ゴーストタウンから死者は出ない 〜日本の災害復興における経路依存〜
慶應義塾大学総合政策学部教授
小熊英二
はじめに
二〇一一年三月の東日本大震災の津波から、三年がたとうとしている。しかし三陸の被災地の平野部には、ほとんど家屋が立っていない。二〇一三年一二月の復興庁の発表では、自宅を離れ避難している人は三県を中心に約二七万八千人。このうちプレハブの仮設住宅で暮らしているのは、約四万六千戸のおよそ一〇万人である[1]。現地に希望を失い、故郷を離れていく若者も多い。それはなぜだろうか。
政府の復興予算の不足が原因とはいえない。日本政府は津波の被害総額を一六・九兆円と見積もった。それにたいし自民党政権は二〇一三年一月、二〇一一年からの五年間の合計で二五兆円の復興予算を充て、民主党政権時代より六兆円増額すると決定した[2]。
政府機関の腐敗のせいだろうか。近年の日本では、一九七〇年代にくらべ汚職は減少している。復興関係の汚職は報道されていない。復興予算の一部が、他の公共事業に流用されていることは報道され、強い批判をあびた。しかしそれを差し引いても、多額の予算が現地に投じられている。
日本の官僚たちは、一般にまじめで職務熱心だ。被災地の市や町の職員は、さらに熱心に働いている。被災地では市町村職員の多くが被災し、死亡者も多かった。たとえば岩手県大槌町では、町長が死亡したほか、一三六名の町職員のうち三二名が死亡し、残りの職員も家族を失ったり、家を流されたりした。そうした状況で、職員がよく働いていることは、日本では広く知られている。そして現在では、他県から、多くの応援職員が派遣されている。
だが二〇一三年一月、その大槌町で、兵庫県宝塚市から派遣されていた四五歳の応援の一人が自殺した。その職員は二〇一二年一〇月から町役場の都市整備課で、区画整理や住宅移転の意向調査に当たっていた。その職員は自殺の前に宝塚市長との電話で、こう語っていたという[3]。「被災地は大変です。一生懸命やっているが、自分のやっていることがどれだけみんなの役に立っているかわからない」。
この職員の言葉に、復興が進まない理由が示されている。資金は投じられ、職員は熱心だ。しかし、復興計画やその実行方法が適切でないのである。この論文では、なぜこうした事態が生じたのか、現状と歴史の両面から分析する。
被災地の地形と社会
まず前提として、被災地がどのような場所なのか、地形と社会構造の二つの面から説明しておく。
東北地方のなかでも、今回の津波の被災地である三陸地方は、独特の地形と社会構造をもっている。なお、津波被害からの復興を論ずるため、本稿では宮城県と岩手県の被災地に対象を限定する。福島県と原発事故の影響については、今回は論じない。
三陸地方の沿岸は、小さな岬と入江の集合体である。一つ一つの入江には、数十戸の漁村がある。この地方の典型的な漁村は、数百メートル四方の入江に位置し、数十メートル程度の堤防をそなえた漁港をもつ。入江には山から川が注ぎこみ、百メートル四方程度の小さな平地があり、小さな畑と家屋が立つ。小さな平地は急峻な山に囲まれ、岬のむこうには同じような入江と漁村がある。漁村と漁村のあいだは、岬の尾根を伝うカーブの多い自動車道路を通じてしか、行き来できない。
個々の漁村は、「よりあい」と称される集会を定期的に開き、それぞれの家長が集まり、年長のリーダーのもとで集落の方針を決めていた。近代化のなかで、集落の住民組織は「自治会」、リーダーは「自治会長」として公認化され、行政と住民をつなぐ役割を果たしていた。
類似の組織は東京などの都市にも、「自治会」や「町内会」という名称で存在した。しかし都市部の自治会や町内会は、一九六〇年代の高度経済成長によって地方から上京した新住民が多くなったあとは、しだいに形骸化していった。しかし三陸の被災地では、二一世紀に入っても自治会に加入していない住民は少なく、自治会の集会の出席率も高かった。
このようなたくさんの小さな入江にまじって、比較的大きな入江がある。そこには比較的大きな川と、数キロ四方の平地がある。町役場や学校、魚市場、水産加工場、商店街、農地、鉄道駅などがある。人口は数千から数万だ。近接した山間部の盆地に、小さな農村が隣接していることもある。川の右岸や左岸、盆地、商業地帯などに、それぞれ数十戸から数百戸をたばねた集落がある。そのそれぞれに自治会があり、集落ごとの自立意識や対抗意識が強い。
この地域の基本的な構造は、以下のようになる。それぞれの「小さな入江」に、数十戸の漁村がある。数十の漁村の中心に「大きな入江」があり、そこに町役場や小学校、中学校がある。「もっと大きな入江」に行くと、市役所や高校がある。そのなかには、東京の企業が工場を開設しているところもある。この地方で「もっとも大きな入江」は、人口一〇四万の東北地方最大都市である仙台市だ。そこには宮城県庁と東北大学があり、欧米の銀行やアパレル産業なども支店を置いている。
今回の被災地のうち、こうした地形をもつ三陸地方は、宮城県から岩手県の沿岸に広がっている。カーブの多い沿岸の総延長距離は約六〇〇キロだ。この広い地帯に、集落を束ねる町庁や市庁があり、その町庁や市庁を県庁が束ねるという、ツリー状の社会構造が存在する。
ここで説明しておかなければならないのが、近代日本の県や市の政治的位置である。
一八六八年の明治維新の後、東京の中央政府は、地方に行政機関を置いた。しかし近代行政機構としての任務を負わせるには、最低の行政単位でも、三〇〇戸から五〇〇戸の人口を必要とした。そのため一八八九年には大規模な合併が行なわれ、それまで七一三一四あった町と村は一五八二〇に減り、新たに三九の市が創設された[4]。
こうして作られた町や村は、名称は村でも、複数の集落を集めた行政上の区分であった。村役場や町役場は、徴税や住民登録など、中央政府から命じられた業務を執行する行政機関であり、個別の集落の自治会の上部に位置するものであった。第二次大戦前の日本では、憲法には地方自治の規定は存在しなかった。県知事は中央政府から高級官僚が赴任する役職であり、住民の選挙で選ばれるものではなかった。
戦後にアメリカ占領軍による改革によって、地方自治のコンセプトが導入され、法律上の規定も作られた。県知事も選挙で選ばれるようになった。とはいえ、現在でも法律的には、県や市町村は「自治体」ではなく「地方公共団体」と規定されている。また多くの地方公共団体は自主財源では運営できず、中央政府の補助金の多くは使途が規定されているため、日本の地方自治は「三割自治」にすぎないとも通称されてきた。
また戦後にも、大幅な市町村合併が進んだ。とくに二〇〇五年の大合併で、市町村の数は一七一九まで減少した。明治初期の四〇分の一にも満たない。人口が日本の約二・四倍であるアメリカの自治体が、同時期に約五〇倍の約八万七千だったのにくらべれば、いかにも少ない[5]。このアメリカの自治体数は、「よりあい」で運営される自然村が大規模合併される前の、明治初期の市町村数と同等である。
こうした合併が行なわれたのは、財政難のためである。一九九〇年代以降、日本では経済の停滞のために税収が減った。その一方で、経済刺激策として公共事業の大幅増加と、所得減税と法人減税を行なった。そのため、中央政府はもちろん、市町村や県の財政もひどく悪化した。中央政府は、合併によって市町村の合理化をはかった。そして二〇〇五年三月までに合併すれば、一〇年は補助金(地方交付税)を減らさないこと、また一〇年は地方公共団体が新規に地方債を発行しても中央政府が認めること、などを約束した。多くの市町村がこの誘導にしたがったのである[6]。
この結果、現在の市町村は、以前にもまして、多数の集落をふくんだ行政組織になっている。一般の住民にとっては、市町村の政治さえ、遠いものになった。合併にともなって行政職員が削られたことは、その傾向を加速した。
また一九九〇年代以降、日本では製造業が衰退した。製造業の就業者数は一九九二年がピークで、二〇一二年には一九九二年の六二パーセントに減少した。冷戦終結と中国のグローバル市場参入などによって、東アジアの工業化が進んだのが主な原因だ。日本の製造業も、他のアジア諸国へ工場を移転している。
三陸地方でも、こうした影響はおよんでいる。岩手県の釜石市は、一八七四年に明治政府が国営製鉄所を設置して以来、『鉄の街』として知られる。かつては日本最大の鉄鋼会社である、新日鉄の製鉄工場がおかれていたが、一九八九年には製鉄は行われなくなった。新日鉄は現在、ブラジル、メキシコ、インドなどに製鉄工場を持っている。地元の強い要望により、新日鉄は工場を維持し、高品位の線材加工が行われている。しかし二〇〇八年での雇用は、最盛期だった一九六〇年代前半に比べ、約四パーセントにすぎなかった[7]。
一九九〇年代に公共事業が数多く行われたのは、こうした経済状態を救済するためだった。例えば一九八七年から九九年の間に、全国の美術館は二・六倍に、博物館は二・二倍に増加した[8]。こうして作られた施設の経営は多くが赤字であり、その維持費は地方公共団体の財政を圧迫し続けている。
しかし地方経済の衰退は止まらなかった。製造業の衰退とともに、一九九一年から二〇〇七年に全国の小売店は三分の二に減少した。形式的に店を開けていても、年金とあわせて生活を維持している高齢の自営商店主も多くなり、「シャッター街 」という流行語が生まれた。農業や製造業、商業に頼れなくなった若年層や中堅層は、仕事をもとめて都市に出ていくか、公共土木事業に集まった。その結果、一九九八年には日本の就業者数の約一一パーセントが建設業に従事していた[9]。その一方、東京などに本社をもつ大型ショッピングモールが、公共事業で作られた大型道路に沿って立つ風景が二〇〇〇年代に目立っていった。
