美術史の目と機械の眼 ―スライド試論― 

前川修 


 スライドに光を当ててみたい。

 美術史の授業を受けた経験のない人にはおそらく奇妙に思われるかもしれないが、ほとんどのばあい、そこではスライドが補助手段として用いられている。つまり、ここではいきなり講義室の照明が落とされ、スクリーン上に美術作品の複製映像が映し出されるのだ。聴講者の目の前には、作品の写真複製像、しかも時にそれがばらばらに分解された部分拡大図までもが、次々と映し出されては消えていく。その模様は、見世物小屋の出し物にかぎりなく近いのかもしれない。両者の違いはただ、作品映像の傍らで口上を述べる弁士が美術史家だということだけである。

 この奇妙な授業スタイルは、今では「自明」のこととなっている。スライドという仕掛けは、芸術に関連した教育現場、とくに美術史の授業では必須の設備となっているのである。それどころではない。この、ガラスやセルロイドを組成分とする薄片と、簡単な構造をした光学機器は、美術史にとって重要な媒介機能を果たす、不可欠の器官、いわば義眼(機械の眼)ともなっている。

 ところが、この肝心の道具について、これまで反省が加えられたことはほとんどない。スライドはオリジナル作品への接近のための暫定的手段にすぎない、という意見が、時折耳にされるだけである。たとえスライドそのものに注意が向けられるにしても、せいぜいそれはスライドの出来の良し悪しのことでしかない。つまり、スライドは、作品へと通ずる「透明な」媒体とみなされ、それをめぐる議論は、いかに「不透明さ」が少ないかということに終始する。

 しかし、それだけのことなのだろうか? そもそも版画や写真といった複製が、美術史成立の基盤の一つであったことは明らかだろう。視覚情報を記録・編集し、流通させる方法が、学問形成のための客観的手段として役立ってきたことは誰も疑うことはないだろう。それだけではない。学問的言説を形成し、同時にそのようにして視覚情報を統御する人々、そしてそれを享受する人々の身体や無意識にまで、この媒体は浸透しているかもしれない。その証拠に、スライドを扱う研究者たちの多幸症的な身振りや表情、あるいは暗闇のなかに浮かぶ映像を前にした観者の表情を思い浮かべてみればよい。ただの暫定的、間接的媒体でしかない道具への強烈な固着、それは、オリジナルに由来するただの屈折した欲求以上のものではないのか。

 この論文の焦点のひとつは、このスライドという媒体の、いわば「自明な透明さ」を、むしろ「不透明な自明さ」として読みかえること、つまり、この不透明性に画像を見る欲求の源泉を想定するということである。そして、このような観点の下で、西洋美術史の近代日本への輸入の問題も論じてみることにしたい。
 

1 芸術写真というオリジナル・コピー

◇芸術/写真

 いわゆる「写真スライドの考古学」に着手するとまず驚かされるのが、美術史ばかりでなく、写真史においてもこの媒体が看過されているということだ。いったいいつから、どのようにしてスライドが芸術の教育現場で使用されはじめたのか、その軌跡はほとんど残されてはいない。写真史でのスライドへの言及の欠如、その原因の一つは「芸術写真」論争にある。

 写真史では、写真と芸術との関係は、写真発明当初から、両者の競合関係という枠組の中で議論されてきた。芸術は、写真からどのような影響を被ったのか、あるいは逆に写真が芸術によってどのような影響を被ったのかという枠である。写真は、そのリアルさゆえに、絵画のもっていた再現機能を凌駕し、それを絵画から奪い去り、絵画の位置価値を転換させた、だが他方で、写真も当初の再現機能に飽き足らず、後には美的・芸術的機能をことさらに強調するようになる(「芸術写真」の生起)、こういった説明がなされる。しかし、このような、写真と芸術をめぐる議論は、次のような問題を孕んでいる。それは、あらかじめ互いに境界確定された二つの言説領域(美術史と写真史)のなかでしか、写真と芸術が扱われないという事態である。写真と芸術との関係は最初から、各々の領域の内側からしか問題を問うことができないのである。

