ブッダの教えは私たちが知っている仏教とかなり違います。 大乗仏教は釈迦(ブッダ)が説いた根本仏教ではありません。 釈迦は、現世で涅槃し仏陀になるための修行法を説いたので あって、仏を神様のように信仰することを説いたのではあり ません。「釈迦(ブッダ)の根本仏教」と大乗仏教のどちらが 優れているか、という判断は無用です。大切なことは選ぶべ き仏教の教えがたくさんあるという事実を知っていることで す。日本仏教と「ブッダの仏教」の違いを知っておけば、生 き方の幅がずいぶん広がることになります。 よく知られているように、日本で普及している仏教の諸派は すべて大乗仏教です。大乗仏教は、ブッダの死後数百年後、 「超越者」や「神秘現象」の存在を前提に、本来のブッダの 教えとは全く異なる宗教としてインドで生まれ、中国や朝鮮 を経て、日本に伝わりました。一方、ブッダの教えに比較的 近い仏教は、上座部仏教(「小乗仏教」とも呼ばれるが、こ れは大乗仏教側からの蔑称です)としてタイやミャンマー・ スリランカに根付きました。以下では「ブッダの仏教」の原 典として『スッダニパータ』や『ダンマパダ法句経』を推奨 しています。 「ブッダの仏教」は、神仏に救いを求める宗教ではなく、「 自分の道は自分で開け」という、ある意味では厳しい教えで す。しかし、神頼みの宗教に飽き足らない人にとっては、 むしろ受け入れやすいのではないでしょうか。事実、最近ア メリカでは、普段の生活に座禅瞑想を取り入れ、自律的な生 活を目指す人が増えています。大震災後の日本で、真の生き 方を求めている人への具体的な生き方へのヒントになります。 ある日、ブッダは街頭で、彫刻された偶像の諸神を礼拝し、 神の名を唱え、呪文経を唱している青年に、そのようなこと をやめて、代わりに父母妻子や師や知己のような実際社会の 関係者を礼拝するように勧めました。このことは、ブッダの 教えは社会との関わりの重要性を示しています。ブッダは孤 立した生活を否定しています。 ブッダが、やってはいけないとした、仏法を利用して祈祷と か迷信とか占いとか商売繁盛というようなもので金儲けをし ていた人たちがいっぱいいた。つまりブッダの教えというも のは、何ににも増して素晴らしいものである、と。この教え の言葉を一つでも口にすれば、霊験あらたかであるとか、あ るいは病気に効くとか、いわゆる詭術的なところが強く出て いたんですね。だから紀元後のお経の中には、「祈祷仏教」 とまで言ってもいいほどそういう呪文を唱えて、何か病気を 治すとか、なんかする人たちがいたわけです。 また護摩焚きのように火を使って供養することも、ブッダは 、何の効き目もないと説いています。 あるいは水で身を浄める、例えば滝に打たれて自分の心を浄 めるというような修行も、別にそれが悪いわけじゃないんで すけれども、ブッダの教えにそんなものはない。それが 悟りに繋がるかと言ったら、繋がらない、と言っている。も しそれができるんであれば、水浴びをする雀や鳥たちは、も うとっくに修行もせずに悟っている筈だろう、と説法をされ ている。そういうのと同じで、仏教を利用しながら、金儲け をするというようなこととか、御利益が如何にもあるかの如 くに、というのはおかしいと。御利益なんていうよりも、自 分が実際に八正道を実践修行するかどうかです。つまり、 自分がブッダになるということを自覚して、それを目標にし て修行して生きていけば、誰でもなれると。決してブッダと いうものは拝む対象じゃないんです。仏像をさすればどうな るとか、ブッダにお願いすれば願いが叶えられるとかと、そ んなことはブッダは説いていない。拝めとは言っていないん です。ブッダは「私は君たちと同じように修行する仲間だよ 」とおっしゃっている。ですから、ブッダになろうというの ならば、教えられた「八正道」なら「八正道」を一生懸命努 力してやっていくということに変わりはありません。 ブッダは、ものごとは心にもとずくとして、清浄行につとめ 励み、清らかな心で大いに楽しく生きることを説きました。 セックスは禁じています。それらを認める宗教はブッダの仏 教ではありません。 僧には、財は必要最小限の所有「三衣一鉢」に限られていた わけで、基本的に無所有を旨としています。財を死蔵し蓄積 することを批難しています。財は広く分配することを説いて います。不必要な財の消費には厳しく反対しています。 またブッダは死後生の「霊魂や輪廻や仏性」については無記 、つまり答えていません。なぜならブッダはあくまで現世に おける苦しみの克服をめざしたのであり、輪廻の主体が何で あるかとか、自己の本性は有限なのか無限なのかといった観 念的な議論や形而上学的な問題については、「我ナシ」の価 値観ですから、測る物差しがないのです。したがってブッダ は沈黙しました。(中村元・ブッダの人と思想P183) 来世や極楽浄土の存在については何も言っていない。それら は後世の人が創作したものです。「生まれ変わり」というも のは、肉体と別個の何らかの主体、つまり「霊魂」を想定し ています。しかし、ブッダは無常・生滅縁起・無我、永遠に 変滅しない実体は一切存在しないと説いた。そうすると、一 体輪廻する主体「霊魂」とは何か、となります。ブッダは当 時の常識であるバラモン輪廻思想に対して、無記という消極 的なものであったればこそ、自ら主張した「無我」という偉 大な考えと矛盾なく整合性をもって、教えを人々に説き示す ことができたのです。 また大乗仏教の真髄とされている「空」についても、ブッダ の仏教とその解釈と位置づけが全く異なります。ブッダの仏 教では、この世の出来事はすべて、原因と結果の峻厳な因果 関係にもとずいて動きます。ですから因果関係を無視してど んなことでもしてくれる超越的な絶対者などは存在しません 。人は自分の行為に対して、100パーセントその責任を負 わねばなりません。ところが大乗仏教では、人が救われるの は必ずしも因果の法則によりません。別の世界にいる仏であ ったり、因果則を超えた神秘的なパワーだったりします。空 の思想も凡人に理解しがたい高次な原理にもとづいています。 ブッダは煩悩から解き放たれた世界を「涅槃」ニルバーナと 名づけ、修行を積んでいけば到達できる現世の境地とした。 ブッダの教えの本質は「心の平安を求める涅槃の生き方」で す。つまりブッダは「十二因縁により自己の中核である妄執 を止滅すれば執着が止滅し、執着が止滅すれば出生が止滅し 、出生が止滅すれば老死が止滅する」と生死を超越したので 、死後の世界については言及していません。ブッダは出家者 に功徳を積んで死後に天に生まれることを望んではならない と説き、出家者は修行して苦と不安を解決し現世において涅 槃の境地を目指せ、としました。 ところで、ブッダの仏教では修行をしない人は煩悩や苦から 解き放たれることはないわけです。そこで信心や念仏中心の 日本仏教は、中国仏教よりさらに簡略化し、修行も解脱も八 正道もなく、死ねば欲も悩みも苦もなくなるのだからと、面 倒な修行は一切なしで、たちまちホトケになるとしました。 ブッダは自分の正当性を誇張したり、信仰を強要したり、教 祖的に大言壮語したりするような方ではなく、ただ「真理」 という一条の光に向かって自ら進み、また弟子たちの自覚を 促し、修行への熱意を奮起させるようなアプローチをされて いた人でした。ブッダが説いたものは宗教ではなく、哲学で もなく、真理そのものでした。 「たとえ末端の修行僧でも、堕落から身を守れば、聖者の流 れに入り、現世において、涅槃に到達できる」と説きました 。他力ではなく自力を説いています。 「さあ、皆にもう一度思い出させよう。一切の事象は過ぎ去 るものであることを。自分自身を信じて、戒を守り怠ること なく(無我と無所有で)修行に励みなさい」 「自灯明・法灯明」これがブッダの最後の言葉でした。 --------------------------------------------------- 日本仏教 それでは日本仏教がブッダの仏教とは似ても似つかない、「 葬式仏教」と揶揄されるほど、堕落した仏教と言ってもいい ほどになってしまったのはなぜでしょうか。 『大般涅槃経』「ある牛飼いの女」を例に出そう。彼女は大 儲けをしようと思って、搾(しぼ)った牛乳に水を加えて二倍 の量にした。これを他の牛飼いの女に売った。これを買い取 った女はさらに水を加えて二倍の量にした。ある女が客をも てなすために新鮮な牛乳を求めていた。ちょうど水増しした 牛乳を売っていた女に出会い、その牛乳を買い求めようとし た。しかし、その値段のわりに牛乳の質がよくないことを知 ったが、とにかく買い求めて家に帰った。家に帰り、その牛 乳で粥(かゆ)をつくったが、まったく牛乳の味がしなかった 。ただ、味がしないとはいっても、どんなまずい料理よりは 何倍ものおいしさがあった。それは最初の牛乳の味が、あら ゆる味の中で最高だったからである。 次に「薬草の喩え」ヒマラヤの山中にある甘い薬草を譬えに しよう。その薬草の名を楽味という。この薬草はとても甘い 味がしたからである。深山の樹木が生い茂っているところに あり、だれもこれを見たことがなかった。ただ、ある人物だ けはその薬草の香りを嗅ぎつけて、見つけることができた。 昔、転輪王がヒマラヤでこの薬草を見つけて、木筒を置いて 、その汁を採取した。この薬汁は熟したときに、大地から湧 き出て木筒の中に集まった。その味はほんものの、混じりけ のない甘味であった。転輪王が死んでから、この薬味は酸味 になったり、塩味になったり、辛くなったり、苦くなったり 、うまみのない味になったりした。この薬汁の味は流れてい く先で味が変わったが、本来のほんものの甘い味は、湧き出 るところでは変わっていなかった。 これは仏法が形を変えていく、つまり流れ流れていくうちに 、甘い味のものが酸っぱくなったり、苦くなったりという喩 えですね。これは何を言っているかというと、これは宗派が できた、ということですよね。つまりブッダの教えというの は、こういうものであるというのを、その時代その時代によ って、こう解釈してもいいんじゃないのかとか、こういうよ うに言われたんではないかとか。あるいはこの教えが本物な んだ、いや、こちらの方が本物だと言って、そこで対立して 自分たちで一つの宗派を作っていったんですね。それが、こ こでいう酸っぱいもの、苦いもの、辛いもの、甘味のないも のとかいうものですね。この甘い汁のものが、流れ流れてい くうちに、味が変わってしまった、と。それぞれの味のもの を、後の者がそういう味付けてしまったと。だから宗派とい うものは、途中でもお話しましたように、日本まで来ますと 、さまざまな宗派がございますね。各宗派で、お檀家さん たちがブッダは何をお説きになったかって、「ブッダの教え って何でしょう?」と言った時には、「これです」というの は、宗派によって異なるわけです。日本の宗派は、宗祖仏教 でありますから、例えば弘法大師はこうであった。天台大師 はこう。法然上人、親鸞聖人はこう、道元禅師はこうで日蓮 上人はこうであったというようにして、みんなその宗派の開 祖の方の教えというものを中心にして、釈尊の教えを説こう としますよね。それはいうなれば、ずっと流れ流れてきて、 味の変わったものを全部そこで示しているわけです。 中国経由で輸入した日本の各宗祖師たちは、中国の大乗仏教 を誤ってブッダの仏教であると信じました。日本に伝えられ た約三千のお経の作者はインドの大乗派に属する仏教学者で す。彼らは小乗派の阿含経スッタニバータや小経からヒント をつかみ「観音経」「阿弥陀経」「妙法蓮華経」などを書き 上げました。中国での翻訳は鳩摩羅什や玄奘三蔵がかかわり ましたが、訳経僧の中には本物の中にこっそり偽物を混ぜ込 む者もいました。たとえば「父母恩重経」「盂蘭盆経」は偽 経です。 日本の仏教では、戒律はまったくと言っていいほど重要視さ れていません。小乗仏教では八正道の修行中心で、無我と無 所有が根本ですが、日本仏教では中観・中道と唯識・心が主 流となっています。 日本では仏法僧の三宝を信じて帰依することが戒です。三 帰依という精神的な戒めです。戒よりも信心、つまり信が徹 底すればおのずと戒が身に備わってくるであろうと期待する わけです。例えば浄土真宗では戒律を認めていません。法名 。日蓮宗においても信者に戒を授けることはない。法号とな る。それ以外の宗派は戒名ですが、戒律は大乗戒というゆる ゆるの戒律です。僧は五戒のうち「女性と関係をもつな」だ けでも重大な戒律破りです。このように日本では戒は名目と して存在しますが、現実は無いに等しいのです。それなのに 戒名だけを認めているのは滑稽というほかありません。また ブッダはお題目や念仏など祈りで苦の問題が解決しするとは 言っていません。日本仏教は小乗仏教とは極めて大きな差が あります。 そして多額の戒名問題が日本仏教のノドに刺さったトゲだと いうことは各宗派の長老も良くご存知です。つまり高額の戒 名が戒名離れ、仏教離れ、無宗教葬の増加となっています。 最近の新聞で、寺がラブホテルを経営し宗教法人の特典であ る免税制度を悪用し17億円脱税したというのがありました 。その他、1億円で温泉を掘って家族だけの露天風呂を持っ ている寺やプールを作り家族だけで泳いでいる寺もあります 。連日ゴルフ三昧でベンツやロレックスや暖炉があるのは当 たり前で、ソープで豪遊したり妾を持っている僧もある。小 乗仏教側から見れば、妻帯し、酒を飲み、物欲に走る日本の 堕落した僧は日々、犯戒や破戒の常習犯なのです。小乗仏教 国ではこのような場合、民衆が僧の衣を剥ぎ取り、裸にして、 寺から放り出します。 お寺側の言い分は「現在は安定した生活をしているので私を 困らせないでくれ」「ちょっと私は忙しい、托鉢などは檀家 さんが許さない」。これ程までに日本の僧侶が堕落した原因 は優秀な人材を取り込むことが出来ない世襲制と檀家制度と 高額な戒名問題にあります。 インドで興った仏教は日本で花開いた。しかし、現状の日本 仏教は、その社会同様「物で栄えて心で亡ぶ」で、民衆と共 に苦しみを救おうという宗教本来の姿を失いました。日本仏 教もインド同様に諸外国へ移り、いつか亡ぶのではないか。 現代日本仏教の最大の欠陥は、ブッダを裏切って「仏教」と いうラベルのついた産業になってしまっていることです。 それは一種の世俗的な「娯楽」にすぎません。「何箇所めぐ り」して極楽に行きたいというのは欲望の煩悩ですし、仏の 罰が怖いというのは怒りの煩悩です。小池龍之介氏 日本における宗教の概要 --------------------------------------------------- 四人の妻のお話 ある時、お大尽が急に遠い国へ長い旅に出かけることになっ た。そこで4人の妻たちに、愛する順に声を掛けて誘いまし た。お大尽は彼が片時も離さず、暑いといえば服を脱がせて やり寒いといえば着せてやり、暑さ寒さの苦労をさせないよ う、どこに行くにも一緒で、最も愛していた最初の妻に向か って「お前、ワシと一緒に行ってくれぬか。」するとその妻 はヨヨと泣き崩れ「私もあなたのお供をしてどこまでも行き たい。でも私がいなくなったら、誰が子供たちや孫や家の内 外の面倒を見るんですか。そう思うとあなたのお供をして行 くわけには参りません。心を鬼にしてこちらに残ります。」 そう言って泣き崩れた。この夫人は、お大尽の現実の妻であ った。さもありなんと思ったお大尽は、美貌の持ち主である 二番目の妻に向かって「ワシはお前を手に入れるためにどれ だけの苦労をしてきたことか。人生の努力の大半をお前のた めに費やし、寝食を忘れ、数々の辛酸を舐め、時には悪いこ とをしたり人をだましてまでお前をかわいがった。ワシのせ いで自ら命を絶ったものさえいる。そんな思いまでしてワシ はお前を手に入れた。お前こそワシと一緒に行ってくれるで あろうな。」するとこの第二婦人、フンと鼻先でせせら笑い 「バカも休み休みに言ってもらいたいもんだわ。第一夫人が 同行したくないという旅に、第二夫人の私がご一緒するわけ にはいきません。それに何で私が老いぼれのあなたのお供を して行かなきゃならないのよ。まっぴら御免だわ。」と冷た く断られてしまいました。この第二婦人こそ、お大尽が必死 になって追い求めてきたカネや地位、名声、権力、財産・・ でした。哀しくなったお大尽、今度は第三夫人に向かって 「お前こそ・・・」と言いかけた途端、この第三夫人、身を 捩って泣き崩れました。第三夫人は、近くに来ると手を固く 握りあい、別れる時は見えなくなるまで手を振り合う間柄で したが、たまに気が向いたときだけ愛する夫人でした。「私 は誰かさんと違って、いつまでもあなたと一心同体なのです 。ですからあなたのお供という役目は叶いませぬ。あなたの 旅立ちを村はずれまでお見送りいたしますが、お供として一 緒の旅はできないです」と断られました。第三の夫人は言う までもなく、お大尽の肉体であった。最後に残っている第四 夫人、彼女は、いつも影から夫に仕えてきた夫人でしたが、 優しく言葉を掛けてやるようなこともなく、あまり見向きも されず、愛されたこともなかったような夫人でありました。 いつも邪慳に扱い、あまり顧みることもなかった第四夫人に 「お前は?」と力なく目で尋ねると、ところがこの第四夫人 が、「私で良ければどうぞあなたの旅に連れて行ってくださ い。私はいつでも付き従っているものです。どこまでも喜ん でお供しましょう」と言ってくれたのです。お大尽は、ここ で初めて、自分がもっと愛すべきであった夫人は第四夫人で あったと悟ったのです。 この話、じつは彼はあの世への死出の旅に出ようとしていた のです。この第四の婦人こそは、自分を自分たらしめてくれ る「徳」であった。「徳」とはその人のすべての行跡で、私 なら私という人間のすべてです。他人を思いやる気持ちで、 陰で善い行いをする、決してひけらかさない、ということで 徳を積むといいます。あくせく金儲けをしたり、地位や権力 を求めたり、肉体に執着しても、所詮は空しいことで、そん なことより、「善き因・縁・果→因・縁・果→・・」の無限 の連鎖を目指して「善き徳」を積み重ねる修行が大切です。 --------------------------------------------------- 逃げた女 ブッダが森で座禅をしていると、そこへ数人の若者があわた だしく走ってきて「今、ここへ若い女が逃げてきませんでし たか?」とたずねます。ブッダが説明を求めると「お恥ずか しい話ですが、商売女を連れてここへ遊びに来たのですが、 わずかの隙に私たちのお金や装身具を、みんな持って逃げて しまったのです。その女をお見かけになりませんでしたか? 」と気もそぞろです。ブッダは彼らに体を向けて問いかけら れます。「若者よ、逃げた女を探すのと、逃げた自分自身を 探すのと、どちらが大切だと思うか?」若者たちは予期もし なかったブッダの問いにびっくりします。逃げた自分自身を 探すという意味がわかりかねたが、わからぬままにも「もち ろん自分自身を探し求めるほうが大切です」と答えました。 「それなら、見失った自分を探す道を教えてあげよう。とか く私たちは自分の持ち物や自分と関係のあるものを失うと、 それを探すのに夢中になる。ところが、正常な心の持ち主な ら自分の心を見失ってまでも、それを探し求めようとはしな い。今、あなた方は行方をくらました遊び女を追い求めるの に夢中だが、そのために、より大切な自分の心まで見失って しまっているのではないか?」 --------------------------------------------------- 「毒箭(どくせん)の譬え」というのがあります。マールンキ ャプッタという若者が「世界は有限か無限か。死後の世界は 存在するのかしないのか。ブッダが答えてくれない限り、仏 門に入らない」と言った。そこでブッダは次のように話した 。「ある青年に毒の矢が刺さった。友達がそれを抜いて治療 しようとしたら、刺さった青年が、「君達、その毒矢を抜い ちゃダメだ。何という名の人が射って、その人は王族か庶民 か、長身か単身か、皮膚の色はどうか、どこに住んでいるか 、この矢はどういう種類で、弦の材質は何か、そして矢尻は 石か鉄なのか、矢の羽は何か、毒は自然のものなのか人工的 なものか、そういうようなことがはっきりしない限りはこの 矢は抜いてはならない」と言って、それを止めさせた。