杖道の先師

平野次郎国臣について



平野次郎国臣、神道夢想流杖術第13代の統平野吉三能栄の次男、杖術、拳法を父に学んだとあります。また、国文学者でもあり「棒杖故実」なる著書もあります。
黒田藩を脱藩し、安政のの大獄(1958)年が始まった頃下関まで落ちのびていた僧月照を薩摩藩の藩境の道なき道を切り開いて鹿児島まで連れていった後から、彼の名が史上に出て来ることになります。(僧月照はは西郷吉之助と共に錦江湾に入水、西郷は一命をとりとめた後遠島となる)
その後、文久3年(1863年)10月、但馬国生野銀山代官所を襲い捕らえられ、元治元年(1864年)7月刑死、時に37歳とありますが、この刑死した時の状況を述べてみましょう。

元治元年7月の蛤御門の変の時、河原町の長州藩邸から出た火は隣接した本能寺を炎上させ、天性寺を焼き、御幸町通り、麹屋町通りと西へ燃えひろがった。
この火は、四条通りあたりで弱まりはじめたが、六角堂付近では火はぶすぶすと燃えていた。
この六角堂の付近には幕府の牢獄がある。およそ千百坪ぐらいのこぢんまりとしたものだが、切支丹牢、本牢、女牢があり、この時期には政治犯の収容所となっていた。いわゆる六角牢獄である。
この六角牢獄に町奉行滝川讃岐守具誉の使いの早馬が来た。もし六角牢獄に火が回るようなことがあれば、その前に囚人らを斬ってしまえという密令である。
この牢獄には、池田屋騒動の一件で捕らえられた古高俊太郎以下長州の志士8人や、但馬生野で捕らえられた平野次郎国臣ら4人、大和にて蜂起した天誅組残党の古東秀親ら14人をはじめ、新選組みや京都所司代がつかまえた志士たち三十数人が獄舎の人となった。
長州、会津らの砲声は殷々として、この牢獄を揺るがせた時幕兵がおよそ300人、この牢獄を守っていた。長州軍がここを攻撃してこれらの志士の解放を計るかもしれないからである。
捕らわれの志士たちは気を揉んだ。牢番から長州軍の御所攻撃を聞いたからである。しかし、その砲声もやんだ。長州軍は負けたのである。黒煙が京の空を覆い、火は京の町の大半を焼いた。後世、京焼けとも呼ばれ、あるいは砲火による災いであることからも、鉄砲焼けとも呼ばれたこの火の為に、斬れという命令である。まず平野次郎国臣、横田精之、大村包房、本多素行がひき出され、それを手はじめに志士33人を切支丹牢の土壇場に並べ、次々と首を断って行ったのである。この処刑は実に3時間を要した。
火事のどさくさにまぎれて、判決の申し渡しもなく、彼らは、刑場の露と消えたのである。

こうして死んで逝った平野次郎国臣が詠んだ和歌二首を記ます。


我が胸の、燃ゆる思いに、比ぶれば、煙は薄し桜島山


疵つけず、人をこらして、戒しむる、おしえは杖の、外にやはある


Back to TopPage