみて、企業に就職したいという気持ちは薄れてしまっている。というより、最初から薄々わかっていたことなのかもしれない。

 

 ただ、自信はなかった。何か目的を持って努力を続けてきたわけではない。社会に向けて、「自分は何ができるのか?」ということを考えた時に、確信を持てることなんてほとんどない。

 

 

 社会を変えていくのは自分達なのだと、そのようなことを、大学の講義でよく言われたりした。もちろんしらけて聴いていたのだが、ただ、天秤を左右する重さのほんの小さな幾分かが、あくまでも原理的に考えるなら、自分の手の中にあるというのも、その通りだった。確信はできないにしても。

 もちろん天秤のようにわかりやすいものなんて存在しないかもしれない。歪みは多層に重なり合っていて正体が掴みにくいから問題なのだ。それでも僕は、みんなが無駄に塞ぎこんだり鬱になったりしない社会を作りたい。決定的なことはわからなくても、少しずつできることはあると思う。

 

 

 江ノ島を歩いていたときは、「ぜんぶ松岡修造のせいだ」と言うくらい、もっと壮大で熱いことを考えていた気がする。おうちに帰ってポチポチとブログを書いているんだけど、改めて見返してみると要点が定まっていない。もし人事が隣にいれば、「お祈り申し上げま〜す!」と耳元で叫ばれるだろう。ただ、個人的に、話の要点が明確な奴をあんまり信用する気にはなれない。

 

 

 もう就活をやめるときっぱり決めたのだけど、おもいっきり遊ぶぜ〜o(^O^)o とはならずに鬱々としていてあんまり楽しくないということが一番の問題だ(怒)。もちろんみんな頑張っているときに、僕だけ「(^q^)春休み楽しいですwww」みたいなことをしていてもしょうがないような気もしている。

 春休みは就活より有意義に、自己研鑚のために使いたいと思う。オリンピックは感動したし、松岡修造も帰ってきたし、僕ももっと熱くなりたいと思う。

 

 もっと熱くなれよ・・・

 

 熱い血燃やしてけよ

 

 人間熱くなった時が、本当の自分に出会えるんだ

 

 だからこそ!

 

 もっと!熱くなれよおおおおおおおお!!

 

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最後に、めちゃくちゃ長くなってしまったので要約する。

 

「就活やめるってヤバいっすか? うわあ 頑張ろう ビックになろう」