とこ ろがその青年は、そのうちに毒が全身にまわって死んでしま った。」その話を聞いたマールンキャプッタは「その男は大 バカだなあ」といいました。ブッダはお前の質問も同じこと だよと諭した。死後の世界があるかないかは、死んでしまわ なければわかりません。私たちには今現在、欲望と執着の苦 しみという毒矢が突き刺さっています。死後のことを問い続 けているうちに、死んでしまいます。そんなことを思い煩っ ているよりも、なにより早く毒矢に気づくことが大切です。 もしも修行者が正しい智慧によって、ものごとをあるがまま に見るならばならば、過去や未来や現在について、こんな考 えは持たないだろう。「私は過去生前において存在したのか 、何者だったのだろうか」「私は未来死後にもあるのだろう か。何者になるのだろうか」「私は現在において存在してい るのか、私はどこから来てどこへ行くのか」こんな疑問はも たないだろう。ブッダ --------------------------------------------------- ブッダがいつものように托鉢をしていると、一人の農夫が近 づいて「修行者よ、私らは田を耕し種をまいて食べ物を作っ ている。あんたも田を耕し種をまいて自分で食糧を得られた らどうか?」非難しました。ブッダは、さわやかに「はい、 私も耕し種をまき、そして食糧を得ています」と答えました 。農夫はブッダをジロジロ見て「でも、あんたが田を耕し種 をまくところを見たことがない。第一、あんたは農具をひと つも持っていないではないか」と責めたてました。 それに対してブッダは「私はあなた方の心を耕します。耕す ことを怠ると田の土は固くなるでしょう。心の田も耕作を怠 ると頑なになります。だから私は修業の鋤スキで、あなたの心 を耕して、柔らかい心にときほぐします。柔らくなった心に [信仰]の種をまかせていただきます。信仰の種が成長するに つれて[煩悩]という雑草もはびこります。そこで私はあなた 方に、田の草をとるのは骨が折れるが、途中でやめては何も ならないから辛抱強く[忍]を重ねて煩悩という除草の努めを すすめます。あなた方は苗に肥料を与えられる。私もまた[ 智恵]という心の目覚めがはやくなる肥料を、あなた方の心 の田に施肥させていただきます。すると、先の[信仰]の種は スクスクと成長していくでありましょう。 そしてその花の一つ一つは[縁]という風や鳥や虫のなかだち のおかげで豊かに実るでありましょう。その実りこそが[菩 提という悟り]の喜びの実りです。だが農事は気候などの関 係で時には収穫の少ない年もある。私たちの一生もまた同じ です。いつ不幸や災難がやってくるかわかりません。しかし 、心の田が豊かに肥えているなら行いも言葉も根が深く茎も 太いので、逆境の時も倒れずに自分を支え、周囲からも支え ていただけるので収穫にかわりはありません。ですからあな た方の仕事と私の修行とは別のものではありません。自分の 心も深く耕すと我の強い自分も身も言葉も慎み、食べ物もむ さぼらなくなり、素直な人間になれます。すると喧嘩もしな くなり、他とも円満にことが運べて、どんなにか幸せでしょ う。」原文「私にとっては、信仰が種子(たね)である。修行 が雨である。智慧が鋤(すき)とである。慚(はじらい)が鋤棒 (すきぼう)である。努力がわが〈軛をかけた牛〉であり、安 穏の境地に運んでくれる。この耕作はこのようになされて甘 露の涅槃という果実をもたらす。つまりあらゆる苦悩から解 き放たれる。」 --------------------------------------------------- ある人がブッダに「自分たち在家は僧に食事を提供してた くさんの徳を積んでいる。それをただ食べているだけのあ なたがた僧の徳はレベルが低いのだ」と言いました。ブッ ダは「あなたがた在家は生きるためにたくさん苦しんで、 いつ本当の徳を積んでいるのですか。僧は経済活動をしな いのだから、在家の人に依存します。しかし私たちはあな たがた在家の人々に精神的な栄養である真理の教えを与え ています。それは不滅の価値を持ち、人が生きるために役 立ち続けます。あなた方がくれるのはせいぜいご飯ぐらい でしょう。次の日にはお腹がすくのですから、比べようも ないほど大きなものを与えています。」 --------------------------------------------------- 人生をどのように歩むか ブッダはコーサラ国の王さまにある質問をしました。「東西 南北にある四つの火山が同時に爆発しました。四方から迫っ てくる火砕流は老死というもので自分の居るところに流れて きます。そのときあなたはどうしますか」王さまはブッダの 説法を聞いていましたから「世尊よ、老死は大いなる岩山の ごとく、私の上に押し迫って来ている。私には、強大なる軍 隊がある。しかしながら、老死に対して、それが何の役に立 ちますか。また、私には呪をよくする大臣があり、彼らは私 のために呪をもって、攻めきたる敵を破ることができる。し かしながら、呪の力をもってしても、押し迫ってくる老死に は何の役に立ちますか。また、わが王宮には莫大なる黄金を 蔵しており、私はこれをもって、敵を買収し説得することも できる。しかしながら、これらの財宝の力も、老死の押し迫 り来る事を、如何ともし難いです。わが上に巌の山のごとく に老死の押し迫ってくるとき、わたしの為すべきことは、真 理である生滅縁起の法・三法印・四諦・八正道に従って行ず ること、善業をなし、功徳を積むことのほかに安心な人生を 生きられる事がありますか」と答えました。」ブッダは「は い、正解です。止まることなく老死が迫ってくるのが人生の 現実なのです」。 --------------------------------------------------- 悟りに至る道 ブッダがガンジス河のほとりを歩いておられた時、ひとりの 修行僧が地に手をついて言いました。「お釈迦さま、お願い がございます。どうぞ私に安らかな涅槃に至る悟りに至る道 をお説きください」すると、ブッダはカンジス河を指さして いいました。「修行僧よ、あそこに一本の木が流れていくの が見えますか」「はい、見えます」「あの流木が、こちらの 岸にも、向こうの岸にも流れつかず、中流で沈むことなく、 中州にのり上げることもなく、人や動物によって持ち去られ ず、渦に巻き込まれず、腐ることなく、流れ流れていくなら ば、どこに行きつくでしょうか」「いつか海に出ます」「そ うです。ガンジス河の流れは海に流れこむようになっている のです。修行に励む者はあの流木と同じです。そして、正し い修行の道はこのガンジス河と同じなのです。修行僧よ、こ ちらの岸とは私たちの目や耳や鼻や舌などのこと。向こう岸 とはその対象となる色や音や香りや味などのことで、岸に流 れつかずとは、それら感覚にとらわれないということです。 中流に沈まずとは、欲望や快楽におぼれないことであり、中 州にのり上げずとは、日常の自分に安住しないということで す。人に持ち去られずとは、恩愛の家庭や社会のつながりに しばられないということ。人以外のものに持ち去られずとは 、かたよった信仰・思想・正義に固執しないということです 。渦に巻きこまれずとは、道を見失わないということであり 、内側から腐らずとは、純潔を守らない見せかけの修行僧に ならないということです。修行僧よ、この流木のように何ご とにもとらわれず、とどまることなく歩んでいきなさい。そ うすれば、やがては大いなる涅槃の大海に入ることができる でしょう。 これが悟りに至る道です」 修行僧は、修行の道 とは、仏にすべてをまかせた道であると知って勇気をおこし 、必ずやこの道を進もうと心に誓ったのでした。 --------------------------------------------------- 「持たない」無所有は、最上の贅沢 ダニヤという牛飼いが、やってきたブッダに声をかけた。「 私の家では炊いたご飯はプンプンといい匂いを立て、牛乳も ギュッと搾った。家の屋根は修理したし、火も焚いてある。 雨が降るならいつ降ってもかまわないさ」気分がいいダニヤ に対してブッダはこう言った。「私はプンプン怒らないし、 心をギュッと固くする頑迷さからも離れている。身一つのこ の身体が私の家だ。心を覆う迷いの屋根は取り去られ、煩悩 の火は消えている。雨が降るならいつ降ってもかまわない。 」するとダニヤは「私は牛飼いを生業として勤勉に励んでい る。自慢の家族たちは悪い噂も聞かない」と言い返した。 ブッダは「自分は雇われ束縛されているわけではない。 守るべき牛を持っていないので、自ら得たもので世界中どこ へでも行く。長い修行に励んだので自分の中から悪というも のは消えたしまった。牛飼いの仕事や家などの財産それに家 族は確かに大切で大きな喜びだが、あればあったで悩みの種 で、子や牛や家について執着すれば苦しみも生まれてくる。 そんな憂いや悩みや思うようにならない苦しみから離れて、 自由で穏やかな精神生活を送ることこそ、本当の幸せではな いか」と答えた。チグハグ問答をしている時、空一面を黒雲 が覆い、激しい豪雨で河が氾濫して家や牛が流され始めた。 --------------------------------------------------- ある日、コーサラ国の王さまがお妃さまとともに宮殿の高台 に登っておりました。眼下に広がる美しい風景をながめなが ら、王さまはふと、お妃さまにたずねました。 「妃よ、そなたには自分より愛しいものがあるかね」王さま は甘い答えを期待していたのでした。しかし、お妃さまは少 し考えていいました。「王さま、私には自分より愛しいもの はございません」王さまは内心がっかりしてしまいました。 最愛の妃でさえそんなものか……すると、今度はお妃さまが たずねました。「では、王さまには何ぞご自分より愛しいも のがございますか」「ふむ……そういわれてみれば確かに自 分より愛しいものはないのう……」こうして、二人は「自分 が一番愛しい」ということで意見が一致しました。しかし、 二人とも何だか自分たちがたいへんな思い違いをしているよ うな気がしてなりません。「そうだ、お釈迦さまに相談して みよう」二人はさっそくお釈迦さまをたずねました。さて、 王さまの問いに、ブッダはこう答えました。「王さま、 人はだれでも自分ほど大切なものはありません。それはすべ ての生き物の共通の思いなのです。ただ……」 「ただ?」「自分が何より大切であると同じように、他の人 にとってもその人自身が何より大切なのです。ですから、自 分が愛しいと思う者は、他の人のその気持ちも理解して、害 してはならないのです。慈しみの心をおこして接しなさ。も し、心が汚れたり、悪い行いをすれば、自分を苦しめること になります。心を清らかにして、正しいおこない、正しいこ とば、正しい思いにつとめることこそ真に自分を愛する道で あると知るべきです」その帰りの道すがら、王さまはお妃さ まにいいました。「妃よ、わしはお釈迦さまの話をきいてこ う思った。人を心から大切にすることが実は自分を本当に愛 する道でもあるのだとな」「王さま、わたしもそう思います 」二人の頬に夕方の涼しい風が心地よく吹いておりました。 --------------------------------------------------- 仏弟子アヌルッダはブッダの説法のときに、日頃の修行の疲 れが出たのか、衆人の中で居眠りをしてしまった。彼はこの 恥かき事件の後、横になって眠ることをやめました。ブッダ は彼があまりにも刻苦にすぎるため、身体を壊すのではない かと心配して、しばしば注意をしますが、アヌルッダは聞き 入れません。ついに不眠と栄養不良のためか、眼が見えなく なりました。しかし彼の精励はとどまることなく、ついに心 眼を開きました。 ある日のこと、眼が不自由になったアヌルッダが繕い物をし ていました。衣を縫うために針に糸を通さなければなりませ ん。手探りではなかなか穴に糸が通りません。彼はつぶやき ました。「誰か私のために針に糸を通して徳を積む人はおり ませんか」と。ブッダは耳ざとく聞きつけて「それは私がや りましょう」といいました。アヌルッダは驚いて「この世で 徳を積むいわれのある人こそ積むべきで、何で世尊がその必 要がありましょうか」といいました。ブッダは「この世で徳 を求める者で、私以上のものはいないのです」と。こんなこ とを言ってくれる師をもったアヌルッダは幸せでした。この 後ブッダは、たとえ如来といえども修行に終りはなく、徳を 積むことが大切であると説かれました。 日常の何気ない行為の中に、ブッダのやさしさと思いやり、 そして修行一路の姿勢がうかがえるのです。 --------------------------------------------------- ブッダの弟子には優秀な人もおり、そうでない人もいました 。パンタカは物覚えの悪い要領の悪い人でした。ブッダが一 つの詩を与えて覚えさせようとしましたが、四ヶ月かかって も一句も覚えることができませんでした。人々は物覚えの悪 い彼をさげすみ、優秀な兄の面目は丸つぶれとなりました。 「お前はとても見込みがない。家にすぐに帰れ」ということ になったのです。彼は頼りにする兄にも見放され、打ちしお れて、精舎の一室に悄然と立っていました。彼の言葉・・そ こにブッダが現れて、まだ小さかったわたしの頭を撫でて、 わたしの手を執って、僧園のなかにまた連れて行かれた。慈 しみの念をもって師はわたしに足拭きの布を与えられた。「 この浄らかな物をひたすらに専念して気をつけていなさい」 といって。わたしは師のことばを聞いて、教えを楽しみなが ら、最上の道理に到達するために、精神統一を実践した。・ ・足拭きの行を授けます。パンタカは雑巾を持って、他の僧 の履物や足を拭いてきれいにすることを日課にしました。い わゆるトイレ掃除などの下座行です。人が不浄と考えるもの を清浄にする仕事に専念することは、同時に自己の心をも浄 化することです。放置すれば汚れるものを清浄にすることは 、ブッダの教えの根幹であります。パンタカは一遍の詩をも 暗記することができませんでしたが、この実践によってブッ ダの教えの根幹を体得したのです。ブッダの教えは何かあり がたい、特別な人生を生きる方法ではありません。つまると ころ自己浄化につきてしまうのです。菩提心を因と為し、大 悲を根本と為し、方便を究竟と為す 真言密教『大日経』 下座行は、自分の中に頭を持ち上げてくる自我とか、俺は、 といったようなものを潰さなければ奉仕はできないわけです し、人に尽くすという行為が身に付いてくるわけであります 。そうしたものが重要な修行になっていたわけなんでしょう ね。足拭きの雑巾を世間的にいえば汚れているものと思うか も知れないけど、浄らかな心が籠もっているから、尊いもの だ、清らかなものである、というブッダの教えがここに述べ られているわけですね。大悲は大いなる哀れみの心、人と共感する気持 --------------------------------------------------- 『超訳ブッダの言葉』 小池龍之介・編訳 小乗のスッタニパータ経集とダンマパダ法句経から 一 怒らない 二 比べない 三 求めない 四 自分を知る。--無我。 五 友を選ぶ 六 幸せを知る。--穏やかな心。 七 身体を見つめる。--身体は汚物の皮袋。 八 自由になる 九 慈悲を習う 十 死と向き合う。--無常。 十一 悟る ◎他人の怒りを前にしたとき君がいち早く気づくべきは、 君自身の心まで怒りに染まりそうになっていること。それ に気づいて落ちつくように。 ◎誰かが君に怒りをぶつけて攻撃してきたとするなら、そ れは相手が君を、怒りという毒を盛った料理のディナーに 招待しているようなもの。もしも君が冷静さを保ち、怒ら ずにすむなら、怒りという名の手料理を受け取らずに帰れ るだろう。すると怒っている人の心には、君に受け取って もらえなかった毒料理が手つかずのまま、どっさり残る。 その人は独りで怒りの毒料理を食べて、自滅する。 ◎君以外の誰も君を傷つけない。自分が自分を傷つけている。 ◎相手の悪(あやまち)ではなく、自分の内側(心)を見よ。 ◎「私の」。「他人の」。このふたつを君が忘れ去ったなら 仮に何も持っていなくても、しあわせな心でいられるだろう。 ◎悪口を言われない人はいない。 ◎人と張り合わない。逆らわない。 ◎論争の誘いに乗らない。言い争いをしない。 ◎自分に与えられているものをよくよく見る。 ◎財産を他人のために惜しみなく使う。 ◎自分より性格の良い友を持つ。友とは自分を向上させる人。 ◎借金を踏み倒す人を友としてはいけない。 ◎ケチな自分を乗り越える。 ◎頭を混濁させる小ざかしい知識のフィルターである思考を離れ て、ものごとをありのままに感じる。 ◎他人も、自分と同様、自分を愛しく思っていることを知る。 ◎善業は未来の君にとっての、ただひとつの財産となる。 ◎欲しくて欲しくてたまらない人や物をつくらないように。欲し くて欲しくてたまらない人や物が、君の思いどおりにならないと き、特に、その人や物をいつか君が失わねばならぬとき、そのと き、君の心には激痛が走るから。 ◎もう、二度と生まれ変わることはない。今生かぎりです。 --------------------------------------------------- ブッダの明快な教えアルボムッレ・スマナサーラ 小乗 ◎祈りは役に立たない 歴史上祈りで解決し良くなったことはない ◎人生に意味などない 人間はたまたま生まれてきただけです ◎「自分に正直」に生きてはならない 人間の心は放っておけばすぐ悪い方向へ向かうから 貧じん痴 ◎私などない 私は錯覚 私という妄想観念に取り憑かれている ◎欲ほど恐ろしいものはない 人間はみな、欲に狂った病人です ◎人間の本音 自分の願望さえかなえばどんな残酷なことでもやる ◎喜怒哀楽は良くない 理性のない感情だけでは社会は壊れる ◎幸せは物から離れることで生まれる 無所有 断・捨・離 ◎人生は楽しめばいいんだと何かに依存すると苦しみがやってくる ◎悩みの原因は 我と欲と執着です ◎認識は妄想 自分の好み、感情、主観、思考で認識し妄想する ◎偉いとは 地位や財産や名誉のある人が偉いのではなく 無我と無執着で五戒と八正道を守る人です ◎よりよく生きる どう生きても最後はゼロであることを知る ◎人間関係はうまくいかないのが当たり前 慈悲の力が改善する ◎理性のない人にどう言われ様が どう思われようが気にしない ◎自分の向上に繋がる関係は友人 利益のためにつるむ人は悪友 ◎必ず人に好かれる方法とは 布施・愛語・利行・同事の四摂事 ◎他人の幸せを喜ぶ 人をうらやむ心は猛毒 ◎足を引っ張る人はなくならない 人を裁くが裁かれたくはない人 ◎人の役に立とうとすると 結果的に成功する ◎誰もが他人に迷惑をかけて生きている ◎お金の使い方 計画的に生活と貯金と投資二つに4分割する ◎他人と比較しない 比べることをやめれば幸せが訪れる ◎幸せへの道 自分に責任のないことは考えない ◎幸せの本当の意味は 心が安らぎ穏やかで平静でいること --------------------------------------------------- ●ブッダの生の声にできるだけ近い形が「原始仏典」です。 代表的なものとしては、例えばその折々の感興の言葉を詩の形で出 した「ウダーナ感興偈」という作品や、あるいは珠玉のような教え を、詩の形で書かれたものを集めた「ダンマパダ法句経」「スッタ ニパータ経集」「大パリニッバーナ」」「サンユッタニカーャ」と いうのもあります。 日本で一番ポピュラーなのは、やはり「大乗仏典」ですね。「法華 経」「華厳経」「般若心経」「阿弥陀経」「大般涅槃経」「無量寿 経」などです。 この大乗仏教というのは、ブッダの死後500年後、おおよそ西暦 前後頃から信仰されるようになってきた仏教の一つの形態で、カト リックに対するプロテスタントのように、当時の僧を中心にした仏 教に対する、在家のために簡単な信を中心にした一つの宗教改革だ ったわけですね。日本では大乗仏教が定着しましたから、どうして もそのお経が読まれるんですけれども、「原始仏典」は釈尊の生の 声が聞けるというところに非常に大きな意味があります。 