こうした事態を加速したのは、一九八〇年代から九〇年代に行われた日米構造協議だった。一九八〇年代に日本の製造業の輸出競争力に苦しめられたアメリカ政府は、日本政府に農業と商業の市場開放と規制緩和を要求し、輸出の自主規制と内需の拡大を要望した。そして日本政府は、小商店を保護していた大規模店舗出店規制法を廃止し、公共事業によって内需を拡大することを約束したのである。
こうした社会構造と歴史的経緯が、二〇一一年の津波からの復興にどう影響したか。それを検証する前に、日本の災害の歴史と、そこで成立した災害対策スキームを概説せねばならない。
日本における災害と復興の事例
一九四五年以降の日本における、災害と復興の歴史は、三つに時期区分できる。
第一期は、一九四五年から一九六〇年まで。第二期は、一九六一年から一九九四年まで。第三期は一九九五年以降である。このうち第二期が、日本の経済成長が著しかった時期であり、災害対策スキームが形成された時期である。そして結論からいえば、この時期のスキームが形骸化し、弊害が大きくなったのが第三期といえる。
第一期は、災害の多発期である。日本は地震や台風、津波が多い地域であるが、この時期には対策が未整備だった。耐震建築や防波堤の普及度は低く、河川はすぐ氾濫し、死亡者は多かった。たとえば一九四五年の三河地震で二三〇六人、枕崎台風で三七五六人、一九四六年の南海地震で一一四三人、一九四七年のキャサリン台風で一九三〇人、一九四八年の福井地震で三七六九人が死亡している。
この時期の日本には、災害時の緊急対応と救助の法制はあったが、復興のための法体系は整っていなかった。災害には基本的に地方公共団体が対応し、財政面などの援助が必要な場合に中央政府が支援した。そのため広域災害の場合、管轄の地方公共団体の財政事情などにより、避難民むけの仮設住宅の質などが異なり、これが不満を増大させた。
その背景には、日本全体の経済と政治の状況があった。戦前の日本政府は国民の生活状態には関心が薄く、災害対応でもっとも重視されたのは治安維持であり、生活再建は個人の責任とされていた。第二次大戦下では軍需産業に予算と人員を重点配置したため、治山治水がおろそかになり、戦後の災害多発を招いた。敗戦後の経済状態は悪く、政府の財源は少なかった。一九四五年から五二年までは米軍の占領下にあり、その後も政権は不安定だった。
それにたいし第二期は、政治と経済の安定期だった。一九五〇年代後半には日本は高度経済成長期に入り、毎年一〇%ほどGDPが増大していった。一九五五年には、分裂していた保守政党が合同して自由民主党ができ、統治も安定した。
そして一九五九年、この時期の最後の大災害である、伊勢湾台風によって五〇九八人の死者が出た。そして一九六一年に災害対策基本法が制定され、一九六二年の激甚災害法など、各種の法制が整備された。
これによって整備された災害対策スキームのコンセプトは、以下の四つといえる。
第一に、復興の主体は、地方公共団体の行政機関である。まず地方公共団体が支援と復興にあたり、不足の場合には中央政府が自衛隊の出動や補助金などで支援する。また行政機関を補佐する民間団体として、日本赤十字社、地域の町内会や自治会といった政府公認組織が重視された。町内会や自治会の長は地域有力者で、自民党の支持者が少なくなかった。市町村には消防団が組織され、政府の消防隊や警察が来援するまでに、消化と救助の活動に当たることとされた。
第二に、復興支援の対象は、地方公共団体である。より正確に言えば、中央政府は県や町などの地方公共団体を財政支援し、地方公共団体が被災者に食料配給や避難所提供などの緊急支援を行なう。そして復興は、地方公共団体が中央政府の補助をうけ、堤防や道路など公共資産を建設する形で行なわれるのである。防潮堤などの既存施設が破損したさい、災害を機会により巨大なものに改良することも許容される。
一方で、被災者個人の住宅再建などは、基本的に個々の責任とされ、原則として支援は行なわれなかった。その理由とされたのは、住宅再建などへの支援は国税を使って個人資産を形成することにつながり、それによって不平等を生みだし、憲法に違反するというものだった。この原則は、ときに「焼け太りは許さない」という言葉で要約されたともいわれる。
消防団員は一般市民で、公式には非常勤地方公務員であり、消防団長は市町村長から任命される。原型の民間団体は江戸時代からあったが、一八九四年に日本政府の公認組織となり、戦争中は警防団として警察に協力する組織となっていた。これは敗戦後に戦争協力機関として廃止されたが、一九四七年に警備協力の性格をのぞいた消防団として復活した。
第三に、住民参加による地域の回復力(レジリエンス)の強化よりも、建築物による物理的な防災が重視されたことである。その方法は、二つに分かれる。一つは新規建設住宅の建築基準を強化し、建主の私費による耐震建築普及をうながしたことである。もう一つは、被災地域の地方公共団体に補助金を出し、堤防やダムを建設したことである。後者には港湾整備や道路建設なども含まれ、産業開発と近代化を促すことを狙う政策でもあった。
第四に、均質性を重視したことである。避難民に供給される仮設住宅などには、中央政府が決めた基準が設けられ、どの地域でも一定の均質性が要求された。
均質性を財政面で保障する法体系も整えられた。地方公共団体への財政支援が制度化され、補助の比率にルールも設けられたのである。比率を決めている法律や担当官庁は、建設対象が防潮堤なのか、文教施設なのか、農地整理なのかなどによって異なる。
そうした法律の一つである「公共土木施設災害復旧事業費国庫負担法」の規定では、地方公共団体の標準税収入が小さく、復興の公共事業の規模が大きいほど、中央政府からの補助の割合が大きくなる。具体的には地方公共団体の標準税収入の二分の一に相当する事業の補助率は三分の二、二分の一を超え二倍に達するまでは四分の三、二倍を超える部分は全額中央政府が負担する。
こうして一九六〇年代初頭までに、日本の災害対策のスキームは完成した。各地に公共事業を行なう経済的負担は少なくなかった。一九六〇年代前半には、中央政府の一般会計の八%が防災関係に支出されている[10]。しかし高度経済成長によって税収が増加し、政府の負担は軽減された。
一般においても、経済成長によって住宅の新規建設が盛んとなり、耐震基準を満たした建物が普及した。とくに一九八一年改定の基準を満たした住宅は、震度七を記録した一九九五年の神戸の震災でさえ、七五パーセントは被害がなかった[11]。
この結果、災害による死者は劇的に減少した。また偶然にも、一九六〇年から一九九五年まで、日本は大きな自然災害には襲われなかった。一九八四年以降は、各地の防災公共事業も一巡したためもあって、防災関連支出は中央政府支出の五%以下まで低下した。
こうした復興スキームは、高度成長期に適合していた。一般に経済成長下にある途上国では、災害後にはGDPの増大がみられる。災害は経済学的にはストックの流動化であり、老朽化したインフラストラクチャーの更新と需要の増大を生む。日本においても、一九五九年の伊勢湾台風で被害を受けた愛知県の製造業は一か月後には元の生産高に復帰し、名古屋市のGDP成長率は一八・八%、翌年は三〇・一%に達した[12]。これは当時の日本の経済成長率に比べ、顕著に高い。
またこうしたスキームの背景には、一九二三年の関東大震災後の都市再開発で、東京が近代都市に躍進したという歴史観があった。関東大震災では、震災で焼けた東京東部から、西部郊外への人口移動があり、その機会に再開発が行なわれた[13]。これが可能だった一因は、日本が経済発展期の途上国だったことと、賃貸住宅居住の労働者が多く、移転に問題が少なかったことである。しかしそうした構造的背景への留意が不足したまま、災害は公共事業と再開発による経済発展の好機であるという認識が、一部の学者や官僚に形成されていった。
しかし災害が経済発展をもたらすという法則は、グローバル化時代の先進国には、必ずしも適合しない。二〇〇五年のハリケーン・カトリーナに被災地であるニューオリーンズでは、二〇〇八年までに人口が約三割減少した。
地域に密着した産業を基盤とし、地域の相互扶助やサブシステンスで成り立っている社会の場合は、災害と再開発によって地域社会が変質すると、むしろ衰退が進む。道路などのインフラを整備しても、一時的な建設業の雇用を生むだけで、作られた道路を通じて大都市への人口流出が進むという「ストロー効果」がおきやすいことは、九〇年代以降の日本でもよく知られる。後述するように、災害を機会にした公共事業の場合も、それは変わらない。
また他の問題として、このスキームが制度化されるさい、多元化と硬直化がおきたことが挙げられる。中央政府の災害対応と復興支援は、個別の法制と行政手続きに従い、国土庁、運輸省、建設省、農水省、通産省などがそれぞれに担当した。現在でも、防潮堤建設などは国交省が担当するが、それによって地域社会の農業や漁業にどういう影響が出るかは農水省の管轄である。それらを束ねるのが内閣であったが、どのようなグランドプランのもとに復興を行なうかを審議し、またその結果を査定する恒常的組織は、事実上なかったといえる。このため、総合的視点を欠いた硬直化が生じていった。
またこのスキームでは、財政力の小さい地方公共団体が、大きな復興事業の計画を立てれば、多くの中央政府から補助金が獲得できる。このため災害を好機として、従来から計画されていた再開発や土木事業を行なおうという「災害待ちの気分」が一部の地方公共団体に生じていたことは、すでに一九七一年に建設省の官僚も認めていた[14]。