 もちろん、この境界線を越えようとする試みもある。例えば木下氏の『写真画論』では、従来の写真/芸術の関係が、別の角度から光を当てられる。写真と芸術は、言わば、端から別の道を進んでいく運命にあるパートナーである―この写真と芸術との未分化な関係は、明治末から大正期の芸術写真運動を境に袂を分かち、各々進むべき道へ戻っていってしまう―、両者の取り結んだ束の間の歪で複雑な関係は、その結果として、私生児的な「写真画」や「写真油絵」を生み出した。たしかに、これら半ば見世物的とでも呼ぶべき対象への着目は、従来の美術−/写真史を編成してきた言説を見なおすうえで重要である。
(1)
 だがこの試みにも問題がないわけではない。つまりそこでは、見る対象の差異にかかわりなく−芸術、写真、写真画−、画像に向かう観者の姿勢が一様ではないのかという疑念を免れない。当の観者の姿勢は、従来の美的構えとさほど変わらないし、その眼差しの対象は、すでに明瞭にある美的観照の基準枠にかなった対象でしかない。けっきょく、写真/芸術の未分化な関係を扱うという試みは、写真という、従来とは異質な視覚を実現する装置を、そして異質な流通や浸透のしかたをする画像を、擬似芸術の衣で覆ってしまいかねない。
 ここでもっと別の視角を探すうえで参考にしたいのが、複製芸術論でのベンヤミンの次の言葉である。

「一九〇〇年頃に技術的複製はある水準に到達した。ここに至って技術的複製は、従来伝えられてきた芸術作品すべてをその対象としはじめ、またそれらの作品が作用する仕方にきわめて深い変化をもたらしはじめただけでなく、芸術の技法のあいだに、独自の地位を獲得したのである。この水準を研究するうえで何よりも参考になるのは、その2つの発現形態−芸術作品の複製、ならびに映画芸術−が芸術の従来の形態にどのような逆作用を及ぼしているかということである。」(傍点論者)
(2)

彼が言うには、複製技術の時代に問うべきなのは、「芸術としての写真」ではなく、むしろ「写真としての芸術」である。言いかえればそれは、写真という複製技術の浸透によって人間の視覚が大規模な変化を被った、このことは眼差しの対象が芸術であっても同様である、写真による視覚の変化は、従来の芸術の機能、それを取り巻く言説、芸術とその観者の関係にも全面的に再配置化や脱領域化を及ぼしたということだ。こう考えれば、芸術作品の複製像という次元の考察は、芸術/写真という既存の問題の磁場を別の新たな力場に引きずり込むことにもなる。  

◇オリジナル/コピー

 飯沢耕太郎は、『「芸術写真」とその時代』のなかで、一八九〇年代から一九〇〇年過ぎに生じた視覚的世界の変容を次の三つの視覚媒体の登場と関連づけている。それは写真絵葉書、パノラマ、活動写真のことである。この三つのメディアの浸透によって、映像世界はもはや現実の魔術的な写しとみなされるのではなく、むしろ映像自体を最初からリアルとみなし、その読み取りと解釈をするという「写真的感受性」が成立・拡大していった。これがこの時代の特徴だと分析されている。
(3)

 写真にかんしてこの変化を象徴的に表しているのは、1904年『写真月報』誌上で戦わされた「芸術写真論争」だろう。この論争のキーワードは、「芸術写真」対「絵葉書的写真」という対立である。ここでは、大量の複製映像に浸透された素人写真家たち、彼らの撮影した、機械的なカメラの視覚に依存した映像と、内面の自己表現である新たな芸術写真が区別される。以前より簡便になった撮影技術は、素人写真家を増大させ、「コピーではあるがオリジナル」であるべき写真への感性を鈍化させた、いやそうではない、写真はただの機械的コピーにすぎない、こういった批判と反批判が戦わされていた。
(4)

 だが実際のところ、「芸術写真」は映像世界を構成するほんの一要素でしかなかった。写真は、印刷製版の技術と結びつくことで、使用法が著しく多様化され、享受層も飛躍的に拡大している。複製としての写真がもっている可能性がこれほどまで模索された時代はないのだ。例えば、新聞、写真帖、そして絵葉書を媒体にして、戦争の記録や宣伝、風景絵葉書や美人絵葉書の愛好、災害の報告、開拓植民地の写真記録、犯罪者同定のための司法写真の導入、これらが一挙におこなわれたのがこの時代であった。精密な記録としての画像は、もはや目もあやな幻像と見なされたり、極度の違和感を引き起こすことはなかった。それは世界を認識し考察するための必須の要素となり、その内容を迅速に読み取り解釈する作業が日常的に不可欠の行為となりつつあったのだ。