〈釈迦の仏教はブッダ(仏陀)になることを教えたものです〉 ●大乗仏教の仏とは、宇宙の真理とでもいうべき仏です。こ の仏が真理を説き、教えを説きます。しかし、この仏たとえ ば阿弥陀仏は、そのままでは教えを説く事が出来ません。そ こで仏が人間である釈迦に姿を変えてこの世に登場したわけ です。大乗の諸経典は小乗の経典に比して思想の深さと底辺 の広がりを感じさせます。しかし大乗経典はブッダの言行録 ではなく、後世に創作されたものです。 最古の小乗経典スッタニパータで、ブッダは悟りに達した弟 子たちに向かって「ブッダたちよ」と呼びかけています。 生死の輪廻を識別し、再生を断ち、穢れがなく汚れがなく清 浄となっている者をブッダと呼ぶ。人生は、生滅縁起により 成り立ち、無常であり、苦であり、あらゆるものは無我であ る、という真理を自覚したとき、死すべき自己はなくなり、 死もなくなり、輪廻を論ずることもなくなり、再生もなくな り、修行は完成し、清浄になってブッダとなるというわけで す。そういう意味では〈あるべき人間の理想的な姿になるこ と〉を教えたものなんですね。 小乗ではサルナートで「四聖諦と無我と八正道」が説かれた とする南伝と「中道・四聖諦・無常・苦・無我・十二縁起」 が説かれたとする南伝があります。大乗では「仏性」や「空 」「如来は常住で不変だとして、如来の法身の不滅性」「欲 望よりなる者も成仏できる」としてます。「空」は竜樹が説 いたもので、仏教の本質を「慈悲」に変更した。 --------------------------------------------------- 縁起の真理「因縁和合」因縁生起ともいう ●物事には、それ自体には実体はなく、他との縁という相関 関係によって、つまり、この世界はみな種々の原因と条件が 絡み合い、依存関係して生滅しているという真理です。「因 縁和合」というのは別の言葉で言えば「共生共存」で、共に 生きるということです。それはまさしく仏教の「縁起」の考 え方ですね。みんなお互いが、縁りあい、依りあい手を繋い でいるんだよ、ということを意味しているわけですね。どん な人だって孤立して存在しているんじゃない。お互いに他の 人々と関わりを持って、他のものに依存してですね、他の人 々のお陰を受けて生きています。 どんなに進んだ科学の世界においても、「因縁和合」という ことを抜きにしては成り立たないんではないでしょうか。何 故ならば、キリスト教と異なり、仏教の考え方で言うと、こ の世は神が作ったんじゃないんですね。すべてのものは「因 縁和合」して成り立っているし、また消滅していくという考 え方ですから。それは科学の考え方と共通するものですね。 ●魚を捕る投網はどこか一つを持ち上げると、全体の網の目 が一緒にくっついて来る。つまり全部が関係し合っている。 網の一つの結び目をこう引き上げますと、全部それは引っか かって来ますね。例えば、ここに本があります。この本は紙 もある人が作るし、これを書かれた人もおられる。ただそれ だけじゃないんですね。太陽も水も存在しなかったら、人間 もないしこれも存在しないことなんですね。それが因縁和合 なんですね。ものは全部関わりがあって、一つとしてそこに 関わりのないものはないんですね。 ●例えば、力を与えていないから、じゃ、それは関係ないだ ろうというと、そうじゃないんですね。ものが存在する為に は邪魔をしないということは大事なんです。今お話をこうし ている状態は、皆さん方が力を合わせてこの状況を作って頂 いた。しかしそれだけじゃないんですよ。ここに邪魔ものが 入らないということが、これを成り立たしめている。つまり 邪魔するものがないというのも、立派な因縁和合の一つなん です。だから、何かが一つ、誰かが一人勝手なことをしちゃ うと、これは因縁和合が壊れてしまう。そこには私とか、私 のものとかというように、自分を中心にしてものを考えると ころは何もない。そういうふうにすると、時計の文字と同じ で、「お前なんか動いていないんだから要らないよ」と言っ て、歯車だけというふうにはいかない。全部関わりがある。 力を貸すものも、邪魔をしないでいるものも大事なんです。 そういう関わりを「縁起」という言葉で表現しています。そ の関わり合い全てが条件なわけですね。人間の真理は如何な るものであるか、一番特徴的なのは縁起の法ですね。あらゆ るものはお互いに寄り合って、種々の原因、条件によってつ くり出されている。目に見えないところで、人々はお互いに 目に見えない因縁によって結び付けられているわけです。 ●縁起しているからこそ、いつも同じ状態であることはあり 得ない。変化し続けているから、これを「無常」といい、永 遠に同一の状態で存続する実体もないから、これを「無我」 という。この場合の「我」とは、永遠不変の実体のことをい います。縁起はこうして無常とかむがというブッダの教えの 拠って立つ真理・法と深く関わっています。 勧善 ●ただし、人の面に、倫理思想にもって来ると、今度はそこ を善悪で考えなければならなくなるわけです。宗教的には善 いことをしなさい。悪いことはしてはいけない。これは普通 の日常倫理の中においても、「悪を離れて善に近付く」とい うことがあります。その場合に、善いことをしても、世の中 には貧しくて、苦しんで亡くなっていく人もいるじゃないか と。人の為に一生懸命尽くしながらも、貧しい生活をしてい て、苦しい境遇にある人もいるじゃないかと。逆に悪いこと をして、自分は悪いことをしているのに天罰なんかないんじ ゃないかと言って大手を振って、そして大往生する人もいる 。大きな家に住んで、悪いことをしていて、安楽な生活をし ている者もいるじゃないかというようなことで、善いことを したからって、別にどうこうなるということはないというふ うに言う人達がおられます。 「時節因縁熟した時に」 ●それに関して、ブッダはそうではないんだと。善いことを していても、ある時期にはそれは苦しい状況にあるかも知れ ないが、いずれ良い報いが来るんだよと教えています。 「まだ悪の果報が熟していないうちは、悪人でも幸せに巡り 合うことがある。悪の果報が熟したときには、悪人は災いに 巡り合うことになる。まだ善の果報が熟していないうちは、 善人でも災いに巡り合うことがある。しかし善の果報が熟し たときには 善人は幸せに巡り合うことになる。その応報は 自分にはこないだろうと考えて、悪を軽く見てはならない。 水が一滴ずつ落ちても水瓶はいつか満たされる。愚か者が悪 を少しずつ行なうならば、やがて災いに満たされる。またそ の果報は自分にはこないだろうと考えて、善を軽く見てはな らない。心がけのよい人は、一滴の水を集めるように少しず つ善を行えば、やがて福徳に満たされる。」 ●例えば頭をゴーンと殴ったら、殴って直ぐに瘤は出来ない 。直ぐに結果が現れてはこないですね。だけども、「時節因 縁熟した時に」と書いてあるんですね。「時」と「時節」で すね、時が、或いは季節巡りてというようなこと、そうして 因と縁、原因と条件がここで熟して、時節がちゃんと因縁が キチッと熟して到来すれば、必ずや善には善なるよい幸せな 報いが来るし、悪には苦しみの報いが来るであろうというふ うに説いておられるんです。 まさしく縁起ということがそこにあります。 ------------------------------------- ブッダの根本教説 四聖諦 小乗の悟り智慧 ●四聖諦とは苦・集・滅・道です。煩悩・妄執・渇愛を根底 とした苦の人間観と縁起の道理を一体化した根本教理が四聖 諦です。煩悩とは具体的にはトンジンチと呼ばれる貪欲や瞋 恚(しんに)怒り、痴(生滅の法を知らない無知)など心の けがれをいい、その根本である渇愛を指します。渇愛という のはのどが渇いたとき、水を求めるような欲求です。生存本 能ですね。 「苦の原因」つまり「集(じゅう)」から「苦」が生じ、「苦 の滅を実現する道」つまり「道どう」から「苦の滅」「滅メ ツ」に至るというように、それぞれ逆転した順序となってい ます。(集諦→苦諦、道諦→滅諦) 次になぜ苦しみが起こるのかというと〈妄執・渇愛があるか ら、因縁の法・縁起の法と呼ばれる原因と条件とが寄り集ま った無常の結果、一切行苦という思うようにならない苦の現 実が現れている〉のが「集」ですね。 なぜそうなるのかという、苦の原因の構造を示して表してい るのが十二縁起です。そして、形ある一切のものは無常であ り、苦であり、無我であると智慧をもって見たとき煩悩が滅 して苦のなくなった涅槃の境地となる。その〈妄執・渇愛を 克服した状態〉が「滅メツ」というわけです。 「道どう」はそういう苦を、思うようにならないものを消滅 させるための実践を説いた八正道という八つの道です。生活 を過剰な欲望によって汚さず正常に保ち、一瞬一刻に注意を 払い油断せず、欲望を制御して精神統一に努めることです。 「苦諦」生きることは本質的に苦であるという真理 「集諦」苦の原因は自我欲望の煩悩であるという真理 「滅諦」自我欲望の煩悩を滅すれば苦も滅するという真理 「道諦」煩悩を滅する修行は八正道であるという真理 例えば医療ならば、その苦がどんなものかを調べる「苦諦」、 次にその原因を知る「集諦」、原因に対処すると病気は治る 「滅諦」、そのためには治療が必要だ「道諦」 四苦八苦 ●生・老・病・死の四つは生まれてから死ぬまでの時間的な 「苦しみ」です。他に次の四つの「苦しみ」があります。 愛別離苦と怨憎会苦は人と人との間のことで、愛している者 と別れなければならない苦しみと憎しみから離れたいのに離 れられない苦しみです。パルテノン群像のどの墓にもただ一 言、「わかれ」とポツリと刻まれています。 求不得苦は持たざるものの苦しみ。五蘊盛苦は心身から生じ る制御できない苦しみや、持てる者の苦しみです。心身は常 に盛んに活動して、求め続けているものですから、一つの欲 求が満たされても、また新たな欲求が起きてくる。どこまで いっても満たされることはない苦しみをさします。 年をとりたくない、健康でありたい、死にたくない、という のは人間存在に根付いた本能的な自我の主張です。その自我 の主張は実現されません。しかし自分が生きているのは自我 欲望を振りかざしている世界です。自我の世界で生きていて 、しかも自我を超越せよという。これは難しいことです。 結局、ブッダは次のように納得しました。私達は無常を知っ ていても身体がうなずいていない。だから自我欲望が働き出 して無常なるモノを無常と見ずに、常住と思い誤っている。 つまり私達は仮想世界に生きているということです。だから 自我が苦しみを作り出しているわけです。ブッダがしきりに 自我欲望を抑制せよというのも、ここに理由がある。 ●ブッダは八正道で「苦を克服する方法」を教えています。 「苦」とは〈思いどうりにならない〉という意味です。「苦 」とは生老病死と怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五陰盛苦 の四苦八苦を指します。求不得苦だけで意は尽くされていま す。人生は常に「求めて得ざる苦しみ」があり、それを自分 で作り出しているのが私たち人間の性さがです。 --------------------------------------------------- 求める苦しみ--欲 ●人間の欲望や執着の中で「所有欲」ほど始末の悪いものは ありません。一般の我々の価値観です。しかし、子や財産に ついて喜ぶ者は、それらについて憂うことになります。 ●私たちは何かを求めて生きているわけです。目的を持ち、 希望を持ち、夢や理想を持って生きているわけですが、それ は大切なことなんですが、しかし求めるこだわる気持が非常 に強いと、その求めるということによって、かえって苦しむ ことがあるわけです。このくらいで満足だ、というふうに思 うことがなかなかできない。それによって苦しんでいます。 そして求めることを止めた時あきらめた時に、安らぎという か本当の幸せと言いますか、そこで得られるものがある。 ●私たちは本来宝物を持っているわけですね。宝物というの は体であり、肉体であり、心であるわけです。例えばこうし て生まれて生きている、生きているということはとても有り 難いことであります。心臓が鼓動をしているということも、 血液が循環をしているということも、何かを食べれば胃が消 化してくれるということも、これは本当に有り難いことで、 そういう素晴らしい体を持って生まれてきたんだ、と。この あるがままの自己で、これでいいんだと、その素晴らしさに 気付くということがやはり大切です。 ●私たちは今ここで自分がこうして当たり前にあるというこ との素晴らしさというものをなかなかわかっているようで わかっていない。例えば病気になる。病気になりますと痛い 思いもする。そして時間もかけて手術をして、休んで、お金 もかかるし、そういう苦しい思いをして、そして病気が治り まして健康な状態に戻りますと、非常に幸せを感じるわけで すよ。ところがそれは単に元に戻っただけでありまして、そ れ以前よりももっと自分の状態がよくなったとか、幸せにな った、ということではないのですね。 --------------------------------------------------- ブッダの教えのポイント僧は必須 ●中道の内容 八正道なぜ行わなければならないか。それは四諦の苦の生じる原 因である妄執から離れる為の実践項目だから。つまり、苦しみをな くす方法は八正道を他にしてはない。この八正道というものが、い わゆる仏教の生き方であり、仏教の行儀作法です。行儀作法という のは習慣付けなければ得られませんから、人間の生き方の中に、こ れは習慣付けなければいけません。その習慣付けるということは臭 い付けをすることですよ。仏教の言葉に「薫習(くんじゅう)」とい う言葉がありますが、この香りが習い性になる。つまり自分に付い ている臭いというものは、香水の瓶から香水を付けても、香水の瓶 を持って歩かなくても臭いはずっとくっついていくのと同じように 、八正道を自分の身体に染み込ませる、それが大事であると。 「正しい」とは、自己中心の誤った見解を捨てて、この世の有りようを 客観的合理的にありのままに見ること。 正見・因果の道理をもって世の中をありのままに見る。正し い見解。悟り。智慧。 正思・正しい考え方。煩悩を離れる、怒らない。傷つけない 。生き物を殺さない。貪(むさぼ)りの心を起こらないように 常に心掛ける。 正語・言葉使いを慎む、妄語、綺語、両舌、悪口を言わない 。人を傷つけるような言葉を使わない。 正業・正しい行動。殺生・偸盗・邪婬・妄語、飲酒をしない 五戒 なかでも不殺生、不傷害ということは最高の徳である。 正命・貪らない、適正で規則正しい生活。正しい衣食住、マ ナー。守らなければいけないものをちゃんと規則正しく行う。 正精進・清浄心で。善悪に対して正しい判断をして対処する 努力。 正念・一瞬一瞬仏陀の教えを持続する。正しい自覚。自分の 身体とか、心を注意深く観察して気づかいをする。 正定・欲望を制御し一つのことに心を集中する。座禅瞑想。 もろもろの道のうちでは、八つの部分よりなる正しい道が 最もすぐれている。これこそ道である。(真理を)見るは たらきを清めるためには、 この他に道は無い。 汝らはこの道を実践せよ。 (『ダンマパダ』)中村元訳 座禅瞑想するとき、ただ単に「色カラダ・受シゲキ・想キオク・行 ショウドウ・識ニンシキ」の五蘊の流れが自動的に流れていくだけで、 どこにも「我」というものが見出せないことが少しづつ実感できる。 「自分」などそもそも存在していないことを体感する。 存在していないものを存在していると思い込まされ、苦しみを快楽だと 思い込まされて操られ続けている「我という操り人形」の糸が切れます 。それこそが自由です。 悟り・智慧とは大乗では「諸法は空相」、小乗では(縁起と三法印 に裏打ちされた)「苦集滅道」となる。我と執着の煩悩である分別 心を取り去って、もののあり方を正しく見る(正見) ことをいう。 禅の公案も我である区別・分別する心を問うたり、マールンクヤ経 のように、霊魂はあるのかないのか等という観念論や形而上学的な 質問が多い。ブッダは「私はこれらをいずれとも断定しなかったの は、煩悩を消滅する目的にかなわず、清浄行の基礎ともならず、心 の平安のためにもならないからである」と説いています。人間存在 は本来無我なのですから、我アリの考え方から問うたものに答える ことは、相手の形而上学的な土俵に上がってしまうことになります 。つまり仮構築された幻想の世界で論議することになります。禅の 入門者はみな「我アリ」を中心にこの世を見て判断しています。で すからこのような公案を出されるわけです。この我アリという「我 執」をとり去った時、「ありのままの世界」つまり「法界縁起の世 界が現成する」ことになります。 ●「安穏な生き方を得るために」『涅槃経』 一、信心をもつこと。 二、素直な心をもつこと。 三、正しい習慣を身につけること。八正道。 四、善友(ぜんゆう)とつき合うこと。 五、ブッダの教えをよく聞くこと。 「南無・・・」と称えるだけではだめですね。 ●死の恐怖 今日のホスピス運動の一つに死後に明るい楽しい生活を描く ことによって、死を受け入れやすくしている。極楽浄土信仰 は死の恐怖を軽減する一つの考え方です。もう一つの考え方 は今までの人生を十分に生き抜いてきたのだから、いまさら 思い残すことはない。心を安んじて死を迎えなさい、という ものです。ブッダの教えはこのタイプに近いが、さらに宗教 的に昇華させている。つまり、無常に出会っている現実をあ るがままに直視し、逃げ出さずに一喜一憂せずに「今」を最 大限に前向きに生きる努力を続けるところに、かえって苦し み悲しみを乗り越えていく強さが出る、ということです。こ れを「無常を生きる」「生死を生きる」といいます。 ●生死一如しょうじいちにょ 「生死一如」とは、「生きることは死ぬことである」という ことです。つまり、生と死の間に境界はないという意味です。 ブッダの仏教では、「生」と「死」を別のものとして分けて とらえることはしません。今生きているということは今死に つつあるということです。この二つをひっくるめて「生死」 といい、生死の差別を超えることを説いています。つまり、 生があるから死がある。確かに、死が怖いあるいは死にたく ない、というのが人間の本音です。しかし人間は、この世に 生まれてきた以上、必ず死ななければなりません。だから、 死にたくないことにこだわらず、今現在を懸命に生き抜いて 、いざ死を迎えるその時には、死に方にもこだわらない。苦 しい時は、苦しんで死ねばいい。立派な死に方をしようと、 格好をつける必要はないのです。死に方よりも、むしろ死を 迎えるまでの生き方が問題なのです。善なることに一瞬一瞬 をイキイキと情熱を燃やし、死の恐怖が心に入り込める余地 のないほどに、日々を命ある限り精一杯生き、そして死んで いくのがよいのです。いつ死んでも我が人生に悔いなしとい うような身になって始めて、大安心大満足の明るく楽しい人 生を送る事が出来る、というのが『生死一如』ということで す。 不死の法則 無我は=無自性の生命体=自他不二 ●生まれたときは無垢で清浄であった心は、思考による自我 の目覚めによって「我」となって現れる。つまり生存欲を源 とする「妄執と執着」によって仮に構築された心だというこ とです。この妄執の中核を打ち砕けば、仮構された自己は消 滅します。自己が消滅すれば自己によって仮構された世界は 壊滅し本来の「あるがままの世界」が現れます。分別化や対 象化された世界ではありません。自分と世界は素通しになり ます。天上天下唯我独尊です。つまり「我有り」と分別して いる自我意識が無くなれば、身体の有無を分別する基準も無 くなってしまい、「ありのままの存在」「真実本来の自己」 が現成します。 自己は無自性の生命体つまり無我となりますから私という実 体はなくなり、生きとし生けるもの全てが生命体となり「自 他不二・自己と他とは分離できない」ということになります 。私という実体がないのですから当然、私の出生もありませ ん。つまり魚や虫や細胞には私・自分という自覚はなく、出 生や老死の認識もない。