それでも問題が露呈しなかったのは、経済成長の時期だったからである。明確なグランドプランがなくとも、経済成長と人口増加が続いている限り、港湾や道路を整備することに異論はなく、それによって地域は発展した。自民党議員や土木業者の癒着が生じたり、地域の少数者に不利があったりなどの問題もおきたが、経済成長が続いているかぎり全体を揺るがす問題にまではならなかった。
そして第三期である。この時期は、日本経済の低迷と、政治の不安定期に当たっている。
一九九二年に日本経済はゼロ成長となり、製造業の就業者数も減少して、インフラ整備の効果も低下した。人口も二〇〇六年から減少に転じ、日本の平均年齢は一九七〇年に三一・五歳、一九八〇年に三二・六歳だったが、二〇一一年には四四・九歳となった。地方の過疎化と高齢化は著しく、敗戦直後には約二〇〇万人だった全国の消防団員は二〇一三年には八七万人となり、団員の高齢化も進んだ[15]。
そして一九九五年、兵庫県神戸市を中心とした阪神大震災で、六四三四人が死亡した。その後はふたたび災害が増加し、二〇〇四年と二〇〇七年の中越地震、二〇一一年の東日本大震災と福島第一原発事故などが、その後にあいついでいる。これらの災害と復興の過程で露呈した問題を、以下に記述する。
阪神大震災の教訓
一九九五年一月におきた阪神大震災については、多くの研究が行なわれ、さまざまな問題が指摘された。その多くは、従来のスキームが硬直化し、実情にあわなくなっていることを示していた。こうしたことが突然に露呈したのは、一九六〇年から三五年間に大規模震災がなかったという偶然もあるが、小規模災害が耐震建築の普及などにより顕在化しなくなっていたため、大規模災害によってスキームと実情の不適合が顕在化したことにも起因している。
そのうち避難と住宅の問題として指摘されているのは、以下の点である。
① 被害が特定層に集中した。一〇四九〇六の住宅が全壊し、一八六一七五世帯がそこに住んでいた。死亡者の大半は住居の倒壊による圧死だった。これらは一九八一年耐震基準以前に建てられた古い住宅に多く、結果として貧困層と高齢者に多かった。
② 都市化と宅地開発が進んでおり、約三一万六千の被災者を一時収容する余剰地がなかった。政府が避難民収容に使えた施設は、地域の学校の校舎が中心だった。
③ 仮設住宅の建設用地と、仮設用のプレハブ住宅の不足により、仮設住宅建設が遅れた。仮設住宅の発注は、地方公共団体が平時から災害協定を結んでいたプレハブ建設の協会に出され、政府基準を満たす国内メーカー製を用いるのが原則であり、輸入などは例外的にしか行なわれない。
④ 損壊した自宅のローンが残ったまま、再建のローンを組んで、二重債務となった例が多かったことが、新たな問題として注目された。自営店主の場合、所有している店舗の損壊もあった。しかし個人資産に補償はしないという政府方針により、住宅再建への政府の支援はなく、公的融資と利子補給が行なわれたにとどまった[16]。
⑤ 政府の住宅再建支援がなかった代わりに、四八三〇〇戸の仮設住宅と四二一三七個の公営住宅の建設は、公共資産の建設として行なわれた。仮設住宅は建築基準法の規定では二年、特別法による延長でも最長五年で解体されたが、建設と解体などの費用で一戸当たり平均約五〇〇万円かかった。避難所から応急仮設住宅、さらに復興公営住宅に移動した場合、要した公的負担は一世帯当たり約一二〇〇万円から一九〇〇万円にのぼる[17]。さらに家賃補助や、公営住宅の用地取得代を含めると、政府の負担は一世帯当たり三〇〇〇万円を超えたと試算されている[18]。これらの資金を、被災者の住宅再建支援に直接充てたほうが、効率的だったとの指摘がある。
⑥ 公営住宅用地に確保できたのは、通勤などに不便な郊外の土地もあり、需給のミスマッチが生じた。入居応募倍率が一を下回ったり、入居応募者がいないといった事態も生じた[19]。
⑦ 公営住宅の入居に所得制限などがあるため、相対的に高齢者と貧困者の入居が多くなり、公営住宅団地が社会的弱者の集まりとなりやすかった。二〇〇二年度に行なわれた公的調査によれば、復興公営住宅の六五歳以上の比率は五四・六パーセント、世帯人数は一人が三七・四パーセント、二人が三二・〇パーセントであり、高齢単身および高齢夫婦の居住が多い。職業は無職が四一・七パーセント、退職・年金生活が一八・三パーセントである[20]。アルコール依存や自殺、うつ病などが発生しやすく、職員やボランティアなどによる巡回などが行なわれたが、解決には至らなかった。
また、復興過程での問題は以下である。
① 政府と地方公共団体の復興政策は、空港や港湾の整備、公営住宅建設、被災地域の再開発など、公共土木事業が主体だった。しかし工事を請け負ったのは、域外の大規模建設会社に多かった。一九九八年までの兵庫県内需要増大は七・七兆円にのぼったが、その八九・四パーセントが域外に流出したと試算されている[21]。
② 雇用のミスマッチが生じた。復興後の求人は建設職に多く、その需要は一時的であり、若年の一時雇用に偏りがちだった。しかし求職は中高年の事務職が多く、失業や人口流出が生じやすくなった。政府は被災失業者を公共事業で雇用させる就労促進特別措置法を制定したが、罰則がないうえ、上記のミスマッチのためほとんど効果がなかった[22]。
③ 産業構造の転換が妨げられた。神戸の主産業だった港湾業や重工業は、グローバル化でアジア諸国との競争にさらされていた。神戸港は一九八〇年にはコンテナ取引量で世界三位だったが、一九九三年には香港、シンガポール、高尾、釜山に抜かれて六位となっていた。神戸市全体がより高度な産業への転換が必要な時期だった。しかし復興事業では建設業が人為的に成長し、結果的に転換が妨げられた。一方で在来産業の衰退は加速し、神戸港のコンテナ取引量は二〇〇三年には三二位となった[23]。
④ 産業の衰退と人口流出が地域経済を押し下げ、小売業なども低迷した。一九九五年の被災地と日本全体のGDPを一〇〇とすると、二〇〇三年には被災地は八八、日本全体は一〇三となっている[24]。
⑤ 不適切な再開発が行なわれた。靴製造業が集中していた神戸市長田区は、火災により関連企業の八〇パーセントが全半壊ないし全半焼した。ここは「後家さんの街」とも呼ばれたインナーシティで、単身になった女性が安価な住宅を借り、努力して優秀なミシン工になれば生活に不安のない街だった[25]。その跡地で、大規模な区画整理と再開発が行なわれたが、神戸全体の景気低迷のため、整備されたショッピングモールには店が入らなかった。約五万人の靴製造業従事者のうち、職を失った者の約三分の一が地区を出て行った。再開発費用にみあう効果がなく、地域社会のサブシステンスを破壊する結果になったと批判されている[26]。
⑥ 再開発にあたり、行政が原案を決め、住民に形式的に合意をとりつける傾向があった。これが地域社会の事情に合わない大規模再開発を発生させる一因となった。
⑦ 復興事業として行なわれた公共事業には、地方公共団体がもともと計画していたものを、復興事業の名目で中央政府の補助金で実現したものがあった。「防災の拠点」という理由で建設された神戸空港は、利用数が見込みを下回り、赤字経営となった。それらを含め、復興経費名目での政府支出は一六兆円、被災者一人当たり約四〇〇〇万円に相当するという試算があり、それに見合う効果がなかったと批判されている[27]。
こうした全体状況が個人に表れたケースとして、一事例を引用する。震災から7年後、38歳のバーのマスターが肝硬変で死んだ。彼の死は、神戸の震災の死者数にカウントされていない。下記は、彼の友人の新聞記者が二〇一一年に書いた文章である[28]。
一九九五年二月、神戸に入り、彼とじっくり話しました。地下にあった店は浸水し、電気関係は壊滅状態だったのを自費で修理したそうです。「ここは俺の城や。ぜったい続けたる」。涙目で彼は訴えていました。
二年も経つと町並みがそれなりに整備され出し、復興市営住宅や県営住宅がどんどん立ち、仮設住宅に住む人たちが減り始めました。だけど、復興が進んでいるはずなのに、店に客が戻らないのです。「なぜだろう」と彼とよく話し合いました。
彼は夜の営業だけでなく、昼はランチを出し、空いた時間は郵便配達のバイトをこなし、少しでも収入を得ようとしました。だが、借金でにっちもさっちもいかず、2000年に彼は店を閉めました。奥さんと二人の子供とも別れました。閉店の前から、目の前の苦しさから目をそむけるように食事も取らず、酒をあびるようにあおっていたようです。店で倒れていたのを常連客が発見し、長期入院したことがありました。閉店後は飲酒が加速してしまいました。彼の父によると、最後の言葉は「何でこうなったんやろ」だったそうです。10年近く経った今も、彼の店の前を通ると泣きそうになります。
災害とは、自然現象と社会的要因の関数である。自然現象があっても、適切な社会的対応があれば、災害の規模は小さくなる。適切な対応があれば、自然現象があっても災害は小さくなる。神戸の状況は、公共事業を中心としていた一九六一年のスキームが適合しなかったために、より悪化した。
本稿の副題になっている経路依存path dependence とは、過去に作られた制度や政策決定のあり方が、状況の変化に不適合になっているにもかかわらず、惰性や利害関係のために変更できなくなっている状態を指す。日本の災害対策スキームは、他の多くの日本の法制や慣習がそうであるように、高度成長期に形成されたまま経路依存をおこしていたのである。
二〇〇〇年代の災害復興
従来から日本政府は、緊急支援や公共資産の建設は行なうが、個人の住宅再建支援は自助努力であるという原則をとっていた。しかし神戸の震災から、政府が被災者に直接に支援する制度の設立がめざされた。
