「空襲は怖くない」、「逃げずに火を消せ」
 ―― 空襲被害を拡大した日本政府の責任を問う

 法律文化社から出版された 「検証 防空法 ―― 空襲下で禁じられた避難」。 防空法制研究の第一人者・水島朝穂教授と、大阪空襲訴訟弁護団の大前治弁護士の共著です。

 本書の執筆は、「なぜ、空襲があると分かっているのに、日本の都市住民は逃げなかったのか」という疑問から出発しました。 筆者が見つけた答えは、「戦時中の“防空法制”によって避難を禁止された」、「御国のために命を捨てて消火せよと強制された」というもの。 本書は、法律や資料の引用だけでなく、当時の市民がおかれた状況を具体的にイメージできるよう記述しています。 掘り起こされた歴史的事実も盛りだくさんです。

 この書籍は、昭和12年の「防空法」制定から昭和20年の敗戦までを、時系列とテーマごとに解説しています。大きな柱は次のとおりです。


「防空法」の制定と改正
「都市からの退去禁止」 と 「消火活動の強制」 の実態
* 情報統制 ―― 「空襲は怖くない」、「焼夷弾は簡単に消せる」
* 隣組 ――「逃げられない」 と思わせる相互監視の体制

防空壕 ――簡易かつ危険な方針、「床下に穴を掘れ」
東京大空襲の後も、終戦まで方針は変更されなかった


・・・・・詳しくは本書を読んでいただくとして、本書の解説Q&Aを以下に掲載します。 (関連 ⇒ NHK朝ドラ 「ごちそうさん」 と防空法
  

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Q1 大空襲を受けるまでは、政府も焼夷弾の怖さを知らなかったのでは?

 たしかに、日本が本格的な空襲を受け始めたのは昭和19年6月の北九州空襲以降です(本書p.125)。
 しかし、日本はもっと早くから中国への空爆を行っていました。昭和6年10月には錦州、昭和13年12月からは重慶を空襲しており、空襲の威力を知っていました。昭和18年2月には、アメリカ製の焼夷弾(中国に投下された不発弾)を入手して爆発させる演習を行い、約100メートル四方に火焔を噴射する焼夷弾の威力が確認されています(本書p.101)。
 さらに科学者は、焼夷弾の消火はほぼ不可能だと指摘していました(本書p.90)。 政府は科学者の指摘も無視して、「空襲など怖くない。逃げずに火を消せ」と国民に指示したのです。


Q2 さすがに、戦争末期の東京大空襲の後は、「危険だから逃げてよい」と認めたのでは?

 一晩で10万人の死者を出した東京大空襲(昭和20.3.10)。その被害を目の当たりにしながらも、政府は「都市からの退去禁止」の方針を変更しませんでした。
 大空襲の4日後、貴族院議員・大河内輝耕は「火は消さなくてよいから逃げろ、と言っていただきたい」と帝国議会の質疑で政府に求めましたが、内務大臣は最後まで避難や退去を認めませんでした(本書p.202)。
 その翌月、政府は、今後の疎開方針として、老幼病者、学童の集団疎開、建物疎開による立退き者だけは疎開を認めるが、それ以外の者の疎開は認めないことを閣議決定しました (本書p.78)。

Q3 地方に転居する「疎開」は認められていたのでは?

 子どもたちが親から離れて地方に移住する「学童疎開」は、終戦時まで全国的に実施されていました。しかし政府は、あくまで成人は都市にとどまらせる方針をとっていました。
 昭和18年から昭和19年にかけての閣議決定は、疎開の対象者を老幼病者や建物疎開に伴う立退き者などに限定していました(本書p.72)。 さらに、東京大空襲の直前、昭和20年1月には、防空実施のため必要な人員が地方へ転出しないよう国家総動員法の発動を含めた強力な指導をする方針が閣議決定されました(本書p.75〜76)。
 そして、東京大空襲の翌月にも、疎開を制限する閣議決定が出されたのは「Q2」でみたとおりです(本書p.78)。
 このように、都市の市民は空襲から逃れるため自由に疎開できる状況ではなかったのです。



Q4 防空法は、「政府は退去を禁止できる」というだけで、直接には退去が禁止されていなかったのでは?