出生がないから老死もなく不死・不 生となります。利己心の中核を砕けば、死すべき自己は去っ ていきます。自己がいないのですから、死の恐怖は去ってい きます。これを無我の理法といいます。 真実の自己とは何でしょうか。答えは自我と執着を取り去ったとき 現われる浄化された自己つまり無我です(無我の理法)。無我は自己 否定や自己放棄ではなく自己の存在を肯定しています。 ●ブッダは四諦と八正道を繰り返し説きました。座禅瞑想に よって無我の境地に達したブッダは次に縁起の法を正覚する 。生じたものは滅する、全てのものは無我で、それ自体には 実体はなく、原因と縁・条件が相乗融合して、生起し消滅す るという因縁関係の縁起です。 老いて死ぬ恐怖と苦しみは何によって生じるのかを説明して いるのが十二縁起です。 @「老死」の恐怖と苦は生まれることA「生」に縁る。そし て生存し存在することB「有」で自己中心の心がもたらす好 き嫌いなど差別・区別する心・感情が出てくる。考えや主張 など我が出てきます。「有」生存すると、身体やモノへの執 着C「取」に縁る。執着は五つの欲D「愛」に縁る。 「愛」はモノを感受する感覚器官と感受性のE「受」する感 じる、苦受・楽受に縁る。六つの感覚器官に、それぞれの感 受対象が触れること、つまり感受はモノとの接触F「触」に 縁る。接触は六つの感覚器官である眼、耳、鼻、舌、身、意 のG「六処」に縁る。六つの感覚器官はH「名色」名称と形 態(肉体と心の働き)に縁る。名称と形態は六つの認識・識 別作用であり、物を区別して識る働きであるI「識」に縁る。 六つの分別作用は自己中心的な身口意(行い・言葉・心遣い) の働きJ「行」に縁る。身口意の働きによる生活行動作用「 行」は「縁起によって生滅するという道理を知らないこと」 つまりK「無明」に縁る。 老いて死ぬという恐怖と苦しみは、この「無明」から生じた 「愛」欲と「取」執着に縁るわけです。無明という煩悩の働 きに縁って四苦八苦の娑婆世界が展開されることになる。 この因果関係は苦集にあたる。反対に無明がなくなれば、言 い換えれば「生滅の法」を心に深く体得して、欲と執着「愛 」を捨て去って無所有になれば、死の恐怖がなくなるという 公式。滅道にあたる。五欲は財欲・色欲・食欲・名欲・睡眠欲。 ●これも簡潔に愛(欲)がなければ取(執着)が止滅し、執 着がなければ生(出生)が止滅し、出生がなければ老死(苦 )が止滅すると受け取ったらいいでしょう。 ●ここで、執着がなくなるとなぜ出生までなくなるかというと、自 己とは妄執・渇愛と執着によって仮構築されたものだからです。妄 執・渇愛が打ち砕かれば、仮構築された自己は打ち砕かれます。 「渇愛」というのは「喉の渇き」という意味ですが、喉の渇いた時 に、無性に水が飲みたいというような一つの欲望。「根源的欲望」 「本能」と言ってもいいかも知れません。ところがその本能があっ て、それが今度は「あの娘が欲しい」とか「お酒呑みたい」とか「 スポーツカーが欲しい」とかいう、具体的に直接に対象と結び付い て、普通の欲望として出てきます。ですから欲望というのを、感覚 的な心の働きと、例えば「単にスポーツカーを見た」とか「不老長 寿薬を売っているのを見た」というのと、それから対象を具体的 に掴まえて「あの赤いフェラーリが欲しい」「皇順という不老の薬 が欲しい、いつまでも生きたい」と具体的に働きだしてきた欲望と 、「取」取というのは、二つにわけて説明しているわけですね。そ うしますと、当然無いのにねだり、限りなくねだっているわけであ りますから、そこに常に不安と欲求不満に悩む人生ができてきます 。そういうのを「有」我という存在というんですね。そうした人間 性を踏まえて生まれてきたから、その結果老死の恐怖という「苦」 が出てくるんだということです。 ●煩悩はなぜ起きるのか。〈自分を中心にして世の中は動い ているという考え方つまり自己中心である我が、結局、煩悩 を生み出すわけです。〉 すべての悩みの原因は自分の心にあります。思考による感情 です。人間の心は病んでいるのです。心が病気なことを煩悩 と呼んでいます。釈迦は「心の病気に悩まされない人はこの 世に一人もいない」と言いました。例えば、お金が積まれて いるとします。このお金自体は「欲」ではありません。この お金を見て思考が「欲しい」と感じる心が欲です。 ●ブッダが言われた。「ものへの愛着が憂いを生み、憂い の心がおびえを生む。ものへの愛着がなくなれば、すぐに 憂いがなくなり、おびえもなくなる。財と色の人における や、小児が刀の刃の蜜をなめるように、一食のうまさに足 らずして、舌を切るの患いあるがごとし。」 ナイフに付いたケーキかすにまで執着していって、そして 最後には自分の身を滅ぼし、舌をも切ってしまうというこ とですね。金銭欲と性欲と名声欲と食欲に執着する為に身 を滅ぼすということです。 ●名誉欲、或いは地位、そういうようなものに執着をする のは、線香が自らの身体を焼いて香りを出しているような ものです。自分を犠牲にしてまで、やっているという愚か な姿ですね。愚者は、正しい道を守らず、ただ華やかな名 声を求めますが、それは己を危うくする禍である。気が付 いた時は、もう遅い。『涅槃経』 ●ブッダは高い地位や名声を得たその姿は一夜の宿借りを した旅人のようなものと言われた。宝石などは砂利のよう なもので、また、綺麗な絹の着物は所詮それは雑巾のよう なものだと言われた。そういうふうに見ることが、愛着を 離れられるというわけですけれども、我々はそういうふう になかなか見ないで、いいものを着たい、宝石を手に入れ たい、高い地位に上りたい心があります。それを得て身 に着けることによって、自分が人間まで変わったかのよう に思い、そういうものを付けていない人達を見下し、奢り 高ぶり、差別し、それに執着する心が出て来るんですね。 それがいけないと言うんです。それが奢りというんですね 。その奢りが人間に貪りをもたらし、怒りを起こさせ、そ のような愚かな考え方を起こさせたりする。ですからブッ ダは「賢い人は称賛されることや、非難されることに心を 動かしてはならない」というんです。 ●じゃ、どうすればいいかと考えた時に、欲本能なんていうのは消 しようがありませんよね。消しようがないんですけれども、それを 何らかの形で抑制・制御しませんと、常に欲求不満にさいなまされ るということにもなりかねないんで、やはり毎日毎日少しずつ抑制 ・制御という方向で人生の道を歩んでいくのには修行の必要性を、 ブッダは説いているんですね。お酒が呑みたいとか、高級食グルメ を食べたいとか、お金をむさぼりたい、賭け事をしたい、浮気した いとか、そういうものは決して前向きの正しい生き方じゃないんだ 、ということを自覚した時には、それを抑制していかなければいけ ないのですね。八正道の修行を積んで努力していくことですね。 大乗では欲を抑制制御、小乗では欲を止滅。 ●世間一般の人々にとって一番大切なことは所有欲であり、 「自分が」「私が」という自己中心的な我ありという我執な のです。しかし、ブッダの悟り価値観は、世間一般の価値観 とは180度正反対で真っ向からの否定なのです。そこでブ ッダは、この悟りを世間の人が理解し体得するのは難解だと 思いました。自分ひとりだけ解脱し沈黙を守るか、あるいは この悟りを人々に説くか迷った。あるとき泥の中の蓮の花を 見ていると、たくさんの蓮は泥の中にありながら汚れに染ま らずに咲いている。こうして伝道の決意を固めました。 --------------------------------------------------- ●因果の道理という言葉は、生まれるということは必ず死が あるというようなことで、それを原因と結果ということで、 自然界にそれを置き換えると、必ず形あるものが生じたら、 必ず滅びるということです。「生滅縁起の法」といい、全て のものは「諸行無常」ということですね。 そこには自分の思うようになるものは何一つとしてない。 これが「一切皆苦」ということでした。 変滅して思うようにならないしのに、私とか、私のものなん ていうふうに決めてかかれるようなものがあるだろうかとい うと、そういうものはないという「諸法無我」ということで 、それはまさしく因果の道理というものにのっかって説かれ ているわけです。これらを三法印として後述します。 「なぜ無常なんですか?」と言われた時、それは「無常だか ら無常だよ」というわけにいきませんでしょう。「形が壊れ ていくから無常だ」と。「何で形が壊れるんだ」と、今度は さらにたたみ掛けるように質問していくと、答えに窮してい く。それが結局は、釈尊がお悟りになった「ものの道理」と いうものに入ってくるわけです。それは何故かというと、「 何故諸行無常か」というと、それは「衆縁和合しているから だ」ということです。この「衆縁和合」という言葉は、仏教 の専門用語では、「縁起」という言葉になります。この「衆 縁」というのは、「もろもろの条件」「原因の条件」という 意味です。それがうまく和合・結合して、物事は生まれたり なくなっていくんだという、そういう道理が衆縁和合。これ が世の中の道理であるという意味です。つまり世の中の道理 は「いろんな物質的な物が集まって、それが原因となり条件 となって世の中はできているんだよ、というのが、この世の 中の道理です」と言って、釈尊はそれを菩提樹の木で発見さ れたんです。これはいわゆる仏教のいう「真理」なんです。 その衆縁和合しているが故に、世の中は無常なんです。 ヒンズー教の考え方 ●「有因有果説」ものの道理には原因があって必ず結果はあ るという考え方なんです。その考えには二つありまして、そ のひとつはゴーサーラという人の「業という宿命的な輪廻説 」です。自分が今日ここにあるのは、全部過去からレールが 敷かれている、例えば、それを幸せとか、不幸とかそういう ようなものに対しましても、皆それはこの世で決まったので はなくて、自分という人間が、この宇宙に誕生した時から、 その人には幸せとか苦しみとかは、みんな升で量られたよう にしてあるという。何をやってもなるようにしかならないよ という考え方です。輪廻を繰り返すことによって、その苦し みを少しづつ消化していき、最終的には楽しみだけが残ると いうのがヒンズー教の考え方ですね。 「縁起説」 ●「有因有果説」のもう一つの考え方はブッダの考え方の縁 起説です。ものごとには、原因と結果という場合に、必ずそ こに条件というものがあるんだということを教えているんで すね。ですから、因果と、私共は短絡的にこう表現しますけ れども、原因と結果の間には、必ずそこには条件が必要にな る。この「条件」のことを「縁」というですね。どういう条 件を与えるかによって、結果は変わるわけですから、「輪廻 因果説」のように短絡的にこういう原因は必ずこういう結果 になるよというふうに決まってしまうわけではないんです。 例えば、良い原因であっても、条件が悪いと悪い結果を招い てしまうということですね。因と果の間にあるその条件つま り「縁」はもう無数にあるわけですね。 ●例えば「この柿の種を貴方に上げる。これとおむすびと交 換してくれ」、「その柿の種は大きな木になって、沢山柿の 実がなるよ」と言って貰ってもですね、それを土に埋めたり 、肥料を上げたり、水を上げたり、いろんな条件を与えない と、芽が出ないし、出ても空気が必要だし、雨が必要だし、 太陽も必要だしといういろんな条件がそこにある。ですから 、因果律と短絡的に考えてしまって、柿の種があるから、こ んなに沢山な実がなるよと教えられて、それを信じて、その ままにして机の引き出しに入れて置くと、いつまで経っても 柿の実は得られない。つまり、結果を得る為には、因縁とい ういろんな条件が必要なんだよということですね。 ●例えばグルメともいわれる、人並みはずれて美食を追求す る人がおりますが、ザルそばが美味しかったとします。堪能 すればそれで止めておけばいいのに、また「そのザルそば」 でなければならないと、その美味の快感に執着をするという ことがあります。それが益々ものに愛着をするという気持ち を起こしていく。そしてだんだんエスカレートしていって、 さまざまな煩悩を生む。よく我々が使う言葉ですが、火に油 を注ぐようなもので執着する。そうすると、だんだん苦しみ が、つまり自分の思うようにならんことがどんどん出てくる から、益々そこに摩擦が出てくる。それをなんとかしようと する。際限がなくなっていくのです。 ●悪の果実が未だ熟さないうちは、愚か者はこう考える。「 今がチャンスだ」と。ところがその行為によって、やがて果 実がもたらされたとき、彼にとってのあらゆるものが損なわ れてしまう。例えば、財産を奪った者は別の者から身ぐるみ をはがれてしまう。人を殺した者は別の者から殺される。人 を侮辱した者は自分が侮辱され、勝利者には次の戦いの相手 があらわれ、他人を迫害した者には心配事が絶えないだろう 。ブッダ その因果の報いは形ではなく感じること ●後半の部分に、悪を軽く見てはならないと。「一滴が巌も 穿つ」という言葉がありますが、一滴一滴でもやがて大きな 器に一杯になる。それは自分はいま悪の報いがこないだろう と思っていても、少しづつやっているうちに、必ずそれは悪 で満たされてしまう。その時にその報いは計り知れないもの であるということを言おうとしているんですね。 ですから、その一滴一滴の善とか悪とかいうものは、繰り返 し相続し、継続をしていくうちに、その報いは感じられるん ですね。形で現れるんじゃないんです。本人が感じるという ことです。 ●例えば、過去の悪業があなたの今日のこういう貧しい境 遇をもたらしたとか、あなたの今日の金持ちとか、幸せだと いうのは、過去とか前世の善業がこうさせたんだとか言いま すけれども、そんなに形であらわすものじゃないんです。よ くあなたの身体的傷害をもったというのは、過去にとか前世 の悪業だと言って決め付けてしまう人がいらっしゃいますけ れども、そういうことではないんですね。形で現されるもの ではない。それは本人が「感じるもの」なんです。 ですから、大きなお家に住んでいても、金がどんなに沢山あ っても、不幸せな境遇と言うか、感じをもつ人が一杯いらっ しゃいます。逆に、貧しい、みすぼらしい家に住んでいても 、安らいだ心をもっている方もおられます。家庭が円満で、 子供が立派で、夫婦も円満であるという場合もあります。そ の報いは苦しみを感じる、幸せを感じるというふうに説いて いるんです。 前世の悪業が、前世の善業が今日のあなたのこういう形にな ったというふうには、どこにも書いてありません。もしそれ が形になって現れるものなんだというふうに受け取ったり考 えたりしたりすると、それはもう安易な功利主義とか、実利 主義だとか、そういったおカネにすぐ結び付いてしまうわけ ですが、そういうことを言っているわけじゃないんです。そ れは「本人が感じること」であって、だから、周りのものが 貴方はこうすると、来世で貴方がこうなるよと言って決め付 けることは絶対出来ないんです。 ------------------------------------- 悪人は地獄から天国には行けない ●ある村長さんがお釈迦様に、「悪人がいた。殺人者で乱暴 者でどうしようもないその男は死んだ。その時にバラモンの 僧達はこういうような時にはお祈りを唱えたら、この男を本 来なら地獄に堕ちるのを天に生まれ帰らせるというけど、貴 方はそういうことをしますか」と聞いた。そしたら、お釈迦 さんは、「それは分かる。だけど、ここに大きな石を池の中 に落として、それが池の底にまで落ち込んで行った時に、お 坊さんが呪文を唱え合掌して、石よ浮き上がれ、浮き上がれ と言って、浮き上がらすことが出来るか」と言った。村長が 「出来ません」と。「それが道理なんだよ。つまり悪いこと をしたというものは沈むんだよ。自分でその苦しみを受けな ければならないんだよ。逆に今度は、油壺に一杯油を入れた のを池に落とした。それが池に沈んでいって、下の石に当た って、割れて油が浮き上がって来た。水面に浮き上がった油 を、坊さんが呪文を唱えて、経文を唱えて合掌して、沈め沈 め、油よ沈めと言った時に、油は沈むか」と尋ねた。村長は 「いや、沈みません」。「それが道理だ。つまり善いことを した人は、「地獄に堕ちれ、堕ちれ」と言っても、堕ちない のが道理なんだ。それが縁起の世界だよ。 つまり善いことをしたという条件をもっている者は幸せなと ころにいくけれども、悪いことをした条件を積んだ者は、そ ういう苦しいところにいくのが道理というものだよ。」と ●私がこの文献を読んだ時に、ブッダという方はこういう生 き方を教えてくれたのですね。普段の心がけを教えているん ですね。善いことをする、悪いことをしてはいけないよ、と 。一滴一滴の悪いことが積もり積もると大変なことになる。 時節因縁熟したら、必ずや、それぞれの報いを受けることに なる。何とかしてくれというわけにはいかない。ですから、 一滴一滴だけれども、その一滴一滴づつの水が溜まれば水瓶 が一杯になる。つまり努力と言うか、それが修行ということ なんでしょうけれども、要するに、怠りなくということなん ですね。 よく、「溺れるものは藁をも掴む」という言い方で、病気し ても助からない時なんか祈祷を唱えて貰えば助かるかも知れ ないという考え方を非難しているんですね。簡単な言い方を しますと、いま怪我をして出血をしている人がいて、「誰か 救急車を呼べ」と言った時に、ある人が「いや、私はこれこ れこうこういうものを信仰しているから、呼ぶ必要はない。 呪文を唱えれば、血は止まるよ。直ぐ治るよ」と言っても、 それは治らないんですね。その時必要なのは救急車であり医 者であり薬なんですよ。 ●大事なのは宗教のそういう教えとか何かが必要なのは健康 な時なんですよね。病気になっていない時なんです。健康な 時にどれだけブッダの教えを、生きる心の支えにしているか ということなんです。緊急の場合には救急車を、火事の時に は消防署を呼ばないと絶対に助からないんです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ●結局、忍耐しなければならない。ところが私共は、それを 〈なんとかなるだろう、自分だけは違うんだ、私だけはなん とかなるだろう〉と思って、それに逆らうんですね。〈逆ら うと摩擦が生じます〉。言うなれば〈欲がそうさせている〉 わけですね。何かに執着をしてこうするわけです。例え ば、目で見るもの、色とか形とかというもの、或いは聞くも のに、音とか声とかに愛着を覚える。こうあって欲しい、自 分はこういうものが欲しいと、感覚器官を通して自分の周り にあるものに対する愛着を生じますね。それが結局は人間を 迷わすことになる。そういうものを仏典では火が燃えている と言うんですね。その思うようにしたいというのが摩擦する 。だんだん火になってくる。火が燃える。目が耳が鼻が舌が 燃える。味に執着し愛着しますから。そういうふうにブッダ は説かれているんですね。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 因果の道理にのっかって「三法印」三つの命題があります。 一.すべての形成されたものは無常である。(諸行無常) 全てのものは移り変わり変滅していく。常住不変で固定 的なものは一切ない。 二.すべての形成されたものは苦しみである。(一切皆苦) 無常なるものは苦しみである。一切行苦。 三.すべての事物には私というものはない。(諸法無我) 常住不変で固定的なものは一切ないから、身体が自分と か自分の所有物ではない。 四. (涅槃寂静)を加えることも。幸福とは心が平静なこと。 法(ダンマ)とはブッダが悟った真理および、その真理を説き示す教え。 行とは因果関係によって生まれ出るすべてのもの。 みんなが「幸せ、幸せ」というんだけれども、誰でも「何が 幸せか」ということをはっきり理解していないんですね。 物があって、お金があって、住むところがあって、豊かな食 べる物もあって、というようなことを、まず幸せの基準とし て考えているんです。だから、「物」に基準を置いているん です。物というのは、「道具」なんですね。だから、道具だ けは揃っているんです。