 もちろん、「芸術写真」に典型的に見られるように、これとは逆の傾向、つまり複製像の流通を堰きとめ、それを主体の内面の表現として、それゆえオリジナルなものとして享受する傾向はつねに存在していた。芸術の複製映像に関連した例を一つ挙げてみる。一八八八年に関西社寺宝物検査で撮影記録を担当した小川一真は、一八八九年の『国華』創刊にあたり精巧な写真印刷(コロタイプ印刷)を実用可能にしたことでも知られている
(5)。ここに美術品を複製図版というかたちで享受する形ができあがった。ところが、国家の威信をかけたこの出版物の複製図版は、ある種の工芸的価値を帯び、希少品として流通することにもなる。このようなコピーのオリジナル化という傾向は、絵葉書はいうまでもなく、写真帖にも確認することができる。

 しかし、注意すべきなのは、この、コピーのオリジナル化の基盤が、オリジナル受容のそれとは徹底して異なるということである。写真映像は、従来の画像を生み出す方法から眼差す方法に至るまでの仕組みを変化させる。画像の散種は、視線に独自の断続性や速度を要請し、知覚の再配置化を促す。そしてこのような散逸し、拡散する知覚の構造をくいとめるための暫定的手段、これがコピーのオリジナル化という事態なのである。逸脱するイメージの不均衡な世界、それに浸透された身体、これらを調整するための言説や権力の諸作用、こういった要素こそが、この当時、自らを掘り崩しつつ確立されていった新たな地盤であり、コピーのオリジナル化現象とは、これに抵抗する最後の保塁、この磁場の一要素にすぎなかった。  

2 複製の美術史

 それでは芸術の複製像に話を戻してみよう。ひとまずスライドを含む芸術作品の複製写真全体に視野を広げ、美術品の複製画像を見るということ、このことが眼差しにどのような影響を及ぼしていたのかを探ってみる。

◇二つの複製

「写真とともに史上はじめて手が、イメージを複製する過程において、もっとも重要な芸術上の責務から解放されることになった。この責務は今やひとえに目に与えられたのである」
(7)

 ここでは、美術史の成立と複製の視覚の関係を考えるために、とくにドイツの一八九〇年代から一九一〇年代の美術史学を参照しておく。この時期のドイツでは、大量の複製を通じた視覚情報が、大量の匿名の社会階層に浸透していた。写真を見る眼差しは、すでにそれを違和感ぬきで透明なものとして受容する枠組みを前提にしていたのである。

 これより少し時代を遡る時期、ベルリン大学の美術史教授ヘルマン・グリムは、美術館や大学での作品の複製写真整備という文化政策を政府に要請している。だが、結局、この要請は拒否される。既存の「複製版画」という手段で十分だ、という理由からである。複製写真と複製版画は、当時さかんに比較されていた二つの複製媒体であった。
(8)

 一般に、複製版画は、それを制作する版画家の芸術的解釈を内に含んでいる、つまり、手による解釈の挿入がなされていると言われる。これは写真には欠如した要素である。だから、複製版画は、コピーという一種の制作=解釈過程が包含された、「オリジナル」な複製と呼ぶことができる。事実、一九世紀初頭には複製版画は、原作にしたがってではなく、複製の制作者にしたがって分類されることもあった。つまり、オリジナルにおける制作者、生産過程、作業手段、制作品相互の関係が、コピーにおいても再認されていたのである。

