また「誰でもよかった」である。名古屋駅近くの繁華街で起きた乗用車の歩道突入。無差別殺傷を狙う理不尽な事件がなぜ、こうも続くのだろう。未然に防ぐ手だてはあるのだろうか。
二〇〇八年六月、東京・秋葉原でトラックが歩行者天国に突っ込むなどした無差別殺傷事件もそうだった。逮捕された容疑者の「誰でもよかった」という供述も同じだ。偶然なのだろうか。
名古屋の事件で逮捕された三十歳の容疑者は、大学卒業後、アルバイトをしていた時期もあるが長続きせず、最近は無職。昨年からは一人暮らしで「家族と折り合いが悪かった」と供述している。
動機については「理由は一つや二つではない」「簡単には説明できない」と話しているという。
なぜ、無差別に殺そうとしたのか。背景はまだ判然としないが、これまでに明らかになった状況からは、過去の無差別殺傷事件との共通点も浮かんでくる。
いかなる理由があろうと正当化される話ではないが、その理由を調べた研究がある。
法務省・法務総合研究所が昨年「無差別殺傷事犯に関する研究」と題する報告書をまとめている。死亡者がなかった事案も含め、一〇年までの十年間に判決が確定した五十二件の分析である。
浮かび上がった傾向は(1)多くは男性(2)年齢層は一般的な殺人事犯者に比べて低い(3)交友関係、異性関係、家族関係が希薄、険悪(4)就労状況が不安定−など。報告書は「全般的に、社会的に孤立して困窮型の生活を送っていた者が多い」としている。
さらに「精神障害等の診断を受けた者が多いが、治療を受けていた者は少ない」とも指摘する。
もちろん、こうした特徴に該当しても犯罪とは無縁の生活を送る人がほとんどであり、その点は気を付けなくてはならない。その上で、分析が示す意味を考えたい。
報告書も指摘するように、社会的孤立が共通項であるならば、何よりも求められるのは、社会における「居場所」と「出番」をつくることだろう。
今の日本社会は、孤立しそうな人に、きちんと目を向けているだろうか。精神障害があっても、偏見や差別を恐れて治療に行くことに二の足を踏ませるような雰囲気をつくってはいないだろうか。
社会のせいとは断じて言わせないが、社会の側も考えてみたい。
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