二千年以上昔から人間は、家やら建 物やら財産やら、いろんな道具を作るんです。ただ道具を得 るために生きているのであって、その道具を得たから自分が 幸せになった、というふうになっていないんです。ですから 、手段が目的になった、ということです。だから、心の幸せ というものは得られないわけです。つまり、手段であるお金 とか、いろんな道具、例えば便利にどこへでも行ける車だと か、いろいろあるわけですけれども、それでどこかに行った としても、それで幸福になったわけでもなく、それはあくま でも便利になっただけのことです。 --------------------------------------------------- ●ブッダの生きている時代で、クルという国の王様がいたん ですね。その息子が若いうちに結婚して、奥さんが何人かい たのですけど、この両親にとっては大変可愛い子でした。そ の子がブッダの話を聞いて、ある日、いきなり出家を決めた のです。「全部捨てるんだ」と言うんです。当たり前のこと ですが、親が反対します。そうすると、「出家出来なかった ら、私はもう断食して死にますよ」と。親は、「まあ、坊ち ゃまだから、一日で根を上げるだろう」と思っていたのです が、一週間も断食しちゃったんですね。それで、友だちが来 て、親に「子供に出家を認めてあげなさい。そうでないと死 んじゃいますよ。死ぬよりも生きていた方がいいではないで すか」と言った。それで出家を認めて貰って、修行して悟る んですね。その出来事が王様にとっては大変不思議でたまら ないんです。「何でこんなに裕福な家庭の、すべて揃ってい る子が全部捨てて出家したのか」と。 息子は悟ってから、親に顔を見せなくちゃいけないというこ とで、また、家に戻るんですけれど、家は息子が出家したか ら仏教が大嫌いで、衣を着ている人を見たら、追い出すんで すね。息子はそれを知らずに、家に托鉢に行ったんですね。 行ったら親が自分の子供だと気が付かないで、遠くから、「 追い出せ」と言って、追い出すんですね。そこで、息子がず うっと待っていても、食べ物も何も貰われない。 そのとき、召使いの女の人が腐った食べ物があって、捨てよ うと外へ持って行ったんですね。息子が「捨てるんだっ たら、私の鉢に入れて下さい」と言った。召使いはどうせ家 の主人が、「追い出せ」と言ったんだからと、鉢の中に入れ たんですね。入れたら、その人が酷い匂いがする食べ物を、 何のことなく食べているんです。その姿を召使いの人が見た ら、なんと主人の息子さんなんですね。驚いて、主人に報告 すると、お父さんがやって来て、「なんということをするの か。家に入って美味しいご飯を食べなさい」と言ったら、「 いいえ、結構です。私は今日の食事は済みました」と言って 帰るんです。帰って、王様が狩りに使う森の中で生活してい る。 あるとき王様が、「狩りに行きたい」と言われた。そこで、 森を調べた家来の人々は、「王様がよく話していた若い人た ちがいる」と言ったら、王様が、「じゃ、だったら狩りを止 めて、その人に話をしましょう」と言って、この森に入るん です。入って、王様がこの人に言うんです。「財産はあるし 、身体も丈夫だし、家族も揃っていて、何一つ問題ないのに 何で出家するのか」と。その人は王様に答えました。 「ブッダは絶対的に永久的に変わらない四つの真理を教え てくれたんです。それを聞いて、私は出家しました」と言っ て、この四つの真理を教えるんですね。 一番目は「諸行無常」で、「この世の中は常に変化していく 。永遠なものは何一つない」と。財産があっても、それも無 くなることもある。常にすべて変化していくんだ、と。です から、財産に依存したって、財産もいつまでも頼りにならな い、と。王様は、「すべてのものが変化する、ということが 分かりません」と。「じゃ、王様の若い頃は凄い体力があっ て、誰とでも戦うことが出来たでしょう」と。王様は、「そ れは覚えています。私も、凄い力強かった。誰も私に勝った 者はない」と言って、若い時の力自慢を言った。「今はどう ですか」と聞いたら、「今は八十歳の老人で、足を踏もうと 思ったら、他のところを踏んでしまう。家来の人が支えてく れなきゃ歩けない」と言う。「そういうことです。お釈迦様 がおっしゃるのは。我々は体力を自慢していたって、毎日毎 日それは消えていく。このことは昔も今もこれからも変わら ない」と。王様は、「ああ、なるほどその通りだ」と。 そして、次に「一切皆苦」を説明するんですね。それは「こ の世の中で何かあったら自分を助けてくれるものというもの は、何一つもないんだ。自分の意のままに世の中は何もいき ません」と言った。王様は、「分かりません。私にはかなり の財産があるんだ。財産があるから、頼れるものはある。命 令すれば、意のままに何でも揃ってしまう」と言うわけです ね。お坊さんが王様にこう聞くんですね。「王様に何か慢性 的な病気でもないですか」と。「それはありますよ」と。そ こで、「その病気が発作を起こして、倒れたらどうしますか 」と言ったら、「私の妃とか、子供達、大臣たちみんな集ま って、王様が死ぬかも知れませんと、みんな心配する」と。 「それだったら、王様はみんなに、あなたの苦しみを分けて あげなさい。『みんなで私のこの病気の苦しみを分担して下 さい』と、命令したらどうですか」と。王様は「そんなこと は出来ません。私は一人でその苦しみを味わなければければ いけないんだ。それは人に分けること出来ません」と。 「 お釈迦様はそういうことをおっしゃっている。人に幾ら財産 があっても、病気になったら、誰に命令しても、病気をもら ってくれるわけではない」と。 そこで三番目の「諸法無我」を言うんですね。それは、「自 分のものはありません、すべて捨てなくちゃいけないんだ」 と。それに王様は反対するんです。自分には凄い財産がある 、と。国もあるし、領地もあれば、財産もあると。それを捨 てなければならないというのは納得出来ないというわけです ね。それでお坊さんが「あなたには素晴らしくすべて揃って いると、私も認めますよ。でも、死ぬ時、持っていけますか 。死ぬ時持って行って下さい」と言ったら、王様は「それは 無理じゃ。自分が死んで亡くなったら、他の人々がそれを使 う」と。「ですから、お釈迦様は、『結局、自分のものでは ないんだ。全部置いていかなければいけない』と教えました 」と。それで王様は納得するんですね。誰しもそれは死ぬ時 の話で、生きている間は、自分にはまだあると、つい思いが ちです。しかし、財産にしても、全部使うわけじゃないでし ょう。 例えば 「宮殿を四つ持っているんだ」と言っても、 身体一つです。「千人分位食べられるご馳走を作れます」と いったって、お腹に入る量は少ないです。ですから、結局、 そういうものは「自分のものにならないんだ。そういうもの に依存しちゃったら苦しむだけですよ。だから、気を付けな さい」ということです。 四番目の欲という妄執つまり煩悩なんですね。「この世の人 々はいつも満たされていない。世の中の人々は欲の奴隷です 」と。自分はこんなに財産を持っていても、それで満ち足り ているか、というと、「そうじゃない」と。「何か心の中で 足らない、もっとあって欲しい、という気持が人間にはあり ます」と。それに王様が反論するんです。 「私はとても大きな国を持ってます。満ち足りています。あ んたが言っていることが分かりません」と言った。「じゃ、 王様に聞きますけれども、もし、王様のところに信頼出来る 人が来て『王様、隣国は物凄い豊かでいっぱいいろんな財産 がある豊かな国ですよ。それで力がないんです。ほんのちょ っと行って攻めれば、その国はあなたの国のものになります よ』と言って、その国の中の情報を全部、王様に教えたら、 王様はどうしますか」と言ったら、王様は「だったら、その 国取っちゃいます」と。「そういうことです。あなたはいま 大国の王様なんですけど、出来れば隣りの国も取りたいんで す。だから、あなたは満たされていないんです。王というの は、海までを自分の国にしたとしても、海の向こう側の国も 取りたくなるもんです。だから、どんな人間でも、幾らもの があっても、もうちょっとあればいいんではないか、という ふうに、心が満たされていないのです」と。 心が満たされていないと、そこには苦しみが出てくる、とい うことです。そうすると、「満たしたい」「欲しい」という 欲望の奴隷になってしまう。財産があっても、さらに欲しい というのは、やっぱりそういう欲しいという妄執の奴隷にな るというわけです。 --------------------------------------------------- ●無常 「諸行無常」諸行を主語にして「すべては無常だ」というの は正しいのですが、それは他人事です。そうではなくて、主 語を「私」にかえて「私が今、無常に出会っているのだ」と 実存的に無常の現実を受けとめよとブッダは説いている。 何の笑いがあるのか。何の悦びがあるのか。人生は無常の火 に燃えているのに・・・なぜ灯火を求めようとしないのか。 ダンマパダ。 私どもの命は一瞬一瞬どんどん失われています。生きつつあ り、死につつあります。生死一如です。 それだけに毎日を充実して生きていかなければいけないんで すが、私どもはただただ楽しいこと嬉しいことを追い求めて います。ブッダは「なんでそんなにうかうかと喜んでだけい るんだ。何でもっと真実の灯火を求めないのか」とおっしゃ るんですね。我々は「何でそんなに焦らなくちゃいけないん ですか。そんなにあくせくすることないじゃありませんか」 と、そんなふうに感じるんですね。けれどもブッダにとって は、これがほんとに心の中から出てきた叫びなんです。 「宇宙の大きな働き」「法」に包まれているその真実を自覚 し、そして生活の上に真実というものを常に働かせながら生 きられたのがブッダです。ですからこの言葉にしても、「う かうかしないで、充実した人生を一生懸命やりなさい」とい う、ただそれだけのことなんですけれども、何でブッダがこ ういうふうにおっしゃらなければならなかったのかというこ とは、やっぱりブッダにとって本気になって「君たち、何を やっているんだ」と思っておられたに違いないわけですね。 経典に、「弓の名人が四人いた」と言うんですね。「東西南 北に立って、矢を射たんです。その矢が一遍に空中を飛んで 行きます。そこへスピードの速い人間が居て、四本の矢が地 上に落ちるまでに全部走り回って、その矢を全部受け止めて しまった」というんですね。そんな例を出しながら、ブッダ が「放たれた四本の矢が地上に落ちる前に拾い取ってしまう よりも、もっと早く月日は経っている。だからうかうかする な」と。月日というのは、自分の実感として既に過ぎ去った 月日を考えてみるとほんとに一瞬の間でございましょう。 ですから、毎日毎日を努力して、充実した生き方を考えなさ い、と、ブッダは教えているですね。ブッダの最後の 言葉が、「怠るな、修行しなさい」「すべては過ぎ去るもの である」ということですね。要するに無常だからこそ一瞬一 瞬をムダにしないで、一生懸命生きていくところに、充実し た人生が開けるし、それをこそ考えるべきだ、と。 ●コーサラという国がございまして、当時の非常に大きな国 であります。その首府が舎衛城で、その南西に有名な祇園精 舎がございます。ブッダは建物の外の木の下で、お弟子さ んたちを集めてお説教をされていたんですね。地面の上の土 をヒョッと取られて、爪の上に載せましてね、爪の上の土を 示しながらお説法をされた。 比丘たちよ。爪の上のこれだけの「もの」(色)であれ、常 に住し、常に存し、永久に存在し変化しないなら(常住不変) 、この清浄の行を修することによっては、苦を滅し尽くすこ とはできない。これだけの「もの」でも変化する(無常)から こそ、この清浄の行を修することによって、実に苦を滅し尽 くすことができるのである。「もの」に関して厭い離れるが よい。厭い離れれば貪りを離れる。貪りを離れれば解脱する 。色受想行識も「サンユッタ・ニカーヤ」 爪の上に載せた、ほんのこれぽっちの土でも、常に同じ状態 でいるわけがないんですね、無常なので。「すべてのものが 移り変わる無常だからこそ、苦を修行によって滅することが できるんですよ」と、そういう説き方なんですね。私ども人 生の中で一番執着するものが「色」身体やお金や物ですけれ ども、それをあんまり執着しこだわると、それによって苦し みを受けなければいけないし、むしろそうした拘りを捨てる ところに心の平安を得ることができるんだよ、と。「色受想 行識一つひとつも、苦は滅ぼすことができるんですよ」と。 「無常」というのは真理なんですね。私どもは年を取りたく ないんですね。死にたくないんです。でも私どもは、寿命だ からしょうがない、と諦めちゃっているわけですね。しかし 、例えばガンかなんかになりまして、「あなた、あと三ヶ月 ですよ」というようなことになりますと、慌て出すわけなん で、「今までは 人のことかと思うたに おれが死ぬとは こ いつたまらん」という歌もあるぐらいなんで、自分のことに なると慌て出す。つまり歳を取っていく。死んでいかなけれ ばならない。無常だ、ということは、真実として理屈では知 っていながら、実は本当に心で頷いて体得して受け止めてい るわけではない。ですから自分の問題として、歳を取って死 ぬとなりますと、苦しむわけですね。頭では理屈としてわか っていても、死の直前にならない限り、命の尊厳はわからな いのと同じですね。自分の自我を、どのように処置していっ たらいいのか。それをきちっと修行して体得していかないと 、心の平安というものは得られないんですね。 【核心】そこでブッダの実践的な教えがスタートしてくるわ けです。色と受想行識は無常である。無常なるものは苦であ る。苦なるものは無我である。無我であるものは「私のもの 」ではない。「私」でもない。「私の本質」でもない。正し い智慧をもって、この道理を如実に観察しなくてはならない 。 「サンユッタ・ニカーヤ」 「智慧」というのは、単なる知識と違うんです。「知識」と いうのは、物事を単に理解し知ることなんですが、「智慧」 というのは、どうしてもそこに直感的に身体で頷くものがあ ると同時に、それは生活の上に働き出てくる、身体に頷くも のです。もっと端的に言えば「我」というものに対する執着 を離れる修行を続けていくと、そこに新しく智慧が働き出て くる世界が開けてくると、ブッダは説いた。修行が必要なわ けです。無常→苦→無我 この世において、実相を洞察させる智慧こそが最もすぐれて いる。それによって人は生滅の法を明らかに知る。「ウダー ナヴァルガ」 私のものだと固執するいかなる所有もなく、執着して取り上 げるものがない心の状態、それを涅槃と呼ぶ。それは老と死 の消滅である。「スッタニパータ」 カッパという歳を取った修行者がブッダのところにきて「歳 も取ってきた。間もなく死んでいく。どうも心の落ち着きが 、決着が付かない」ということで、法を伺いに行くわけです ね。それに対して説かれた教えがこれです。結局、私の若さ とか命は、これは無常でありますから、いやでも衰え消滅し ていくものなんですね。それが失われていくということは自 分では認めがたいんですけれども、しかしこれは真理ですか ら、執着していても心の不安は増すばかりです。だから若さ とか自分とかいうものに固執しなさんな、と。この身体が私 ですよとか、私のものですよ、と執着することをやめること が、実は老とか死という恐怖から脱することができる拠り 所なんだと。結局無常なるものを無常と受け止める修行をし ていくよりしようがないということです。それが涅槃なんだ 、安心感だと。涅槃(ニルヴァーナ)というのは、「心の安 らぎ」という意味でよろしいと思うんですね。 ●無常と苦と無我 因縁によって仮和合されたもの、因縁和 合はすべて滅びゆく存在です。「自分の思うようにならない 」のは何故かというと〈全てのものは同じ状態で、ずうっと 続いているものではない〉無常だからですね。 そして「無我」というところですが、それは無常だから〈私 の所有物はない〉〈私というものはない〉というんですね。 〈全ての形あるもの形ないものは私でない〉というのは、私 というものが何かあるかの如くに考えますけれども、実をい うと、これが私ですと、指さすものはどこにもないんです。 身近に言いますと「自分の身体のことを考えましても、自分 の身体というものが私、或いは私のものなんですか」という と、これは私のものというものは何にもないわけですね。私 のものというのは、自分の思うようになるものが私のものな んですね。ところが私の思うようになるものは何一つとして ないのです。私の耳とか私の眼とか言いますけれども、耳は 遠くなり眼はかすみ、顔も時々刻々変わるんですから、思う ようになってくれません。このように私の顔はこれですと決 めて言いましても、その顔は私のものではないから、もう自 分の意志に反してどんどん変化します。常住不変の固定的な ものなら自分のものといえますが、自分の身体とか、自分の 周りにあるもの、所有しているものを考える時に、金持ちは 貧乏に、建造物は古くなり朽ち果て、健康は病気に、死ぬと きには私も私の所有物もないのです。ブッダは「形作られた ものには、私とか私のものというものはないんだよ」という ふうに観察されたんですね。 ブッダの考えに従えば、肉体は無我なる要素パーツの集合体である。 つまり肉体は骨と血と肉という無我なる要素からなりたつにもかかわら ず、その中に我執にとらわれた愚かな考えが詰まっていると。ブッダは 肉体には何の価値も置いていなかったのです。 --------------------------------------------------- ●無我 諸法無我 自他の別なく生命体なり 色は無常である。無常であるものは苦しみである。苦しみで あるものは無我である。無我であるものはわがものではない 。これはわれではない。サンユッタニカーヤ 「肉体は無常である」当然ですね。次に「無常であれば苦し みである」これも当然です。「苦しみであれば無我である」 色つまり自分の身体が常住不変で思い通りになるならば自分 のものといえます。しかし無常ですから病気にかかりますし 、死ねば灰になります。この部分は思い通りならないものが 、自分の本性であり実体であるといえるか、苦は無我なので はないかというのです。そして、無我であるものはわがもの ではないし、われではないと説いています。つまり自分の身 体は自分のものではないというわけです。この文脈では自己 そのものの存在を否定していません。結局、無我も空も縁起 生滅の法も指しているところは一つといってよいでしょう。 ●本当の自分の心とはなんでしょうか。眼・耳・鼻・舌・身 、それ自体には我はありません。眼・耳・鼻・舌・身は体 の道具です。その我のない道具で成り立っている自分には本 来、我はありません。「私」という我は思い込みです。心に 我とこだわりが生じるとき煩悩となります。心は本来、深い 湖の底のように静かでおだやかです。赤ん坊のように無垢で おおらかで清らかな心境は、生まれながらに備わっている智 恵です。座禅をして、心を清めて我を捨て、こだわりを放し 宇宙と一体になるとき、本当の自分にめぐり合うのです。今 ここに生きている自分が、大宇宙に生かされている生命体そ のものであり、他の生命体と共に生きて繋がり成り立ってい る生命体であるという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の 働きがあるのです。そこには自分と他人という区別はもうあ りません。 真実の自己とは ●ブッダは言う。種々の感官や内臓が寄り集まった身体を「 私」と思い込んでいるものの、実はその「私」の実体がつか めない。単に「私がある」というイメージを作り上げている にすぎない、と。つまり私などないのです。従って「私のも の」というものもありません。これを「諸法無我、すべての 事象には「私」とか「私のもの」というものがない」といい ます。私というのは錯覚なのです。自分が感じたもの認識し たものを真理だと思ってしまうのが自我という錯覚です。例 えば自分が歌声を聴いて美しいと感じて言ったのに、他人が 美しくないと感じて言うと、自分の感覚を否定されてバカに されたと思い腹が立つのです。