スズコ、考える。

ぼちぼち働く四児のハハです。twitterやりながら、140字ではかきたらないことを書こうかなと。

「体を大事にする」とはどういうことか~子どもの性を語るとき忘れられがちなこと

あさイチで子どもの性についての特集があっていたようで、朝からTLがにぎやかでした。

私はその番組は見ていないのでそれについてのコメントは出来ないのですが、皆さんのツイートを拝見しながら思ってツイートしたことをまとめておこうと思います。

 

子どもの性について語られるとき、いつも一番目立つところに出てくるのは「女の子は自分の体を大事にするように」ということ。そして男の子は「女の子の体を大事にするように」

 

この「体を大事にすること」という言葉、よく使われるのですが、じゃあ実際にはどういうことなんだろう、とふと思いました。

 

私は、性教育と言うのは「性に関する適切な知識を与えること」だと思っています。それは、どういうシステムで受精するのか、そこから出産に至るまでの過程、また、妊娠を望まないセックスにおける避妊法、避妊具の選び方、使用法、妊娠を回避できなかった場合はどういう現実が待っているのか、性行為ではどのような病気に感染する可能性があるのか、またその回避法、等の最新の情報が子ども達には与えられるべきと考えています。

うちの長子はもうすぐ10歳なので、そろそろ現実的に考える時期が来ており、私も他人事ではありません。最近では精通を見越して、自分の靴下と下着はお風呂に入るときに自分で洗う、という習慣を子ども達全員に導入しました。具体的なことはまだ教えていませんが、対処法を知っているということも大事だと思うのでまずそれから。

 

こういう、起こりうる自分の体や心の変化にどう対応するか、変調の時期にそれを親を含む周りの大人が教えてくれること、快く相談に乗ってくれることはとても大事なことだと思います。

 

そして、このようないわゆる性教育と言うのと、「体を大事にする」ということが同じ水準で語られがちなことに私は違和感を覚えました。今朝のTLでも、子どもにどのような性教育を…という論点の中で「体を大事にすることを教えないと」ということが頻繁に出てきていました。

 

体を大事にする、とはどういうことか。

それは、相手が要求することに抵抗を感じたときに「それはイヤ」と言えること、そんな要求をする相手とすっぱり別れられること、相手がイヤと言ったら素直に受け入れること、相手の嫌がることはしないこと、だと思われます。

これ、言葉にして書き出したら、幼稚園レベルのものすごく簡単に見えることに思えると思います。文字通り、簡単なのかもしれません、健全な家庭で質の良い愛情を浴びて育った人にとっては。

 

ところがこれが、自己肯定感が低い人にとってはものすごく難しいことだったりするのです。

自己肯定感が低い子の中には、相手に性的に求められることを自分が愛されていると錯覚して肉体関係に依存し、相手の要求を受け入れないと捨てられる=愛されない、受け入れる=愛されている(認められている)という感情の中でどんどん相手の要求を受け入れ続ける関係になってしまい、結果として自分の体を大事に出来なくなる、というケースが少なくありません。

私自身も極端に自己肯定感が低くプライドばかり高かった時期に一時的にこんな状態に陥ったことがあるので、その怖さがよくわかります。

そんな状態のときに、真っ当な精神状態の人に「体を大事にしないと」と言われても心には響きません。のどがガラガラに渇いた状態のときに目の前にある水に手を伸ばしたときに「その水には体に悪いものが含まれているかもしれない」と言われても飲んでしまうのと同じこと、セックスの対象として求められることを自己実現の方法としている状態の子にとって、体を求められることは生きるために必要なことだからです。

 

同じように、相手から捨てられることが怖くて相手への要求をどんどん高め、相手を試し続け、結果的にそれが性的な強要やDVに繋がっていくケースもあります。

 

どちらの場合も、その根底にあるのは生い立ちなど幼少期からの環境や経験を経ての、自己肯定感の低さがあると思います。(もちろんそれだけとは限りませんが)そんな、心の中に傷を持っている人にとっては、自分の体を大事にしたくても出来ない、という状況に陥る可能性を秘めている。爆弾をずっと抱えているような状態かもしれません。

そして悲しいことに、このような可能性を秘めた人は同じような傷を持つ人と惹かれあう傾向にあります。磁石の両極のように、沢山の人の中から自分と同じような傾向をもつ相手を無意識に選別して選び、お互いに依存しあう関係を築いてしまいます。

 

体を大事に出来ずにセックスしてしまう、というのは、このような人間関係の結果、というケースも少なからずあるわけで。

 

こういう背景を見ていくと、体を大事に出来ない、というのが心の問題だということが見えてくると思います。逆に考えると、健全な家庭で育った自己肯定感がきちんと形成されているお子さんにとっては「体を大事に」とわざわざ言われなくても嫌なことを嫌と伝えることも、自分が嫌なことを強要する相手と別れることも、好きな人との性行為の中で相手を傷つけないよう努めることもさほど難しくできるのではないか、とも思います。家の中でお父さんがお母さんを、お母さんがお父さんを、思いやりあって暮らしている(もちろん他の家族とも)家庭、いわゆる、機能不全ではないご家庭で育っている子にとっては、自然と身についていることなのかもしれません。

 

「体を大事にする」ということは、自分そのものを大事にするということ、自分の魂を大事にするということ、それは、言葉にして教え込まれることではなくて、小さい頃から誰かに自分の存在を尊重してもらいながら育つことで身につくことなのではないかな、と私は思います。

 

それが欠けている子たちにとっては、ただ言葉だけを与えても何も変わりません。

ガラガラののどの渇きを、体に悪い水以外のもので補うための専門的なステップが必要だからです。

 

性教育というカテゴリーの中で、ふわっと浮いた言葉として存在しているこの「体を大事にする」ということ、私は、それを目の前の子ども達に向けて口にするときに表面上だけの言葉ではなくて、その子の自己肯定感がしっかりと育っているのか、自分を大事に出来る状態になっているのかな、ということを意識したら、言葉が意味を持ってくるのではないかな、と思いました。