 さらに言えば、複製版画は、芸術解釈・鑑賞の分業という事態に深く関わっていた。つまり、一方で複製版画家は芸術作品についての「形式的」解釈作業を行う、そして他方で美術史学者が「内容的」解釈作業を行う、このような分業体制のことである(ハインリッヒ・ディリー)。アイヴァンスは『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』のなかで、複製版画を基礎にした芸術解釈・鑑賞体制と写真によるそれとを次のように比較している
(9)。複製版画による報告のばあい、それがオリジナルにいくら近似していようとも、結局そこに線による抽象と版画家の手の跡が残ってしまう。しかし、この痕跡は問題とならなかった。複製版画を見る観者の方こそが、複製の彼方にある到達不可能な真実へと想像をさし向ければよい、いいかえれば、複製版画からオリジナルへと再翻訳作業を行う義務が観者には自明とされていたのである。他方で、作品について語る歴史家はどうか。彼らは作品の意味内容を言葉によって観者に語る作業を割り当てられる。彼らは、複製版画家とは別のしかたで、観者と芸術作品との間を媒介する役割を果たしていたのである。もちろん、この経路には、あと一つ肝心なもの、実際のオリジナル作品が欠けている。この欠落は、実地の鑑賞によって補完すればよい。つまり、オリジナル作品を収集・保管・展示する美術館が、作品をめぐる経路のなかのもう一つの審級として付け加えられる。ごく単純化されてはいるが、これが複製版画を媒体とした芸術鑑賞・解釈のシステムであったと言えるだろう。

 ところが写真複製は、この芸術受容の地盤を掘り崩すべく侵入してくる。オリジナル−コピーの回路は、徹底して変容することになる。複製写真の浸透、それはまず複製版画とその制作者から視覚情報伝達の役割を奪い去る。その結果、線による複製版画は、科学的分解図や構造図といった、抽象化の役割のみを担うことになる。アイヴァンスが言うには、この複製版画には欠如し、複製写真には備わっていた利点が、「表面処理」の再現である。つまり、もともと芸術作品を芸術たらしめていたのは、筆跡やノミの跡などの質感であり、この表面の細部の再現をはじめて可能にしたのが複製写真であった。複製写真においては、複製版画に必須であったオリジナルへの再翻訳化作業はもはや不要なのである。

 ディリーによれば、複製写真は、複製版画家の失業以外に、芸術学者の機能転換をも引き起こしたという
(10)。これはどういうことか。芸術学に携わる専門的研究者は、美術品の写真複製を用いるにあたり、既存の複製会社のストックから自分の視点に適したスライドを選択していた。この選択の制限性への、複製会社への不満は、しばしば話題に上っている。なぜなら、美術品の複製会社がターゲットとした購買層は、美術研究者ではなく、大多数の教養市民階級であったからだ。つまり市民たちは、肖像写真の流行の後、歴史的価値をもつ芸術作品の複製を所有したいという欲求に促され、複製写真・スライドを購入していたのである。注目すべきなのは、これらの写真複製の特徴である。これら複製映像は、うわべはきわめて客観的外観を呈している、しかしその実、芸術学的視点や美術史的観点に従わず、むしろ匿名の購買層の視点を前提にしていたのである。複製写真は、複製版画とは異なり、生産者、生産過程、生産手段も匿名のまま、しかも匿名の受容者に向けられるという、複数の匿名の視線から成る構造を前提にしていたのだ。

 このような状況の中で、従来の芸術解釈・鑑賞の経路上の一つの媒介項、大学の美術史学者が、どのような機能転換を被るというのか。一見すると、何の変化も生じないように見える。彼らは今や、版画ではなく写真図版やスライドを介して、オリジナルについて語ればよい、と。一八九〇年代半ばのドイツでは、写真映像を用いない美術史の授業は稀だという報告も残っている。だが、媒体や経路の変化はこれ以上のことを引き起こしている。