人間は自分の意見に相手が逆 らうと気分が悪くなります。それが「我」です。そこに「私 が」という自我という錯覚があるからです。自我という錯覚 にしがみついている無知な人は、自分の殻に閉じこもって、 主観の生み出した仮想妄想世界に死ぬまで振り回されてしま うのです。「我」には外の情報をありのままに認識すること がありません。「好き、嫌い、面白くない無関心」の三種類 に認識します。貪トン貪欲、瞋ジン怒りつまり苦のため思う ようにならないから怒る、癡チが無知つまり縁起生滅の法を 知らないため自分だけは違うと考える無明の三毒です。縁起 生滅の法を深く体得し、貪りと怒りを絶てば、浄化された無 我という当体が実現すると考えてよいでしょう。 ●五蘊というのは身体を5つに分類し、そこに「我」は無い という。色・受・想・行・識の5種類を指します。 色 肉体 受 感受作用。五感が刺激を受けて感知する 想 表象作用。単なる知識で思考妄想する 行 意志作用。何かを実行するという意志 識 判断作用。対象を認識し、識別し判断する 例えば町を歩いていて「美しいお姉さん」がいました。一目 であなたは「ドキッ」とします。そして「綺麗な人だなぁ〜 、声をかけたい、お話をして、誘いたい、一緒に遊びに行き たい」と想いをめぐらす。いつの間にかあなたはそのお姉さ んの後ろを「ついて行く」ことに・・・。その結果、あなた はとんでもないしっぺ返しを受けてしまいます。 「色」お姉さん 「受」ドキッ 「想」綺麗な人だなぁ〜 声 をかけたい「行」ついて行く「識」綺麗なバラには棘がある 自分自身を知る--自己 ●法句経ダンマパダに学ぶ 「わたしには妻子がある。わたしには財があると思って、愚 かな人はいろいろ悩む。しかし、すでに自己が自分のもので はない。まして妻子や財がどうして自分のものであろうか。 」 自分は非常な財産を持っている。けれど、その財産といって も、これは考えてみれば本当の自分のものではないわけです ね。いつかは自分から離れる。それから愛する家族が周りに いるけれども、死ぬ時は独りでしょう。そうするとそれも私 のものとは言えない。あるいは社会的な名誉であるとか地位 とか、いろいろありますけれども、それも本当の意味の私の ものではない。ところで、ブッダは「自己は存在せず」と、 自己そのものを否定しておりません。ブッダが否定するのは 「自己の所有であり」、「自己には常住不変の実体があると 考えること」、「自己には本質があると考えること」です。 常住不変の実体がない色受想行識(肉体・感受・表象・形成 ・識別)の五要素が集まって自己存在を形成するわけで、自 己とは仮構築されたものだから実体はありません。それでは 本当の自己はどこにあるのかということですね。人間の内に は、煩悩によって仮構築された我である自己と、清浄化され た自己つまり無我とがあると考えてもよいでしょう。これは もともと一つあるだけなのですが、もし仮構築された自己を 砕けば、同時に無我は実現するわけです。だから真の自己で ある無我は今の浅はかな自己の主であると説いております。 --------------------------------------------------- 一切にわがものなし ●原始仏典を読む 奈良康明 ●人々は「わがものである」と執着したもののために悲しむ 。自己の所有しているものは常在不変ではないからです。こ の世のものはただ移り変わり消滅するものです。人が「これ はわがものである」と考えるもの、それはその人の死によっ て失われる。私に従う人は、賢明にこの真理を知って、「自 分のもの」という考えに屈してはならない。スッタニパータ ●ブッダは無所有を楽しんでいます。人間は生存本能を中核 として、「我」を構築しそこに自己中心の世界像を造りだし て住んでいます。そこに住む者は当然のことに利己的で排他 的な自己です。この自己は我執の自己であり、孤独の自己で もあります。ブツダはこの自己を排除することを求めていま す。その一つが所有欲の排除です。所有欲は人間にとって、 身体への執着と共に、根源的な最も深い本質的な執着です。 これから開放され自由になるには、つまり無所有になるには 、とても大きな努力・修行が必要です。 ●何物も自分のものでない、と知るのが智慧であり、苦しみ から離れ清らかになる道である。ダンマパダ 「どんなものも、これが自分のものですよ。自分ですよ、と 掴まえて、永久に勿論続けていくことなんかできないんです 」。ですから命にしても、それから若さにしても、財産 、子ども、何でもそうなんですけども、私どもはややもする と、「これは私の財産です。私の家族です」と握りしめちゃ う。永遠に続かないと悩むんですが、どんなものも、「これ が私ですよ。私のものですよ」というふうに握りしめること は、もともとできないものなんだ。その意味でどんなものも 、「私ではない。私のものではない」。私とか私のものを「 我」という言葉で代表するならば、どんなものも我ではない と知るのが、人間の智慧なんだと。だから、どんなものも、 「これが私だ。私のものだ」という我執を離れよ、という意 味で、ブッダは「無我」というのを説いているんですね。 ●「私あり」という我エゴを捨てて、より普遍的で客観的な 「生命が」と考えればいかがでしょうか? 「生命が」と考 えれば、これもあれもすべて生命です。そこに自分と他者の 区別はなく、対立は生じません。だから、心安らかに生きた いのであれば、「私」という単語を使わずに一個の「無自性 の生命体」の立場で考えればよいのです。この生命体は無我 であり、自分のものではありません。 そこで突然、自分の周りに無数の生命が出現するのです。そ のすべてが自分に協力してくれて、成り立たせてくれる生命 です。生命のネットワークが出来上がってしまうのです。「 無数の生命の中で、自分という一つの生命が、他からやさし くされたいと思っている」のです。生かされているのではな くて、成り立っているのです。生かされているというのは、 神の奴隷のようですが、一切の生命は対等なのです。本当の やさしさは、我エゴのない「生命」という次元なので、必要 以上を求めません。「欲しい」というところまではいかない のです。一つの「生命体」の立場で、他の一つの生命体との 関係を見ると、相手から何を要求されているか見えてきます 。お互いの生命を大切にすること。これが慈悲という本当の やさしさです。本当のやさしさは自然のネットワークの中で 、我エゴがない状態でいて、すべての生命とつながりの関係 を持っていて、生命を成り立たせてくれているそのつながり こそ縁起という、とても大切でありがたい存在です。 ●ブッダの場合、はっきりと「私の自我欲望なんだ」と意識 しているところに、ブッダの偉さがあるわけです。私どもも 社会に生きておりまして、何か言おうとする時や行動しよう とする時に、そこに自分の自我エゴや執着というものの有無 を意識し、それに対決していくところに、より進歩した生き 方ができるのです。 ●人が死を恐れるのは、我が身への執着があるからです。 死んだら私の身体はどうなるのだろう、どこへ行くのだろう と考え、いつまでも生かしておいてもらいたいと願う。 ブッダは、「私」というものがあると人は思い込んでいるが 、そんなものは幻想であり、自分の身体のどこを探しても見 つからない、と言う。「我が身」と「我が身を取り巻く全て の物」には不変不滅のものは、どこを探してもないことがわ かる。色つまり肉体がもし不変で永久に健康ならば、病気に なることはない。不変不滅でないから病気になるし、死んで 焼かれれば灰になるわけです。だから世間は空であり、我が 身さえ空であることに気づくだろう。我が身が空だと知った ら、その時、我が身への執着はなくなる。そうなれば死への 恐怖心はなくなり、死を乗り越えることができる。 ●御飯を食べたり生きたり、自我欲望を振り回している自分 という存在を否定しているのではないんです。主体としての 私というものは常に現としてあるわけです。ところが私とい うものがここに存在していながら、その私が本当の自分では ないということです。本当の自分は無我だということです。 この「無我」は文字通り「自分が存在しない」ということで はない。今ここに存在している自分は何かというと、我エゴ 欲と執着で無明という仮想幻想世界を生きている自己です。 それは仮の自分であって「本当の自分ではない」という ことです。「無我」という言葉よりも、「我に非ず」という 「非我」という言葉をあてた方がいいですね。そして、無我 のときに「真の自己」という無自性の生命体が実現する。 自己を愛する ●この「真の自己」は、護るべき自己であり愛すべき自己で あり、同時に他人を護ることでもある自己です。もはや互い に相対立して相争うような自己ではない。自我と他我との観 念を無にしたとき、自己の利が実現し同時に他人の利と合致 する。例えば、怒らない人は自己と他人の利を行うのです。 ここから慈悲の理想が出てくる。したがって善を行うことが 、実は自己を愛することにほかならない。その立場に立つな らば、自己を害いソコナイ傷つけ滅することは悪である。 慈悲の実践 ●耐え忍ぶこと忍辱は、布施と並んで慈悲行の両翼といえま す。 ●「我がものという観念を捨てて、心を統一し、あわれみに 専念する」ディーガ・ニカーヤ わがものという我執を離れると、自然と利己心が減少します ので、気持ちの上で他者と相通じる感情の交流が成立します 。そこからさまざまな人間の美質が湧いてくるのです。その 最も純粋なものが慈悲ということです。 ●まず生きとし生けるものに対する慈しみの心とは、みだり に殺生しないということになります。 むやみに暴力を振る わないということです。ブッダの弟子だちは「足ることを知 り、生活を簡素にして、もろもろの五官を静め、心を平静し て、聡明で、高ぶることなく」して慈しみの心を習得してい ったのです。 ●私共は簡単に「慈悲」とこう言葉を使いますけれども「慈 」というのは「慈しみ」と読みますが、これは〈相 手の身になって喜びを与える。安心を与える〉という意味な んですね。それから 「慈悲」の「悲」というのは「悲しみ」 と書きますけれども、これは「哀れみ」という言葉で、元々 の意味は「相手の苦しみの呻うめき」〈呻きを感じ取って、 その人の苦しみを取ってあげるという、そういう心持ち〉を 言うんです。従いまして、「慈悲」というのは、〈喜びを与 え、そして同時に相手から苦しみ、悩みを取り除いてあげる 〉という、二つの言葉の合成語なんですね。これを「利他行 」と言いまして、「人の為になることを率先してやりなさい 」と言いますけれども「何故人の為にするのか」という疑問 が出てくるんです。ブッダはこういうふうに言われた。 ●ブッダは「誰でも自分自身を一番可愛いと思っている。み んな自分を一番可愛いんだと思っているように、周りの人達 も自分自身を一番可愛いいと思っている。だからそこから 人のことを考えて、そしてその人の気持ちを読みとって、そ こから慈悲心を起こすのだよ」と。 「自分を一番可愛いと思う心があったら、先ず自分の心口意 の三業「身体」「言葉」「心遣い」を慎み、そういう心で行 いをしなさい」「自分を守るものは自分が守られる」、「自 分を正しく律する人は、他の自分である相手の人(自他一如) を守ることにもなる」と説かれた。 たとえば、「交通ルールを守る人が守られる」という。「あ の人が守っていないんだから、私も破ったっていい」と言っ て違反をやっていたら、渋滞を起こし、事故は多発するわけ ですね。人が守っていないけれども自分は守るという気持ち を、みんなが持てば、自ずからにして、それはお互いを守る ことになり、自分を守るということになります。ですから 「律する」ということ、例えば〈親が子供に躾をする場合も 、親が言ったら親自身が律していなければいけない〉んで すね。 ●何人にとっても自己よりもさらに愛しきものはどこにも存 在しない。同様に他の人々にもそれぞれ自己は愛しい。故に 自己を愛するものは他人を害してはならない。例えば殺人が 悪であるという理由を考えてみると、全ての人々は生を愛し 、死を恐れ、安楽を欲しているから、自己に思い比べて他人 を殺してはならぬ。また殺させてはならぬのである。したが って自己を愛する人は、実は他人を愛する人なのである。 「かれらもわたしと同様であり、わたしもかれらと同様である」と 思って、生きものを殺してはならぬ。『スッタニパータ』 --------------------------------------------------- 無我を実現するにはどうすればよいか ●答えはいうまでもなく自己浄化の道であり自己コントロー ルの道です。自己を妄執から守るには、自己をつつしんで清 浄行を実践し続ける日常の修行が必要です。 人々は見たり、聞いたり、識別したり、知識や情報を得たり して快感を得ます。それを価値あるものとしています。そし て快感を増大させて価値を拡大します。しかしブッダはそう した快感は、貪むさぼりを起こさしめ、欲望を増大して執着 するから、それらを除去せよと教えています。眼耳舌身意の 快楽についてブッダは「眼を縁として快楽と喜悦が起こるこ と、これが眼の耽溺であり患いであり妄執である」と。五官 そのものをブッダは否定していませんが、五官から生じる執 着を排除しているのです。 人間の内には、排除されるべき妄執と煩悩に仮構築された自 己と、浄化された無我という守り育てられるべき無垢な自己 とがあります。本来は無垢な真実の自己があるのみでした。 仮構築された自己を砕けば、同時に無我は実現するのです。 ●ある修行の積んだお坊さんが病気になります。比丘たちが お見舞いに行く。そうしますと、修行者が「あなたは病気に なって苦しんでいますか。痛いですか?」「痛い、苦しい」 。「だって無我じゃありませんか。我がないんですから、痛 いとか、苦しいということを感じる方がおかしいんじゃあり ませんか」と言いますと、「それは違うよ」と言うんですね 。そうじゃなくて、例えば花に匂いがあります。で、花の匂 いはどこにあるか、というと、求めようがないんですね。花 弁とか、蕊(しべ)とか、いろんなものの集まったものの中に 、匂いというものは現としてあるわけですよね。つまり自分 という一つの論理主体はあるわけですね。その私というもの が、五官のひとつの鼻の匂いが自我意識の欲望を振り回すと 言うわけですね。その自我意識の欲望をしかるべき形で制御 していく。つまり無我に自分をならしていく。日常の生活で 無我に徹するということは、そういう無いものをねだる自我 意識の欲望を制御コントロールすることなんですね。 たとえ無我であっても肉体的苦痛を生じさせる因と縁は止ま ないのだから、肉体的苦痛を感受する。しかし心的苦痛はそ れを生じさせる因と縁とが止むことによって、心的苦痛を感 受しないのです。 --------------------------------------------------- 恩恵 私どもは「私は誰にも、迷惑かけていませんよ」というよう な言い方をします。そして、つい自惚れてしまうわけです。 本当の意味で自分の自己を知る、あるいは自己を求めていく と、むしろ自分が非常に多くのものの関わりの中で成り立っ ている、ということをまず認識しておかないといけないわけ ですね。「私は誰にも借金していませんよ」「他人には迷惑 を掛けていません」と言っても、その人がそこまで到達する までには、無数の多くの人の恩恵を受けてきているわけです 。それは、その方が自覚しておられる恩恵もあるでしょうけ ど、目に見えないところで受けている恩恵もあるわけですね 。そう思えば、それに対する感謝の気持ちが独りでに出てく るんじゃないですか。そもそも自己というものが今ここに存 在するのは、無数に目に見えない過去からの恩恵が集約して 、生きているわけですから。そこまで思いを馳せることによ って本当の生き方ができると思いますね。 よくいろいろな正しい生き方が説かれていますが、ややもす ると、慈悲だとか、愛だとか、言葉だけ抽象的な観念で終わ って、自分の生活に戻ってこない。それだと、汝自身を知れ 、ということにはならない。やはり、自己を知る一番大切な ことは、自分で「徳を積むという実践」をしていくというこ とでしょうね。 ●例えば財産を持っているとします。けれど、それをよく 考えてみると、他の人が力を合わせて作り出してくれたもの でしょう。たまたま何らかの理由によって自分に帰属してい るというだけのことで、自分が死んでしまえば、それは消え てしまいますね。それから生きている間も、それが自分だ けのものだと言って誇っていいのか、奢っていいのかどうか 。他の人の力がこうずっと集まってきて、自分のものという のが作り出されているんだから、もっと奥深く考えてみると 、もう世のあらゆる人々のもので、あるいは宇宙万有がここ に力を合わせて作り出してくれたものですね。そう思うと、 自分のものだ。自分の所有だというものに対しても、見方が 変わってくるわけですね。 最近、私のところへある中年の方がやって見えまして、この 不景気の時代に大変儲かってしょうがない、と。大変意気軒 昂な様子で胸を叩きまして、「私は一人で生きている。誰の 世話にもなっていない」と、こうおっしゃるんですが、奢っ た言い方だと思うんですね。そこで、「例えばあなたが着て いらっしゃる洋服にしても、いろんな人の手を経ているでし ょう」と申し上げましたら、「いや、私が稼いだお金で、私 が買ったんだから、私の物だ」という。お金で見ればそうか も知れませんけれども、反面にお金さえ出せば洋服がスッと 手に入るという流通機構であるとか、無数に多くの人の力と いいますか、努力といいますか、それが集まって、それでそ の人の生活を可能ならしめ、意識面においては、「俺はおれ 独りで生きているんだ」ということも言わしめるようになっ ただけのことで、深く突っ込んでみますと、どんな人もあら ゆる人々と連携ができて、その連携の上に生きているわけで すね。 -------------------------------------------------- 「三つのおごり」増支部経典マッジマニカーヤ 「若さのおごり」年老いた人を見ると、〈あんまり奇麗じゃ ないな〉〈なんか哀れなもんだなあ〉〈ああ 、嫌だな〉と思うわけですね。これは、ほんとに若い人には もう当然の心の動きだろうと思います。普通の人の場合には 、それで終わってしまうわけなんですけれども、ブッダは自 分もまた〈ああなるんだなあ〉と思った途端、そこに「おご り」というものが潜んでいると、釈尊はそうみたわけですね 。つまり、自分は「マダ」優れていると思うわけです。 例えば美人であるとか、自分には財産があるとか、あるいは 地位や権力があると思うのと同じように、「自分はまだ若い 」と思い、その「マダ」というのが「おごり」だというんで す。人間存在の奥にある「おごり」の潜在意識なんですね。 「健康のおごり」世の中で活動している方は、どなたでも一 応健康なわけですね。私ども日常の会話の中で、「歳をとる のは嫌ですね」とか、「病気になるのは嫌ですね」なんてい うんですけれども、実はそれほど悩んでいないんですね、他 人事みたいに。だから健康の有り難さということもあまり感 じないわけです。おごっているから、そういう気持にならな いわけです。いろいろの条件が整っているからこそ健康なん ですね。しかし、いつかは年取ればまた健康を失って老いる という運命が待っているわけですね。それならば、普段から 健康の有り難さというものを身に自覚をしていくことが、お ごり、高ぶりのないものの考え方ですね。 「生存のおごり」人が死ぬのを見ると、「あ、嫌だなあ」と 思いますね。それを見ている自分はまだ生きているものです から、だから自分は死とは別のものみたいに思う。しかし実 は人間の生というもの、生きているということは死に裏付け されているわけです。いわば生きているという一つの事実の 表と裏みたいなものですね。裏側をみようとしない。 生きているということ自体が、またいろいろの条件、因縁、 恵みによって可能となっているんですから、これは有り難い ことですね。それを「俺が生きているのは当たり前のことだ 」と、もうそこでおごってしまう。