ビキニ環礁周辺で被災した船は「第五福竜丸」だけではない。1954年3~5月に米国が強行した6回の核実験の際、周辺海域にいた日本の船舶は1千隻に及ぶとされる。なかでも貨物船「弥彦丸」(約7千トン)は乗組員48人のうち6人が放射線の影響の疑いで岡山の病院に入院した。その後も入退院を繰り返した元船員は広島・長崎の原爆被爆者と同様の被爆認定を求めた。

 だが、放射線と健康被害の関係に光は当てられず、ビキニ被害は第五福竜丸の問題に矮小(わいしょう)化された。日本が米国から原子力を導入する時期とも重なり、日米が幕引きを急いだ。

 あれから60年。弥彦丸の元乗組員と遺族を訪ねた。いまも、国が調査を放置したつけを引きずっていた。

 ■「うやむやにされた気が…」

 島原半島南端にある長崎県旧口之津町(現・南島原市)は「船員の町」と呼ばれた。ここから誘い合い、貨物船「弥彦丸」に乗り込んだ3人がいた。

 操舵(そうだ)手の平三義さん(当時39)、操機長の三浦利行さん(同51)、コックの中島豊房さん(同50)。今は亡き3人の娘たちは、生前の父親の体調異変について口にした。

 「父は病気という病気は全部した」。平さんの長女で大分県に住む中釜京子さん(68)はそう振り返る。

 一連のビキニ水爆実験があった54年。5月30日に東京港に戻る10日ほど前だった。平さんは突然、めまいと吐き気で倒れた。48人全員が回航先の東京や岡山県玉野市の病院で検査を受け、平さんら6人が「放射性物質による白血球減少症の疑い」があるとして岡山大学病院に入院した。

 平さんは20日後に退院したが、その後も貧血や狭心症、神経痛などで入退院を繰り返した。75年には「ビキニ島の放射能を受けた」と記した船会社の証明書と診断書を添え、被爆者健康手帳の交付を求めた。

 しかし、広島と長崎の原爆被害だけが対象だとして認められなかった。心機能の衰弱が進み、86年1月に他界した。京子さんは今にして思う。「うやむやにされた気がしてならない」

 三浦さんは67年10月、リンパ節がんで亡くなった。左わきの下に鏡餅のような腫れができ、入院して1カ月半後だった。長女の三宅クニさん(80)は「被曝(ひばく)を証明できていれば、もっとちゃんと診てもらえたのに」と悔やむ。

 中島さんは73年5月、胃がんで他界した。次女の大島和恵さん(76)は「被曝しても記録がなければ、後にがんになっても『原因不明』で終わる。福島の人たちも同じ。追跡調査を続けなければ、将来何があっても『わからない』とされてしまう」と語った。

 今回の取材で存命が確認できた弥彦丸の元乗組員は佐賀県武雄市の平野繁樹さん(83)ら6人。平野さんは「核実験のあった日は急に曇って大粒の雨が降り出した」などと証言する。航海中、船員たちは海水をくんでわかした風呂に入り、時に甲板で眠ったという。

 岡山大病院に1カ月入院した男性は、いらだった口調で言った。

 「今さら(真相解明は)無理なんですよ。日米で解決済みになったでしょ。あのとき国はアメリカにようものを言わなかった。早く死んだ人は気の毒と思うけど、寿命だったと思わないと仕方ない」