 たしかに防空法8条ノ3は、退去を「禁止できる」と定めるだけでした。しかし、真珠湾攻撃の前日、昭和16年12月7日に内務大臣が発した通達(当時は「通牒」といいました)には、国民を退去させないという指導方針が明記されていました(本書p.54〜57)。
 法律と政令と大臣通達(通牒)。この3つの法規を通じて、国民は都市からの退去を禁止されたのです。
 こうした法規だけでなく、空襲は怖くないという情報操作(本書p.110)と、隣組を通じた相互監視(本書p.153) によって、国民が「逃げたいと思わない」または「逃げたくても逃げられない」という体制が作られました。



Q5 消火活動によって生命を守れたのは事実では?

 政府は大空襲に備えた十分な消防車やポンプ設備を整備しませんでした(本書 p.122)。 国民は、効果のない「バケツリレー」などの防空訓練をさせられ、命がけの消火活動を命じられました(本書 p.86)。
 さらに政府は、「長さ1mのハタキで火を消せる」(本書p.93)、「手袋をはめれば焼夷弾を手でつかんで投げだせる」(本書p.98)など非科学的な宣伝を繰り返し、市民が空襲の猛火に飛び込んで消火活動に敢闘するよう指示しました。
 政府自身が「命を投げ出して国を守れ」という防空精神を国民に流布したように(本書p.50)、およそ防空法制は市民の生命を守るものではなく、生命を犠牲にさせるものだったのです。

手袋で焼夷弾を掴め、という新聞記事



Q6 市民は、防空壕を掘って身を守ることができたのでは?

 もともと政府は、防空壕を掘る場所は庭や空き地にせよ、堅固な材料を用いて強度を確保せよと指示していました。ところが昭和16年の防空法改正と日米開戦と同時期に、政府は方針を変更して、「防空壕は簡易なものでよい、床下に穴を掘りなさい」と国民に指示しました(本書p.136)。
 政府刊行書には「防空壕は床下に作った方が、焼夷弾の落下がすぐ分かり、直ちに消火出動できる」などと記載されていました(本書p.142)。 こうした政府方針のもと、大型の公共防空壕の建設は不十分のまま、各家庭に危険な防空壕が作られてゆき、家屋の崩壊による生き埋めや窒息による膨大な犠牲者が生じたのです。



Q7 このほか、本書の見どころを教えてください

上記のほか、盛りだくさんの「見どころ」をご紹介します。

* 防空法制を批判する勇気ある発言をした人々 ⇒ 本書p.23、p.43、p.83、p.144、p.202
*
地下鉄駅への避難も禁止された  ⇒本書p.148
* 「焼夷弾は怖くない、手でつかんで投げ出せ」  ⇒本書p.98
* サーカスの「火の輪くぐり」のような
怪しい消火活動  ⇒本書p.128
* 4千人が死んでも「微々たるもの」という陸軍中佐 ⇒本書p.42
* 「都市から逃げた者には、
戻ってくる場所はない」という脅迫 ⇒本書p.67
*
焼夷弾は怖くないという「感じ」をもたせろという政府広報 ⇒本書p.183
* 青森空襲の悲劇・・・「退去するな、戻れ」の命令 ⇒本書p.13
* 子どもは他人に任せて消火活動に立ち向かえという女性雑誌 ⇒本書p.94
* 防空活動を妨害した者には、
死刑・無期懲役 ⇒本書p.68
* お隣さんだった「情報局」と「大政翼賛会」 ⇒本書p.118
* なぜ防空法が制定されたか ⇒本書p.16
*
燈火管制と、時代の暗闇 ⇒本書p.32
* 法廷に感動の拍手を起こした、水島教授の証言 ⇒本書p.263
* 大阪地裁・大阪高裁も認定した、防空法制の危険性 ⇒本書p.216〜220






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