そうすると、これは生き ていることの意義を失ってしまうことになるんですね。普段 をおろそかにしているということなんです。 善を求めて ●「大般涅槃経」でブッダは「善なるもの」を求めて出家し たというのですね。ブッダは八十歳になる自分の一生を振り 返りながら、「私は二十九歳で善を求めて出家した。そして 正理と法の道のみを歩んで来たんだ」と。こうして自分の存 在の内部を見つめていって、バランスのとれた生き方つまり 「中道」というものを悟った。具体的には「八正道」です。 法を守り、怒り、むさぼりという妄執を捨てることです。「 三つのおごり」も自我と欲望が原因だ、ということはわかっ ているけれども、なんかその奥にある善きものに到達しなか った、と。その善なるものが「涅槃」なんですね。 「心が平静で、所有なく、執着して取ることがないこと。こ れが最後の拠りどころにほかならない」のです。 ●「私が」と、「私のものが」という二つのものを常に私た ちは主張しているんですね。ですから「私の若さだ」と、「 私の命だ」と握り締めてしまう。ところが何ぞはからん、老 ・病・死の無常なる世の中でありますから、みんなそれが崩 れていってしまう。そのギャップが大変私どもに悩みの種に なってくるんですね。無理にしがみ抱え込むような立場をと っていますと、苦しくて、柔軟な心で生きていけないわけで す。身心が柔軟になると、目指すところに向かって自由に生 かすことができます。 例えば車の運転も同じだと思うんですね。いろいろしてはい けない規則がいっぱいあるわけでしょう。けれど、それを身 に付けている人は悠々とドライブして、自分がドライブして いることをわざわざ意識しなくても、決して規則に反したこ とはしないわけですね。世の中に生きていくのも同じで、自 我や欲望というものを、抑制あるいは止滅させていくことに よって、ブッダの善を求めた生活、つまり涅槃という安らか な心が実現される、ということになりましょうね。 --------------------------------------------------- ●ブッダも昔は凡夫だった---修行 修行とは〈してはならないこと、しなければならないことを 反復して、自分の身体に植え付けるようにしていく〉ことで す。それは鏡を磨くようなことです。つまり、曇った鏡に自 分の顔を映しますと、そこには自分の本当の顔が現れません 。黒子(ほくろ)があるとか歪んだ顔に見えたりします。け れども、その鏡に積もった塵を拭い取ると、そこにパッと本 来の鏡の明るさが戻って、歪んだ顔だとか、黒子があると思 ったのは、実は塵の影響だったということが分かります。自 分の顔が、「ああ、これが自分の顔だった」と本来の形を映 し出す。同じように、先程あった貪りを取り除くことによっ て、物への愛着執着が無くなります。「妄執を捨てなさい」 捨てることが大事であると。修行して貪りを捨てて、物への 妄執・執着を離れたら、自分の本来ありのままの姿・真実の 自己が見えると教えているのです。 --------------------------------------------------- ●キリスト教とブッダの違い ヨーロッパ人には仏教は「経済倫理をもたない厭世的な人生否定の 哲学で非実社会的」としか見えなかった。西洋文明の根幹は欲望肯 定のため、仏教に対して溌剌とした力を見出せなかった。 イスラム教とかキリスト教は天国を信じて神を信仰します。修行し ている人もいっぱいおられます。しかし、どんなに信仰しても修行 しても、神様になることは出来ません。ところがお釈迦さんは〈誰 でもブッダに成れる〉〈絶対の安らぎを得た清浄な人間であるブッ ダになることが出来る〉と説いておられるんですね。キリスト教は 「我有り」で、肉体は滅びても霊魂は不滅であると信じているので 、死の恐怖は解決済みです。日本でも極楽へ行くと信じている人も 同じです。しかし、死ねば終りと思っている人には死の恐怖があり ます。ブッダは「我無し」ですから、死すべき自分は消滅します。 イエスは最初から救世主として登場しましたが、ブッダはもともと 自分自身の苦しみを解決するために修行を始めたのであり、人助け をしようなどとは考えていませんでした。梵天勧請で頼まれて伝道 を決意しました。それも、外の力に頼らず、自分の力で人生の苦し みを切り開く点が特徴です。キリスト教では信者になることはあっ ても、出家したり修行したりということはありません。 ●仏になる可能性とは では「どうすれば我々はそのブッダに、仏になれるのか」と いうことが、問題でございますけれども、簡単に言いますと 〈煩悩を払い除けさえすれば、仏になれるわけです。 しかし〈貪り怒り奢りという煩悩を取り除きさえすればなれ る〉と言っても煩悩は時々刻々に起こって来ますから、それ を起こらないように努力しなければいけない。それは〈起こ らないようにする習慣が身に付かなければいけない〉わけで すね。その修行する為には、必ず〈あなたはブッダになれる んですよという証拠がなくちゃいけない。「あるんでしょう か」と、こう訊かれた時に、お釈迦様は、「ある」と言った んですね。なれた人がいたわけです。つまり、お釈迦さんが 模範を示したんです。お釈迦様は「自分と同じようにブッダ になった人達が過去に六人居ます。みなブッダになる可能性 を持っている」「但し、修行しなければいけない。悪いこと をしない、善いことをしていく、心を清浄にしていく修行に よってでなければ、ブッダになることは出来ない」と言うん です。それが条件なんです。その場合に、大事なことは我執 をもつ自分の内面つまり心をみつめることと、人生は無常で あり苦であるということを観察し、それを八正道に則って克 服するということを理解して頂ければいいかと思います。 --------------------------------------------------- 政治への誘惑 ●この現実世界はあまりにも悲惨で理不尽で酷すぎます。ブ ッダの心の中に、自分が統治すれば、こんな悲惨なことはあ るまいとの想いが去来していました。この想いが聖者への道 に転がっている政治への誘惑という大きな障害物です。しか し政治の道は、汚濁の道でもあります。清浄行とは平行線で す。ブッダは決然として自らの道を歩んでいきます。 --------------------------------------------------- ●自力 小乗仏教の基本 アーナンダよ、あなた自身であなたの光明となり力となるの だ。他からの力に頼ってはならない。真理をみずからの光明 となす者こそが、私の真実の弟子となり、正しい生き方を歩 むことができる。ブッダ --------------------------------------------------- 思想や理屈の世界ではなく、実践がすべてです ●実践なき思想はありません。実践がなければ単なる空論で す。仏教では戯論ケロンと言います。ブッダは常に実践を重 んじました。他の人たちと、決して議論しあうことはありま せんでした。 ●大乗仏教では空の教えがありますが、それは理屈でありま して、実践的に自己浄化の行をはずしては成立しません。ブ ッダの時代では自己浄化によって煩悩や我執の克服に努める とき解脱し、利己的な自己から無私なる自己へと転換してゆ き、その帰結として「空観」を体得していきました。 ●善事をなし悪事をなさない、というと誰でも「よくわかっ た、簡単なことだ」と頭の世界では十二分に理解しているの ですが、この実践ができないのです。 ブッダの仏教というのは常に実践が伴わなければ意味がない のですが、この教えもまさに実践そのものが伴わなければ、 ほとんど何の意味もないということです。頭の世界ではない んですね。ところで、お前は実践はどうだと言われた時に、 それはもう恥ずかしいかぎりで、自分を戒めながら、修正し て精進しているわけです。一滴一滴の水滴が積み重なってい くことの大事さを、噛みしめなければいけないんですね。 ●ブッダは僧や宗教指導者の資格として無執着・無所有をあ げています。ブッダの教えはこの無執着に行き着くと考えて よいでしょう。ブッダの人間観は、欲望を中核とした人間観 なのです。心の中心である「脳の腹側線条体」には生存欲が あり、それが人間の世界像を形作っています。 人間は生まれたときは無垢で清浄なのですが、潜在意識下や 無意識下のさらに深くにあるアーラヤ識下の生存欲が、思考 による自我意識の目覚めと共に利己的な我エゴとなって現れ ます。 ですから無垢で清浄な心に戻すためには、欲望をコントロー ルして、欲望によるゆがみを正さなければなりません。それ には執着を砕いて無所有となって、欲望から自己を自由の世 界に開放しなければなりません。 無我もそうですが無執着を実現させるために清浄行という修 行が必要なわけです。慈悲喜捨の実践や諸悪莫作・衆善奉行 が根本となり念仏・座禅・読経・懺悔の自己浄化行です。 ●ブッダは執着を捨てよと説いています。しかし人は様々な ものに執着して生きている。仕事や勉強を一生懸命やるのも 執着です。執着心が向上心などプラスの流れを生み出してい る人はそのままでいいのです。しかし執着が過度に強くなる と、身体を壊したり家族のことをなおざりにするといった、 本来幸せをもたらすはずのものに対しても、自分の思い通り にならないことにいらだち、苦しみを感じてしまいます。そ れでは、どのような執着がいけないのでしょうか。 まず、自己中心的な我に対する執着、五官の快感に対する執 着、ものの所有に対する執着は、形あるものは無常・生滅縁 起・無我ですから、それらは容易に憎悪や貪欲、怒り、恨み といった状態に転換される「煩悩」です。ブッダは、執着の 中に苦の原因を見ました。四聖諦、十二縁起で無明というも のです。ブッダは自分の教えにさえ執着すべきではない、と しています。●仏典のことば --------------------------------------------------- ●心 ブッダは心というものは放っておくと欲するままにおもむき 、好き勝手にやるというんです。このようにどうしようもな いものですから、自分の心に正直に生きると破滅してしまう と、お説きになった。心が王様のように私共の身体の中にあ って、行動を支配をしているのですね。心というものは本来 〈善でも悪でもない〉けれどコロコロと変わり、汚れた心で 行いをするならば、苦しみがその人に付き従い、清らかな心 で行いをするならば、安楽はその人に付き従うと説かれた。 「清らかな心」とは、〈貪りのない心、怒りのない心、我 執のない心〉ですね。じゃ、一体何を基準にして善とか悪と かというかと言うと、ブッダは〈人の為になることをするこ とは善であり、人の為にならないことは悪である〉というこ とです。仏教では人間の行いに三つあると言うんです。「身 口意(しんくい)の三業(さんごう)」と申します。「身」は 〈身体〉です。「口」は〈話すこと〉ですね。「意」は〈心 〉を言うんです。 ●七五三の時に七つになったお嬢さんが着物を着せて貰って 、このお嬢さんは生まれつき目が不自由な方なんです。まる っきり色を知らない。そのお母さんが着物を着せて上げてい たんですね。そうしたら、隣のおばさんが来て、「何々ちゃ ん、綺麗ね」とこう言いました。そうしたら、お嬢さんが、 「綺麗って、なあに」とこう聞いたんです。その時、答えら れないんですね。つまり、目が不自由な人には綺麗という、 我々がいう言葉の表現が、何を綺麗と言っているか。綺麗と いう言葉は、私共が見てその経験をした時に、その感覚を通 してその言葉が作り出されて来ているだけです。言葉という ものはそのように作られたものなんです。 ●大乗仏教の一つ華厳経に「三界は虚妄にして、唯、是れ心 の作なり」というのがあります。この世の中の全てはみんな 偽りである。それはみんな〈心の現れ〉〈全て心の働きによ って出て来る〉といってます。 例えばデパートでキチッとした格好で行くのと、ボロ着を 着て行った場合では、ダイヤモンドの売るところでの応対が 違うというのは人間の見方です。つまり、それはボロ着を着 ている人は貧乏だというふうに見てしまう。スーツを着てい る人はいい、あの人はいい。私たちは、そういう外見だけで 人を判断するアーラヤ識を持っている。だから、そういう驕 りの汚れた心で人を見ないように、善智識からさまざまなこ とを聞いて良い心を身に付け習い性になることが大切です。 --------------------------------------------------- 慈悲喜捨の四無量心 「慈」他人に喜びを与える心。他人の幸福を願う心情。 愛情深い慈しみの心。 「悲」 他人の悲しみや苦しみを感じる心。共感する心 。その不幸を抜き取ってあげる。聞くことでも一助になる。 「喜」他人の喜びを自分の喜びとする心。他人の有徳の行為 を喜ぶ。妬まない心。何事も感謝し怒らない。 「捨」 我エゴを捨て去ると一切の生命を平等な気持ちで見ることが できます。自他の区別のない世界です。苦しんでいる生命や 喜んでいる生命などすべてを平等に観て「それぞれ自分の生 き方で頑張っているのだ」という平等な心をさす。我を捨て 去った後の、平等の悟り。 他人と自分とは生命の本質は同じです。だが、同一ではない ので環境や育ち、立場、価値観、考え方など違いがあること を認識し、比較・差別・区別など分け隔てしない平等な心。 ●優しさとは 「私あり」という我エゴを捨てて、より普遍的で客観的な「 生命が」と考えればいかがでしょうか? 「生命が」と考え れば、これもあれもすべて生命です。そこに自と他の区別は なく、対立は生じません。だから、心安らかに生きたいので あれば、「私」という単語を使わずに一個の生命体の立場で 考えればよいのです。 そこで突然、自分の周りに無数の生命が出現するのです。そ のすべてが自分に協力してくれて、成り立たせてくれる生命 です。生命のネットワークが出来上がってしまうのです。 「無数の生命の中で、自分という一つの生命が、他からやさ しくされたいと思っている」のです。生かされているのでは なくて、成り立っているのです。生かされているというのは 、神の奴隷のようですが、一切の生命は平等なのです。 本当のやさしさは、我エゴのない「生命」という次元なので 、必要以上を求めません。「欲しい」というところまではい かないのです。一つの生命の立場で、他の一つの生命との関 係を見ると、相手から何を要求されているか見えてきます。 お互いの生命を大切にすること。これが慈悲です。本当のや さしさです。 本当のやさしさの慈悲は自然のネットワークの中で、我エゴ がない状態でいて、すべての生命とつながりの関係を持って いて、生命を成り立たせてくれています。」 ●結局、ブッダの教えは我執を離れ、精神を統一し、慈悲心 を抱いて、修行すれば解脱にいたるというものです。 --------------------------------------------------- ●ブッダは「俺は悟りを開いたんだ。後は何をしなくてもい いんだ」というような生き方はされなかったわけなんですね 。生きている人は始終いろいろな問題にぶつかるわけですよ 。本当の道という立場からみれば、どうすべきかということ を常に考え、道を求める。その度に自分で解決し、また人に も教えを説かれたわけです。だから場合によって、また相 手によって教えが多少違うわけですね。だから八万四千の法 門があると言われるわけなんですが、根本は一つなんです。 「実践」、そこにポイントがある、とみてよろしいと思うん です。本当の仏道の実践ということは、自分の苦しみを除く とともに、他の人々の災い、苦しみを除くことである、と。 こういう話があるんです。ブッダが長くおられた祇園精舎に は修行僧たちが大勢住んでいたわけですが、その中に一人重 病のお坊さんがいた。病んでいますし身体が動かせないもの ですから、身の回りも汚くなっていたわけですね。あまりに 汚いので他の人が面倒を見てくれなかった。ところがブッダ はその病人の修行者のところへ行って、積極的に身の回りを 奇麗にしてやって、洗濯もして看病された、という話が仏典 に出ているんです。 皆さんは、出家したのですから、一つにまとまること、同じ 水や乳を飲んでいるという気持ちで、お互いに看病し 合ってください。他の人の病を看(み)ることは自分自身を看 ることにほかならないのです。『雑一阿含経』四十 悟り→煩悩→修行→解脱 ●頭で理論的によく解ることが、いわゆる悟りという言葉で す。そして今度は、頭の中で解っているんですけど、現実に は生身から生じる煩悩というものが出て来ます。だから、今 度はその生身をどうやって処していけばいいのかということ になります。つまり、修行によって、煩悩を制御コントロー ルしていくわけです。修行を積んでいくと、最後には一切の 煩悩から、煩悩の呪縛から解放される。その身体も心も全て が解放された状態を「解脱」と表現しています。ですから、 最初に悟りがあって、最後には解脱つまり絶対の自由の境地 というところに到達するわけです。しかし、日々、人間が誘 惑されて間違うかも知れない可能性は無数にあるわけですか ら、その一つ一つについて誤らないように、とらわれのない ようにする時、小さな解脱があります。だから毎日毎日の中 に解脱は無数にあるわけです。日々の修行をすることが即ち 彼岸に至ったことなんで、解脱というものは、毎日の修行の 中で仏として実現していくのですね。小乗では悟り=解脱=涅槃 --------------------------------------------------- ●「修行と悟りが1つではないと思うのは仏を信じない者の 考え方です。仏の教えには修行と悟りが同一です。修証一等 」つまり今ここの修行が大切なのです。一般的には修行して 、修行の結果として最後の到達点として悟り・解脱というも のがあると考えるわけです。しかし、仏の教えでは修行と悟 りというものは一つなんだよとします。我々が修行している この修行も、悟りの上での修行ということなんです。ですか ら、修行の心得というものを授ける場合でも、修行の他に、 悟りを期待するという思いがあってはいけません。修行が悟 りであり解脱ですから、悟り・解脱に終わりがないのです。 フルマラソンに譬えますと、四十二・一九五キロ走るわけで すね。そうしますと最後まで走りきってゴールをした。その ゴールをした時に途中の一歩一歩が大切であったと思うんで す。つまり一歩一歩がなかったらゴールがないわけですから 。苦しい時もあると思うんですね、それだけ長い時間走りま すから。もしあの時挫折していたら、諦めていたらゴールは なかったろうとか、あの時踏ん張ったからゴールがあるんだ 、というふうに思うんですね。結局最初の一歩も途中の一歩 一歩も、その一歩一歩の中に全体があったんだと。つまり全 体は一歩一歩がなかったら全体もなかった、というような意 味なんですね。 修行も同じで、その一瞬一瞬の精進努力がなかったならば、 その最後の悟りもない。だからその「一歩一歩がもう悟りそ のもの」と言えるんだと。 「今、ここ」 ●何を言っているかというと、「今、ここ」ということしか ないということです。「今の生き方が大切だ」ということで す。だから、今以外の別のことを考えてみても、例えば来年 はどうだとか、あるいは明日のことを考えてみても、それが あるのかどうかということはわからないわけですよ。諸行無 常ですから。 また過去を我々は振り返りますね。過去を振り返って、若い 頃は良かったとか、あの頃は健康だったけど今は大分身体も 衰えてしまったとか、そういうふうに過去を懐かしんでも決 して過去には戻れません。で、結局私たちは変わっていく。 これからさらに老いていくわけですから。今がこれからの中 で一番若いのです。だから結局一瞬一瞬「今、ここ」という ことを、有り難いんだと思って、真剣に大切に生きていくこ とです。それしかないんだということを、悟ることですね。 そのことを悟った時には、もう先に求めるものはない、とい うことになるわけです。だから「今、ここ」という生き方を している人は、それはもう悟っている人なんです。そのよう に生きるのが修行だということです。 ●中村元「東洋の心を語る」 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 大乗仏教の考え方 ●ブッダの死後500年の後、現実の人間存在のあり方に限 りなく妥協し、修行を簡単にした大乗仏教が現れました。そ れが中国へ渡りさらに500年の歳月をかけ、老荘思想の影 響を受け変質し、伝わってきたものが、日本の仏教です。 ●大乗仏教の法華経に説かれる「三車火宅の譬え」で、「声 聞」の学問で勉強する、「縁覚」の経験を積む、「菩薩」の 信じる、という三車の内、「菩薩」が一番早く「大白牛車」 という解脱・悟り・涅槃の境地へ達することが出来るとした 特に日本の大乗仏教は「極楽を信じる」ことが重要となる。 小乗の修行第一ではなく、信心第一となる。 願わくば此の功徳をもって普(あまね)く一切に及(およぼ)し 我等と衆生と皆共に仏道を成(じょう)ぜんことを『法華経』 --------------------------------------------------- ●空 大乗仏教の基本です。大乗の悟り 「色即是空 空即是空」この身体は自分ではない、自分のも のではない。自分ではなく無自性の生命体である。 その生命体には生死があるかという疑問が生じるが、それは「我ア リ」という側から生じた疑問であって、「我ナシ」つまり無我の側 から見ると無自性つまり我ナシだから疑問自体・生死自体が生じな い。 ここでいう「空」とは、何もないということでなく、ある はずと考えられたものがない、あると思い込んでいるものが ない、という意味です。いわゆる「無」ではない。例えば、 この身体が私のものと思っていたのが私のものでないなど。 物事には、それ自体には実体はなく、他との縁という相関 関係によって、つまり、この世界はみな種々の原因と条件が 絡み合い、依存関係して生滅しているという真理です。 ●中道 大乗仏教の基本です。小乗では八正道となる。 ブッダは最初に何を説いたか、はっきりわかりません。「中 道」「八正道」「四諦」「縁起・生滅の法」「無我」とかい われています。大乗では苦行の無用なることを付け人の五人 に説得するため中道から始めたと考える。「二つの対立した 極端にとらわれるな。」という教えですね。肝心要めのとこ ろにピタッと当たるということが中道の精神なんです。 例えば、琴を弾かれる方、或いはギターを弾かれる方、バイ オリンを弾かれる方、みんな糸の加減というものが大事でご ざいますね。それも緩くても音はよく鳴らないし、或いはき つくてもいい音は出ません。三味線を弾く方が強く弾いたり 弱く弾いたりしている時に、その都度弦を緩めたり強くした りしています。あの加減はみんな緩急自在を心得ていて、そ れは目盛りで計っていませんものね。音を聞きながら、ばち で弾きながら糸の堅さ緩さを手加減がちゃんとするんですね 。その微妙なものは、決して言葉では表現出来ない。目盛り で表現出来ない。それを言っているんですね。仏典の有名な 言葉で、「糸を強く張るといい音が出るか」と言うと「出ま せん」。「緩くするとどうだ」と言うと、「出ません」。じ ゃ、「丁度よいところ、中であればどうだ」と言ったら、「 よく出ます」と言う。 ●大乗では「ほどほど」とか「まん中」という意味です。 執着しますと、自由を失うんですね。〈拘こだわる〉と いうのがよくありますが、〈拘る〉ということは〈我を忘れ ること〉になるんですね。我を忘れてしまうような拘りとい うのはあってはならないんです。 欲がなければ生きていけないんですが、欲がものに振り回さ れて、それにとらわれるとそれはいけないわけです。と言っ て、欲を捨ててしまう為にこの身体というものを苦行によっ て苛(さいな)んで亡くしてしまうことも、また良い生き方で はないんですね。だからこの身体というものをバランスよく 維持していくということの為には、快楽と苦行という両極端 を捨てなさいというところが「中(ちゅう)」いわゆる適正な 、中正な道の歩みですね。ですから、何でもやっている時は それに一生懸命になるわけですけれども、一生懸命になるこ とはいいんですよ。一生懸命になることはいいけれども、「 執着して、周りが見えなくなるようになってはならない」ん ですね。執着するというのは、そういうことを言っているわ けですね。「中道に生きる」とは、〈自分というものを見失 わせるようなものにとらわれて、妄執に引っ張られるような ことがあってはならない〉ということです。 --------------------------------------------------- 仏性 大乗経典の基本です。小乗には無い。 ●ブッダの時代「原始涅槃経」では世界にあるものに不滅の ものはなく、すべて滅するという。私のものである仏性はな いとされている。 ところが、後年に創作された「大般涅槃経」では「不滅の仏 性」があるという。ただし生類にはあるが山川草木には仏性 はない。後者の大般涅槃経が日本へ伝わったが、中国と日本 では山川草木有仏性と変えた。 ●さらに「大般涅槃経」では、女性は五障のためいくら修行 してもブッダにはなれないとした。しかし、ブッダは男性と 平等に修行できる機会を女性に与えたし、最古の小乗経典「 スッタニパータ」や「ダンマパダ」には五障の記載はまった くありません。 仏に自分を全て任せきる 大乗仏教は他力、小乗は自力修行 ●道元に「仏になるいと易き道あり」というのがあるんです ね。「悪いことをしない。よいことをしていく」ということ なんですが、その後にこう出て来る。「その前に、自分の気 持ちをどうするか、或いは自分の態度はどうするか、自分の 身体というのはどんなものだとか、自分の心というのはこん なものだとかと言い訳して、今の煩悩に執着しているんです けれども、それに執着することを離れて」、「仏の家に投げ 入れてつまり仏の側に自分を全て任せきることが大切だ、仏 の中に自分の身を投げ入れてしまうわけですね。そして投げ 入れて、仏の側から救い上げられ、仏に従ってゆく時は、力 をも入れず、心をも費やさずして、苦しみ、或いは自分の生 き方の苦しみを離れて、安らぎの人間になることが出来ると 」、こう言ってるんですね。だから絶対なるものがそこにあ ると信じなければいけないんですね。 --------------------------------------------------- これが大乗です 〈煩悩と共に生きる〉大乗経典の基本。小乗は煩悩を捨てる。 ●「煩悩」というものは、最初からあるものではないんです 。〈人間が生き様の中で感覚をしている中で出てくるもの〉 です。機械でも動いていると垢が出てきます。 「恩愛の煩悩」というのは、親子の繋がりとか、兄弟とか、 夫婦とかという〈我々の身近にある者の人間の間における繋 がり〉で起こる煩悩です。 「欲界の煩悩」というのは、欲に満ちているこの世間におけ る人々を破滅に流し去る洪水のようなものです。まさしく煩 悩は瀑流のごとしです。 ●「煩悩即菩提」という言葉があります。煩悩即それが菩提 。菩提ということは解脱、悟りです。〈不浄な身体で あるけれども、これは捨ててしまっては解脱も悟りもあり得 ない〉わけですね。この身体を土台にしなければいけない。 当たらんが良い触らんが良いのは清らかですが、触れば濁 る谷川の水というように、世の中のどろどろした中に首を突 っ込んで泥まみれになって、しかも尚修行の心を持ち続ける のが本物です。自分だけ清ければそれで良いと言うのは間違 っている、と考えるのが大乗です。しかしこれは一方で、妻 帯し恩愛の情のため、欲と執着の泥田圃に首まで浸かって抜 き差しも成らず堕落し、汚濁のこの世を泥亀のように這いず り回って、一生浮かぶ瀬も無しという現実があります。 ●ブッダはみんなに「煩悩も大事だよ」とはおっしゃらなか った。まず、それよりも煩悩を無くすということを一般の人 達に説くことを先決にして、説法されたのです。 ですけど、後世の者達はブッダのように生きることはなかな か出来ないので、やはり我々はもう少し煩悩を見直そうとい うことで、煩悩に対する考え方を改めて、煩悩を今度は 〈生かしていく〉煩悩即菩提つまり煩悩と共に生きる方法を とったわけです。これが大乗です。 ●ブッダは「煩悩が起こる不浄な身体であるが、努力によっ て必ずブッダになる。そういう可能性を誰でももっているよ 」と言われた。勿論、煩悩というのは、厭うべきものです。 これは間違いない。ただ小乗のように、修行によって煩悩を 無くすんじゃなくて〈煩悩を無にするんではなくて、無力に する〉んですね。〈力を弱める〉ことです。 タバコを吸っている人がタバコをやめるには、タバコ屋さん の前に行かないとか、タバコのコマーシャルを見ないとか、 タバコを吸う人の側に行かないとかして、なるべくタバコを 吸わないようにします。そうやって少しづつタバコを吸うこ とから離れていこうとするようなものですね。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー セックス 小乗仏教では厳しく禁じている 大乗側では容認 ●セックスを認めている北伝(インド→中国→日本)の大乗仏 教は戒律の厳しい南伝(インド→スリランカ→タイ)小乗仏教 の百年後に成立しました。私どもが小乗仏教国(上座部)のス リランカや東南アジアを旅するとき、大乗仏教をバカにして いることがわかります。僧が妻帯していると聞いただけで、 それはブッダの開いた仏教ではないと言う。ブッダは明確に セックスを禁じていますから、それは正しいのです。 日本の仏教は宗派の祖師の教えによって創作された祖師仏教 です。シャカの教えは葬式仏教とあだ名されるような下劣な ものではありません。 ●小乗仏教の「梵行」というのは〈綺麗な行い、正常な行い 〉、これは〈セックスを断つこと・不淫〉を指します。 ●「五欲」には、「食欲」「性欲」「睡眠欲」、「地位欲」 「名誉欲」と有りますが、その中で最も〈人間を迷わすもの がセックスである〉ということで、その性欲というものを断 つということで仏教の修行を中心に考えているんですから、 妻帯なんてとんでもないことでして、断固セックスを断たな ければなりません。妻子への恩愛の情が煩悩を生む。煩悩の 源である男女の性愛関係を断って、清らかな生き方をすると いうことが強調されている。 ●遊女アンバパーリがブッダと弟子たちを招待したとき、そ の美貌に激しく動揺する弟子たちに対してブッダは「皆のも の、わが身を観察しなさい。身体には鼻汁・粘液・汗・垢・ 脂肪・血・目やに・耳垢・痰・便など不浄がある。美貌を誇 る女性も人間の身体は本質的に不浄である。あそこに置かれ ている死体も、この生きた身体のごとくであった」と示しま した。 ●大乗仏教では、煩悩即菩提と煩悩も大事であると言う。煩 悩の最たるものは、このセックスですが、大乗仏教の仏典で は、ブッダも人間ですから、両親の交合によってから生まれ たのである。そうしますと、これはセックスを認めている。 つまり「ブッダでさえ、セックスの元から生まれてきたもの である」ということで、ブッダの教えとは異なるが、「人間 の子孫を残し、仏法を伝えていくブッダを生み出す元でもあ る」というふうに解釈して、決してこれも「捨て去ってはい けないものなんだ」と大乗では説くわけです。 但しそれを「快楽として、追い求めてはならない」と説いた んです。ですから、『華厳経』という中に、そのように説か れてあります。つまりセックスというものを遊び、快楽、そ ういうものに、頭をおいて求めてはならないと。或いは真言 宗の 『理趣経』の中にも、そういうセックスのことが書い てございますけども、これは決して快楽を追求することを教 えたんじゃないんです。 ですから、それをセックスの経典であるとか、興味本位で、 そういうものを取り出して、特に強調して、「仏教はこうい うものだよ」という、そこだけ強調して、仏教を説くことは 、これは断じて戒めなければならないところですね。 小乗仏教ではセックスというものを「快楽の方に利用した」 がゆえに執着するので、忌み嫌うものというふうになったも のなんですね。ですから、大乗仏教ではもう一回見直して、 セックスというのは、決してそういうものではなくて〈悟り への一つの生き方〉である、と。だから仏典の中に、〈セッ クスの行いも、決して醜いものではない。これは綺麗なもの である〉と『理趣経』の中に書いてあるんです。 これは余程仏教のことを理解し、そして修行が積んだ人でな いと、なかなかこの辺のところは、肯定し、それを実践する と言うか、そういうふうに自分を制することは出来ません。 ですから結局、ブッダの言ったように、「最初からセック スを断って、煩悩を削っていく」ようにしないと、到底ブッ ダに近づくことはできませんね。 ●「欲」についても同様で、大乗側の「欲もほどほどなら大 丈夫」という理屈は、人間には成り立たないのです。生活を していくためには必要だからとか、経験をつめば欲の限度が わかるのではないか、というのも疑問ですね。気がついたら もう手遅れという限度にまで人生を破壊している可能性があ ります。 人を殴ってひどい目に遭わせておいて「これぐらい怒ればい いや」と経験を積んでも、司法のお世話になるのが落ちです 。複数の異性を持つのも同様ですね。原発でもよくわかりま した。事故を起こしたら終りなのです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「六波羅蜜」を説いたシャーンティデーヴァ 「悟りを求める」と言いますと、どっか人知れぬところに一 人閉じ籠もって、悟りを求めることと思われていますが、そ うじゃないんですね。それは「知ること」という意味なんで す。つまり人間は人間の生存の真の姿を知っていないわけで す。身体は他の人と別なんだけれども、見えないところでお 互いに結び合い、寄りそって助け合って人々は生きているわ けですね。そこまで知るということが及び、その立場から実 践するということになりますと、人々と共に生きていくとい うことになるわけなんです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 六波羅蜜 在家は八正道の代わりに六波羅蜜となる。大乗。 1.布施は、分け与え、教えを伝えること。財施・法施など。 2.持戒、正しい習慣を守る。戒律を守ること。 3.忍辱は、何事も耐え忍ぶこと。怒りを捨てること。 4.精進は、何事にも努力すること。 5.禅定は、何事にも心を集中して、心を安定させること。 6.智慧は、物事をありのままに観察すること。思考に依らな い、本源的な智慧を発現させること。道理を理解し救済する 働きを起こすこと。 龍樹はブッダの教えは要約すれば「自利・利他・解脱」の三 つに尽きるため、大乗独自の「六波羅蜜」も仏説だとした。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ●密教 悟りを求めるために、実践を主体とする真言マント ラや陀羅尼などの儀礼とマンダラなどが一体となった神秘主 義的な修行体系をもっている。そのため原始仏教の本質を継 承し発展させたものと考えられる。後期大乗仏教 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 「ブッダの教え」おわりに ●今日私たちの文明は欧米の「我有り」の欲望充足を基本と した社会です。西洋流の現代社会は個人主義・自我本位の考 え方に影響され、自己一身の利益・利己・栄達のために隣人 ・他者の福利を一切考慮しない。全ての人が利己的で闘争的 となり社会を害している。 例えば、そのことは資源の無駄遣い、環境破壊、生物の乱獲 、海洋と大気の汚染など人類生存をも脅かしています。利益 のあくなき追求は、人種差別を生み、宗教のエゴイズムと結 びついて、内乱や戦争に発展しています。 こうした欲望充足への暴走を止めるには、もはや「我エゴあ り」の文明は許されず、「我無し」の価値観へと転換が必要 な時代です。 現代社会はお金をたくさん持つことが、価値ある生き方とさ れている。ブッダはこれと180度正反対の無所有を説きま した。我エゴと執着を捨て去り、清浄な心になることが価値 ある生き方だとし、生涯これを実践しました。 ●我有りから我無しへ ブッダの教えの根本は「自分の心の浄化」清浄行です。回峰 や滝行や座禅などの修行や読経・懺悔などすべての行法はこ の言葉の実践です。清浄行とは人間存在に深く巣くっている 我欲を浄化することです。そのためには正しい生き方である 八正道の「無我」清浄行が重要な行となります。ブッダはこ の我執の克服を説き続けました。「我エゴあり」の自己から 「我無し」の自己への転換です。 ●無我は不可能ではありません。 今も小乗仏教の国では幾百万の僧が我執の克服を実践し、生 活しています。 ●我々在家庶民はどうすればよいか ブッダには在家と出家という考え方はあった。しかし出家が 山奥に住み俗世間・社会から離れるということではなく、世 間における生活動因でもあった。つまり乞食によって食料を 得、庶民の悩みを癒した。ブッダは修行するにも衣食住の物 質を適度に用いることだとしている。 適度というのは寒いのに衣服を捨て、食物を断ち、病みて薬 を用いないことではない。不必要に多量にカネや貴金属や美 味な食料や華美な衣服や豪邸を求めたりすることではない。 生存欲という欲望も必要最小限度のものを用いることです。 また無我というのは生活そのものを否定するものではない。 また無我は慈愛であるから、たけ狂う自我を抑えて整頓する ということです。自己をコントロールし、自己を浄化すると いうことです。社会とは自分も他人も含まれるのであり、 ブッダは自分と他人を分離していない。自己とは他者との関 係・縁があって成立するものであり、本来は自己・我という ものは無い。社会の網の目の一つとしての存在である。 我々庶民が我欲という妄執を捨て去ることは不可能であるな らば、誰もが苦悩の人生を泳がなければならない。そこから 逃避しようと走り回っても、かえって新たな苦悩が増すばか りで依然として元の苦悩は存在する。苦悩の人生から離れる には、言い換えれば少しでも無我無欲に近づくためには、ブ ッダの説く八正道を実践するしかない。完璧には実践できな くとも、一つや二つはできる。八正道は清らかな身口意にな ることだから、清浄な体・清浄な言葉・清浄な心を目指すこ ととなる。つまり日常生活の中で正しい倫理道徳生活をする ことが修行となる。正しさというのは清らかさであり、それ が私たちの最後の安住の地であった。 ブッダは正午の食事のあと、林中で座禅静観し、一切の人々 に善き縁あれと慈念された。この静穏で平和な心が社会福利 への思念でもあった。もとよりこれだけで満足したのではな く人々の悩み苦しみを解き放つため奔走し実践した。 自己のみを利する所には平安はない。社会にのみ奔走する所 にも平安はない。八正道の清浄行を怠らない所にこそ安住が ある。 <八正道とは> 正見・因果の道理で世の中をありのままに見る。無常無我苦集滅道。 正思・正しい考え方。煩悩を離れる、怒らない。傷つけない。貪( むさぼ)りの心を起こらないように常に心掛ける。 正語・言葉使いを慎む、妄語、綺語、両舌、悪口を言わない。人を傷 つけるような言葉を使わない。争論しない。怒らない。和言愛語。 正業・正しい行動。生き物を殺さない。傷つけない・盗まない・邪婬 ・うそつかず・大酒 正命・貪らない、適正で規則正しい生活。正しい衣食住、マナー。 正精進・清浄心で。善悪に対して正しい判断をして対処する努力。 正念・一瞬一瞬、自分の身体や心を注意深く観察して気づかいをする。 正定・欲望を制御し、心を集中する。座禅瞑想。 ●一切の生きとし生けるものよ、 幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ、 一切の生きとし生けるものは幸であれ。 何びとも他人を欺いてはならない。 たといどこにあっても 他人を軽んじてはならない 。 互いに他人に苦痛を与える ことを望んではならない 。 この慈しみの心づかいを しっかりと たもて ブッダ ●ブッダの生涯 (BBC放送) この動画は、仏教国ではないイギリスが制作しました ●仏教の本質 哲学者「中村元」 肉声 ◎中村元「ブッダ最後の旅」肉声です