 先ほど述べたグリムの要請への拒否後のことを考えてみよう。美術館での複製写真の整備というグリムの構想は頓挫し、その代わり、彼は大学において複製写真のアーカイヴを築こうとした。つまり、ある意味で、大学の美術史家の活動−複製に基く啓蒙作業−は、美術館―オリジナルと複製版画の収集のみにあたる解釈項―とは分断され、孤立化し、しかも既成品の複製を使用するだけのただの「観者」の位置へと置き移されたのである。複製会社、大学、美術館、教養市民階級との間の分裂、その結果、美術史家は独自の媒介的役割を保持するため、自分を観者の中でも最良の観者として位置づけることになる。その証拠に、一八九〇年代なかばから一九〇〇年代初頭には、芸術の見方をテーマにした、彼らの手による啓蒙的な本が次々と出版されている。これらの著作を貫いているキーワードは、見ることを学ぶこと、見てわかること、見ることを教えること、見ることの能力であった。こういった見ることの「新たな儀式」のうえに、美術史家たちは自分たちの活動を基礎づけることになる。美術史家は、以前とは異なるしかたで、作品と公衆との媒介者になる。つまり彼は、むしろ公衆の理想、「理想的観者」として振舞う。もちろん、彼らは、オリジナルを直接目の前にした姿勢を原型にし、この媒体が人々の知覚に引き起こした変容には比較的無自覚のままであった。
◇西洋美術史の複製

  すでに述べたように、一八九〇年代以後、日本では画像を瞬時に読み取り、解釈する「写真的感受性」の時代が始まっていたという。しかし、芸術の複製像にかんして、ドイツで生じたような媒体や経路の変容を、単純に日本に置き代えて西洋美術史の輸入を論じることは難しい。まず日本に特殊な事情として、西洋美術史の存在と西洋美術史という言説の輸入が、ほぼ同時期になされたという事情がある。

 日本で西洋美術史が教えられはじめたのは、一八九〇年代の東京美術学校においてである(フェノロサ、岡倉天心、森?外)。もちろんその講義での複製像使用の有無は、確認することはできない。しかし、最初の数年を除いて、美術史教育や学問形成と複製映像との深い関わりを推測することは不可能ではない。例えば、一九〇〇年以後、つまり西洋美術史の紹介から一〇年も経たないうちに、図版入りの概説本や啓蒙書が続々と出版され、同時代の作家も含めた西洋美術史の記事が各種雑誌を賑わせている。そしてまた、こういった雑誌の複製図版による啓蒙こそが、先に述べた絵葉書的写真の撮影者である多数の素人写真家たちの意識を支えてもいた。
(11)

 あるいは、この転換、つまり美術史の啓蒙−教育手段としての複製映像の導入を、先述の『国華』の2人の主幹、岡倉と瀧精一の比較によってうかがい知ることもできる。一九〇六年の『国華』一九三号掲載の「美術品の模造」という匿名記事に注目してみよう。これは一九〇一年以来同雑誌主幹であった瀧の考えを忠実に語ったものだと言われている。記事の内容は大略すると次のようなものだ。美術研究にとってオリジナル作品の研究が最も重要である。だが、さまざまな物理的制約もあって万人にそれが可能ではない。だから美術品の精確な模造品を作り、研究のために博物館に常備してもらいたい。たとえオリジナルを見ないばあいでも、研究の肝心の部分は可能だ。無論、これは国内の問題にとどまらない、西洋の芸術作品も模造品を常備する必要がある。オリジナルを尊重し、模造品を軽蔑するのは骨董癖にも劣る。模造品の常備は一般国民の教育にも資するのだ
(12)

 たしかに、ここで言われている「模造品」は、写真ではない。しかしこの記事は彼の、そして雑誌の複製観を如実に表していると考えてよい。しかも後で述べるように、瀧は美術史の授業で幻燈を用いた最初の人でもあった。彼の複製へのこだわりはもう一人の『国華』主幹と比較すると際立っているのだ。瀧に比して、岡倉は幻燈はおろか写真図版すらも講義で使用することはなかったという。世紀転換期以後に複製映像が美術史に果たした重要性、それはこのようなかたちでも確認することができる。
(13)

 しかし、オリジナル作品がコピーを通じて輸入されたというだけでは不十分である。さらに話を進めると、それらオリジナルそのものが整理され、言葉で織り上げられるしかたそのものが、コピーの直接的な影響を被っていると指摘することもできるのである。つまり、西洋美術史のある言説、とくに様式史の言説形成そのものに、複製が不可避的に浸透していたという事態を見逃すわけにはいかない。ここではハインリッヒ・ヴェルフリンを例にしてみる。彼の様式史自体が複製映像に媒介されていたこと、このことを示唆するのは次の三つのポイントである。