この法律の制定に、作家の小田実が尽力したことはよく知られる。神戸で被災した小田は、震災直後から「市民救援基金」を設立し、「先進国で公的援助のない国などない。法律がないなら市民の手で」と一九九六年五月から「生活再建援助法案」の成立を目指して運動を始めた[29]。一九九六年九月には、神戸と全国の生協により「地震災害等に対する国民的保障制度を求める署名推進運動」が開始され、約二四〇〇万の署名が集められた。
一九九八年五月、被災者生活再建支援法が国会で可決成立した。しかしこれは、住宅が全壊ないし半壊した世帯に生活再建に必要な資金を最大で一〇〇万円支給するもので、使途が生活必要品購入や医療費などに限られており、いわば緊急支援の延長という性格を残していた。また年収八〇〇万円を超える世帯は対象外であり、住宅再建のための制度は見送られた。年収八〇〇万円であっても、住宅再建のためには二重債務が必要な場合が多かった。
二〇〇三年の改正では、仮住まいの家賃や、損壊住宅の解体撤去と整地の費用などに、最高二〇〇万円が支給されることになった[30]。しかし住宅本体の再建費用は見送られ、所得制限も残された。二〇〇七年、新潟県中越沖地震の発生と、自民党の参議院選挙での敗北といった状況の変化があり、使途制限と年収制限が撤廃され、最大で三〇〇万円までが支給されることとなった。しかし日本では、これは住宅再建には不十分な額である。
また第二の変化は、一九九八年の特定非営利活動促進法(NPO法)の成立である。それまで日本では、非営利団体が法人格を取得する場合には行政機関の許可が必要であり、法人格取得後も主務官庁による指導を受けることがあるなど活動に制限が多く、市民による自由で自発的な活動に適した法人格が求める運動がおきていた。一方で従来の政府公認民間団体だった町内会や自治会は、とくに都市部で加入していない人口が増え、自治会幹部や会員が高齢化して、力を失っていた。
メディアの発達により、神戸の震災が広く報道され、被災地外から自発的なボランティアが神戸を多数訪れた。しかしそれを受け入れて適切に配置する経験が、行政や地元自治会に十分あったとはいえなかった。民間の非政府組織がそれをサポートして有効性が注目され、震災後にNPO法が制定されることにつながった。この後に法人格を取得した非政府組織は、東日本大震災でも活躍することになった。
しかしその他の面では、阪神大震災後も、大きな変化があったとは言いがたかった。その一因は、神戸の教訓が、広く共有されなかったことである。神戸の産業は衰退したが、近隣都市である大阪に通勤する住宅地として、町並みは再建された。そのため弊害が目立たず、仮設住宅における高齢者の状況などが、構造的な理解を欠いたまま、悲劇として報道されるにとどまりがちだったのである。
前述したように、二一世紀に入り、日本各地で災害が多発するようになった。その多くは、日本のなかでも地方村落でおこった。それらの地は、農業や漁業が衰退して公共事業以外の産業も少なく、高齢化が進んでいるところが多い。
高齢化と人口流出が一定以上に進み、もはや地域として持続可能性のない地域は、「限界集落」と通称される。二〇〇六年の政府による全国調査では、高齢者(六五歳以上)が半数以上を占める集落が一二・七パーセント、機能維持が困難となっている集落が四・七パーセント で、後者の大部分は自然消滅の可能性が高いとされた[31]。そうした地域は、高齢化や住民活動の衰退で山河の手入れが不十分になったり、「平成の大合併」によって行政が手薄になったりしたところも少なくない。
一九九〇年代から二〇〇〇年代の災害でも、そのような地域に、高度成長期のスキームで災害復興が行なわれた。一九九三年の津波によって漁港が被害をうけた北海道奥尻島では、約四七〇〇人の島に対し、総額約九二七億円をかけて、高さ一一メートルの防波堤建設、人工地盤や高台宅地の造成、盛り土による市街地のかさ上げなどが行われた。しかし人口は二〇一一年までに三分の二に減少し、漁業組合員は半分以下になった[32]。名目的には漁民でも、建設業で生計を立てている者も少なくない。
二〇〇三年に土石流災害にみまわれた、熊本県水俣市に属する山間部の宝川内集落には、砂防ダム工事、治山事業、林地荒廃防止施設、農地区画整理などに総額三二億五二〇〇万円の事業が実施された。しかし災害前から八〇人程度しかいなかった人口は、二〇〇八年までに半減した[33]。単純計算で住民一人あたり四〇〇〇~八〇〇〇万円が投じられながら、集落の維持には効果が薄かったといえる。
現状では、中央政府の災害復興事業の多くは、国交省や農水省、林野庁など各省庁が管轄する、公共土木事業として行なわれる。こうして公共資産の充実がはかられる一方、被災者個々人の生活再建は、基本的には自助努力にまかされる。地方公共団体は、既存の制度に沿って、公共事業と補助金の申請を行なう形態をとりがちだ。住民の参加回路が十分に機能せず、行政側の公共事業原案がそのまま決定してしまうケースが多い。建設会社や地元政治家には、こうした公共事業を歓迎する傾向もある。
また前述したように、法律の規定により、財政力の弱い地方公共団体が巨額の公共事業を行なうほうが、中央政府の補助が大きくなる。新潟県中越地震で被災した山古志村が、二〇〇四年度に実施した災害復旧事業七四億円のうち、中央政府の国庫負担は九九・八パーセントだった[34]。このため小規模で持続可能な復興事業を行なうより、短期的な雇用のため巨額の公共事業を行なうことを、地元民が肯定してしまうことも多いともいわれる。
しかしそれによって作られた公共施設の維持費は地元負担の場合もあり、その後の財政状況を悪化させる。中央政府の財政にとって圧迫であるのは、いうまでもない。
また現在のスキームによる復興支援は、しばしば被災地の市場取引の回復を阻害し、結果的に被災地の産業構造をゆがめる結果を招いている。
たとえば二〇〇四年の新潟県中越地震に襲われた小千谷市のケースでは、地震から五か月後の災害関連売上は、建設業で四二パーセント、卸売業で〇パーセント、殷書店で六パーセントである。また全産業を通じて、従業員数の多い企業ほど売上高の回復率が有意に高かった。神戸市長田区のケミカルシューズ産業では、二〇〇七年の時点で産業全体の生産高は八〇パーセント程度まで回復したが、関連事業所数は六〇パーセント、従業員数は五〇パーセントしか回復しておらず、零細事業所の廃業と企業集中が進んだことを示している。本社を長田におきながらも、生産拠点を海外に移した事業所もある[35]。
これらのことは、現状の日本の社会構造と災害対策スキームにおいては、災害は零細の卸売業や製造業にとって厳しい一方、建設業にとっては利益が大きく、大手企業への集中や海外移転の促進につながりやすいことを示す。廃業した零細・自営の高齢者には、職と住居を失い、仮設住宅や公営住宅での無職生活や生活保護になった者もいるだろう。これらが地域社会をどう変えていくかは、明らかである。
さらに二〇〇七年の新潟県中越沖地震では、新潟県の柏崎刈羽原子力発電所が、深刻な被害を受けていた。日本の地方に原発が散在していることを考えれば、地方での災害で原発が何らかの影響をうけることは、いわば必然である。しかし東京電力が実情を秘密にしたこともあり、これも教訓が意識化されなかった。
こうした経緯を経て、二〇一一年三月、東北地方を巨大な地震と津波が襲った。冒頭に述べたように、福島第一原発災害の影響については別の機会とし、本稿では津波災害からの復興について述べる。
進まない三陸復興
東日本大震災後の三陸地方の被災地で出た問題点は、前述した阪神大震災のものと基本的に変わっていない。仮設住宅の建設の遅れ、災害対策スキームの経路依存、トップダウンによる大規模公共事業への偏重、といったものである。
冒頭に述べたように、三陸では震災から二年以上を経ても、約一一万人が仮設のプレハブ住宅で暮らしている。災害救助法の適用をうけた運用基準では、仮設住宅の建設費用は二三八万七〇〇〇円、一戸の規模は二九・七平方メートルの2DKと定められている。
しかし現実には、夏に暑く冬に寒い三陸では、避難が長期化するにつれ、断熱材の追加や水道管凍結防止など、追加工事があいついだ。二〇一三年四月の報道によると、宮城県内で仮設住宅一戸当たりに費やされた平均費用は、追加工事をふくめ約七四四万円にのぼっている。それにもかかわらず、耐用年数は二年程度と想定されているプレハブ住宅は、床の腐敗やカビの発生などが頻発していた[36]。
前述のように、被災者生活再建支援法によって、最大三〇〇万円が被災者に直接支給可能になった。岩手県大槌町の事例では、このほかに岩手県からの生活再建支援金が一〇〇万円、大槌町の独自支援金が二〇〇万円ある。これらを仮設住宅に費やされた七〇〇~八〇〇万円に加えると、一世帯あたり約一三〇〇万円になる。その費用で政府が被災者に恒久住宅を建てるか、住宅再建支援として直接支給すれば、「この上ない支援」になっただろうと岩手県大槌町長の碇川豊氏は述べている[37]。しかし、従来の災害対策スキームの法的制約と経路依存のため、税金が小出しに費やされるにとどまり、被災者は住宅再建のめどがたたず、仮設住宅から出られないままだ。
仮設住宅から避難民が出られないのは、復興計画の実施が遅れているからである。神戸の場合と大きく異なるのは、避難民が従来住んでいた土地の大部分が、ふたたび津波をかぶる可能性があるという理由で災害危険区域に指定され、住宅再建が事実上禁じられていることだ。政府の復興防災事業によって、移住する新規の土地が造成されるまで、避難民は仮設住宅から出られない。
復興計画は、どこの市や町でも、基本的に似ている。以前より高い防潮堤を建設する。平地を流れる川を津波がさかのぼったため、護岸工事を行なう。数メートルの土を盛って、土地そのものをかさ上げする。高台や山腹に新規の土地を造成し、公営住宅を建設するか、民間住宅の建設を可能にし、住民の移転をうながす。こうした防潮堤・護岸工事・盛り土・高台移転の組合せが、どこでも検討されている。
