■元JR東海社長 須田寛さん

 開業前夜から社内に泊まり込んだ。用地買収が遅れ、全てのレールがつながったのが開業の3カ月前。十分な試運転ができないなかで、見切り発車でした。

 東京発の「ひかり1号」と、新大阪発の「ひかり2号」が定時で到着したと連絡が入ると、みんな異様な高揚感に包まれた。当時、国鉄は経営危機を迎えていました。東海道新幹線の開業は唯一の希望でした。

 開業前後は苦難の連続だった。東京オリンピックを前に土地の値段が急騰。用地買収費用を集めるため、銀行の担当者を招いて試乗会を開いたが、車室の気密が不十分で、トンネルに入るたびに耳に激痛が走った。国鉄内では「耳ツン現象」と呼び、急きょ車両の設計を変更しました。

 開業直後の12月。米原駅(滋賀県米原市)付近で雪が降ると、車両に付いた雪が砂利を巻き上げ、沿線の民家に飛び込んだ。徐行して、名古屋駅で棒で雪を落とした。雪対策は今もって抜本的な解決にいたっておらず、走らせながらできの悪い子どもを育てているようでした。

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 すだ・ひろし JR東海初代社長。会長を経て、現在は相談役。

 ■0系登場(1964年10月1日)

 東京オリンピックの開会式を9日後に控えた1964年10月1日、「夢の超特急」が産声をあげた。東京駅では午前6時、吹奏楽団が「超特急行進曲」を高らかに奏で、「ひかり」1号が新大阪に走り出した。

 初代車両は「団子鼻」が印象的な0系。開通時は最高時速210キロで、1時間2本(片道)の運転でスタート。東京―新大阪を最短4時間で結び、翌年11月に3時間10分に短縮された。東京―新大阪の「ひかり」料金は、今の普通車にあたる「2等」で2480円。グリーン車に相当する「1等」で5030円。当時の航空運賃6千円だった。

 0系は東京、名古屋、大阪の3大都市を高速で結び、高度経済成長の原動力になった。3216両が造られ、開業から35年後の99年9月に東海道区間から引退した。その後9年、山陽区間で活躍。日本人の記憶と歴史に深く刻まれた。

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 東海道新幹線は10月1日、開業50年を迎える。日本の発展を支えた、進化の軌跡を紹介する。

 (この連載は、立松大和と斎藤健一郎が担当します)