 まず、先ほど述べた「理想的観者」の典型例として彼の講義を思い起こしてみよう。彼は自ら、著書よりも講演や講義での言葉と身振りこそが自分にとって重要であると語っている。ヴェルフリンは、講義では二枚のスライドを同時に投影しつつ、ところどころ沈黙し、聴衆とともに映像を凝視しながら、一つ一つ作品の観察を述べていく。このような作品とのモノローグ的対話の様子が、講演者としての彼の人気を支えていたという。理想的観者を装いながら、美術の見方を同時に多くの人々に教育するヴェルフリンの姿、これは写真スライドという装置なしには不可能であった
(14)

 また、彼が企てた様式史という構想そのものも、複製可能性が支えとなっていることは周知の事実だろう。つまり、複数の画像を並列して同時に処理することができるという、複製図版・複製写真の利点によって、様式史ははじめて可能になったとも言えるのである。ヴェッツオルトも言うように、一八九〇年代の美術史の言説において生じた、内容的見方から形式(様式)的見方への転換の一因−絵画表面への注目−は複製写真にあると指摘することができるのである
(15)

 さらに言えば、彼が『美術史の基礎概念』で様式比較のために呈示した五つの対概念を引き合いに出すこともできる―「線的−絵画的」、「平面−奥行き」、「閉じられた形式−開かれた形式」、「多数性−統一性」、「明瞭性ー不明瞭性」―。これらの概念は、もともと純粋に様式(ルネサンスとバロック)のみを指し示すはずの指標であった。しかし、ヴェルフリンはある箇所で、当時の公衆の趣味に合致した写真のことを「絵画的」と呼んでいるのである。つまり、「絵画的」は、写真的視覚にも適用されている。ディリーの説によれば、ここで言われている写真の空間とは、世紀転換期の写真に特徴的なカメラの視覚空間−被写界深度が深いためにいくつもの面の重なり合いとして構成され、この面の前後関係として「奥行き」が捉えられるような空間−を意味している。この「面的性質Flächigkeit」(ディリー)をもった、「写真的=絵画的」空間のなかでは、視線は線をなぞるようにではなく、むしろ点を選択し、少数の点へと収斂する運動を繰り返す。このことは「絵画的」の極に属する他の諸概念、「単一的統一」「不明瞭性」「開かれた形式」にも関連づけることができる−もちろん、皮肉なことに、「絵画的」と称される絵画の写真写りがきわめてひどかったことを彼自身告白しているのだが。
(16)

 ヴェルフリンの美術史は、大正時代に日本に輸入される。事実、様式史は日本に紹介された後、西洋美術史ばかりではなく日本の彫刻史においても効力を発揮した方法論なのである。

 こう考えてみると、次のように言うことができる。西洋美術(史)の輸入とは、ただオリジナル作品をコピーによって受取った、そしてオリジナルな方法をコピーし、それをさらに日本美術に応用した、といった単純な関係ではない。オリジナル(西洋美術史の言説)という起源にさえも、コピー(複製)が浸透している。いやむしろコピーこそがオリジナルを支えていたのだ。そして、コピーによって織り上げられたオリジナルな方法がコピ−という媒体を伴って日本に輸入される。ところが、このオリジナルのコピー性という事態が、コピーのオリジナル化という方法、つまり起源への飽くなき憧憬によって覆い隠されてしまう。コピーという表象のもつ次元への視点が着目されないのは、それが必然的にオリジナルのオリジナル性そのものを掘り崩しかねないからなのである。

3 スライドの視覚

◇「写し絵」と「幻燈」

 芸術の複製写真をスライドに限定してみよう。
 ここでまず、「写し絵」という江戸時代以来の芸能と、「幻燈」という、写真スライドを区別しておく必要がある。ヨーロッパでは一八世紀末にロベールソンがファンタスマゴリアという見世物を発明する。これが一九世紀初頭には日本で「写し絵」の名で上演される。大きなスクリーンの背後に複数の投影機を配し、それを移動させることで運動感を高めた見世物のことである。ところが「写し絵」は、明治中期に最盛期を迎えた後、しだいに衰退していく。これにとって代わったのが「幻燈」であった。当初は写し絵と同様に手書きの映像を投影しただけで、投影機そのものも固定され、動きもない映像の仕掛けが、なぜ「写し絵」を凌駕したのだろうか。