移転して人が住まなくなる低地の土地は、公有地として買い上げ、その地域人口には不似合いなほど大きな公園やスポーツ施設などに充てられる案が多い。住民が数千しかいない地域に、野球場を二つ作るという復興計画案もあったといわれる。それ以上に問題なのは、復興計画の策定が、しばしば現地への理解を欠いた、トップダウンのものになっていることだ。
宮城県での復興計画は、国土交通省東北地方整備局と宮城県庁の連絡会議の名称で、二〇一一年九月に公表された文書から始まった。そこでは三陸沿岸各地の防潮堤の高さの指針が示されたが、それらは従来あった堤防の二倍から四倍の高さだった[38]。被災した県内の市町村は、この指針に沿って中央政府に事業申請準備を開始した。
防潮堤は立方体の建造物である。単純計算でいえば、堤防の高さを従来の三倍にすれば、建造物としては二七倍の規模となる。もっとも環境に影響を与える土台の底幅は、高さの四倍以上になることが多い。しかし従来からあった堤防を高くすることは、復旧工事であって新規工事ではないとされているため、新規の公共工事には義務付けられている、環境アセスメントは省略される。そのため漁業や環境への影響が懸念されている。
また小さな入江の小さな平地に、堤防建設と護岸工事を行なうと、可住面積が狭くなってしまう。宮城県気仙沼市の唐桑半島にある只越地区では、一一・三メートルの堤防を海岸と河川に整備し、平地の海沿い部分は四・五メートルの盛土をする計画となっている。この計画をそのまま実施すると、只越地区の浸水区域(平地)のうち、約三九パーセントが堤防用地としてコンクリートに覆われると試算されている[39]。住宅と産業のための地域として残るのは、山と堤防に囲まれた、くぼみのような複数の狭小地だけだ。
四メートルもの土を運んで盛り、高くした土地は、土台として安定するまで時間がかかるうえ、基礎としての安定性に懸念が残るという意見もある。図面上での計画が先行したため、現実性に疑問の声も少なくない。
二〇一二年に宮城県名取市が作成した議会懇談会報告書には、仮設住宅にいる被災者からの意見として、以下のようなものが挙げられている。「宅地をかさ上げして液状化の心配はないのか」「宅地のかさ上げに三六〇億円かかる。本当に必要か」「かさ上げする土はあるのか。一〇tダンプで一日五〇〇台×二〇日/月。四年八カ月かかると聞いた。この計画では家が建つまで七~八年かかる」。これらへの市からの回答として記されているのは、「技術的な対策は当然なされるものと考えています」「早期に事業着手し被災者が生活再建に取り組めるよう努力してまいりますのでご理解願います」といったものである[40]。
盛土、防潮堤、護岸工事、高台移転、新規造成などは、一連の事業である。こうした工事が終わるまでは、被災者は住宅建設ができない。工事を行なうには、平地に住んでいた被災者の合意をとりつけ、私有地を買収することが必要である。そうした交渉を終えたあと着工することになるが、完成が何年後になるか、その後の住宅や商店の再建がどうなるのか、見通しが立たない。住民はその間、仮設住宅に住み続けるしかない。
仮設住宅から自力で出ていく、という選択肢はある。出ていく者は、自力で移住先に土地と住宅を買うことになるが、津波で流された家のローンと二重債務になる者もいる。これは個人資産形成であるとされるため、利子補給など一部の施策をのぞけば、公的支援は原則としてない。
産業が復興しないまま人口が流出すれば、税収が低下し、町や市には堤防などの公共施設の維持費が負担できなくなる可能性もある。宮城県南三陸町の二〇一二年度の税収は、震災前の約六割減だった。
三陸の入江にある集落の場合、平地からの高台移転が進めば、防潮堤で守られるのは主として道路と農地である。震災前から、人口減少と高齢化などのため、耕作放棄された農地もかなりあったとされている。住民からは、「どうせ住めないのに、なぜ防潮堤にこだわるのかよく分からない。それよりも、早く仮設住宅から出られるようにまちづくりを進めてほしい」という声が多いといわれる[41]。
また行政側は、住民に選択肢を十分に提示していない。宮城県石巻市に属する雄勝地区では、二〇一一年一〇月から一一月に、石巻市の行政当局が「住宅高台移転に伴う意向調査」を行なった。その冒頭の問いで、「住みたい場所はどこでしょうか」と問われており、選択肢は①雄勝地区、②雄勝地区以外、③まだ決めていない、の三つであり、その後には「②、③を選択された方はこれで調査終了になります」と書かれていた[42]。地区に住み続けるか決めかねている者は、意向調査の対象にならない。
この雄勝地区では二〇一一年一一月から一二月に、石巻市主催の住民説明会が行なわれた。市側から示された案は、高台移転、防潮堤、盛り土、護岸工事、平地の買上げとスポーツ施設建設などを組み合わせたものだった。住民の大部分はこうした計画を初めて提示されたため、多くの疑問が出された。
現在の雄勝地区では、若干の修正が加えられた復興計画が、いちおうの住民合意を得ている。二〇一二年六月、雄勝地区に含まれる一集落の住民と、市の行政職員が行なった話合いの様子が、テレビで報道されている。そこでの住民側の発言によると、震災後に各地の仮設住宅に分散していた地区住民が一堂に会したのはこれが初めてだった。そして行政側からは、市側が提示した計画に合意しなければ、中央政府や県から雄勝地区は忘れられる(つまり政府からの支援がなくなる)という趣旨の発言があり、その場で合意するか否かの決議が行なわれた。この場で決めていいのか、という住民側の意見もあったが、決議が行なわれ、賛成多数で合意成立ということになった[43]。
こうして手続き上は、住民の合意はとりつけられた。しかし二〇一二年一〇月から一一月に行政側が行なった住民意向調査では、この計画で復興される雄勝地区に住む予定であると答えている住民は三六パーセントにとどまった。集落によっては、一割ほどしか予定していない[44]。
計画に賛同した住民には、自分の土地を政府に買い上げてもらい、その資金で地区外へ移転することを考えた者が含まれていたと思われる。計画実現が何年後になるか不明であり、それまで住宅建設も商店営業もできないのであれば、そう考える住民がいることは責められない。しかしそれでは、防潮堤をはじめとした公共工事は、ほとんど人が住まないのに行なわれることになる。
復興後の雄勝地区に住むことを希望するのは、高齢者が多いといわれる。雄勝地区の総人口は、震災前は四三〇〇名であった。前述した二〇一二年一一月の意向調査では、将来の居住予定者は一五六五名である。集落によっては、高齢者を中心とした二〇~三〇名しか住むことを予定していない。こうした実情が明らかになった後は、さらに予定者が減っているともいわれる。
危惧されるのは、そうした集落、および町が持続可能であるかだ。すでに被災地の自治体は、人口流出や産業基盤の喪失などのため、税収が大幅に減っている。二〇一二年五月の報道によると、宮城県南三陸町の税収は、震災前の三九パーセントにすぎない。岩手県の大槌町や陸前高田市も、四五パーセントほどである。今後は、さらに減少していく可能性が高い。復興公共事業の費用は補助金で潤沢だが、通常の行政サービスの財源維持が不安であるという声も多い。大槌町長の碇川豊氏は、寄付集めに各地を奔走しながら、「施設ではなく一般財源を助けてくれませんか」と発言している[45]。
防潮堤を作り高台移転をしても、数十人の高齢者が住む新規造成地が点在するという未来も予測される。そうなれば、税収はさらに低下する。巨大な施設を作れば、それだけ維持の負担も重くなる。その一方、数十人の高齢者だけが住む小集落が増えれば、行政は福祉サービスの支出を増大させないかぎり、雪かきや道路の維持もままならない。政策的に「限界集落」を量産するような復興計画だという声もある。
こうした復興計画に対し、住民からも異論が出ている。南三陸町の伊里前地区の住民からは、「人が住まなくなった伊里前地区に八・七mの防潮堤が必要でしょうか」「工事期間中、海産物にどのような影響を与えるのか心配でなりません」という文言を含む、防潮堤建設計画の再考を求める陳情が町議会に提出された。二〇一二年一一月、町議会はこれを賛成多数で採択している[46](南三陸町議会 2013)。保守的な傾向がある三陸地方の町議会が、県や中央政府の公共事業計画に再考を促すような陳情を採択することは珍しい。
住民側が独自に計画を作成し、行政と対立したケースもある。気仙沼市に属する舞根地区は、五二世帯のうち四四世帯が家を流された。小さな入江に小さな集落がある、三陸地方の典型的な漁村である。この地区は、住民主導で養殖漁業とグリーン・ツーリズムによる地域振興を行なっており、巨大な防潮堤の建設は漁業環境と景観への影響が懸念された。そして震災一か月後には、行政側の計画通知よりも前に、住民二六世帯が自発的に付近の高台への移転計画を作り、二〇一二年三月には地域住民のあいだで合意がまとまった。そして二〇一二年四月には、住民側から呼びかけて、行政との話合いが持たれた[47]。
この場では、宮城県と気仙沼市の行政担当者、市議会議員、住民などが集まって質疑が行なわれた。このとき行政側は、舞根地区に九・九メートルの防潮堤を建設する方針であることを表明した。住民側は、自発的に高台移転をするのになぜ防潮堤がいるのかを問うた。このとき行政側は、低地が無人になったとしても、道路などの公共資産を守るために防潮堤は必要であると主張したという。舞根地区住民は、防潮堤計画の撤回の要望書をとりまとめ、二〇一二年六月に気仙沼市に提出した。現在のところ、計画が撤回になったかは不明のままである。