 石井研堂の『明治事物起源』には、写真幻燈が日本に導入された際の経緯が簡単に説明されている
(17)。一八九四年にアメリカから伝わった最新のマジック・ランターンと理科学教材の種板、これが幻燈と和訳され、国産製幻燈の製作が試みられる。ところが当初から幻燈の見世物としての人気はそれほど高くはなかった。考えてみれば、かつての写し絵や数年後に初上演された映画に比べれば、運動感のない幻燈は魅力の乏しいものでしかない。しかし、まず確認しておくべきなのは、一八九〇年代以降に成立した写真的感受性、つまり写し絵のような幻像ではなくリアルな画像としてのイメージの享受のしかたに幻燈が適合していた、しかもこの幻燈は、映画に比して簡便で安価な複製映像の上演方法だったということである。また幻燈の普及の要因は写真的視覚への対応と用途の多様性にもあった。一九一〇年の『日曜百科全書 写真及び幻燈』の冒頭にはこう書かれている。

「物体の肖像を縮写するは写真術の目的なりといえども、公衆を一同に会し、鮮明詳細の大肖像を示し、感動を与えんと欲せば、実に幻燈器械の作用を借らざるべからず。写真術は幻燈のために著しくその効用を増加し、幻燈は写真術のために非常なる進歩を加えたり。/見よ、教育家はいかに多くの利益を得たるかを。歴史に地理に動物に植物に、あるいは生理あるいは天文に単純なる少年の脳裏はこれがために多くの記憶を生じたるにあらずや。宗教家は感想なる形而上の説教をこの趣味ある方法によりて面白く語るにあらずや。慈善家は天変地異の真景を示して幾多の同情を求めうるにあらずや、衛生家は同胞の疾苦を予防するにすくなからぬ便宜を認むべく、実業家は自己の営業用広告に利用すべし。幻燈の功や実に大なりと称すべし」。
(18)

ここから分かるように、幻燈は、教育や研究、宗教的、道徳的講話、自然災害等の復興援助を促す宣伝、営業用広告に使用されていた。また、引用からも分かるように、幻燈が普及した原因は、写真的視覚効果の増大という点にもある。写真という一度に少数の観者にしか呈示されない写真像を、暗闇の中で拡大投影し、同時に多くの聴衆が、写真の表面の細部に視線を走らせ、その内容を読み取り、しかもその映像を記憶に強烈に刻印することがスライドによって可能であったのだ。

◇写真スライドの可能性

 写真という媒体がスライド投影される際に生じた新たな可能性にはいったいどのようなものがあるのか。2つほど挙げてみよう。

@「細部」の視覚:写真スライドが帯びる細部は、最初から利点とみなされていたわけではない。そもそも美術複製スライドに向けられた批判は、レンズによる周辺部の歪曲、遠近感の強調、そして記録の無差別性ゆえの過剰な細部にかんするものであった。この最後の難点は、一九世紀にドイツで初めて行われた美術品の複製スライド上演の際にも述べられている。それは、細部の過剰さゆえにオリジナル作品の再認すら妨げてしまう、絵における主要なものと副次的なものを区別できない、という非難だった
(19)。しかし、写真複製がある程度まで浸透すると、この現実の歪曲がないと現実はかえって現実らしく見えなくなる。ここで起きていたのは、写真による現実の歪曲ではなく、むしろ現実の視覚的認識のためのコードの、写真による変換にすぎなかったのだ。

 多くの写真論が言うように、写真は統辞を欠いた名詞のみの文章に等しい。写真は、並置された無差別な諸要素の集合であるがゆえ、線的統辞性を欠いているのである。しかも、この過剰な細部から成る表面は、それまで芸術作品を語ってきた人々の語彙の容量を優に超えてしまう。これを眼差しは走査しなければならない。写真複製の非統辞性は、一方で、それまで看過されていた細部が照明され、作品の持つ画面上の力学を脱中心化することになる。だが他方で、逆に画像の新たな統辞方法が要請されることにもなる。例えば、前出の理想的観者たちは、画像の統辞のしかたとして、言葉による、つまり新たな語彙による解説を創案しているのである。スライドではさらに顕著にこの事態が現れる。

A比較可能性:そしてもう一つの統辞方法が、複数の画像の配列を考慮した編集方法である。写真複製があらゆる種類のオリジナル品を同一の空間に同時に呈示する可能性を切り開いたということは、すでに頻繁に指摘されている。芸術は、大芸術家の名前から成る歴史からひとまず解放され、それどころか作品の由来する物理的歴史からも切断されて、―美術館と同様―ある種無時間的な地の上で操作を受ける可能性を与えられた。つまり、写真のばあい頁上・机上での並置、スライドのばあいは二台のプロジェクターでの同時的投影、これが時代も民族も地域も越えた並列を可能にしたのだ。一面でこの並置性は、歴史的に限定された芸術観の相対化という解放的機能をもつ。しかし、他方で、画像を並べる方法には無意識的なイデオロギーが作用してくるのである。日本でもドイツでも一九二〇年代から三〇年代には、写真図版をどのようにレイアウトすべきか、という画像配置のポリティクスの問題が先鋭化している
(20)。もちろんスライドにおいては、通常、二枚の画像を、しかも線的に並べることしかできない。しかし、線的統辞法とその他の編集方法(クローズアップ、トリミング、フレーミング、照明)は、必然的に画像を別のコードによって処理していることになるのである。
◇鑑賞と観察

 日本で美術史の講義に複製スライドを用いたのは、慶応の澤木四方吉だと言われている。彼は留学中にミュンヘンでヴェルフリンの授業を受け、晩年にその『基礎概念』の紹介を行っている。澤木は、様式史ばかりでなく、その複製媒体の使用も紹介した。すくなくとも一九二〇年代始めには、彼の講義が幻燈を使用したものであったことは知られている(21)。ただし、美術史講義に複製スライドが用いられたのは、これよりもさらに時代を遡る。先述の瀧が、日本美術史の講義にすでに幻燈を用いていたのである。

 瀧(1873―1945)は、一九〇九年以来、東京帝大で日本美術史を担当、やがて美術史学講座の初代教授として任命される。彼は、美術史の授業を元良勇次郎(1858ー1912)の心理学教室を用いて行っていた。その理由は、スライド使用のためであった。日本の心理学の創始者と言われる元良は、一八九〇年の帝大就任後、実験心理学の実験室開設を計画し、弟子の松本亦太郎にその整備を命じていたのだった(1903年完成)。おそらくこういった事実から推測すると、瀧は、一九一〇年前後には心理学教室にて美術史の授業を行っていたのだろう。この頃には一部の教育現場ですでにスライド使用は広まっていたということになる。ここで注意を喚起しておきたいのが、心理学実験室の設備としての幻燈の重要性である。欧米の心理学実験場を見て廻った松本が、当時最新の実験測定装置のなかでとくに重視していたのは幻燈なのである。

 幻燈は、一九世紀後半に成立してきた実験心理学(精神物理学)という科学のなかで使用されていた
(22)。松本亦太郎の講じた心理学とは、ヴントの心理学であり、方法としては、実験・観察・測定に基づいていた。つまりそれは、内観に基づく心理学では対象にできない、精紳−身体的現象(手や腕の動作、特定の動作の練習効果、疲労の現象)を測定によって解明する研究である。この心理学が、産業能率、疲労現象、注意、練習効果に関する研究に応用され、さらに学校教育、軍隊、工場で適用されたのである。例えば、人間の生理的身体は、文字の読み取りの測定実験、書記の速度の測定実験、さらには視覚の残像効果の測定など、新たなパラメーターによる改編のための刺激反応実験を受けていた。ちなみに活動「幻燈」と呼ばれる装置は、残像測定のための装置であった。スライドとは、このような実験装置の一つなのである。暗闇の中で固定され、装置に接続されたうえで、ただ「観察」(クレーリー(23))することだけが可能な観者という事態、これは、娯楽であれ、実験であれ、講義であれ、同様のことなのである。こう考えてみれば、近代の視覚体制のための実験場、その原形に近い様態がスライド鑑賞=観察には含まれているのではないだろうか。スライドの考古学には、このように必然的に起源の非−起源性というべき事態が内在していることも見落とすことはできないだろう。
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