沿岸の小集落がこうした状況にある一方、中小都市の復興も進んでいない。ここでは、宮城県石巻市の事例を報告する。
石巻市は人口約一五万、面積五五五平方キロメートル。宮城県で仙台に次ぐ都市である。旧市街の中心は北上川がつくったデルタ状の平野にあり、江戸時代からコメの積出港として栄えた。
この市が、現在ほどの面積をもつ広域市になったのは、二〇〇五年の合併以後である。周辺の山村地帯と漁村地帯の六つの町が、石巻市にいわば吸収合併されたのだ。合併前の石巻市の面積は一三九平方キロメートル、人口は約一二万だった。合併によって、石巻市の面積は四倍以上、人口は一・五倍ほどとなった[48]。合併された山村地帯と漁村地帯の町も、人口こそ少ないが、数多くの集落を含む広域町だった。
石巻市の中心市街地の地形は、低地・中腹・高台の三層に分かれている。北上川が作った平野が海沿いの低地にあり、そこを山が囲んでいる。低地は産業地帯で、製紙工場、水産加工場、港湾施設、労働者の住宅などがあった。山の中腹は旧市街で、鉄道駅、市庁舎、魚市場、商店街などがあった。さらに山を登った高台は新興住宅地帯で、一九八九年に設立された石巻専修大学、一九九〇年代以降に拡張した郊外住宅地、大型自動車道路、ショッピングモールなどがある。
津波でもっとも被害をうけたのは低地であり、ほとんどすべての建物が失われた。中腹も津波をかぶり、建物は残ったが、汚泥や瓦礫が堆積して住めなくなった。それにたいし高台は被害をうけなかった。各地からやってきた支援団体とボランティアは、高台にある石巻専修大学を拠点とし、そこに救援物資を集積した。
震災直後の二〇一一年四月、筆者は支援団体の案内で石巻市を視察した。中腹の市街地は、壊れた自動車や建物の残骸が散らばり、低地の水産加工場にあった大量の魚が混じった汚泥が堆積して腐敗臭を発していた。支援団体は避難民に救援物資を配布する一方、ボランティアを組織して、建物を壊さないように汚泥のかき出しを行なっていた。
二〇一三年四月に再訪したときには、泥のかき出しはすべて終わっていた。しかし復興は進んでいない。
産業地帯である海沿いの低地は、災害危険区域として建築規制がかかっているため、現在でも廃屋と更地が大部分である。人が居住しない産業施設は建設可能であるため、製紙工場が二〇一二年八月から操業を再開するなど、一部の産業は動き出している。しかし、堤防建設や盛土といった一連の復興計画のための、住民合意や私有地買収が進んでいない。再開発計画が進まなければ、産業基盤の復興も遅れる。
中腹の旧市街にある商業地は、産業基盤が復興しなければ、いわば「根のない花」である。空き地やシャッターの降りた商店が目立つ。鉄道駅から伸びる旧市街の中心道路には、地方振興の一環として建てられた石巻出身の石ノ森章太郎のキャラクターの立像が並んでいるが、人通りは少ない。
一方で大型自動車道とショッピングモールがある高台は、石巻の新たな中心になりつつある。低地や中腹、あるいは前述の雄勝地区など周辺の集落から、高台の新興住宅地に移転した人が増えた。高台のショッピングモールには、周辺の漁村や農村からも、自動車に乗った買い物客が集まる。旧市街の中心にある鉄道が二〇一二年一〇月まで復旧できなかったことも、高台に人が流れた一因である。
高台の地価は値上がりが激しい。二〇一二年末から安倍晋三政権が、大規模な金融緩和政策を行なったため、投機的な土地買収がおきているという噂も多い。石巻だけでなく、被災地の高台の地価が高騰しており、これは高台移転の促進に障害になる。また建設資材や建設労務費の高騰も激しく、これも復興を阻害している。
地元産業は復興が遅れているが、復興土木事業があるため、失業率は高くない。しかし漁業や水産加工業が再開しても、建設業の賃金が高いため、従業員が集まらないケースが多い。ベテランの漁民が土木作業員に転職してしまう例も少なくない。しかし公共土木事業にたよった経済には持続性がない。将来に不安を感じ、仙台や東京に出ていく若者も多い。支援団体は、漁村にボランティアを送って漁業を支援しているが、その規模は大きいとはいえない。旧市街地は補助金をうけた再開発も予定されているが、人が集まらなくなった旧市街地が再開発で振興できるのか未知数である。
一言でいえば、製紙・漁業・水産加工業を中心としていた港町が、建設業を中心とした郊外住宅地に変貌しつつある。この変化は従来から進行していたものではあるが、復興政策がそれを加速している。
もう一つ、従来からの流れで加速しているのが、人口減少と高齢化である。石巻市が公表している住民基本台帳の二〇一三年一一月現在の数字では、二〇一二年六月の旧石巻市内の人口は約一〇万三千人で、二〇一〇年一〇月とくらべ八パーセントの減少である。ただし二〇〇五年に合併された旧雄勝町は二四六六人と、震災前にくらべ四三パーセント減少している。石巻市周辺部から石巻市中心部への移動と、さらに石巻市全体から市外への移動が、二重におこっていることがわかる。
経済産業省の地域経済研究会が二〇〇五年に行なった予測によれば、二〇〇〇年から二〇三〇年に、人口一〇万未満の地方都市は人口が二四・六パーセント減少する[49]。震災はこの流れを加速した。岩手県大槌町では、震災から七か月後の二〇一一年一〇月までに、人口が一五・六パーセント減った。町長の碇川豊氏はこの時期、「人口流出を食い止めないといけない。町は存亡の岐路に立たされている」「少子高齢化時代を三〇年も先取りしてしまったようだ」と述べていた[50]。
社会構造的原因
復興がこのような状況になっている最大の理由は、個別の官僚や政治家の悪意などではなく、従来の災害対策スキームへの経路依存という構造的問題である。経路依存が生じている理由は、いくつか考えられる。
第一に、地方の政治と経済に、公共事業への依存構造ができあがってしまっている。前述したように、地方公共団体にはすでに一九七〇年代から、災害復興公共事業に期待する「災害待ち」の状態が発生していた。一九九〇年代以降の経済の停滞と、景気刺激策として各地で公共事業を行なったことが、この状態が発生しやすい構造を広めた。二〇〇〇年代には、財政危機のため中央政府は公共事業を削減したが、地方経済は疲弊して政府への不満がつのり、二〇〇九年には自民党政権が倒れた。
こうしたなかでおきた二〇一一年の津波と震災は、公共事業を復活する、絶好の口実を与えた。二〇一二年一二月の総選挙で政権に復帰した自民党は、政権を失った「失敗」をくりかえさないため、財政状態を無視してでも、災害防止を名目とした公共事業を行なうことを決意しているようだ。自民党は二〇一三年五月には、今後一〇年間で二〇〇兆円を防災公共事業に投入するという「減災・防災に資する国土強靭化基本法案」を議会に提出し、同年一二月五日にはこれを原型とした国土強靭化基本法が成立した。
第二に、市や町の行政は、県や中央政府の意向に逆らえば、補助金を削減されるという危惧がある。とくに震災後は、税収が減少するなか、頼れるのは中央政府からの復興補助だけだ。二〇一二年五月の報道によると、岩手県陸前高田市は震災後に税収が五五パーセント減ったが、中央政府の復興交付金などで年度予算が六倍になった[51]。もともと自主財源が三割ていどだった市や町が多かったことを考えれば、その様態から税収が半分になり予算規模が六倍になれば、単純計算では現在の自主財源は予算の三パーセントに満たないことになる。この状態では、市や町が復興計画に異論を唱えるのは困難だろう。
また地方公共団体の行政には、財政に赤字が出ても、中央政府が補助してくれるはずだという一種のモラルハザードが生じている側面もある。このことは、日本の地方公共団体が、住民自治の組織というより、中央政府の現地出張所の性格の強いものだった歴史を反映している。財源の大部分が中央政府からの補助でなりたっているのであれば、財政に責任意識が薄いのも無理はない。こうした地方公共団体の性格を反映して、住民の参加意識が強いとはいえないことも、状況を悪くしている。
第三に、地方公共団体のマンパワーの不足と過労から発生する、思考停止がある。二〇〇五年の市町村合併で職員が削減されていたうえ、津波で職員が被災した。残った職員が緊急対応に追われているさなかに、国交省や県庁などが、従来のスキームに沿って防潮堤建設などを行なう方針を決めていった。市や町の職員に、その方針に疑問を抱く者がいたとしても、代替案を提示する余裕がなかったと思われる。
また従来から、この地域の市や町の職員は、大規模な再開発を手がけたことがなく、そのための総合的知識も欠けていた。そうしたなかで、被災した市や町は、震災前の何倍もの規模の予算と業務を、いきなりまかされることになった。こうした状況では、職員たちが上からの命令にしたがって機械的に仕事をこなすことになったとしても、不思議ではない。復興計画が、どこの市や町でも似ているのは、マンパワーの不足が一因だろう。そうした状態では、県や中央政府の素案をそのまま“コピー アンド ペースト”することになりがちであることが想像できるからだ[52]。
二〇一三年六月、新藤義孝総務大臣が東北を視察し、記者会見を行なった。そのとき彼は、被災した地方公共団体の職員の現状について「まだまだ足りない。全国の自治体に加え、経済団体にも人材の派遣をお願いしている」「被災自治体の予算規模は一〇倍程度に膨らんでいる。復興を進めるために、マンパワーの確保は極めて重要だ」と述べたと報道されている[53]。
兵庫県宝塚市から岩手県大槌町に派遣された四五歳の職員が、二〇一三年一月に自殺した事件は、本稿冒頭で紹介した。彼は大槌町の都市整備課で、区画整理や住宅移転の住民意向調査に当たっていた。防潮堤建設や高台移転、それにともなう再開発のために、住民を従来の土地から立ち退かせる説得の仕事である。この職員が自殺直前に、「被災地は大変です。一生懸命やっているが、自分のやっていることがどれだけみんなの役に立っているかわからない」と語っていたことも前述したとおりである。
日本の公務員は、一般的には腐敗とは無縁で、職務熱心であることが多い。この職員は、自殺の前の二カ月には、毎月八〇時間から九〇時間の残業をしていた。大槌町では、二〇〇五年の合併からの五年で職員の約二割を削減しており、さらに津波で職員の二割以上が死亡したため、外部からの派遣職員が約四割を占めている。自殺した職員の室内には「皆様ありがとうございました 大槌はすばらしい町です 大槌がんばれ!!」と書き残されていたという[54]。この職員は業務に疑問を感じながらも、計画を問い直す余裕も権限もなく、過労で自殺したのだと考えられる。
過労からくる思考停止と経路依存。その結果として、自殺に至る。これはおそらく、被災地の状況を象徴している。
従来の一〇倍の予算をともなう業務を、以前より減少したマンパワーでこなす状況があっても、さらに予算と職員を投入して計画を実施することが唱えられている。被災地の住民には、「従前の低い堤防を復旧してくれればよい」「国の財政状況が厳しいのだから、予算を工夫して生活再建のためにあてて欲しい」といった意見も多い[55]。それでも、計画を問い直す意見は、市や町の行政からは表面化しにくい。「早く復興を」という声に押され、中央政府と県庁の意向に逆らえない状況では、自分たち自身に鞭打ってでも、現状の計画を強行するしかないという経路依存に陥りやすいとしても不思議ではないだろう。
また被災地の行政職員には、過労のために、計画の再検討を求める疑問や批判に、耳を傾ける余裕がないという事情もあると思われる。主観的には懸命にやっているからこそ、建設的な批判も、単なる敵対としか映らない。批判住民の側にも、避難生活に疲れ、どんな計画でもよいから早く復興を進めてほしいという意見も多い。被災地の事情に詳しい研究者は、「県知事や行政から『堤防を建設しないと背後の街作りが進められない』という言い方をされると、堤防に疑問を持つ住民も黙らざるを得ないのが現状である」と記している[56]。
第四に、住民の意志が行政に反映していない。この傾向は、二〇〇五年の合併で著しくなった。たとえば石巻市では、漁業や農業を営む小集落を束ねた五つの町が、旧石巻市にいわば吸収合併された。これらの町には、町長も町議会もなくなり、石巻市庁の支所がおかれた。復興計画は石巻市庁と石巻市議会で決定され、旧町におかれた支所を通じて、各地の集落に下される。合併された町の職員は支所に採用されたが、石巻市は合併後に職員を約一五パーセント削減し、とくに支所の職員が削減された。小漁村の集まりである牡鹿地区(旧牡鹿町)では、震災時にいた職員は、合併前の約四割にすぎなかった[57]。
こうした状況でも、住民の反対運動が目立たないのは、いくつかの要因がある。
まず計画に不合理な点があっても、予算は潤沢に投入されている。仮設住宅に不満があれば、行政は追加設備をつけてくれる。土木事業の仕事は多く、失業率は高くない。行政が提示する計画に異議を申し立てることは困難だが、計画推進を推進する、ないしは逆らわない形の要求ならば、予算を要求することはやりやすい。これらのことは、経路依存をより強化する効果をもたらす。
またこの地域は、集落のまとまりが強い。住民の意志は、集落の会合を通じて、自治会長がとりまとめていた。そして各地の集落の自治会長の意見を、町や市の行政、あるいは町議会や市議会の議員がとりまとめ、政策に反映していた。逆に行政の政策は、自治会長を通じて集落の住民に伝えられる。そのため住民は、行政に直接に意志を反映させた経験が少ない。
今回の復興においても、集落の自治会長や漁業組合長、地域産業の有力者などを中心とした「まちづくり協議会」が各地で作られている。まずそこが行政との折衝にあたり、住民への計画説明はその後に行なわれるが、実質的な意見交換をともなわない「説明会」に終わることも多い。個々に異論をもつ住民はいるが、大きな動きにはなりにくい。
前述の気仙沼市舞根地区は、住民が集落としてまとまって計画撤回を要求したが、このようなケースは少数である。自治会を掌握しているのは年長者であり、彼らの安定的な支持層も高齢者が多い。それに違和感をもつ若い層などは、集落のあり方を変えるより、都市部へ出て行くほうを選んでしまいやすい。
また現在の被災地では、「人命の尊重」が、すべてを正当化している。堤防建設、護岸工事、高台移転、問い直しの時間的余裕をあたえない計画推進などは、すべて「人命の尊重」の名のもとに行われている。巨大な防潮堤建設などに疑問を呈すれば、「人命尊重に反する」「復興を遅らせる」という非難をあびやすい。だからこそ現地住民も、マスメディアも、批判を表明しにくかったようだ。
実際に「人命の尊重」のためならば、一世帯に七四四万円もの予算を費やしてでも、廃棄される予定の仮設住宅に冬季装備の増設がなされる。一人でも仮設住宅の不備で死亡する避難民がでれば、すべての正統性が崩れてしまう。その費用を避難民自身が住宅を建設する支援に使ったほうが合理的かもしれないが、個人資産形成のために公金は支出しないというのが政府の方針だ。
それでも神戸では、街並みの復興だけは進んだ。しかし一五年前より日本経済は疲弊しており、三陸沿岸は神戸より過疎化と高齢化が著しい。このままでは、公共事業によってコンクリートで覆われたゴーストタウンが出現しかねない。しかしそれでも、「人命の尊重」は達成されるだろう。ゴーストタウンから死者は出ないのだから。
結論
災害を社会学的に定義するなら、地域社会のフレームの、崩壊と再構築の過程である。経済学的にいえば、外部からの復興支援は、大規模な贈与である。それが被災社会にもたらす必然的な影響は、外部との関係の増大である。外部からの贈与は、それを契機に外部との交流を拡大させ、それが経済の活性化と政治の民主化をもたらす可能性がある。こうした形で地域社会の再編が進めば、復興は一応の成功といえよう。
しかし外部からの贈与を不適切に行なうと、援助への依存を生み、結果として地域の自律性が損なわれる。外部との関係増大が、域内産業の衰退や外部への従属、人口の流出を生むこともある。援助を現地の支配層を介して行なうと、配分の不平等と権威の強化をもたらし、民主化を阻害する可能性もある。これらは、海外での災害援助で教訓となってきたことだ。
それでも途上国の災害では、人命の犠牲は大きくなるが、外部からの援助と再開発によって、経済成長する可能性が大きい。日本の事例でいえば、一九二三年の関東大震災は、発展途上地域の都市型災害だった。火災による死者は約一〇万五千人にのぼり、都市下層地域に被害が集中したが、賃貸住宅に住んでいた下層民は郊外へ移動し、大規模な都市計画を実行する好機にもなった。一九六〇年代初頭に確立された災害対策スキームは、いわばこの成功を制度化したものである。
しかし一九九〇年代以降は、このスキームは適合しなくなった。インフラ整備は費用対効果が薄く、かえって地域社会のサブシステンスを破壊し、衰退と外部依存を生み、人口流出を招くことが多くなった。現在でも日本は、このスキームに経路依存したまま、膨大な財政赤字を発生させている。
また前述のように、災害とは、自然現象と社会的要因の関数である。それは「病気」が病原菌だけで起きるのではなく、体力低下や衛生状態といった要因との関数であることと同様だ。現代日本における地域社会の変質は、地域の体力を低下させ、わずかな病原菌にも抵抗力がなく、病気にかかりやすい状態を作り出している。今後の日本では、「千年に一度の津波」でなく「五年に一度の集中豪雨」であっても「災害」がおこりやすい地域が増加し、「災害」の多発を招いていくことが予測される。
これは、気候変動や地殻活動といった、自然現象の動向とは別のことだ。人口学・経済学・政治学・社会学など、社会科学的な分析を必要とする問題である。にもかかわらず、現状の災害対策スキームは、自然現象を建造物で食い止めることに偏重しがちである。このことが、費用対効果やコミュニティの維持といった社会的要素が、軽視されている一因だろう。
今後の日本で「災害」が多発することが予測される一方、現状のスキームは持続可能でもなければ被災者のためにもならない。中央政府から地方公共団体に補助金が流れ、それが自治会や建設会社や農協を通じて地域の公共資産を形成するという構図は、災害対策のみならず、あらゆる領域で日本の政治構造を形作ってきた原理であり、旧来型の「自民党政治」の権力基盤になってきた。住民のほとんどすべてが自治会や町内会や会社に所属し、そこに入っていない者は無視できる少数者にすぎないという時代なら、問題はあっても一応の機能はしただろう。しかし現代社会の変容のなかで、こうした構造は完全に機能不全になっているのだ。
基本的な方向性としては、上記のようなスキームを見直し、被災者に直接支援する政策や法制を検討するべきだ。現状のスキームは、省庁別の法制にのっとり、省庁別の公共事業を行なう形である。防潮堤が漁業や観光にどんな影響をもたらすかは、国交省は関知しない。個別の事業を束ねた総合的な復興プランの作成は、内閣や復興庁、あるいは地方公共団体の領分とされているのだろうが、これが機能していない。被災者への直接支援を導入すれば、被災者が復興政策に関わる余地が増え、住民側から行政のセクショナリズムを緩和させる回路が生まれる可能性がある。
巨大な防潮堤や護岸工事は、住民から要望があるから作るのだという意見もある。しかしそうした公共事業を、住民自身で資金を出しあってでも行ないたいという声は、筆者自身は聞いたことがない。必要な施設だというなら、いったん被災者に直接支援し、住民が支援金を出し合って作ることに合意して作ればよいではないか。これはあまりに原則論的ではあるが、そうしたコンセプトを導入した方が、住民の地域社会への参加意識が強まり、地域の活性化も進み、区画整理交渉も着工も早くなるだろう。行政主導で計画を強行しなければ復興が遅れ、人口流出がひどくなるという意見もあるが、そのやり方が復興の遅れと人口流出を激化させていることを直視すべきである。
これほど問題があっても、他のアジア諸国からみれば、日本の災害復興の状況は、いうなれば「贅沢」である。手厚く配分される政府予算。勤勉な行政職員。安定した政治構造。危険区域指定や建築規制を守る順法精神。「人命尊重」を重視するセキュリティ文化。これらの資源は、他のアジア諸国の災害対策において、必要が叫ばれているものばかりである。そしてこれらは、戦後日本の経済発展を支えた資源でもあった。それらは、いまだ健在なのだ。
だが三陸の被災地では、経路依存のために、これらの資源の使い方をあやまっている。経路依存からぬけだせない原因は、立ち止まって考えるだけの勇気がないためだ。その結果、膨大な財政赤字がつみあがり、人々は故郷を去っていく。この状況は、過去の成功体験から脱却する勇気が持てないまま、不況にあえぎ過密労働に疲れている、現代日本の縮図である。しかし、いまだ健在な資源を有効に活用する方法を探りなおすことで、現状を改善する潜在能力は、日本にはまだあるはずだ。
[1] 「仮設住宅に一〇万人 復旧の進み具合にばらつき」(『読売新聞』二〇一三年一二月三日朝刊)。
[2]「復興予算二五兆円に拡大 五年間で六兆円上積み 生活保護費七四〇億円削減」(『MSN産経ニュース』二〇一三年一月二八日付)。http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130128/plc13012800230000-n1.htm 二〇一三年一二月七日アクセス。
[3]「被災地派遣の職員死亡 やりきれない 宝塚市長」(『朝日新聞』二〇一三年一月六日朝刊)。
[4]総務省「市町村数の変遷と明治・昭和の大合併の特徴」二〇〇九年http://www.soumu.go.jp/gapei/gapei2.html 二〇一三年一二月七日アクセス。
[5] 白川一郎『増補改訂版 自治体破産』(日本放送出版協会、二〇〇七年)一四四頁。
[6] 同上書一六頁。
[7] 青木宏之「釜石製鉄所の合理化をめぐる労使の対応」、東京大学社会科学研究所『社會科學研究』(第五九巻二号、二〇〇八年)。
[8] 米田雅子『田中角栄と国土建設』(中央公論新社、二〇〇三年)一三七頁。
[9] 田中隆之『現代日本経済』(日本評論社、二〇〇二年)二六二頁。
[10] 永松伸吾『減災政策論入門』(弘文堂、二〇〇八年)二一頁。本稿前半部の記述にあたっては、永松氏の著作が最も参考になった。記して感謝したい。
[11] 同上書四一頁。
[12] 同上書一〇六頁。
[13] 田中傑『帝都復興と生活空間』(東京大学出版会、二〇〇六年)。
[14] 永松前掲書一七八頁。
[15] 「消防団一二〇年の火消すな」(『朝日新聞』二〇一三年五月二八日夕刊)。
[16] 山本栄治「震災復興と金融問題」(藤本建夫編『阪神大震災と経済再建』勁草書房、一九九九年)。
[17] 牧紀男『災害の住宅誌』(鹿島出版会、二〇一一年)一七頁。
[18] 永松前掲書五八頁。
[19] 越山健治「都市計画的観点から見た住宅復興の諸問題」(『減災』一号、二〇〇六年)。
[20] 兵庫県「災害復興公営住宅団地コミュニティ調査報告書」二〇〇三年、http://web.pref.hyogo.lg.jp/wd33/wd33_000000014.html 二〇一三年一二月七日アクセス。
[21] 永松前掲書一二九頁。
[22] 同上書一三五-一三七頁。
[23] 同上書一三八頁および稲垣哲「神戸港競争力復活へのシナリオ」二〇〇七年、http://www.ymf.or.jp/wp-content/themes/yamagata/images/56_3.pdf 二〇一三年一二月七日アクセス。
[24] Toyoda, Toshihisa. “Long-term Recovery Process from Kobe Earthquake.” Toyoda Toshihisa and Inoue, Tadashi, eds. Quantitative Analysis on Contemporary Economic Issues. (Kyūshū University Press, 2008).
[25] 関満博・大塚幸雄編『阪神復興と地域産業』(新評論、二〇〇一年)。
[26] 原田泰『震災復興 欺瞞の構図』(新潮新書、二〇一二年)四一頁。
[27] 同上書三七-四四頁。
[28] 田畑知之「なぜ経済復興政策が実を結ばなかったのか」(『at+』八号、二〇一一年)七一-七二頁。
[29] 「阪神大震災一〇年 希望新聞」(『毎日新聞』大阪本社版、二〇〇五年一月一七日)。
[30] 生活再建支援法の改正経緯は、永松前掲書五九-六三頁。
[31] 「限界集落」の実情と歴史的背景については、山下祐介『限界集落の真実』(ちくま新書、二〇一二年)参照。
[32] 原田前掲書三八頁。
[33] 永松前掲書一七〇-一七一頁。
[34] 同上書一七七頁。
[35] 同上書一一五-一二〇、一四〇頁。
[36] 「ゆがむ床、畳にカビ 宮城・石巻 仮設住宅もう“老朽化”」(『しんぶん赤旗』二〇一三年四月一〇日)。
[37] 碇川豊『希望の大槌』(明石書店、二〇一三年)一八三頁。
[38] 宮城県沿岸域現地連絡調整会議「宮城県沿岸における海岸堤防高さの設定について(案)」二〇一一年九月九日。http://www.thr.mlit.go.jp/Bumon/B00097/K00360/taiheiyouokijishinn/kaigann/kaigann2.pdf 二〇一三年一二月七日アクセス。
[39] 横山勝英「津波の海と共に生きる」(「ACADEMIA」一四〇号、全国日本学士院、二〇一三年)一一-一二頁。
[40] 名取市「平成24年度議会懇談会 実施報告書」一、三頁。http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&cad=rja&ved=0CCYQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.city.natori.miyagi.jp%2Fcontent%2Fdownload%2F18618%2F111769%2Ffile%2F24kondankaihoukokusyo.hontai.pdf&ei=AXWlUqHoNoHlkAWzpoC4Cg&usg=AFQjCNHciFrAjcZjuwAf4X11hF3FKXlNQw 二〇一三年一二月七日アクセス。
[41] 横山前掲論文一四頁。
[42] 宮定章「被災地の生活再建と復興まちづくりの現状と葛藤」(『日本住宅会議会報』二〇一二年一〇月号)一三七頁。
[43] 「集団移転 合意の形成の難しさ」(FNN『仙台放送スーパーニュース』二〇一二年五月三一日放送)。
[44] 石巻市「雄勝地区最終意向調査(平成二四年一〇月~一一月実施)」、二〇一三年一月。住民説明会配布資料。
[45] 「沿岸被災地 税収二五%減」(『朝日新聞』二〇一三年五月一四日朝刊)。
[46] 南三陸町議会「みなみさんりく 議会だより」(南三陸町議会広報、第二八号、二〇一三年二月)。
[47] 以下の舞根地区の事例は、横山前掲論文一〇頁。
[48]日本都市センター「石巻市」(『合併関係市町村の基礎情報』)二〇〇五年。http://www.toshi.or.jp/gappei/ishinomaki050912.pdf 二〇一三年一二月七日アクセス。
[49] 地域経済研究会「人口減少下の地域経営について」二〇〇五年一二月。http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/286890/www.meti.go.jp/press/20051202004/20051202004.html 二〇一三年一二月七日アクセス。
[50] 「震災と平成大合併 石巻市の旧市町『垣根』浮き彫り」(『河北新報』二〇一一年一〇月一六日朝刊)。
[51] 前掲「沿岸被災地 税収二五%減」。
[52] とくに石巻市の復興計画について、県の「コピー アンド ペースト」ぶりを批判しているものとして、行政学者の広原盛明がいる。彼は県の土木官僚が、災害をチャンスとして、市や町の職員が多忙なあいだいに再開発事業を進めようとしていることを「ショック・ドクトリン」であると批判している。広原盛明「震災一周年の東北地方を訪ねて」第39回、第40回。二〇一二年七月。http://d.hatena.ne.jp/hiroharablog/searchdiary?of=10&word=%2A%5B%BF%CC%BA%D21%BC%FE%C7%AF%A4%CE%C5%EC%CB%CC%C3%CF%CA%FD%A4%F2%CB%AC%A4%CD%A4%C6%5D 二〇一三年一二月七日アクセス。
[53]「被災自治体職員不足『官民挙げて支援が必要』総務相」(『河北新報』二〇一三年六月一六日朝刊)。
[54] 「町職員の不足深刻、長時間労働も」(『大槌みらい新聞』二〇一三年二月二一日配信)。http://otsuchinews.net/article/20130221/372 二〇一三年一二月七日アクセス。
[55] 横山前掲論文一五頁。
[56] 同上論文一五頁。
[57] 前掲「震災と平成大合併 石巻市の旧市町『垣根』浮き彫り」。